ご報告が遅くなりましたが・・・。長男が坊主になりました。
坊主になったといっても、ただ坊主にしただけではなくてなんというかその・・・一応お坊さんにしていただいた、というか僧侶の列に加えていただいたということです。
8月5日、京都の東本願寺で行われた「臨時得度式」の列に、今年7月に9歳になった長男が加えていただきました。法名を授かり、僧侶の仲間入りをさせていただいて、仏弟子の道をスタートしたことになります。
東本願寺 http://www.higashihonganji.or.jp/
MSN west http://sankei.jp.msn.com/west/
「仏弟子の道をスタート」なんていうと聞こえはいいですが、実際のところは親バカです。スタートラインに立たせるところまで来ましたよ、という親のエゴ。
釈尊をはじめ、多くの仏弟子がご苦労の中で歩まれ、開いてくださった道を素直に歩めばよいものの、なかなかそうはいかない現実をふまえて、です。
思えば私も・・・、そして4年前に剃髪した妻も・・・
http://ryoten.blog.ocn.ne.jp/jyosyoji/2009/。
ただし、どれだけ道に迷おうが、道を逸れようが、「かならずたすける」という仏さまに出遇ってほしいと思うばかりです。は表向きで、実際は親のメンツを立てろと。
ただ、その表向きを立てるにはまずこの自分がその誓願に出遇わなくてはならないことは感じます。
我が子の望みをできるだけ叶えたいと思いつつも、道に迷い、道をはずれた我が子を「たすける」のは、親の役目ではないことも思います。
「得度(http://ja.wikipedia.org/)」は、「度牒」を「得」ると書きます。「度牒」は「国家公認の得度に際して国家機関によって交付される身分証(http://ja.wikipedia.org/)」といわれていますが、出家をしない在家の僧侶としては、思いどおりにいかない実生活の中で仏願を確かめていかなくてはなりません。いくら国家機関によって交付される身分証であったとしても、国の間違いには仏教をよりどころにして指摘しなくてはなりません。時の国家権力が是とすることに、仏願から異を唱えることも大事なつとめでありましょう。
体裁よくいえばそうなのですが、それは同時に、いくら親がいうことでも仏の教えでないことは否定しなくてはならないということです。否定される対象が自分に向かった時に果たして私はどうなるのか。
有縁の皆さまには、これまでのお育てに深謝するとともに、前途多難な親子ともども今後ともお育てくださいますようお願い申し上げます。
これからが楽しみですね。
家族で浄土への道を共に歩まれることは、うらやましい限りです。
極楽浄土への道ですから、できるだけ楽しんで歩みたいと思いますが、どうなることやら。
迷走しながらでも、ともに浄土に向かう方向だけ確かめながら歩んでいこうと思います。