『ヒロシマの証言 平和を考える』
広島平和文化図書刊行会・編/日本評論社1970年
いろいろな本から記事を集められて作られた本です。
権威ある人たちよる委員会によって、この本は編まれたという。下「」引用。
「この「ヒロシマの証言」を一貫する基本的な目標と構成については、昨年一一月以来、つぎの五名による編集委員会の討議かけて決定した。〈広瀬ハマコ(広島女学院大学)、今堀誠二(広島大学)、田淵実夫(比治山女子短期大学)、森脇幸次(中国新聞)、庄野直美(広島女学院大学)〉」
神父が献身的に働いたという。下「」引用。
「山本のカトリックの神父が一人の助手とともに献身的に、手を当てればつるりとむける患者を背に、神社の方へ運ぶ。」
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原爆による小頭症は遺伝とは関係なしと書かれてありました。下「」引用。
「小頭症は原爆放射能によっておこったものにちがいなかったが、それはあくまでも胎児の中枢神経系にたいする直接的な衝撃であって、遺伝とはまったく関係のない症状である。」
--これだけで言えるのか?
ボクには疑問です……。
雑巾を縫ったお金で、平和運動……。下「」引用。
「むかしねえ、あなたが一生懸命ぞうきんを縫って、そのわずかなお金で「ひろしまの河」を買って、東京や長野や沖縄あたりまで送って下さったでしょう。自分にできる唯一の平和運動だといって、あの頃、ぞうきんを縫って一枚二五円で、「ひろしまの河」が三十円か四十円だったかしら?」
米軍のジープが大田洋子の家へ。下「」引用。
「彼女の交友関係について、それぞれの人の思想や所属政党がしらべられた。質問が外国人との交際にふれた時、軍曹の目が鋭く光った。日本国内に関する限り出版を押さえておけば問題はないが、外国人が原稿を読み、又は大田さんが外国人に話すことによって「屍の街」の内容が外国に伝わることを極度に恐れていたようである。-略-」
大田洋子は1950年「人間襤褸」を出版し、女流文学者賞を受賞。
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検閲と無言の圧力。下「」引用。
「初期の原爆症研究に大きな役割を果していた都築正男氏(当時東京大学教授)の出版物が検閲でけずられた。一九四五年(昭二○)九月である。
「ゲラ刷りができましていよいよ出そうというときになりまして、印刷物は検閲を経なければならないということになりまして、検閲に出したところチョットぐあいが悪いから消せということです。ちゃんとできてしまってこれを消してまた組み直すのはたいへんだからというのでそこにゲタをはかせてふみつぶしてしまうということになったのです」(第一回原爆後障害研究会での講演から)と都築教授がいっているように、検閲と無言の圧力が続く』(「炎の日から二○年」)」
圧力というのは、書類だけとは限らないですね。
もくじ
広島テレビの三部作、1966~1968年。
1. “人間、そのたくましきもの” 原爆孤児
2. “百日紅(さるすべり)の花” 実話をもとに。
3. “ある夏の記録” 原爆ドームの永久保存工事。被爆者、坪川和子の死の記録。
1949年、ヒロシマ・ピース・センター組織委員会はニューヨーク市で発足。
世界連邦運動。下「」引用。
「一九四九年(昭二四)五月三日、児童文化会館で賀川豊彦氏を招き浜井市長主催の講演会が開かれ、世界連邦によるノーモア・ヒロシマズが強調された。日本における世界連邦運動は前年東京で始まっていたのであるが、広島における運動はこの講演会から出発した。-略-」
仏教仏教徒会議。下「」引用。
「世界仏教徒会議 「戦災供養塔」(一九五○年五月発会)をはじめとする宗教団体は、毎年八月六日にすべての宗派による慰霊祭を行ない、また毎年の六日には市内の托鉢(たくはつ)して歩きながら、無縁仏の遺骨を集めて歩いていた。これらの行動がり、一九五二年(昭二七)一○月一二日に、第二回世界仏教徒会議広島大会を本川小学校で開く機縁となった。この大会では、広島でやる以上、広島にふさわしい内容にしようというので、平和について話しあった。マララセーケーラ総裁(インド)は『人々が心の底から求めている平和であることを強く感じた。広島に起こるすべてのことは、世界全体にとって、とても大きい意義をもっている』と語った。セイロンから仏舎利(釈迦の遺骨)が寄付されたが、その贈呈の法要には、一万人の遺族が参列した。」
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広島平和文化図書刊行会・編/日本評論社1970年
いろいろな本から記事を集められて作られた本です。
権威ある人たちよる委員会によって、この本は編まれたという。下「」引用。
「この「ヒロシマの証言」を一貫する基本的な目標と構成については、昨年一一月以来、つぎの五名による編集委員会の討議かけて決定した。〈広瀬ハマコ(広島女学院大学)、今堀誠二(広島大学)、田淵実夫(比治山女子短期大学)、森脇幸次(中国新聞)、庄野直美(広島女学院大学)〉」
神父が献身的に働いたという。下「」引用。
「山本のカトリックの神父が一人の助手とともに献身的に、手を当てればつるりとむける患者を背に、神社の方へ運ぶ。」
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原爆による小頭症は遺伝とは関係なしと書かれてありました。下「」引用。
「小頭症は原爆放射能によっておこったものにちがいなかったが、それはあくまでも胎児の中枢神経系にたいする直接的な衝撃であって、遺伝とはまったく関係のない症状である。」
--これだけで言えるのか?
ボクには疑問です……。
雑巾を縫ったお金で、平和運動……。下「」引用。
「むかしねえ、あなたが一生懸命ぞうきんを縫って、そのわずかなお金で「ひろしまの河」を買って、東京や長野や沖縄あたりまで送って下さったでしょう。自分にできる唯一の平和運動だといって、あの頃、ぞうきんを縫って一枚二五円で、「ひろしまの河」が三十円か四十円だったかしら?」
米軍のジープが大田洋子の家へ。下「」引用。
「彼女の交友関係について、それぞれの人の思想や所属政党がしらべられた。質問が外国人との交際にふれた時、軍曹の目が鋭く光った。日本国内に関する限り出版を押さえておけば問題はないが、外国人が原稿を読み、又は大田さんが外国人に話すことによって「屍の街」の内容が外国に伝わることを極度に恐れていたようである。-略-」
大田洋子は1950年「人間襤褸」を出版し、女流文学者賞を受賞。
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検閲と無言の圧力。下「」引用。
「初期の原爆症研究に大きな役割を果していた都築正男氏(当時東京大学教授)の出版物が検閲でけずられた。一九四五年(昭二○)九月である。
「ゲラ刷りができましていよいよ出そうというときになりまして、印刷物は検閲を経なければならないということになりまして、検閲に出したところチョットぐあいが悪いから消せということです。ちゃんとできてしまってこれを消してまた組み直すのはたいへんだからというのでそこにゲタをはかせてふみつぶしてしまうということになったのです」(第一回原爆後障害研究会での講演から)と都築教授がいっているように、検閲と無言の圧力が続く』(「炎の日から二○年」)」
圧力というのは、書類だけとは限らないですね。
もくじ
広島テレビの三部作、1966~1968年。
1. “人間、そのたくましきもの” 原爆孤児
2. “百日紅(さるすべり)の花” 実話をもとに。
3. “ある夏の記録” 原爆ドームの永久保存工事。被爆者、坪川和子の死の記録。
1949年、ヒロシマ・ピース・センター組織委員会はニューヨーク市で発足。
世界連邦運動。下「」引用。
「一九四九年(昭二四)五月三日、児童文化会館で賀川豊彦氏を招き浜井市長主催の講演会が開かれ、世界連邦によるノーモア・ヒロシマズが強調された。日本における世界連邦運動は前年東京で始まっていたのであるが、広島における運動はこの講演会から出発した。-略-」
仏教仏教徒会議。下「」引用。
「世界仏教徒会議 「戦災供養塔」(一九五○年五月発会)をはじめとする宗教団体は、毎年八月六日にすべての宗派による慰霊祭を行ない、また毎年の六日には市内の托鉢(たくはつ)して歩きながら、無縁仏の遺骨を集めて歩いていた。これらの行動がり、一九五二年(昭二七)一○月一二日に、第二回世界仏教徒会議広島大会を本川小学校で開く機縁となった。この大会では、広島でやる以上、広島にふさわしい内容にしようというので、平和について話しあった。マララセーケーラ総裁(インド)は『人々が心の底から求めている平和であることを強く感じた。広島に起こるすべてのことは、世界全体にとって、とても大きい意義をもっている』と語った。セイロンから仏舎利(釈迦の遺骨)が寄付されたが、その贈呈の法要には、一万人の遺族が参列した。」
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