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龍馬が惚れた女たち-加尾、佐那、お龍、そして第四の女お慶とは?-

2010年07月31日 | 読書日記など
『龍馬が惚れた女たち-加尾、佐那、お龍、そして第四の女お慶とは?-』
   原口泉・著/幻冬舎出版2010年

「はじめに」で書かれてあります。下「」引用。

「-略-龍馬が、亀山社中や海援隊で苦闘していた時代の長崎に、じつは龍馬が夢見た海外との取引で大成功を収めていた一人の美しき女商人がいた。
 それが龍馬をめぐるもう一人の女・大浦慶(おおうらけい)である。
 脱藩してわずか五年間に、薩長同盟、大政奉還の偉業を達成した龍馬に、物心両面でさまざまな女性の援助があったとしても不思議ではない。
 この間、龍馬は東奔西走、その移動距離は地球をほぼ半周している。
 江戸、京、下関、長崎、薩摩がその舞台であったが、なかでも長崎は、海外への進出を夢見た龍馬の主舞台であった。その龍馬を、長崎で支援したと言われるのが、貿易の先達でもあった大浦慶である。-略-」



日本茶の海外輸出の道を築いたお慶……。下「」引用。

「しかし、それよりも今の私にとって、龍馬と同時代に、日本茶の海外輸出の道を拓き、茶葉産業発展の基礎を築いたお慶の功績と、女一人でそれを成し遂げ、商人道を貫いたその生き方こそが、本書で描きたかったことである。
 本馬恭子(ほんまやすこ)氏の『大浦慶女伝ノート』という実証に基づくすぐれた研究文献に巡り会えたことが幸いであった。」

「長崎新聞」で「龍馬の現物写真か」という記事が掲載されたという。それは、大浦慶の親族が保存していたという。

小柄で華奢で、龍馬より7歳年上だったという。

大河ドラマでは……。下「」引用。

「チーフ・プロデューサーは、「配役の当たりはついています。いい意味での怪物的人物。パワーのある女優さんにお願いしたい」と語っている。」

重太郎の記録……。下「」引用。

「後年かかれた記録、千葉本家の『家記』によれば、重太郎の項に次のような記述が見られる。
  一妹あり。はじめの名は乙女、後さな子と改む。十六歳の時高松侯夫人の前に出て武技を試み、其賞讃を博す。後、婚を土州の志士坂本龍馬に約し
 -略-二人が相思相愛であったことがこれで明らかになったのではないだろうか。」

だが、異なる資料もあるという。下「」引用。

「それは、一九八五年に発行された、土佐史談会の開放『土佐史談』百七十号である。
 そこに、高本薫明氏はが「千葉灸治院」という文章を発表し、小田切謙明と佐那との関係を詳しく書いている。それによると、小田切夫妻が聞いたとされる佐那の談話は、『女學雑誌』で語った内容とはかなり違っているのである。要約してみよう。-略-」

龍馬が北辰一刀流目録を与えられたことが書かれてある……。そして……。下「」引用。

「坂本さんは二十四歳、私は二十一歳となり、坂本さんはずいぶんと大人っぽくなっていました。私にはぼつぼつ縁談もありましたが、私は坂本さんを想っていましたし、父も坂本さんならと高知の坂本家へ手紙を出したようでした。しかし坂本さんはその年の九月、国に帰り再び道場へは姿を見せませんでした。
 兄重太郎に聞けば、勝海舟の門下生になり、勤皇運動に参加し、江戸に来ても道場には来る間もないだろうとのことでした。私は心を決めてよい縁談も断り、ひたすら坂本さんを待ちましたが、忘れもしない慶応三年、二月に三十一歳になっていた私は、十一月十五日、坂本さんは京都で暗殺されたことを知らされました。-略-」

↑ これなら、約束していないことになるという……。下「」引用。

「この談話が真実であるならば、二人は正式に結婚の約束をしていなかったことになる。ただこの墓碑は、たしかに甲府市朝日にある妙清山清運寺の小田切家墓所に現存し、表面には「千葉さな子墓」、横面には「小田切豊次建之」の文字、裏面に「明治廿九年十月十五日逝 坂本龍馬室」とある。今も訪れる人が多く、墓前に花が絶えない。-略-」

映画『暗殺』、原作は『奇妙なり八郎』司馬遼太郎・著。主演は丹波哲郎(清河八郎・役)。

大浦慶写真が掲載されていた。

誤り、伊藤痴遊『大浦のお慶』……。下「」引用。

「大浦が苗字でないというのも、本馬恭子氏の研究にあるとおり誤りである。
 こうした蔑視感情もまた、お慶を多情の女と決めつけた背景になっているのではないだろうか。」









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