磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

ヒロシマレクイエム-大塚京子-「夢」と「生」のダンス-

2009年07月11日 | 読書日記など
『ヒロシマレクイエム-大塚京子-「夢」と「生」のダンス-』
   大橋弘・著/風媒社2005年

舞台、ダンスでヒロシマを表現する……。
--カルビーが支援してくれていたようだ……。



会場にはアメリカ人客は一人だったという……。下「」引用。

「ビルはアメリカ中西部、ミネソタ州の中心都市、ミネアポリスから来ていた。大塚京子の創ったジャズダンス・ステージ「ヒロシマレクイエム」をこの日、初めて観たのである。」

治療中だという……。下「」引用。

「「ヒロシマレクイエム」プロデューサーであり原作者、大塚京子は肺がんを病んでいたのである。小細胞肺がん三期。それも四期寸前。入院している神奈川県相模原市の北里大学病院からここへ来た。-略-すでに手術不可能な状態の京子に好きなようにさせたい、そんな思いが医師の胸中にあったかもしれない。」

1945年8月15日……。下「」引用。

「西正寺前の吉山川で水泳大会が開かれることになっていた。水泳教練といった方がよいのかもしれないが、子どもたちにはどちらでもいい。川遊び。水遊び。体力と運動神経に自信を持っていた京子はねこの日を楽しみにしていた。」

水泳大会は中止となった。家に帰る途中、黒い雨が降ってきた、帰り着いた時には小学生のブラウスはびっしょり濡れていたという。

ABCCに通っていた時代もあったという。下「」引用。

「ここは本気で治療するところではなく、アメリカが検査データや被爆者情報を収集するのが主な目的なんだ」と知って通うのをやめた。」

index

ヒロシマで生まれた企業カルビー……。下「」引用。

「教会青年部の活動を通じて、松尾は京子にとって兄のような存在になった。松尾は後に代表的なスナック菓子メーカーのひとつ、株式会社カルビーの代表取締役社長、会長を経ていま特別顧問に就いてる。「ヒロシマレクイエム」の公演のたびに製作資金の一部を負担している。一部と言っても半端な額ではない。自主公演の場合は三○○万円弱。「広島で生まれた企業なのだから」と松尾は京子に支援を求められるたびにつぶやく。その底に自身、被爆の惨害の記憶が焼きついている。生き延びて、ここまで来た。そんな気持がある。」

カルビーは阪神淡路大震災でも、「かっぱえびせん」を2000ケース、とにかく、すぐに運んだ。

大塚京子は、映画「山びこ学校」に出演など、いろいろな経験をされているようだ。

生きる」……。下「」引用。

「長谷川は、前年の「生きる」東京グローブ座講演をすでに次のように論評していた。
 「生きる」でもっとも特徴的なことは、演劇とダンスを融合した成功作ということだろう。-略-「生きる」は、その垣根を取り除き、理解しやすい作品になった。広島で再演されるね動きがあると聞いているが、そうなればこの作品の価値はさららに高まるだろう(中国新聞・二○○二年一月二○日「芸能・放送メディア欄」)」

関連記事

関連記事






Index





エンタメ@BlogRanking




最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ヒロシマレクイエム (濱田八郎)
2012-06-08 13:31:23
著者である毎日新聞記者の大橋弘さんと知遇を得て、数年間酒席を共にした。大橋さんは最後は決まってカラオケスナックでフランク永井を歌った。歌謡曲は何でも歌えた人だった。
数年前に名古屋での生活にピリオドを打ち、三鷹へ引越しをされたが、一度も著書の事は話をされなかった。
毎日新聞ではライオン丸と異名をとる程大きい声で話をしていたのだろう。飲むとハマハチ(濱八)、お前も何か歌えと可愛がって頂いた。ある時、知人が大橋さんのヒロシマレクイエムを読んだと言われ、初めて小説の存在を知った。早速取り寄せ読んだが、感動的なドキュメンタリーの物語に感嘆。一気に読んだ。大橋さんは一切自慢をしない人だった。
文中に当時のカルビーの社長が、主人公の京子さんのダンス公演を支援したと言う一節があったが、カルビーの語源がカルシュームとビタミンBと知って納得出来た。三鷹に行かれた大橋さんに著書の件を電話で話したら、喜ばれ2冊送って頂いた。暫くご無沙汰しているがお元気だろうかと、ふと気になった。
     平成24年6月8日 濱田八郎
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。