磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原爆前後IX

2008年03月11日 | 読書日記など
『原爆前後IX』
   思い出集世話人・編/白井秀雄1972年

二重被爆--ヒロシマとナガサキで被爆。その体験をした佐藤邦義さんの文章も掲載されていました。この文章は日経新聞にも掲載されたという。



二重被爆で有名な山口さんの部下だった佐藤邦義さん。下「」引用。

「そんな大惨事のなかで私が生きているのが不思議だった。奇跡的に無傷の私はさっそく長崎から一緒に出張していた若い同僚、岩永章さん(現在長崎市在住)も同室に幸い無事でいるのをみつけた。長崎から同行してきたもう一人の山口彊主任技師はこの朝の出勤途中、忘れた印鑑をとりにひき返していた。私と岩永さんは心配になって山口きんを捜しに出かけた。
 その路上でみかけた光景はまるで地獄だった。全身焼けただれて水ぶくれになった中年の婦人、腹だけが異様にふくれあがって倒れている少年、衣服が焼けただれたままよろよろ水を求めて歩いている老人。原爆を知らない私たちは空襲でガスタンクが爆発したのかと思った。一時間ほど捜し歩いて工場へ戻ると山口さんが正門で待っていた。その顔の左半分と左腕が焼けただれて水ぶくれになっていた。道路を歩いているとき原爆にあい、爆風でいも畑へ吹きとばされたのだそうだ。」

ヒロシマで被爆し、そしてナガサキへ。

波止場へ行き、浮き桟橋で航送船を待っているとき、原爆投下。下「」引用。

「その時、またピカッときた。とっさにこれは広島の新型爆弾と同じものだなと頭にひらめいた。それと同時に私はリュックサックを背負ったまま無我夢中で桟橋から海に飛び込んだ。そこには桟橋が爆風のかげをつくり比較的安全だった。まだ桟橋が残ったり、入港してきた航送船の窓ぎわにいてやけどを負った人もいた。そのひとりから「あなたは長崎に原爆が落ちることを知っていたなら、なぜ私たちにも避難法を教えてくれないのか」とうらまれた。」

山口さんは危篤になったこともあるそうです。下「」引用。

「その後二十数年間、原爆症に苦しんでいる人も多い。私の職場の同僚で原爆のためなくなったり、家族を失った人は実に多い。広島、長崎両原爆に被災した山口さんは頭髪が抜け危篤状態になったこともある。」

山口彊さんの手記は第四巻に掲載されたという。
--少し手を加えてデンマークのある出版社に送られて出版。
そのことが朝日新聞の記事に。

--山口はダブル被爆者と呼ぶ。
デンマークのコペンハーゲンの保守系有力紙「B・T・(ベーリングスケ・ティデンゲ)」のニボー・アンデルセン記者が山口に取材する。記事の最後に「私はアメリカをにくむ」という山口の談話で結ばれていたという。










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