磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

写真・絵画集成 学童疎開2 ひもじさに耐える

2007年04月16日 | 読書日記など
『写真・絵画集成 学童疎開2 ひもじさに耐える』
    逸見勝亭(監修・解説)/日本図書センター2003年

いくら貧乏だからといって、ひもじかったことはないです。好きで断食をしていたころはありましたね……。好きでやるのと強いられているとでは大きな違いがあるとボクは思います。



椎の実がおやつだったという。下「」引用。

「空腹の日々が続くある日、近くの森に大きな樫の木と椎の木があった。そこで落ち葉を手で掻き開くと大きな実が見つかる。時には、山栗や椎の実を見つけて手当たり次第、夢中で拾った。生の木の実を歯で割ってみんなで食べた。これが唯一のおやつだった。」

腹こわすと習ったけどなあ……。(-_-;)


愛川欽也さん(柳高国民学校出身)の学童疎開の記事がありました。
要約すると。
・歓迎されていなかった。←地方も食べるのがやっとだった。
・東京よりも食べ物がなかった。
・分け与える気分にならず、隠れて母からの「かりん糖」を食べた。


トランプ、踊り、紙芝居などで楽しんだことが書かれてありました。

学童疎開船対馬丸の悲劇が書かれありました。下「」引用。

「沖縄の那覇(なは)港から九州に向う疎開船「対馬丸」は、奄美大島の東北にある悪石島(あくせきとう)の西北方でアメリカの潜水艦に撃沈され、疎開学童七六七人を含む一四八四人が死亡した。助かったのは一七七人で、そのうち疎開児童は五九人だった。」

対馬丸で助かった人の文章がありました。
「いかだを奪いあう大人たち(抜粋)」平良啓子(旧姓宮城)。

肢体不自由児の学童疎開。下「」引用。

「唯一の肢体不自由児学校、東京光明(こうめい)国民学校は他の国民学校が前年八月から疎開していたにもかかわらず、受け入れ先もないまま世田谷区の本校で現地疎開をしていたが、ようやく一九四五年(昭和20)五月一五日になって、長野県更級(さらしな)郡上山田(かみやまだ)村上山田温泉に向って上野駅を出発することになった。
 宿泊先は上山田ホテル。
 五月二五日に世田谷の本校は教室の一部を残して全焼、麻布の分校も全焼した。
 疎開してから三カ月後に戦争は終わるが、光明国民学校は帰るところがなく、疎開はその後四年間の長きにわたる。一九四九年五月二八日の帰京は疎開した学校のなかでもっとも遅いものだった。」


福祉や病院関係者に戦中のことを聞くと、やはり一般の方よりもきつかったようです。

もし、次に戦争があっても、当然そうなることでしょうね……。










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原爆孤児 流転の日々

2007年04月16日 | 読書日記など
『原爆孤児 流転の日々』
      児玉克哉・著/汐文社1987年

原爆孤児……。このことばもきついものを感じます。孤児だけでも大変なことでしょう。原爆孤児たちにも原爆症は襲いかかります……。



この十九人には長崎原爆は含まれていないという。下「」引用。

「一九人の原爆孤児は、置かれた状況に違いはあれ、いずれも苦悩に満ちた人生を歩んできました。ある者は親類をわたり歩き、ある者は瀬戸内海の孤島へ養子に行き、またある者は玄界灘を越えて韓国にわたりました。シナリオこそ十人十色ですが、それら一つひとつが、原爆による〈苦悩〉と闘う「核時代」のドラマであったと言えるでしょう。」


浮浪児生活で、靴みがきやかっぱらいをしていたという。

新生学園は最初、引揚孤児収容所。
上栗頼登氏がつくった養護施設。

昭和二四年八月、カズンズガ、五日市街の「広島戦災児育成所」をたずねる。
帰国後、精神的な親として月々二・五ドル(約九○○円)の養育費を送る「精神養子」を提唱。
一般には、翌年一月、同育成所の71人との縁組が始まりとされている。
しかし、実際はもっと早く被爆後一-二年の時点ですでに始まっていたという。
規模は小さかったようです。


かじ子というのは漁師の手伝いというが、奴隷みたいだったと語る……。
かじ子の虐待事件。この事件はのちに、『怒りの孤島』という映画の主題になったという。

怒りの孤島(1958) - goo 映画

やさしいオジサン(韓国人)につれられてソウルへ。
そこで、日本人だというので虐待をうけたという。
ソウルにいった人にも原爆症の症状があらわれます。



1953年2月、「広島子供を守る会」誕生。
就職の時の身元保証人、奨学金グループを設ける。
そこから、『広島の少年少女は訴える』出版。
「広島子供を守る会」、一八人の原爆孤児。

衣服は1948年ごろ、ララ物資の贈り物や外国からの援助等により、よかったという。
しかし、新生学園の場合、苛酷だったという。まったくみすぼらしい恰好で小学校に通うのも嫌。
お互いに仲間の物を盗みとり、ケンカ。

広島では就職難、保証人のいない原爆孤児はさらに困難だったという。


昭和30年9月3日、グループ名は、「広島子供を守る会青年部」とつけら、機関紙の名から「あゆみグループ」と呼ばれる。

1955年10月、中野清一広大教授を中心に「あゆみグループ」発足。
毎月、第三土曜日夜定例集会。30人ほど。
「あゆみ新聞」と「よろず帳」。

中野夫妻が宇治市に転居した今も、あゆみグループは交流。

谷岡さんのように自殺を考えた孤児は何人もいるという。
実際に原爆症を案じて自殺したケースもあるという。










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NHK特報首都圏2007年4月13日 いじめをなくしたい

2007年04月16日 | 読書日記など
NHK特報首都圏2007年4月13日

いじめをなくしたい
~遺族たちのメッセージ~


14歳の少女……。

いつも笑顔をたやさなかった少年……。

子供たちの写真や遺書……。

親はつらいだろうに……。

この展示をしたのは、自殺した子供たちの親……。

いじめをなくしたいから始めたという……。

子供たちを失った親たちの思いは届くのか……。


昨年の秋から……。

遺族は風化させてはいけないと、パネル展をひらくことを決意!

写真や言葉などは親が選んだという……。

いじめによって命が絶たれた……。

スキューバーダイビングの免許をとり、サイパンの教会で結婚式をあげるのが夢だった少女……。

「優しい心が一番大切だよ」と少女は語っていたという……。
みんなが優しい心をもったら、いじめはなくなる……。
それを広めることが親の努めだと思ったという……。
講演にまわるようになって4年、子供たちと交流……。

しかし、いじめによる自殺はあとをたえない……。


電話でも活動をする。

遺族が手をつなぐことにより、より大きなメッセージを伝えることができる!

親はイタズラの程度だと思っていたという。
しかし、いじめは三カ月続いていたという。
イスに画鋲やチョークの粉がイスの上にあったという……。

13年ぶりにアルバムをみる両親……。
パネル展の写真を選ぶ。
「かわいいね……」
見ていると、やはり辛い両親……。
選んだのは、活発で明るかった笑顔の写真。

娘が生きていた証をしたいと参加した両親も。
4年前になくなった娘の部屋は、あの日のまま……。
娘が亡くなってから、苦しんでいたことを知る……。
陸上部で活躍し、いつも明るかったという。
今も死を受け入れることはできない母……。

3月29日パネル展、百貨店のフリースペース。


だれもが「いじめ」にあう可能性がある……。

「生まれかわっても、あなたの母になりたいです……」

会場には同世代の母子。
学校の教師などが訪れたという……。



生命のメッセージ展


【会場の人から寄せられたメッセージ】
あたたかいメッセージ……。

5日間で、1200人。
時間をかけて、パネルを見て、涙をされていたという……。

遺族は子供を失った心の傷はいえていないという……。
外出できないという人も……。
身を削るように選んだパネルと言葉……。

「いじめ」の問題をずっとこれからも考え続けねばならない……。
とアナウンサー。







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007 ソーリィー

2007年04月16日 | ライト小説
総理がコジキでコジキがソーリィー

一章、アイムソリー




007 ソーリィー



しかし、顔をよく見れば父にはあるホクロが目の下にあった。いわゆる泣きぼくろというものがないのである。

沙也加がソーリィーの顔をじっと見ていた。その沙也加を見てホームレスの一人が指摘する。
「そういやーあー、この姉ちゃん、総理大臣の娘に似てないかあー」

「本当だあー。ソーリィーと並べて、そっくりショーに出たら、特賞をとるだろうなあー」

「沙也加が……」

「そう言えば名前もいっしょだよ」

「でも、髪形も違うし、ぜんぜん違うよ」

「沙也加はがらっぱちだもんなあー」
笑う友達。

「あんなイヤミな感じの女、私きらいよ」

「あんな総理の娘なら、みんなで焼きを入れてやろうぜ!」
と、若いホームレスがいった。

沙也加はゾッとした。

ソーリィーが近くに来た。
「いやー、炊き出しっていうから、あわててやってきたよ」

父に似ている。でも、歯もそろっていない。こんな柔和な微笑みを父はしない。
「なんか、みんな盛り上がっているなあー」

「そうさ、政治家の悪口をいっているんだよ」
「悪口じゃあねえ! 悪口じゃなくって本当のことだ。悪口を言われているのは俺たちの方だよ」

「政治家のボンボンめえー、あんな奴等に世の中のことがわかってたまるかい」

首を左右にふっているソーリィー。

「どうしたってんだよ」

「政治家で一番尊敬できるJ・F・ケネディーもボンボンだよ」
にこにこ笑っているソーリィー。

「そりゃ、海の向こうの話だろう」

「ソーリィーはよく、そのケネディー大統領のことをいうねえ」

「そりゃ、そうだよ。もしケネディーが大統領になってなかったら、世の中はもっとひどくなっていたと思うよ」








閑話休題

ホームレス。

ぼくの知人は、
「オレなら悪いことして、刑務所に入るよ」
と話したのをよく思いだす。

ぼくも、その意見に納得したほうだ……。

刑務所には食事と風呂も医療もあるという……。

しかし、結局はどちらにもなりたくはないと、
ボクも思う……。

そうしたら、
「なりたくってなっていないわよ」
女性が話したのを思い出す……。

その場にいた人たちは、
その意見を一番なっとくした。










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