Tenkuu Cafe - a view from above

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-空から見るからこそ見えてくるものがある-

早春の九州を飛ぶ (2) - 薩摩半島

2013-02-13 | 九州





「西欧の近代的な技術を学び、豊かな強い国をつくらなければ、いずれ日本は列強に支配され、植民地化の道を辿らざるを得ない」

28代薩摩藩主・島津斉彬は、積極的な近代化政策を進め、その一環として欧米への留学生の派遣を計画していたが、この計画は安政5年(1858)斉彬の急死により一旦頓挫する。

そして7年の時を経て五代才助(友厚)の建言によって、遂に実現されることになった。



一行は、大目付・新納久修(当時24歳)を監督に、船奉行・松木弘安(のちの寺島宗則、当時34歳)、船奉行見習・五代友厚(当時31歳)、開成所書生・森有礼(当時19歳)等で、最年少は14 歳であった。










早春の九州を飛ぶ (1) - 薩摩半島

2013-02-10 | 九州



慶応元年(1865年)4月17日の朝、わが国初の海外留学生15人を含む19人が、当時薩摩藩領内串木野村羽島の浦と呼ばれた小さな漁村から、英国貿易商グラバーが用意した蒸気船オースタライエン号(The Australian)に乗船し、密かに英国へ旅立った。

攘夷運動の急進派だった薩摩藩は、1863年の薩英戦争で西欧の技術文明の進歩を痛感させられ、その姿勢を一転、斉彬の遺志を継いで欧米の優れた文明を取り入れるため、留学生の派遣を決定したのである。



留学生たちは藩命によって送り出されたとはいえ、当時の日本はいまだ鎖国中、国禁を破っての密航だったため、幕府の目をくらますために、全員が変名で呼び合い、甑島・大島その他島々へ出張と称し、鹿児島を発った。
二度と故郷の地を踏めないかもしれないという覚悟の船出だった。



彼ら留学生はその後、イギリス人たちに「サツマ・スチューデント」と呼ばれた。