Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

真珠の海 - 英虞(あご)湾 (2)

2009-01-28 | 近畿
英虞湾は、三重県中東部、志摩半島の東南端に位置し、前島(さきしま)半島によって抱え込まれるようにして熊野灘から隔てられている。海岸線は志摩半島の中でも特に複雑なリアス式海岸であり、そのなかに賢島、多徳島、土井ヶ原島、天童島、横山島など大小の島々が浮かぶ。伊勢志摩国立公園に指定されている。
英虞湾は昔から「志摩の白玉」(天然真珠)で知られるアコヤガイの有名な産地であった。湾内の多徳島は、御木本幸吉(みきもとこうきち)が1890年(明治23)世界で初めて真珠養殖に成功した所で、以来英虞湾は養殖真珠のふるさととして知られている。

真珠の海 - 英虞(あご)湾 (1)

2009-01-25 | 近畿
陽が傾き、潮が満ちはじめると、志摩半島の英虞湾に華麗な黄昏が訪れる。
湾内の大小の島々が満潮に洗われ、遠く紀伊半島の稜線まで望まれる西空に、雲の厚さによって、オレンジ色の濃淡が描き出され、やがて真紅の夕陽が、僅か数分の間に落ちて行く。その一瞬、空一面が燃えたち、英虞湾の空と海とが溶け合うように炎の色に輝く。その中で海面に浮かんだ真珠筏がピアノ線のように銀色に燦き、湾内に波だちが拡がる。(山崎豊子作、小説『華麗なる一族』より)

Tenkuu Fuji (10) - 富士遠望

2009-01-23 | Fuji
富山湾上空を搭乗機は徐々に高度を上げてゆく。
立山連峰と後(うしろ)立山連峰の奥に広がる雲海には、左に八ケ岳、右に南アルプスが位置し、そして、その中央には、富士が揺るぎない秀麗なシルエットになって浮かび上がった。
富士山を望む地点が高ければ高いほど、その美しさは増すという。
富士山が最も遠くから見える場所(地上)は、和歌山県にある那智山の妙法山(標高749メートル)で、富士山との直線距離は322キロになる。2番目は福島県の阿武隈山地にある日山(標高1057メートル)の299キロ。3番目は八丈島の八丈富士(標高854メートル)で265キロ離れている。
遠くに見える富士は、淡く、いっそう美しくみえた。

Tenkuu Fuji (9) - 夏富士火口

2009-01-20 | Fuji
遠くから望むと優美に見える富士も、近くに寄ると火山としての荒々しさを実感することができる。
火山特有の赤茶けた砂地の山肌が荒涼と広がる。
もっとも代表的な噴火口が山頂火口である。「お鉢(はち)」とも呼ばれるこの火口は、直径が700mもある巨大なもので,過去数百回もの激しい噴火をくりかえしてきた。
しかし約2200年前に起きた大噴火を最後に、山頂火口は目立った噴火をしなくなって現在に至っている。
3,776mの剣が峰をはじめ、白山岳、久須志岳、大日岳など8つのピークがあり、この8つの峰をめぐることを「お鉢(八)めぐり」という。今は無人となった富士山測候所は剣が峰に建つ。
夏富士。7月1日の山開きから8月26日の山終いまで、毎年数十万の人が富士山頂を目指す。

Tenkuu Fuji (8) - 富士と月見草

2009-01-17 | Fuji
「富士には、月見草が良く似合う」
言わずも知れた、作家・太宰治の短編 『富嶽百景』の一節である。彼が河口湖町御坂峠の天下茶屋に滞在したときのもの。太宰は、御坂峠からの富士について、「ここから見た富士はむかしから富士三景の一つにかぞえられているのだそうであるが、私は、あまり好かなかった」、「あまりにおあつらえむきの富士である」、「まるで、風呂屋のペンキ画だ」、「どうにも註文どほりの景色で、私は恥ずかしくてならなかった」などと、酷評している。一方、同じ作中、土地の老婆が指を指す月見草を見て、「三七七八メートルの富士山と立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすくっと立っていたあの月見草は、よかった」という。
そして、その後に「富士には月見草が良く似合う」ともらすのだ。
来年、生誕100年を迎える。



Tenkuu Fuji (7) - 晴天乱流

2009-01-15 | Fuji
1966年3月5日の午後の東京は、まれにみる快晴であった。
BOAC(現BA)911便は、午後1時30分、香港に向けて羽田を飛び立った。そのボーイング707型機には、乗客・客室乗務員合わせて124名が搭乗していた。好天なので、機長は上昇旋回し、日本のランドマークである富士山上空を旋回する飛行計画の変更を乗客に告げた。911便は羽田を離陸した後、1時58分に富士山の南西方向に上昇をはじめ、御殿場上空を通過して17.000フィートに達した。
機は北西に旋回して12.400フィートまでゆっくりと下降を始めた。
間もなく機から白い蒸気が尾を引いているのが見られた。
富士山付近は快晴でも頂上付近では猛烈な乱気流を発生する。上昇気流と下降気流が複雑に乱気流を発生させるのだ。

Tenkuu Fuji (6) - 雲上晴天

2009-01-12 | Fuji
“大空を舞う鳥のように、翼ひろげ雲を見おろす。”
地上が、どんなに悪い天気で、暗雲が垂れ込めていても、
雲の上は白く、その上は快晴なのだ・・・
と、 頭の中では、それが当たり前に思えても、現実にこれが実感できる瞬間。
それが「空の旅」である。
“鳥になれ、おおらかな翼をひろげて。雲になれ、旅人のように自由になれ♪♪”
と、五輪真弓は朗々と歌っている。
羽田を離陸して、僅か10分。太陽は燦々と輝き、紺碧の空が広がる。


Tenkuu Fuji (5) - 駿河湾と富士

2009-01-10 | Fuji
日本一高いランドマーク・富士山に近接し、湾の深さ日本一の駿河湾が、海底渓谷をつくっている。水深は、その湾口付近で2,450m、湾奥でも1000m、最大水深は2800mにも達する日本一深い湾であると同時に世界でも有数の深さだ。昔、駿河湾と相模湾は本州の南に横たわる一続きの海であったが、約100万年前にフィリピン海プレートに載った伊豆島(今は半島)が本州に衝突し、両者を二つの湾に分けたという。伊豆半島を載せたフィリピン海プレートは、北西方向に沈み込もうとしていることで、駿河湾の幅を狭め、水深を深くしているというわけだ。壮大な眺めを眼下にして、太古からの大地の活動に思いを馳せる。

Tenkuu Fuji (4) - 宝永火口と宝永山

2009-01-08 | Fuji
宝永の噴火は、1707年12月16日午前10時ごろ富士山南東側斜面で始まり、17日間断続的に続いた。噴火の名残は静岡県側宝永火口と宝永山(標高2,693m)に見ることができる。山体中央部をざっくり抉るかのように大きな「宝永第1火口」があり、その下に小さく盛り上がった「宝永山」が見える。作家・新田次郎はその著書『怒る冨士』に、噴火の際の農民の被害、幕府の危機管理と派閥争い、その狭間で苦悶する関東郡代・伊奈忠順の姿を描いている。2~300年毎に噴火を繰り返した富士は、これ以降噴火はない。今日も富士は穏やかだ。

Tenkuu Fuji (3) - 相模平野と富士

2009-01-06 | Fuji
富士山大噴火から約300年が経つ。宝永4年(1707)の大噴火は相模の地を火山灰で埋め尽くした。偏西風に乗って富士の東側を襲った火山灰を、人々は「砂降り」と呼ぶ。山北町などの神奈川県北西部の山沿いに60cm以上、足柄平野30~40cm、平塚から藤沢にかけて20数cm、横浜でも10数cmの砂が降り積もったという。麦が全滅し、作付けもできなくなった。砂が流れ込んで川床が異常に上昇した酒匂川は決壊し暴れ川と化す。田畑を失った秦野盆地では以来タバコ栽培に転じた。江の島ではサザエやアワビが全滅。西相模の農民は困窮し、離村と飢餓で人口が急減した。冬の澄んだ空、遥か富士が美しい。

Tenkuu Fuji (2) - 横浜港と富士

2009-01-04 | Fuji
2009(平成21)年、横浜は、1859(安政6)年に横浜が開港してから150周年を迎える。 開港以前、東海道の宿場町、神奈川宿の東南約4キロに、戸数100ほどの半農半漁の寒村、横浜村があった。この横浜村で、1854(安政元)年日米和親条約が締結され、その4年後の日米修好通商条約の締結によって神奈川に開港場が置かれ、1859(安政6)年7月1日、横浜は開港した。現在、1989年に開通した横浜ベイブリッジ、みなとみらい21(MM21)地区のシンボルである横浜ランドマークタワーは「みなと横浜」の新名所になっている。

Tenkuu Fuji (1) - 湧雲黒富士

2009-01-01 | Fuji
太古の昔より美しく聳え、いつの時代も人々を魅了しつづけてきた「富士山」。奈良時代には、すでに絵に描かれ、歌に詠まれたと言われる。江戸時代に入り、葛飾北斎による『冨嶽三十六景』から、近代においては横山大観による作品など、画壇の数々の名作は枚挙にいとまがない。万葉集や竹取物語、そして太宰治の代表作「富嶽百景」など文学の世界でもまた然りである。季節、場所、時間によって様々に変化する富士の姿を、天空から、しばしご覧あれ。