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加藤景廉のお墓。

2006年07月26日 23時12分43秒 |   源頼朝

なんだか、日差しの関係で写真に変な青みがかかっちゃった。失敗失敗。

以前読んだ、源平盛衰記の中の源頼朝の山木館攻めでは、まるで、加藤景廉が主人公であるかのように大活躍する光景が描かれているのですが、その奮戦のおかげかどうか、伊勢の出身の流亡者であった加藤景廉が、修善寺の近くに広い土地を貰ってそこに住み、お墓がそこにあるのだそうです。
現在、加藤景廉のお墓が立っている所は、修善寺から狩野川沿いにちょっと北側に上った「牧之郷(まきのこう)」というところにあります。伊豆箱根鉄道の「牧之郷駅」から大仁方面に少し歩かなければなりません。お墓は線路沿いにあります。
行ってみたら、だだっ広い田んぼの中にぽつんと祠があり、そこに6つの墓石が並んでいて、とてもノスタルジックな光景だった、、、、、 というか、ちょっと大猛者の碑としては寂しかったです。

加藤景廉 (かとうかげかど) 仁安元年(1166)?~承久3年(1221)
(※以下の文章は、ウィキペディアここのサイトを参照にしています)
源頼義の片腕だった加藤景清の孫だという。藤原利仁の流れをくむ藤原氏の一族で、一時期加賀に住んでいた事から加藤姓を名乗ることになったといわれる。
父は加藤景員。兄・加藤光胤は通称“加藤太”と呼ばれ、それに対して景廉は“加藤次”と呼ばれた。
若い頃は父と共に伊勢にいたが、事件を起こして伊豆に逃れ、中伊豆の実力者・狩野茂光の下に付く事となった。その事件について、源平盛衰記では父の仇を討つ為に殺人を犯したのだというが、一方で、一家が伊豆に来たのは父の代で、光胤と景廉は伊豆で誕生したのだという話もある。
保元物語では、伊豆大島で謀反を起こし自害した鎮西八郎為朝の首を斬ったのは、景廉だということになっている。この、為朝が死んだ年がよく分かんないんですけど、平凡社の世界大百科では治承元年(1177)、ウィキペディアだと嘉応2年(1170)。仮にウィキの方を取るとすると、景廉が為朝の首を切り取ったのは4歳の時となってしまう。まあ、景廉の生年も伊豆大島の乱の年代も、推定年代は「?」付きなんですけどね。
治承4年に北条郷で源頼朝が旗揚げすると、いち早く父・兄と共に参じ、平家目代・山木兼隆を討ち取るという功を挙げた。つづく石橋山の合戦では敗北したので父子共々箱根の山中に潜み、そのまま甲斐に逃れて難を避ける。
まもなく頼朝の命を受けて、武田信光とともに平家方の駿河目代を討ち果たし、そのまま大活躍。頼朝のそばに従い側近としてふるまうこともあれば、西国へ向かって源範頼の下で平家と散々に戦うこともした。奥州征伐にも従軍した。
景廉が地顕職を得た領地は伊豆国牧之郷の他に、美濃遠山庄、甲斐国小松庄、同大原庄、伊豆国河津庄、遠江国浅場庄、備前上鴨下鴨庄等があった。
とりわけ美濃国遠山庄には景廉にまつわるいくつかの伝説があり、息子・景朝が岩村城を建造する際には、景廉も当地に赴いたという。
しかし、頼朝時代は幕府内で重きをなしていた彼も、二代将軍・頼家の代になると、嫌われ者の梶原景時が失脚したさいに、彼と親しかった事がたたって、領土の多くが没収され、逼塞を余儀なくされてしまう。しかし、和田合戦の折りに再び返り咲き、再度元老の座についた。三代将軍・実朝が公暁に暗殺された時、判官だった彼は責任を感じて出家した。
彼の嫡男の加藤景朝は、美濃の国・遠山庄を知行したため遠山姓を名乗るようになり、父の死後伊豆の牧之郷を相続してからも遠山氏を名乗る。この子孫は、戦国北条氏の重臣となり、また江戸時代の北町奉行・遠山の金さんもその子孫だという(説もある)。

 

景廉は承久3年(1221年)の5月に、老齢を理由に牧之郷に引き篭もるが、ほぼ同時期に起こった承久の乱には、「宿老により上洛に及ばず」として参戦できなかった。そして同じ年の8月3日に、牧之郷で死去しました。
景廉のそもそもの出身は伊豆ではなかったわけで、頼朝に出会う前は狩野庄にいたわけだし、でも生涯の終焉に、数ある領地の中から望んでここに来たというのは、頼朝からこの土地を拝領するにあたって、何か思う所があったのでしょうか? 一番の武功を挙げた山木館に近い場所ですしね。
ところで、現在のお墓がある場所は、写真でご覧のように平坦な田んぼとなっているのですが、ここには以前、「金剛寺」という巨大なお寺があったのだそうです。しかしその伽藍は度重なる狩野川の氾濫で流れ、墓石だけが残っていたのだそうです。天明5年に当地の住人がこの場所を掘り起こしてみたところ、鎌倉極楽寺の3代目住職・善願上人の舎利が発見されたんですって。(善願上人は景廉の孫なのだそうです)
実際、現在のお墓のある位置は、狩野川の流れに何かあったとき(=氾濫したとき)その流れをもろに受ける位置にあります。この土地で巨大な邸宅を構えようとしたら、森山の北条館か山木の兼隆館のように、山をバックにしたちょっと小高い所に建築するんじゃないかな。実際、伊豆のこの付近は小高い所にお金持ちっぽい人々が住んでいる区画や別荘地があります。(わたしの住んでいるのは低い所)
このお墓は山裾からはちょっと離れた位置にあるのですが、当時は邸宅に隣接してお寺を建て、有力者はそこに葬られるのが普通だと思われるので、その考えに基づいて加藤館のあったのはどのあたりだったのかと、夢想を巡らしてみます。(といっても完全な想像ですので、結局分かんないんですけど)
きっと、山際に建てられた広大な邸宅に隣接して、広大な寺域があったのでしょうね。現在は何もない田んぼになってしまっていますけど。
ちょっと歩くと狩野川の流れに行けます。今日みたいないい天気の日には川は釣り人でいっぱいです。当然、景廉も釣りは大好きだったんでしょうね。釣りが好きな人に悪い人はいませんからね。


≪こっちの方角かな?≫


≪あの谷間なんかそれっぽいな≫

 

それはそうと。
ウィキペディアを読むと、 「加藤氏の由来」を記したページに、「加藤景廉が全国の加藤さんの代表」という書き方をされている事に笑ってしまいます。「加藤さん」はとてもありふれている姓で、小学生や中学校の頃はクラスに2、3名は加藤さんがいたぐらいに記憶していますが、「現在多い加藤姓は明治に勝手に名乗ったニセモノで、ホンモノの加藤景廉とは全然関係が無い」という書き方がされていることが可笑しい。
「加賀にいた藤原さん」は加藤景廉の一族だけではないでしょうに。


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5 コメント

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為朝の没年 (さがみ)
2006-07-26 23:37:08
>平凡社の世界大百科では治承元年(1177)、ウィキペディアだと嘉応2年(1170)。



とのことですが

実はそれぞれソースがあるんです。



1177年説はお寺に残っている日記

1170年説は保元物語です。



信用性から言ったら日記>軍記なんですが

どうなんでしょうかね?

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伊豆大島の乱。 (麁鹿火)
2006-07-29 05:29:04
なんと、それで二説の間にそんなに開きがあるとは。

なるほど~。

でも、1177年とすると、頼朝の旗揚げの3年前ですものね。

それは無理があるかと。



それはそうと、このような複雑なことがパッと出てくるさがみさんの知識網に感嘆です。
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Unknown (Unknown)
2010-09-04 21:40:47
景廉は老齢で承久の乱を断って同年死去。
景朝は承久の乱の首謀者の首を遠山荘でハネたのが史料の初出(吾妻鏡)。

> とりわけ美濃国遠山庄には景廉にまつわるいくつかの伝説があり、息子・景朝が岩村城を建造する際には、景廉も当地に赴いたという。

は、ないでしょうね。景廉が遠山荘に入った史料は聞いたことがないです。多分、岩村教育委員会ソースを参考にされたんだと思いますけど。昔は文教藩・岩村とも言われたんですけど、あそこ今はホラ話を公式で出すほど落ちぶれてます…
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大カトー小カトー。 (麁鹿火)
2010-09-05 15:12:32
おお、詳しい方があらわれた!


確かに! 記憶をたぐり寄せてみるとこの記事を書いたとき岩村教育委員会?のサイトを見たような記憶があります。確か景廉公の木像やいろいろな写真があったような。あれ、誤りだったんですね。

…慌てていろいろ検索してみると、「景廉は一度も遠山に来た事はない」と断言しているサイトも多い一方で、「岩村城を建築したのは(もしくは礎をつくったのは)景廉」という伝説は、あるにはあるんですね。途方にくれてしまう。
とりあえず最長の説を取ると景廉は25年間も地頭として遠山郷を支配していたんだし、史料の初出だという承久3年6月25日にすでに景朝は遠山景朝と名乗っているのですから、他に遠山という名の付く領地が無い限り加藤氏のだれかが景廉生前に遠山に住んでいた期間は長いと思う。(吾妻鏡がかなり隔たった後に書かれたものですが)
そういうことにして伝説部分は保留ということにしとかないと、伊豆にとって大切な、「加藤景廉はたった4才で鎮西八郎為朝を討ち取った」という歴史的事実もなかったことになってしまうので、ご了承くださいませ。

改めて吾妻鏡を読んだりすると、景廉はなんか嘘くさいほど病弱というイメージです。
景廉の領地リストが欲しい。伊豆牧之郷、東濃遠山郷、遠江浅羽庄、北勢5郡、、、 まだまだありますよね?


…ちなみに、伊豆市の教育委員会も「景廉が岩村城を築城」と書いてる(笑)
http://wiki.koiroha.org/agi/index.php5/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%99%AF%E5%BB%89%E4%B8%80%E6%97%8F%E3%81%AE%E5%A2%93
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蚊と海栗。 (麁鹿火)
2010-09-10 00:04:34
上で「景廉の領地リストが欲しい」って言ったんですけど、改めて読み返してみれば、自分自身で加藤次景廉公の領地を自分で列挙してるじゃん。こんなに「カゲカドは私の原点」と言ってるわりに、自分の4年前に書いたことなんてちっとも覚えていなかった。
思うに、自分が興味を覚える箇点は10年前から全く同じなんですが、それに対して自分がどういうアクションを起こし何を得たという記憶が、自分でも全く関心が無いんでしょうかね。
歴史を学ぶ意味がない。

ちょっと反省し景廉公の歴史巡りくらい心を入れ替えてまた志し直そうかな、とちょっと思いました。
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