遊煩悩林

住職のつぶやき

ホトケになりてぇ?

2013年05月02日 | ブログ

あなたが願いを見失っても
願いがあなたを見捨てない

先月中旬、鳥羽の戸田家を会場に、「真宗同朋会運動50年を迎えて - 苦悩の群萠の救済 -」というテーマで開催された「真宗大谷派東海連区同朋の会推進員交流研修会」。
その講義の中で、「弥陀の誓願」について触れられた言葉が記憶に残っています。
「たとえあなたが願いを見失ったとしても、願いの方があなたを見捨てないのです」といった表現だったでしょうか。
この記憶を手がかりにして、冒頭の言葉を今月のお寺の掲示板に書いてみました。
自分の中から出てきた言葉ではないので、この言葉をどう受け止めていこうかというのが、今月の私自身のテーマです。

私の願いはいったい何なのか。私を見捨てない願いとは何なのか。

普段あーなりたい、こーなりたいと「お願いごと」という名の欲の中で生きているのですが、究極的には、仏教徒としては「成仏」、「仏に成る」というテーマがあるわけです。
だけど、なかなか「ホトケになりたい」などといった願望は出てきません。たとえ出てきたとしてもそれは欲望の延長線です。欲の延長で出てこればそれはそれでシメタものですが、まず「あー、ホトケになりてぇ」なんて出てこない。
ホトケはあらゆる煩悩を離れた世界の「人」のことだとすれば、ホトケになりたいと思わないということは、欲を求め、満たしたり、満たされなかったりしている世界にナンダカンダ言いながら遊んでいるのでしょう。
とすると、やはり自分の中から「成仏」ということは出てこない。
「私を見捨てない願い」というのは、「煩悩のない世界に生まれさせたい」という願いでしょう。この願いによって「ホトケになるしかない」のであって、私が自ら望んで「ホトケになりたい」といって、それを叶えてやろうというのではないんでしょう。

親鸞聖人750回御遠忌法要のテーマが「今、いのちがあなたを生きている」ですが、この「いのち」がそのまま「願い」ならば、何が何でも「必ず助ける」という誓いこそが「私を見捨てない願い」ということでしょうか。

「あなたが願いを見失っても 願いがあなたを見捨てない」というところの、「願いを見失う」というのは、まさに苦悩を意味します。
しかし苦悩の中にあっても「かならず救う」という誓いが願いとなって生きている。苦悩の中でこそ、その誓願が明らかになるのかもしれません。

私は今そんなに苦悩していませんから大丈夫ですとか、間に合ってますとかの話ではありません。「生まれた」「生きる」という苦悩の中で、それを自覚することもなく呑気に「大丈夫です」「間に合ってます」といって遠ざけている私に喚びかけるはたらきを、すでにして皆が自分の中に宿しているということです。
願いの方が先に私を生きてくれているといった感じでしょうか。私が願いを発するのではなくて、願いの方が私を発しているというのでしょうか。
相変わらず理屈っぽくなりましたが、そうはいってもなかなかそんな感覚にはなれません。探し物を探すように「お願いごと」という欲の対象を物色する日々です。

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