磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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文化の中心としての科学

2008年10月24日 | 読書日記など
『文化の中心としての科学』
   イシドール・アイザック・ラビ(著)/
     松井巻之助(訳)/紀伊国屋書店1971年

文化というものは外国と日本では異なるのだろうか?
--文化の中心は精神とボクは教えられてきた……。



原爆とレーダーの開発をしたという著者。下「」引用。

「一九四○年十一月六日、私はコロンビア大学での研究と講義を離れて、新しい兵器の秘密開発のため全国の各地から集まった多くの物理学者との共同研究に加わった。-略-一九四○年から一九四五年にかけては、われわれは物理学者は第二次大戦における最も有名な、また恐ろしい兵器のうちの少なくとも二つ、レーダーと原子爆弾の発明とその実用への開発を主としてかかわってきた。-略-神わざのような兵器とでもいうべきレーダーの潜在力は、それが他の兵器の思いがけない価値や正確さをいかに高めるかを理解しているひとびとをさえ、今ではさらに不安におとしいれつつある。」

レーダーの開発は……。下「」引用。

「もちろん、レーダーはヘルツの初めの実験に内在していたが、実際に開発されたのは航空機による先制攻撃を予見する新しい警報装置の要求が起きてからのことである。防御側が戦闘機を離陸させ、攻撃してくる敵の爆撃機を迎撃できる位置に配置するまでに約十五分かかるとすると、戦争が起きたとき交戦国民は、敵機が六五マイル離れた最小安全隊の中に近づいたことを警戒されなければならないことは当然である。」

そして、ブラウン管がつけられた。日本でも、戦争末期にはあったようです。下「」引用。

「テレビのブラウン管がレーダーに取りつけられ、反射波(エコー)はオペレーターが即時に識別できるような形でブラウン管上に現われるようにされた。戦争末期につくられた型のものでは、レーダーは六五マイル遠方の飛行機隊の模様を描きだしたし、三万フィートの雲の層を通して都市の地図を描くことができるようになった。
 結局、レーダーはテレビに似たようものであるが、目標を光の波でなくて電波によってスクリーンに映しだすところが違っている。」

科学者はエンジンだという……。下「」引用。

「科学は社会、経済、軍事、工業、知識などに変化を与えるエンジンではあるが、科学者はその運転席にはいない。喩え話を続ければ、第二次大戦までは、科学者がボンネットの向う側に姿を見せたことはなかった。」

しかし、必要もないエンジンはいらないとボクは思う……。
--大量虐殺をすすめるエンジンなどいらない……。

科学者の責任。下「」引用。

「科学者が科学に対して責任をもっていることを、科学者の側の人がもっとよく理解することが必要である。この責任というのは、単に正しく、まつとうに科学研究をしていさえすればよいというだけではなく、もっと広いものである。科学者は科学上の発見の影響を理解し、その理解を大衆に伝達しようとしなければならない。それは、なにも科学者が科学のために、宣伝せよということではなくて、むしろ、科学が現在の社会で占める立場は何か、またその未来における立場はいかにあるべきなどについて、科学に関する知識を啓蒙することである。科学者が自分自身をこのように考えるか否かはともかく、科学者はあらゆる時代の科学と技術の発見と進歩がもたらす莫大な世襲財産の監視人である。彼だけがこの宝に通ずるカギをもっており、したがってその宝に近づきうる。医師が“ヒポクラテスの誓い”を真摯に受け入れなければならないように、科学者は社会における自分の立場についての責任を果たさなければならない。」

チェルノブイリ事故に誰が責任をとれるというのか?

また、ヒロシマ、ナガサキも同様……。

思い上がった人たちは、「事実を見つめてない!」
--そういう基本が足りなさ過ぎるとボクは思う……。

--ある人は書いていたが、戦争文化などはないという。

原爆も非文化的なものだろう……。

レーダーはそうではない面もあるだろうが……。







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