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会津という神話-〈二つの戦後〉をめぐる〈死者の政治学〉-

2011年01月03日 | 読書日記など
『会津という神話-〈二つの戦後〉をめぐる〈死者の政治学〉- MINERVA人文・社会科学叢書 158』
   田中悟・著/ミネルヴァ書房2010年

表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「幕末維新期、戊辰戦争を頂点とする一連の戦いにおいて、会津の戦死者はナショナルな祭祀から排除された。彼らと、生き残った会津の人々とが経験した「犬死に」--この非業と不条理に満ちた死の経験は、その後どのようにの「克服」され、「解決」されていったのか。本書では、戊辰戦争や西南戦争での戦死者を会津の人々がどのうよに認識し、自らのアイデンティティを組み立てていったのかを明らかにする。」



靖国神社。下「」引用。

「日本をケースとすれば、そうした議論は従来、一九三一年の柳条湖事件に始まり、一九四五年の無条件降伏に終わる、一五年戦争をめぐる戦争責任の問題、歴史認識の問題として語られることが多かった。このような議論が対象とする諸事象の収斂する「場」と見なされてきたのが、近代日本の戦死者を「英霊」とし、祭神として祀り続ける靖国神社である。
 ところで、靖国神社の歴史は、議論の焦点となってきたそうした時代をはるかにさかのぼったところから始まる。すなわち、その歴史は、一八六九年の東京招魂社の創建に端を発し、一八七九年に「格別官幣社靖国神社」といしう社格・社格を得て以来のものである。それゆえに靖国神社は、一九三一年以前に近代日本が国家として行なった戦争すべてにも関わっている。」

司馬遼太郎〈アンチ長州史観〉。下「」引用。

「司馬遼太郎はあるエッセイの中で、長州をはじけ敷く嫌う反面、薩摩・土佐に対して寛大な会津人の声を紹介しているが、これは宮崎をはじめとする戦後会津の「観光史学」の傾向であり、さらには司馬自身と重なるものでもあった。両者は、〈アンチ長州史観〉を相乗的に形作っていた。」

目次

袋小路……。下「」引用。

「戦後会津の「観光史学」の限界は、もはや明らかであろう。戊辰戦争や幕末維新史をいくら研究しても、現代の会津人たちがはまり込んだ袋小路の突破口は見えない。萩と会津若松との間にあるとされる「怨念」とは、戦後会津で編み上げられた「歴史」が生んだ、戦後生まれの新しい幻影なのである。牧野登は、それが幻影であることに気付いていた。-略-」

靖国神社の祭神……。下「」引用。

「戊辰戦争に敗れた会津方にとって、佐川官兵衛ら警視隊戦死者は「官軍」の側に立った最初の戦死であった。つまり彼らは、会津にける「勤皇の戦死者」として、禁門の変における佐幕派戦死者の先例となるのである。ちなみにそれ以降、幕末維新期における会津方の戦死者が靖国神社に合祀されるというケースはない。したがって、明治以降の軍制に基づいて「官軍」に入り、対外戦争を戦って戦死した者を除くと、会津方として戦い、なおかつ靖国神社に合祀されているのは、この二つのグループにほぼ尽きると言ってよいと思われる。彼らはいずれも幕末維新期の会津方にして靖国の祭神となった例外的存在であった。だが、会津の文脈においては、それ故に記憶されるのではなく、むしろそれ故に忘却された。ここに、彼らの忘却の共通項としての「靖国神社合祀」が持つ意味合いが、問題として浮上してくるのである。」

index

ピカドンとかせねあわす「怨念史観」としての「観光史学」。下「」引用。

「宮崎十三八の「観光史学」と言えば、実は先に論じた「歴史散歩」とは異なる、よく知られたもう一つのイメージがある。戊辰戦争の悲惨と悲劇とを強調し、その「怨念」を前提として、「官軍」とりわけ長州方の非を責める、「怨念史観」というイメージである。-略-」

会津観光史学







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