磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

上海より上海へ-兵站病院の産婦人科医-

2010年08月04日 | 読書日記など
『上海より上海へ-兵站病院の産婦人科医-』
   麻生徹男・著/石風社1993年

帯に書かれてあります。下「」引用。

「兵站病院の軍医が克明に記した日記を基に「残務整理」と称して綴った回想録。看護婦、宣教師、ダンサー、芸人、慰安婦、芸妓、女給……戦争の光りと闇に生きた女性たちを、ひとりの人間の目を通して刻む。-略-」



九州帝国大学医学部卒業(産婦人科専攻)

index

「証言--戦線女人考 「陸軍娯楽所」の開設と私」 下「」引用。

「昭和十三年のはじめごろ、当時、上海遣軍の兵站病院(福岡市高宮福海街鵜澤院長)の外科病院に勤務していた私へ軍特務部より呼び出しが来た。何んでも婦人科医が必要であるとのことだった。
 当時大場鎮の激戦の後で、日夜戦傷患者の治療に忙殺されていた時ではあるし、またそのころまでの常識として戦場と婦人科医との関係など毛頭も連想がつかなかった。
 命令にいわく「麻生軍医は近く開設さらるる陸軍娯楽所の為目下、其美路沙小学校に待機中の婦女子百余名の身体検査を行う可し」と。
 ただちに私たち一行、軍医、兵隊それに福民病院の看護婦二名を加えた十一名にて出かけた。これが「日支事変」以後「大東亜戦」を通じて、兵站司令部の仕事として慰安所管理の嚆矢となった。
 当時、軍の輸送規定には兵隊、軍馬の項はあっても婦女子の項はなかったので、はなはだ失礼なことには物資輸送の項に該当させたりなど、今から考えると妙なことであった。
 彼女らは「皇軍兵士」の慰問使として朝鮮及び北九州の各地より募集せられた連中であった。興味あることには、朝鮮婦人の方は年齢も若く肉体的にも無垢を思わせる者がたくさんいたが、北九州関係の分は既往にその道の商売をしていた者が大部分で、後者の中には鼠蹊部に大きな瘢痕を有する者もしばしばあった。-略-」

兵站病院では……。下「」引用。

「一方私は、部隊たる兵站病院では、外科病棟を受持たされていたが、一応戦傷患者の数が少なくなった頃より、病院外来診療室勤務となり、近隣の軍医不在の部隊、軍特務部の軍属連、果ては陸軍慰安所にの衛生管理と、なかなか多様な仕事をするように成った。-略-」

YMCA、昭和3年。下「」引用。

「昭和三年四月、私が旧制福岡高等学校に入学した時、例により色々の部活動のすすめりあ、その一つにYMCAがあった。
 元来、街の日曜学校、教会などにて基督教青年会、即ちYMCAは知っていたので、私はすぐさま、そのすすめに従って、主唱者、文化丙類の坪井という人の処に集った。私に同行したのは、同クラス理科甲類の白髭宗雄君で、ルーテル教会の元気者、学内の弁論大会でも堂々とイエスキリストによる神の福音を語っていた。-略-」

慰安婦について、千田夏光『従軍慰安婦』に書かれてあると著者はいう……。

実名のダンサーの写真とプライバシーが書かれてあった……。

報道できない「付録資料2〔手紙〕ダンフォース病院(中華民国、九江)」ミス・ジェニー・リンド。下「」引用。

「-略-日本の中国への侵略につきましては、新聞の報道や雑誌の記事などでよくご存じのところでございましょう。むしろ余りにも惨い現状について、現状そのままに報道できないのが実状なのでございます。私にもその勇気がございません。苦痛は余りにも広範囲に及び、また余りにも深いと言ってよいでしょう。-略-」 :

花柳病ノ積極的豫防法」第十一軍第十四兵站病院 陸軍軍医少尉 麻生徹男」







もくじ

index

index

index

もくじ





エンタメ@BlogRanking





最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。