オセンタルカの太陽帝国

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秋葉山三尺坊。

2007年11月29日 23時13分25秒 | 遠州の歴史

今一番力を入れているのは、前にも言った「天狗の地図」です。
これは、予想しない楽しさがありました。ただのお化け探しぐらいのノリで始めたのに、なかなか面白い歴史探究になってきています。ひとつのことを調べようとすると、みっつぐらい追加したい項目がでてくるんですよねー。
…と書こうとしていたのですが、調子に乗って項目を増やしまくっていたら、201項目めで「200までです、あきらめて」というメッセージが出てきてしまいました。ノーっ!! そういう大事な事は先に言ってよ。「少なくても300はいけるな」と思ってたんですよ。
まだ大事な項目がいくつも抜けているので、分割をしないといけないのですが、これを分割する事に何か意味があるんだろうか?と考えたら、気持ちが萎んできてしまいました。しくしく。とりあえず天狗の地名を削除して、別の地図にするかな。実際に天狗のいる山と、天狗の名が冠せられた山の分布には微妙な食い違いがあって、その対比がおもしろいと思っていたのに、それを分割しちゃったら何が面白いのかわからない。でも頑張ります。頑張るって言っても地名に関してはすでに素晴らしい先達がいて、わたしはその調査結果をただ地図に落としているだけなんですけどね。・・・あとは、近代以降の天狗の逸話と、現代の天狗企業の分布を別稿の地図に移そうと思います。京都と沼津にある2つの「天狗製菓」とか(違うお菓子を作っている)、函館の天狗タカラブネとか、石川県の銘酒天狗舞とか、水戸の天狗納豆(元祖と本家がある)とか、天狗枝豆とか、調べるとなかなかおもしろいんですよ。天狗マッチという一世を風靡した大企業もありましたね。また、ラーメン店や居酒屋にも天狗はたくさんいます。
調べた事についてはまだほとんどが私の頭の中にありまして、これから凄く充実していく予定なので、完成図を夢想して、誰か褒めてクダサイ♪(コラ) 私は作業を途中で投げ出すクセがあるんですよね。
今一番気になっているのは、「伊予に流された崇徳上皇は天狗か? 悪霊か?」ということ。天狗と悪霊は全然別個の存在だと思いますが、源平盛衰記を読むと、崇徳上皇は生きている間にその姿が天狗(のよう)になり、そのまま怨みを叫んで死んで、それから京の町に祟りを為した事になってる。これは「天狗」を経由して「悪霊」になった、ということでしょうか。それとも「天狗であり、悪霊でもある」ということかな。後白河法皇は四国に葬られた崇徳の霊を京都の河原に移し、孝明天皇と明治天皇は明治維新に当たって大々的に崇徳の霊を白峯神社に祀ったのですが、これは天狗として祀ったのかな、やっぱり悪霊かな。少なくとも、四国の白峰相模坊を使役している崇徳院は天狗の眷属ですし、1177年と1178年に京都の町の大部分を焼いた大火事は天狗の名を取って「太郎焼亡」、「次郎焼亡」と呼ばれましたが、ふたつとも崇徳上皇の怨念のしわざにされました。この火事で御所の大極殿が焼け、再建される事がなかったのですが、一番恐ろしいのは、「崇徳院の祟りで一番すごいのは、京の繁栄を終わらせ、武家の世を招来したことにある」と言われていることです。京都の怨霊信仰によると、われらが源頼朝の活躍も天狗(悪霊)の差し金、ということになる(笑)

さて、静岡県にはどうしたわけだか天狗がたくさんいるようです。
とりわけ遠州は多く、中でも春野町の秋葉山にいる(いた)秋葉山三尺坊大権現が一番有名な大天狗です。浜松から秋葉山に行く道路は「秋葉街道」と呼ばれ、街道沿いに常夜燈がたくさん建っていて、現在でも火伏せの神として多くの信仰を集めています。ただ、「秋葉山といえば天狗」とは私たちは漠然と思っていることですが、実は秋葉山の御神体は火之迦具土大神(=イザナミを火傷させて死なせた神ですね)で、この神自体が火のパワーと火伏せの力を持っていて、この神と三尺坊が同一の存在なのかというと、そうじゃないらしいのです。で、もっとよく調べてみると、秋葉山三尺坊は現在は秋葉山にはおらず、袋井市にある可睡斎におはすというのです。実際、春野町の秋葉山の公式サイトを見てみると、天狗の事には一言も触れていません。今でも同じ山の少し離れた場所に移った秋葉寺には三尺坊があるのですが、それも無視されている。秋葉山三尺坊なのに秋葉山にいないなんて、だまされた気分です。

この経緯を簡単にまとめてみますと。修験道の本場だった秋葉山は、もともと最初から普通に神仏習合で成り立っていました。もともとの本尊が三尺坊大権現だったらしいですが、付け加えるような形で火之迦具土の神も祀られていました。維新が起こって新政府が誕生すると、困った事を言ってきました。「神と仏を同時に祀るのはけしからんから、分けるように」。この神仏分離令の通達により、秋葉山は揉めに揉めました。江戸末には秋葉山には18の坊が存在し、いくつかの派閥に別れて激しく覇権争いをしていたからです。揉めまくった結果、「秋葉山は神の山であることにしよう」とする神社派を追い出して「この山は寺である」ということにしたのですが(明治2年)、政府が先手を打ち「神社でないと認めない」と言ったものだからさらに揉め、明治5年に住職が死去したことを口実に、「住職のいない寺は廃寺である」という政府の方針に基づいて素早く秋葉寺は廃寺とされ、ご本尊とさまざまな記録は袋井市にある秋葉山の末寺の「可睡斎」に引き取られてしまいました。だからこの時以来秋葉山の総本山は可睡斎なのです。可睡斎の公式サイトウィキペディアにはこの移譲が穏当になされたかのように書いてありますが、学研の『修験道の本』には「抗争が深刻化して多くの関連施設や仏像・宝物・書類などが失われた」とあります。この時の混乱について興味深い文章を載せているサイトさんに、コチラがあります。「おとなしく火之迦具土を祀ればいいのに、なぜか三尺坊権現を神であると主張して(権現ですから神なんですけどね)その神官になろうとし、反対されたので脱走してしまった」とか、「脱走した僧たちが浜松県庁に働きかけて主派に無理難題をつきつけた」とか、「住職は毒殺されたという噂が立てられた」とか、「可睡斎が秋葉山の三尺坊を自分たちのものとしようと狙っていたのは3代将軍家光の時代から」とか、面白い事がたくさん書いてあります。可睡斎が秋葉山の支配権を主張したのは、徳川家康がそういう朱印状を与えたからだそうです(読んでも眉唾。しかし家光の時代に本寺は可睡斎という裁決はなされていたのです。人々は山の方に参拝に行ったけど)。可睡斎がここまで三尺坊を欲しがったのは、この天狗こそが全国800社ある秋葉社の統帥であると認めていたからで、秋葉参りと称してたくさんの参拝者が集まると考えたからでした。(江戸時代に整備された「秋葉路」はすべて秋葉山に向かっているんですけどね)。ということで、「秋葉山本宮」を名乗る秋葉神社の方は山全体が迦具土の神体で火防の霊験があると主張し、「秋葉総本殿」を名乗る可睡斎の方は大天狗が防火の神通を持っていてそれは当寺に移った、と言い張っているのです。秋葉の僧のうち2/3が可睡斎に移籍し、1/3が秋葉山に留まりました。おかげで可睡斎は隆盛し、近くの油山寺も栄えましたが、山は衰え、近くの鳳来寺も没落しました。この両者が仲良くする事は決してありません。

というわけで、秋葉山の創建と三尺坊にまつわる重要な記録は、現在はその多くが失われてしまっています。三尺坊天狗については断片的な伝説がたくさん伝わっているのですが、記録が失われている為に真偽がほとんど分からないのだそうです。ちょっとまとめてみますね。

秋葉山三尺坊の伝説(その1)
通説では、信州の戸隠の里(木島平村、飯田市千代、穂高村という説もある)の生まれ。一説に宝亀9年(779年)生で、本名は周国(かねくに)。鎌倉時代の人、もしくは戦国時代後期の人という説もあります。母が観音菩薩に強く願い、夢の中に迦楼羅身で現れた観音の夢告によって生誕したといいます。7歳で出家し、最初は戸隠山で修行をしましたが、やがて越後国栃尾の蔵王権現に入り、十二坊中第一の三尺坊で阿闍梨の位を得たことから、“三尺坊”と呼ばれるようになりました。(本当に身長が三尺(=90cm)ほどだったとする伝説もあります)。13ヶ条の誓願を立て1日に千座の護摩を焚き37日間それを続ける不動三昧の修行に入ってその満願の日、火焔の中で鳥のような翼を生やして、左右の手に剣と索を持つ姿となったのが延暦2年(783)10月24日。(←4歳じゃないか。ま、日付にも諸説あるということにしといてください)。飛行自在となり白狐にまたがって飛ぶ秘術を得たといいます。そのまま彼は自分が降り立つ場所を求めて全国を飛び回ったのですが、とうとう遠江の秋葉山を見付けてそこに降り立ちました。寺伝によるとそれは大同4年(809年)です。この山での行法会得の行の最中、「我が名を呼ぶものあれば、願いを入れて火災盗難を防止する」と叫んだことから、周りの者どもは驚き恐れ、彼を「威徳大権現」と崇め奉り、迦楼羅天の威勢を感じたのだそうです。秋葉山に一祠を建てて祀り、般若院叶坊(かのうぼう)を別当としました。三尺坊が飛んできたとき、カエルの背に「秋葉」という文字が浮かんでいるのを見たので「秋葉山」という山名を付けました。(異説あり)
同じ大同4年、京都で大火事が起こったとき、三尺坊が飛んできて火を消し、都を救ったという伝説があります。「御所の上に天狗が現れ、大きな葉団扇をふるって火を消し、人々が名を聞くと「われは秋葉の三尺坊である!」と答えて姿を消した」とか「火事で大わらわになっている時に御所の前に白馬に乗った不思議な老人が現れ、火事の最中だけど人々が不思議に思って尋ねると、「我は秋葉の神で火を消しに来たが、位がないので中に入れない」と言うので、ちょうど居合わせた高貴な人が帝にかけあって位を与えることにすると、老人は燃え盛る火の中に白馬とともに駆け込んで、またたくまに火を消してしまった」とか、そういう逸話があります。(←これに関しては桃園帝の頃(江戸時代)の逸話ともされます)。この途中に名古屋に寄り、筆で「鎮防火燭」と書いた真筆を寺宝として建てられたのが秋葉山慈眼寺ですが、同じ名古屋の別の場所には「日本最古の秋葉権現出現の霊地」を謳う秋葉山円通寺があります。(詳細不明)
★やばっ。秋葉山三尺坊についての変な伝説はまだまだたくさんあるのですが、多分文字数がオーバーすると思うので、稿を改めてまたつらつら羅列したいと思います。おもしろいですよ秋葉山三尺坊。でも今日書きたい事は可睡斎の天狗についてなんです。

というような事情で、現在は秋葉山三尺坊は可睡斎にいることになっているのですが、そんなことは人間の都合で勝手に決められたゴタゴタで、当の三尺坊天狗が素直に昔から住んでいる秋葉の深山から袋井の町中に引っ越しているとは考えられません。神仏分離の前年(慶応4年)実際に三尺坊天狗に会ったとされている名古屋の人・沢井才一郎は、秋葉山の山中での天狗たちの生活を詳細に述べています。それによると山中に天狗たちが住む広大な屋敷がありますが、さらに秋葉山の上空には、もっと豪華な三尺坊天狗の宮殿があるのだそうです。(※沢井才一郎については『心霊図書館』というサイトさんが詳しく貴重です。仙堂寅吉と合わせ、とてもおもしろい人だ) 本当は三尺坊は多分今でも秋葉山にいるのです。
ただし天狗マニアとして訪れてみると、秋葉山はとてもつまらない山です。火防の神のくせに秋葉山は何度も大火事を出し、「秋葉の山から火事」ということわざまでできてしまったほどです。(これを当人たちは「火の神の力はこんなにすごいのだ」と自慢しているようですが)。とりわけ昭和18年の火事はすさまじく、焼けた社殿が再建されたのは1990年でした。新社殿はコンクリ製で白っぽく、とても寒々しい。(広い山内には興味深い建物も多々あるそうですが)。一方さすがは徳川家康と深いゆかりのある可睡斎。こちらは風格ある姿で見応えがあって、訪れるのは楽しいです。


可睡斎本殿


可睡斎の秋葉山三尺坊大権現社

 

秋葉山三尺坊大権現の御真殿前の階段の所に、鼻高姿の天狗(建物に向かって右)とカラス姿の天狗(左)の立派な像が建っています。これだけで嬉しくなってしまうのですが、建物の中に入ると、さらにたくさんのさまざまな姿の天狗のお面や画像が飾られています。
でも、良く見ると秋葉山三尺坊と題された像のほとんどが、カラス姿の物だったので不思議に思いました。なので、天狗のお札(300円)を買うついでに、売り子のおばさまに聞いてみました。「秋葉山三尺坊って鳥の姿なんですか?」
お答え。「三尺坊が秋葉山に来たときに、迦楼羅神の力を得て不思議を為したので、三尺坊はカラス天狗ということになっている。迦楼羅はガルーダで、鳥なんですよ」とのこと。へぇぇ~~。四国の白峰相模坊が鳶だというのは有名ですけどね。
画像検索してみたところ、秋葉山三尺坊が鼻高天狗かカラス天狗かは半々なようですが、(むしろ憤怒の不動明王のような姿に見えるのも多い。どれも白狐に乗っていることだけが共通しています)、少なくとも総本殿の可睡斎では、鳥姿のが御真像とされておるのです。でも羽が生えているのに狐に乗って飛ぶ三尺坊。

したがって、冒頭に掲げた写真はマチガイで、三尺坊天狗様はこれです。


おばさまが、三尺坊の姿を説明するときに指し示したのが、この像でした。愛らしい。

御真殿の横から、奥の院に通じる通路がありました。そこには徳川家康が隠れたという「六の字穴」があるというので見たかったのですが、なんか今いろんな箇所で工事をやってまして、この日はここも通行禁止になっていました。ぬおー、また来よう。このお寺では、武田信玄に追われた家康がこの穴に逃れて命拾いした、と言っていて、私はそれが三方原戦前後のことだと思っていたんですけど、ウィキペティアには「徳川家康が、幼い頃武田信玄の軍から逃れ父と共に匿われた」なんて変なことが書いてある。そんな前に武田と戦ってるわけないじゃん。(いや、今川氏との抗争ではあり得るのか?) 気になります。さらに、「松平広忠が秋葉権現に祈って得られた子が家康」という伝説もあります。家康と可睡斎の関係は深いんですよね。でも前述の沢井才一郎の物語では、戊辰戦争のとき「秋葉権現の眷属はみな新政府側に立って徳川と戦っている」と言ってたりして、面白いんですけどね。


でかい。

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8 コメント

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すっきりしました (菊池眞市)
2010-05-24 20:41:10
 三尺坊のことが大体わかりました。出生がないのが残念です。
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天狗の研究。 (麁鹿火)
2010-05-26 10:58:20
ありがとうございます。お役に立ったのならなによりです。「出生がないのが残念」というのは「秋葉山の創建と三尺坊にまつわる重要な記録は、(明治初年の騒動により)現在はその多くが失われてしまっています。三尺坊天狗については断片的な伝説がたくさん伝わっているのですが、記録が失われている為に真偽がほとんど分からないのだそうです」に対応したものでしょうか。全く私もそう思います。

しかしこの文章は、私が知切光歳の御本を1冊も読んでいない3年前に書いた物でして、今では私の知識も結構増えている気がします。また天狗の研究を再開したいです。秋葉山にもまた登りにいかないと。
返信する
不思議な体験 (Unknown)
2012-10-05 12:38:52
突然失礼します。
秋葉山の天狗について検索していたらこちらのサイト様に出会いました。

私は母の胎内にいた時から天竜の秋葉山に毎年ご祈祷に通っている者なのですが、高校生のときに両親と私と不思議な体験をしました。
年明け間もない頃だったと思います。
いつもの様にご祈祷を受けていると、ものすごい風が駆け抜け普通の人ならご祈祷中入って来ないはずなのに、背後から砂利を踏む音と人の気配がありました。ご祈祷中でしたので振り返る訳にもいかず、両手を合わせ目を瞑ったまま意識は背後に向いていました。

「真っ白な衣を纏った恐ろしく身長の高い男性だ」と私は感じ、そのまま気配はいつの間にか消えてしまいました。ご祈祷後、両親に「ご祈祷中誰か来た?」と聞くと、両親揃って私と同じ体験をしていました。ただ、父は1人ではなく大勢の人が背後に居た気がするとのことで・・・

家族で、もしかすると山の神様か天狗様か来たのかねと話しています。
本当に不思議な出来事でした。

突然の書き込みでこんな長文、申し訳ありません。
ただ、秋葉山の天狗について書かれていたので、思わず書き込んでしまいました。
どうかお許し下さいませ。
返信する
蓬莱学園の魔獣! (麁鹿火)
2012-10-11 00:54:03
ななしさん
返信が遅くなって申し訳ありません。

貴重な体験談、誠にありがとうございます。
松谷みよ子氏の御本などを読んでいてもつくづく思うのですが、こういう体験はふとした機会に誰でもしている可能性があると思うのですよね。かくいう私がこんな風に天狗現象に興味を持っているのも、自分が幼い頃にした記憶が元因です。私の家は天龍川の中流域の氾濫原を開拓した全くの平地にあるのですが、河原の木々の密生ともいうべき樹の密集地が各所にあって、小さいころ私は自分の家の前にあったそのひとつを自分だけの秘密基地にしていたのでした。幼少期の私もそこで種々の不思議気配を経験しており、なんだったのかなあれってと思うこと久しく、家の前のその森はもう無くなってしまったのですが、この歳になりいろいろな情報を総合するに、あれらは天狗様だったのだなと合点をした次第です。天龍川の中流以降にはなぜか河童はおらず(上流にはいるみたい)、この付近にワラワラいることになっているのは天狗様の数々です。
でも面白いと思うのは、同じ体験でも貴卿の挙げた不思議体験と、私のものとはまったく性質の違う物だと思えるということですね。非常にうらやましい。私には信仰心が全く無いので、秋葉山に参っても面白捜しだけが先行してしまうのですが、貴殿の御話は非常に羨ましいのです。沢井才一郎の物語を読んでいるときと微妙に重なるざわざわ感がありますよね。
私は秋葉山が大好きです。もっともっとかの山に親しみたく思います。どうぞ私の前にも、突飛な形で秋葉山三尺坊の御眷属が現れ何かの霊的な契機をくださいますように!

・・・と、ここまでわたくしの事情を申しあげた後でいうのもなんなのですが、もしよろしければあなたさまと秋葉山の御縁をもっと語ってくださいませんか? とても興味があります。
返信する
秋葉の天狗 量産方法 (秋葉の眷属)
2012-11-16 17:13:55
秋葉山の天狗の力を自分の体の中に借りるのは結構簡単ですよ。
(可睡斎にいる秋葉山三尺坊の力ではないですが。)

食べもの、飲み物を用意します。

食べ物は、本当は、
お供えなどに使う五穀十穀など、昔の人が食べていた、
食べ物(科学的に、健康に良い食べ物)を用意するのですが、

面倒なので、健康食品の

グリコ バランスオンクリームサンド(約60円)

で、おっけーだそうで。
4種類あるけど、どれでも良いとのことです。

飲み物は、秋葉ダムのトンネルの手前の変なお店で売っている、
煎茶で、暖かいお茶を煎れて、使用します。
このお茶で、バランスオンクリームサンドを口の中で、溶かし飲みます。

そして、後は、そのお茶で適時、水分補給してください。

あとは、秋葉神社の駐車場と山頂の鳥居を気ままに往復して下さい。

そうすると、あら不思議、体が、迦楼羅のように、軽くなります。

っていうだけだそうです。簡単すぎるので、遊びで試してみて下さいとのこと。

ということで、秋葉の天狗 量産型にあなたもなれる訳です。


秋葉山の山中のお屋敷の正体で、その名字は、

馬場、山本、稲垣、野牧、坂井、加藤、尾上、鈴木、木下
その近辺だと、
上村(山県?)、片桐、楠木、和田、関口、
伊藤(井伊藤原?)、青山、桃井、伊賀

こういう連中だったと思います。
もろ、松ちゃん家。
解る人には、こっちの方が楽しいでしょ。


ついでに、その昔、ここの中学、剣道が強かったという伝説がありますよ。


ここのお山は、火防じゃなくて、元々は、芸事(歌等)大好きな軍神です。
だから、加藤にしろ、皆、刀を納めもするし、山中も、来るわけです。

こんなんで、よいですか?
返信する
量産型マラサイ。 (麁鹿火)
2012-12-11 13:03:28
ご返信、誠にありがとうございます。
かなり真剣に悩んだのですけど、

>秋葉山の山中のお屋敷の正体で、その名字は、
>馬場、山本、稲垣、野牧、坂井、加藤、尾上、鈴木、木下
>その近辺だと、
>上村(山県?)、片桐、楠木、和田、関口、
>伊藤(井伊藤原?)、青山、桃井、伊賀
>こういう連中だったと思います。
>もろ、松ちゃん家。
>解る人には、こっちの方が楽しいでしょ。

この文章の意味が私には全くわかりません。
「山中のお屋敷の正体」というのは、私が「沢井才一郎は秋葉の本殿の上空に広大な御殿が有り、そこに沢山の天狗が在住していると言った」と書いた部分に対応しているのでしょうか。むむむむ、不勉強すぎて貴殿が挙げられた名字が全く分からない… 恥ずかしい。
「松っちゃん」って松平家のことですか?
なんか違う気がする…
「松下かへい家」、「武田家」、「毛利家」、「天野家」、「後醍醐源氏家」、、、 むむむむ、さっぱり、、、

>ついでに、その昔、ここの中学、剣道が強かったという伝説がありますよ。

野崎正幸氏の『秋葉山三尺坊大権現~火防天狗のふるさと~』に東雲名にあったという天狗一刀流についての記述がありますね。これ、昔から気になってるんです。今でもありますか? それはそれは秋葉近辺の若者は皆が剣術が得意だろうと思います。

とても気になっていることがあるのですが、いまの秋葉寺の御住職ってどなたなんでしょうか? 藍谷俊雄師はまだご健在ですか? ネットを探しても全然情報が無くて… 秋葉の眷属さんがお参りされているのは神社とお寺のどちらなんでしょう(どちらにしてもたくさん訊きたいことがあります)


…私の返信も遅く自分でもどうしようもないんですが、何らかの作用が働いて眷属さんがもっともっと秋葉山について語ってくださいますように秋葉の天狗に祈願! 
返信する
沢井才一郎は秋葉さんに殺された (きらめき)
2014-01-30 18:25:38
 慶応になってから 陸軍大佐の家の奉公人の才一郎は
あまりに秋葉信仰が好きで とうとう 秋葉さんに 誘われて 命を無くしたようです。 奥の院に神として祀られました。この話は 三尺坊より 生々しいです。空中飛行して
秋葉の山に行く様は 秋葉寺の本に詳しい。定価1200円の中古本は今は7千円して居るらしい。
返信する
チョボイチ平。 (麁鹿火)
2014-01-30 22:32:06
あの本、7000円もしてるんですね。
私が買ったのは8年ぐらい前、2000円ぐらいだったと思います。
浜松市内の古本屋を巡ればまだ安く売ってるところがあると思いますよ。

>沢井才一郎は秋葉さんに殺された
沢井才一郎の物語は私はとても大好きなのですが、
才一郎青年が初めて天狗に会ってから、彼が死ぬまで1年2ヶ月ぐらいの超短期間。
そのうちの8ヶ月ぐらいは行方不明となっており家族の元にはいませんでしたから、意外と柳田医師以外の周囲の人はそういう認識だったのでしょうか。
柳田医師は尾張の藩医だったと聞いておりますけど、陸軍大佐だったのですか?


気になっていること。
『岩間山人と三尺坊』によると柳田泰治医師が亡くなったのは明治24年。しかし、秋葉山の御本(赤い本の方)には、明治20年頃に柳田医師が秋葉山を訪れて小堂の建立を願い、その理由として「夢の中にたびたび才一郎が現れて、彼の託宣のおかげで裕福になったから、そのお礼に」と言っている。
琢道坊祠が建ったのは明治32年。その周辺のいきさつについて、柳田医師と秋葉山との関わりとその死について、「琢道坊」という名前となった理由について、夢の中の琢道坊の様子について、秋葉山側に何かの資料があるのだと思うのです。
本当は、少年が明治元年に死んでから20年の間に、柳田医師の身に起こったことが重要なのです。才一郎の霊は何度も医師の前に現れていたのですから、『仙界真語』の続編も書くべきだった。
(※『仙界真語』は才一郎がいきなり死んで葬られるところで終わってます)
その『仙界真語』の原本も検索すれば写真で見られますが、柳田医師がこれを明治の何年頃に書いたのか、それも明らかではないですね。
返信する

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