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『さん・じゅあん様の歌』『だんじく様の歌』。

2007年07月05日 21時20分28秒 |   歴史音楽の部屋

長崎県に住んでいた頃、隠れキリシタンの里で伝わっていたという「おらしょ」という不思議な歌のことを知り、長崎のレコード屋でCDを探し回ったんですが見つけられず、数年後に横浜駅でこれを見つけて、とても嬉しかったことを覚えています

「おらしょ」については検索すればいくらでも詳しいサイトがあるので詳しくは述べませんが、全国に意外とある「隠れキリシタンの里」で、「聖歌」を大事に大事に守り続け、口承だけで300年も伝えてきたのは、長崎県の生月島だけだといいます。それが不思議で不思議で。生月島というのは、長崎県の北辺の松浦半島の平戸島の先にある細長い島であります。

オラショの分類
このCDを編集した皆川達夫氏の文章
生月町博物館・島の館
柴田南雄氏に関する文章
オラショについて

生月島には、大学生だった頃サークルのみんなで行った事があります。
「最西北端を目指す」という目的で集結し、平戸大橋と生月橋を渡って生月島の北端を目指します。生月島は島ですが、長くて立派な橋がかかっているために、松浦半島から平戸島、生月島と、ドライブだけで行けるんですよ。すごく快適な行程で青空と青い海が美しく、気持ちの良いドライブ道路でした。途中にあった「あごだしラーメン」ののぼりのお店が印象的でした。(長崎名物・あごだしラーメン(=トビウオでダシをとったラーメン)は、生月ではなく佐世保で散々食べました)。生月島の先端にはとても小綺麗な公園があり、そこから海の先の先を見晴るかせるようになっていました。気持ちよかったなあ~~。ドライブには最高の島でした。遠いけど橋があるから。
しかし、今はこんなに便利になっていますが、キリシタン弾圧時代はこの島は、それは厳しい厳しい地獄のような島だったんですね。(「地獄のような~」なんと言ってしまったら住んでいる人に失礼ですが)

こんな綺麗な島の姿からは想像も付かないほど、この島にはキリシタン弾圧の歴史が鋭く刻まれているそうです。私には宗教というものがどうも良くわからないのですが、遠藤周作の『沈黙』(←この小説は生月島が舞台ではありませんが、舞台は江戸時代初期です)とか『切支丹の里』などを読むと、どうして彼らはこんなに苦しい生活の中で真摯に信仰に取り組もうとしたのか、考えれば考えるほど恐くなってきてしまいますね。
戦国時代にたくさん九州へやってきたポルトガル人やスペイン人の伴天連たちは、カトリックのミサの典儀や聖歌を日本人キリシタンに教え込むのですが、やがて政府の弾圧によって司祭たちは島からいなくなってしまう。しかし村人たちはいつか自分たちが天国(はらいそ)へ行けると信じて、表向きには信仰を隠しながら、伴天連たちに教えて貰った祈り(オラショ)を大事に大事に口承で代々伝えていく。300年経つ間に、それらは人が聞いてもなんだかよくわからない呪文のようなものになっていってしまった。そういうものなんだそうです。

音楽CDとして買ったので、一体どんな旋律が流れてくるのだろうとワクワクしながら聴いてみますと、、、、、、
あれ?
こりゃ、まるでお経だ。
おらしょ(祈り)とは言っても全部が全部節に乗って歌う物ではなく、そのほとんどが唱える物なのだそうです。全部手順に乗ってみんなで祈ると、大体40分ぐらいかかるそうです。わけのわからない呪文の部分もありますが、日本語の部分もありますので、まるっきりチンプンカンプンというわけでなく、感想は「早口なお経みたい」です。ただプロのお坊さんじゃなくて村人たちが数人で唱えているので、聴きざわりはとても朴訥です。
で、後の研究によってこのオラショはなまり強く大きく変容してしまっているものの、ちゃんとラテン語の原型をとどめていて、むしろ「250年も経っているとは思えない」と言えるほどちゃんとした形で伝えられている事が分かったそうです。とはいっても、夜に隠れてこっそり口だけで伝え記録に残しちゃいけないわけですから、同じ生月島でもごとに大きな差異が生まれているんでしょうねえ。

生月島のオラショの場合、すごいのは上の40分かかるオラショとは別に、他には伝わっていない、ちゃんとしたメロディに乗せてい歌う「歌おらしょ」というものが、いくつか残っているということです。(とはいっても信心深くない私にはやっぱりお経にしか聞こえなくて、CDで歌っている人に申し訳ないのですが)
南北に異様に長い生月島の事、この歌おらしょは地区ごとに差異があるのです。生月島の入り口にあたる南部の「山田」地区はどちらかというと開けていて、北部の「壱部」「堺目」に行くほど辺鄙になっていくのですが、ラテン語による聖歌をもとにした歌オラショが3つも残っているのが北部の(閉ざされていた?)方。
伝わっている歌オラショは3つあって、「らおだて」「なじょう」「ぐるりよざ」。これがそれぞれラテン語の聖歌の「Laudate Dominum(もろびとよ主を讃えよ)」「Nunc dimittis(主よあなたのもとに)」「O gloriosa(輝ける聖母よ)」に対応しているのだそうです。で、「らおだて」と「なじょう」の方は有名なグレゴリオ聖歌の中にその原曲が発見できたのですが、「ぐるりよざ」の方はなかなかそれを発見できず、さんざ探した結果、スペインの一部の地方でのみ歌われていた歌の中にそれがあるのをようやく見つけた、という話が皆川達夫氏の文章の中にあって、なんだか感動的ですね。現地でも忘れ去られた聖歌が、遠い日本の辺地で今も伝え歌われているなんて。
一方、生月の玄関口にある山田地区では、歌われる歌オラショはその「ぐるりよざ」ひとつのみです。

しかし、その山田地区には、伝わっている歌おらしょがひとつしか無い代わりに、それとは別の意味を持つ深い響きをもったメロディが伝わっていました。
それが、オラショ以上に私の心を強く惹いている『さんじゅあん様の歌』と『だんじく様の歌』です。この2つの歌は、歌詞は違うけれどメロディが同一のものです。それは聖歌をもとにはしていないため正確にはオラショではなく、響きもオラショとは違います。しかし上記のCDには、生月島の篤い信仰を表すものとしてちゃんと収録されている。
その歌詞は、日本語です。
しかし、その内容は、異様です。


さん・じゅあん様の歌
あー前はなぁ前は泉水やなぁ
後ろは高き岩なるやなぁ
前もな後ろも潮であかするやなぁ
あーこの春はな、この春はなぁ
桜な花かや 散るじるやなぁ
また来る春はなぁ 蕾 開くる花であるぞなやぁ

だんじく様の歌
    (じごく様の歌、しばた山)
あー、参ろうやな、参ろうやなぁ
パライゾの寺に参ろうやなぁ
パライゾの寺とは申するやなぁ
広いな寺とは申するやなぁ
広いな狭いはわが胸にあるぞなやぁ
あーしばた山、しばた山なぁ
今はな涙の先き
(谷)なるやなぁ
先きはな、助かる道であるぞなやぁ

このふたつ。生月島で殉教した人たちにまつわる歌であるらしいです。
2つめの「だんじく様」は分かりやすいです。生月島の南海岸に弾圧を逃れて、マリア・弥市兵衛・子供のジュアンの三人家族が隠れていたのですが、ある日子供が泣いていたのを役人に聞かれて家族もろとも捕まり、処刑されてしまう。この三人を悼んで歌われた歌だという事です。「だんじく様」というのは、この三人が隠れていた「暖竹」という地名が訛り、隠れ住む隠れの人たちの象徴とされるようになった。この暖竹の地は谷間になっていて、奥部の狭隘部から山に登れるようになっており、いざとなったらそこから逃げる算段になっていたのが、子供が先に捕まってしまったので親はそれを捨てて逃げられず、それでこの暖竹の谷を「涙の谷」と呼ぶようになったとのこと。
「谷の先まで行きそこから先に逃げれば無事」というのと「捕まって処刑されても天国が待ってる」というふたつの意味が歌詞に込められていて、行った事は無いけど「だんちく」の光景が脳裏に浮かんできて、生々しくあります。
この歌の別名の「じごく様」というのは「地獄様」かと思いきや、「ディエゴ様」の訛った物らしいです。父・弥市兵衛の洗礼名なのでしょうか。それともそれ以前の殉教者の名前なのかな。ともかくこの三人はパライゾ行きだけを願っていたので、その歌が「地獄様」などと呼ばれるようになったのが、また深くあります。「しばた山」というのは生月島には存在しない地名だそうで、謎の中の謎、と言われているそうです。パルナッソス山とか橄欖山とかスパイク山とかのような、半分実在しない天国の山を表すのでしょうか。
で、この歌詞なのですが、前半部分が遠藤周作の小説『沈黙』で、長崎や大村や各地で民衆が歌う歌の歌詞として何度か登場します。『沈黙』は小説でフィクションですが、各地で歌われた歌を前半部として、後半部にこの島の悲劇を組み合わせて歌い継いだ、ということは十分にあり得ることかもしれませんね。長崎で弾圧されても切支丹信徒が増えたという理由が「厳しい現実世界に対置するパライソを求めて」というものだとすると、悲愴すぎます。彼らは生きてるときも死んでからも「パライソ(天国)」のことしか考えていない。これは浄土信仰の形を変えたものだとも思います。

「さんじゅあん様」というのは人の名前かと思いきや、とある島の名前なのだそうです。
平戸島と生月島から等間隔の距離にポツンと浮いている岩山。中江ノ島。
ここで「聖ジュアン」と言われるのは元和8年にこの島で処刑されたジュアン坂本左衛門と元和9年に処刑されたジュアン次郎右衛門のことで、それ以外にも捕まった切支丹はこの島で処刑されることとなったため、逆にこの島の事を「さんじゅあん様」と呼んで讃えることとなったのだそうです。生月島では「だんじく様」とか「ガスパル様」、「ハッタイ様」、「アントー様」、「幸四郎様」などなど、殉教した人間の名前に「~様」を付けて聖地として崇めるということがよくあるのです。
さんじゅあん様の聖ジュアンは2人いるようですが、上の歌に関わるのはジュアン坂本左衛門と共に処刑されたダミアン出口と、それからジュアン次郎右衛門のようです。

ダミアン出口は、小舟に乗せられて処刑されるために中江ノ島に向かっているとき、役人に頼んで、自ら櫓を漕ぐのを手伝った人。高らかに賛美歌を歌いながら島に目指したのだそうです。ジュアン次郎右衛門は、進む小舟から先に見える中江ノ島を見つめて、「ここから天国はそう遠くはない」と穏やかに語ったのだそうです。
この「さんじゅあん様の歌」は、その時の心境を語った歌だとされております。
歌詞は、死に対する感情とかでは無くて、中江ノ島の風景を歌った物だそうです。中江ノ島はとても小さくポツンと浮かぶ岩の島ですが、その崖は切り立っていて山に見なされる巨大な岩があって、そこから清水がしたたりおち、小さな池を形作っている。“地獄”と呼ばれる場所もあるそうです。地図で見ると、生月から中江ノ島は遠いように見えますが、その距離はたった3kmなので、山田の里からは目と鼻の先のように見えるでしょうし、潮流が早くて今でも黒鯛の素晴らしい漁場になっているそうなので、次郎右衛門もそれまでこの島に何度も来た事があったのでしょう。その小島が自分の死ぬ場所となる。改めて島を見つめて、いろいろと思う事がたくさんあったのに違いないのに、まず島の白と海の青い黒色が脳内を支配する。
処刑されるために島に向かっているのに、歌では次に来る春について歌っている。それがなんだか私には怖いと思って。本当に死への覚悟が出来ちゃうと、こうなっちゃうのかなぁって。隠れ切支丹の人々は厳しいこの世から逃れてパライソへ行く事だけを念じているのだから、死の後にもパライソでの日々が待っている。彼らにとっては、パライソはなんでもありの幸せな天国ではなく、普通に桜の咲く普通の光景なんだろうなあって。
2人のジュアンが処刑された前後に、38名の切支丹が処刑されたそうで、それでこの島は生月の人たちにとって“聖地”とみなされるようになりました。この付近は潮流が凄く早く、人を菰でくるんで海に突き落とすと、高い確率で対岸の生月島に打ち上げられるのだそうです。やりきれませんね。
当然その様子は対岸からでも良く見えるでしょうから、なおさら、死に恐怖を抱く人々は、「ここから天国は遠くない」と言ったジュアンの言葉を思い浮かべ、「中江ノ島はパライソへの入り口」と思うようになっていったのではないでしょうか。
歌詞で春の桜について歌っていますが、これは死への讃歌なのです。
キリスト教は自死を禁じていますが、切支丹たちは苦しさから逃れることを念じ、死のその先のパライソを強く求めている。

この2つの歌はおらしょではないので、カトリックの聖歌には由来していないのですが、3つのオラショよりは力強く節と旋律がはっきりしているように聞こえます。心悲しくて力強い。解説書には「日本語なので口承しやすかった」と書いてありますが、でもこれもやっぱり、南蛮渡来のメロディが母体になっているような気がしますね。その源を探し求めるのは無理だそうですけど。やけに耳に残る歌です。

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8 コメント

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不思議な島 (詩緒蘭)
2007-07-05 23:31:16
┗(^0^)┓凄い事ご存知なんですね。キリシタン狩りなどの惨い弾圧など、島民の深いトラウマとなっていたののが、徐々に癒され、島という閉塞感からも開放され、今や誰はばかる事無く自由に何でもできる。しかしこの様になるまでには長い長い時間の経過が必要だったのですね。不思議が島です。
よくその様なCDの存在を知っていましたね。
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おらしょ。 (麁鹿火)
2007-07-06 10:57:56
詩緒蘭さん、いろいろとお詳しそうですね。
隠れキリシタンの風習を現在でも真摯に守り続け、中でも聖歌によるオラショを伝え続けていたのはこの島だけ、島の地名にも殉教者に因む物が異様に多いのに関わらず、生月島は隠れキリシタンの里の中でも最も明るくて開放的である、ということを聞いた事もあります。不思議な島ですね。

CDについては、
私がCDを集め始めた頃は今に比べると圧倒的にガイド本が少なくて、バロック関係では皆川達夫氏の『バロック名曲名盤100』(音楽之友社)ただ一冊しかありませんでした。この本の一番最後にこのCDが紹介されていたのです。だから必死で探していました。
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オラショ (詩緒蘭)
2007-07-06 21:36:30
読み書きできなかった島民は、言い伝え事伝えによって、今に伝えているのですね。「文字無き時代の人は心(精神)で覚えた」と小林秀雄が言っていました。事伝えが『文字』になったとき『文学』になると・・・
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歌の聞き伝え。 (麁鹿火)
2007-07-06 23:25:05
お経っぽいというか演歌っぽい雰囲気もあるというか。
やっぱりラテン語の聖歌がもとであっても、自然に任せると日本っぽくなるんだなというのが興味深くもあります。
伝言ゲームみたいですね。最初にポルトガル人による本物を聴いたのは、200年前の最初の人たちだけなんですから。
なんといっても弾圧されてますから、紙に書いたり証拠を残したりしちゃいけないわけです。人のいる所で復習したり寝言で言ったりも厳禁。当然中には物覚えが悪い人もいたと思うんですが、覚えれる人も厳選されていたそうですし、前の人から教えて貰えるのは一年のうちの特定の46日間だと定められていました。かなりシビアな資格試験みたい。
でもこれで村人たちの団結感は高まるのですから、考えれば考えるほど不思議なものです。九州の人たちは心が強かったんですね。
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不思議な歌やなぁ (詩緒蘭)
2007-07-07 00:28:27
耳から聴くだけなら、隠れキリシタンとは何も関係ないと思われますが・・・文字を見ると「バライゾの寺」くらいかなぁ、キリシタンっぽいのは。
宗教は弾圧に遭うと中心帰一していきますね。
島内だけで婚姻関係を結んだのでしょうか。
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ぱらいぞ。 (麁鹿火)
2007-07-07 08:31:29
ほかの歌おらしょの方はラテン語風なので、逆にこの2つが日本語であることが、異様性を際立たせられるんですよね。
ちなみに「ぐるりよざ」の歌詞、(山田村と壱部村と堺目村で大分異なり、山田村の場合)

「うぐりよざ、あどーみの、ゆきしよー、しーでら、しーでら、きけくろ、やんで、ほろぴでらたーちり、さくら、おびして、ここわ、ちりして、あしたり、わつわつれて、じやんのわ、じやんのえんぽろ、たろじよんで、ほーろじよ、たんでたーんだ、たびら、びりじょんの、ぜんて、べれんて、けられて、どーみのきなり、ぜんづは、びりじょんの、こんばーてろ、さんと、ぴーつのいせんぺ、せらせえ、くろあんめー」
(意味)輝ける聖母よ、星の空の遥か先にいます御母よ、生まれてこられた御方を、潔き乳房で育まれた。天の門となった、汝至高の王なる扉よ、光輝く門よ、このマリヤに与えられし命を、贖われた民が手を打ち讃えられるように、主よ汝に栄光あれ。処女より生まれし王よ、父にも聖霊にも、代々限りなくアーメン、イエズス、聖マリア。
※隠れ切支丹の人は歌詞の意味は教えられない。。


結婚については、遠藤周作の『キリシタンの里』という本に、「隠れキリシタンは周囲の(普通の)人たちからちょっと変わった人たち」と見なされていて、自然隠れは隠れの間だけで婚姻を結ぶようになった、そちらの方が彼らもやりやすいから、と書かれています。島を越えた交流は多分無いんだと思います。
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白石と宣教師シドチ (詩緒蘭)
2007-07-07 19:40:35
白石がイタリア人宣教師シドチを拒否した時シドチは、「いかなる極刑に処せられんにも、(中略)身をかえりみる所なし(中略)骨肉形骸のごときはともかくにも国法(日本の法律)にまかせむ事、いふにおよばず」と、これはカイゼル(政治的現象的)ものはいくらでも譲歩するが、『神のもの』は妥協できない、という強い信仰心なんでしょうね。

この果ての島に上陸した最初の宣教師も西洋の医学・天文・地理その他、島民達に惜しみなく教え与えたことでしょう。「お上」からの恩恵に浴さない貧しく善良な島民には、まさに神業だったにちがいありません。そのうえ身を省みない『神への深い信仰』の前に『神さま』を観る想いだったかもしれません。
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シドッチ (麁鹿火)
2007-07-07 20:16:04
そうでしたね、シドッチが宣教の為に日本に潜入したのはそれから100年も先でしたね。すごい。

いろんな物が混じり合わさって、島の人々にはキリスト教にまつわるものがみんな「天国」と感じられたんでしょうかね。
そういった意味では、やはり遠藤周作の『沈黙』という小説が面白いです。(←こればっかり)
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