遊煩悩林

住職のつぶやき

念仏したらどうなるんだ

2017年06月02日 | ブログ

先月この「つぶやき」(2017.5.25遊煩悩林)に書いた、修学旅行の余韻の中で出遇った朝日新聞『折々のことば』の解説文中のことば。

学ぶことの意味は、じつは学んだ後でしかわからない

鷲田清一

このまま6月のお寺の掲示板に挙げてみました。

孫引きの引用の解説にあった言葉なので、ちょっとややこしいですけど。

『折々のことば』として紹介されていたのは

つまり、知らないことがあること自体を知らなかったわけだ

という戸田山和久さんのことば。

朝日デジタルhttp://digital.asahi.com/articles/DA3S12952578.html?_requesturl=articles/DA3S12952578.html

選者の鷲田さんがこのことばを引っぱってきた感覚を述べた文章のなかにある。

以下、無断転載ですが、

人は学ぶ前に、つい、こんなの勉強して何になるの、と問う。が、学ぶことの意味は、じつは学んだ後でしかわからない。世界には、自分が知らない領域が「想像をはるかに超えて広がって」いることをこれまでろくに知らなかったと思い知ること、つまり「無知の無知の知」こそ〈教養〉というものだと、哲学者は言う。エッセー「とびだせ教養」(「ちくま」4月号)から。

学生時代に読んだ『ソクラテスの弁明』を思い出した。

調べれば何でも答えがわかってしまうような錯覚のなかにいる時代社会のなかで、「学ぶ」ことの意味。

仏教は「教え」です。仏教を学ぶことの意味。

私たちは「なんまんだぶ」とお念仏をすすめる。「念仏してどうなる」という背景のなかで。

「念仏したら楽になりますよ」

「幸せになりますよ」

「病気が治りますよ」

「商売がうまくいきますよ」

「だから念仏しましょう」とは言わない。

何のためにそれを「する」のかを、予めわかっていて「やる」のであれば、どこまでも自分の分別の枠の中から出ることはできないのでしょう。

そこに自分の枠から解放されていく「救い」という世界は成立しない。

それは「学び」ではなく、「利用」だ。しかも「無病息災」「商売繁盛」という欲望に対して「やる」とすれば、それに対して何の利用価値のないものを利用しようとしているだけに過ぎない。

「何のために」と問い続けることは大事なことだと思う。だけど、その答えを握ってしまったらもう「学び」にはならない。

仏教を学ぶことの意味やお念仏することの意味は、まさしく学んだ後、称えてみることの後にしかわからないのだろう。

とわかったような気になっている自分を戒めることばとして。

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