『ヒロシマナガサキ原爆写真・絵画集成
被爆の実相 1』
日本図書センター1993年
この本は六巻のシリーズのうちの一巻めです。
『第1巻=写真集 被爆の実相』
『第2巻=写真集 惨禍の傷跡』
『第3巻=写真集 継続する悲劇』
『第4巻=写真集 絶後の意志』
『第5巻=絵画集 ヒロシマ』
『第6巻=絵画集 ナガサキ』
・本巻『第1巻=写真集 被爆の実相』は、以下の刊行物に納められた写真によって構成されている。
『アサヒグラフ 1952年8月6日号』(1952年8月6日・朝日新聞社刊)
『広島-戦争と都市』(岩波写真集・1952年8月6日・岩崎書店刊)
『原爆一号ヒロシマの写真集』(1952年8月14日・朝日出版社)
『写真でみる原爆の記録』(1958年1月5日・原水爆資料保存会刊)
『写真集 原爆をみつめる-1945年広島・長崎』(1981年7月30日・岩波書店刊)
『記録写真 原爆の長崎』(1952年8月15日・第一出版社刊)」
アサヒグラフについて解説している文章にかかれてあります。下「」引用。
「編集長決済で刊行したが、米軍からも社内的にも圧力がなかった。
ただ、これで殺されてもしかたがないかな...との思いはあった。反米的な人が人知れず消えるという噂があったからだ。」
長崎医科大学の写真が掲載されており、文章が添付されていました。下「」引用。
「長崎医科大学付属病院の裏山から西を望む。爆心より東南600~800m。外形は残ったが内部は完全に破壊・全焼。付属病院の北側に(爆心より450m)長崎医科大学がある。基礎医学教室の教授以下ほとんどの室員は爆死。5つの講義室で受講していた学生500名のうち400名が死亡した(撮影・林重男・10月中旬)」
浦上天主堂にいた方は全滅だったそうです。
栗原貞子の詩集にもプレスコードの影響があったという。下「」引用。
「広島で被爆した詩人栗原貞子の詩歌集『黒い卵』(1946年)が、被爆の悲惨な情景をうたった作品を削除して刊行されるとか、あるいは原民喜の『夏の花』(1948年)が、原稿では題名が「原子爆弾」となっていたのに、検閲を恐れて「夏の花」に解題」
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もくじ
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被爆の実相 1』
日本図書センター1993年
この本は六巻のシリーズのうちの一巻めです。
『第1巻=写真集 被爆の実相』
『第2巻=写真集 惨禍の傷跡』
『第3巻=写真集 継続する悲劇』
『第4巻=写真集 絶後の意志』
『第5巻=絵画集 ヒロシマ』
『第6巻=絵画集 ナガサキ』
・本巻『第1巻=写真集 被爆の実相』は、以下の刊行物に納められた写真によって構成されている。
『アサヒグラフ 1952年8月6日号』(1952年8月6日・朝日新聞社刊)
『広島-戦争と都市』(岩波写真集・1952年8月6日・岩崎書店刊)
『原爆一号ヒロシマの写真集』(1952年8月14日・朝日出版社)
『写真でみる原爆の記録』(1958年1月5日・原水爆資料保存会刊)
『写真集 原爆をみつめる-1945年広島・長崎』(1981年7月30日・岩波書店刊)
『記録写真 原爆の長崎』(1952年8月15日・第一出版社刊)」
アサヒグラフについて解説している文章にかかれてあります。下「」引用。
「編集長決済で刊行したが、米軍からも社内的にも圧力がなかった。
ただ、これで殺されてもしかたがないかな...との思いはあった。反米的な人が人知れず消えるという噂があったからだ。」
長崎医科大学の写真が掲載されており、文章が添付されていました。下「」引用。
「長崎医科大学付属病院の裏山から西を望む。爆心より東南600~800m。外形は残ったが内部は完全に破壊・全焼。付属病院の北側に(爆心より450m)長崎医科大学がある。基礎医学教室の教授以下ほとんどの室員は爆死。5つの講義室で受講していた学生500名のうち400名が死亡した(撮影・林重男・10月中旬)」
浦上天主堂にいた方は全滅だったそうです。
栗原貞子の詩集にもプレスコードの影響があったという。下「」引用。
「広島で被爆した詩人栗原貞子の詩歌集『黒い卵』(1946年)が、被爆の悲惨な情景をうたった作品を削除して刊行されるとか、あるいは原民喜の『夏の花』(1948年)が、原稿では題名が「原子爆弾」となっていたのに、検閲を恐れて「夏の花」に解題」
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