るぅあんのブログ”晴れが好き!”

店情報『aboutRouen』に続く、日々の雑感をつづっています。スウイーツの情報などの交流の場にしたいと思っています。

『謹賀新年』の、「篆書」の説明の誤りについて。

2017年01月11日 | 日記


1月1日の記事の内容に、一部誤りがありました。

興味のない方には、どうでも良いようなことですが、
書を本格的に勉強されたかたには、見過ごせない誤りでした。
教えていただいている習字の先生の目にとまったら、お叱りを受けてしまうでしょう。
訂正いたします。

その訂正箇所とは、
『酉』という文字の成り立ちについてふれた部分。
甲骨文→金文→篆書の( )内の文章です。
全くのデタラメな説明になってしまいました。



今年の干支は、『酉』。
12支の10番目。干支では、34番目の『丁酉(ひのととり)』に当たる。
方位は、西。一日のうちの時刻は、18時を中心とした前後2時間。

季節で言えば、仲秋。8月を指し、
なので
、「果実が極限に熟し、酒気の溢れだす直前の状態にあること。」に由来するそうだ。

『酉』の本来の読みは、
「ゆう」
「とり」ではない。
口の細い、
酒つぼをイメージしている。
古代中国の文字、甲骨文字から金文(銅器などの金属に刃物などで彫った文字),
そして篆書(金文を毛筆で書いたもの)と変遷する様子を見るとよくわかると思う。

取消線の部分を、取り消します。
篆書(秦の時代に統一された書体)と。

そして改めてきちんと、この「篆書」について説明します。

「篆書」とは、あの万里の長城や『焚書坑儒』で有名な秦の始皇帝が、
部下の丞相の
李斯(りし)という人に、それまでの春秋戦国時代、
国の数ほどあった文字の書体を統一させて、「小篆」としてまとめたもの、です。
それまでの文字は、「大篆」として区別されていて、
篆書といえば、この秦の時代の
「小篆」をさします。

だから、毛筆云々ということとは全く別の問題でした。

確かに、毛筆の発明者は、
始皇帝の時代、万里の長城を築いて匈奴の侵入を防いだという
将軍・猛恬(もうてん)
その人だと言われています。
(実際は、もっと以前に毛筆のようなものはあったようなのですが・・・)
昔、知識として囓ったことを、いつの間にか頭の中で混乱して覚えていたようです。

訂正ついでに、もうひとつ。
この篆書。
現在、
実印の書体として現在も生きていますね。
けれども、当時から
字形が整って美しいけれども、書く上には画数が多過ぎ、時間がかかり、実用には不便でした。
そこで、
円から方へ、曲線から直線へと省略・整理されて
次の書体
「隷書」が生まれていきます。
そこでここにこそ、上に出てきた猛恬(もうてん)が改良したといわれる本格的な毛筆が、
速筆の道具として活躍します。

ところでなぜ、「隷書」というか?
これも、秦の始皇帝の時、
程邈(ていばく)という人が罪を犯して、牢獄にあったとき、
十年をかけて「小篆」を略化、新体三千字を創生、始皇帝に差し出し、
大いに喜ばれ採用になったというもの。
すなわち
、「(身分の卑しい)徒隷すなわち隷人」が作った書体ということで、この名前がついたということです。

書を習う人は、上達すると、いろいろな書体を勉強するようになります。
篆書も隷書もその中にあって、
訳もよく分からないままに、練習させられます。

でも実は、この「隷書」から、
私たちが今も日常書いている①楷書・行書と、
そして②草書の2つの流れに分かれていったのです。

そしてなんと、この①の流れが日本の「カタカナ」へ。
②の流れが「平仮名」へとつながっていくのです。

ここに、中国四千年の歴史と、日本の歴史がつながりました。
悠久の流れを、感じませんか?

勝手にしてよ、と言われてしまいそうです。
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謹賀新年 

2017年01月01日 | 日記


旧年中はお世話になりました。
今年もよろしくお願いいたします。

今年の干支は、『酉』。
12支の10番目。干支では、34番目の『丁酉(ひのととり)』に当たる。
方位は、西。一日のうちの時刻は、18時を中心とした前後2時間。

季節で言えば、仲秋。8月を指し、
なので
、「果実が極限に熟し、酒気の溢れだす直前の状態にあること。」に由来するそうだ。

『酉』の本来の読みは、
「ゆう」
「とり」ではない。
口の細い、
酒つぼをイメージしている。
古代中国の文字、甲骨文字から金文(銅器などの金属に刃物などで彫った文字),
そして篆書(金文を毛筆で書いたもの)と変遷する様子を見るとよくわかると思う。

『酉』を「とり」と呼ぶことにしたのは、文字の読めない人が多かった昔。
十二支を覚えやすくするために考えたもので、「鳥」とは関係がないのだ。

さて、この「とり」といえば、たくさんの種類の鳥の中で、なぜ「ニワトリ」なのだろう。
スズメやモズ、キジではなく「鶏」。
基本的には飛ぶことができない「ニワトリ」なのか。
(因みに、ニワトリはキジの仲間だそうだ。)

人間の生活に身近な動物だからだろうか?
つまり、家畜だし、誰にも身近で分かりやすい動物だったということか。

けれども、中国からニワトリが日本にわたってきたのは、弥生時代。
加えて、日本で卵が食べられるようになったのは、江戸時代前期だというし、
鶏肉に至っては、江戸時代中期以降だという。
食したからでなく、
朝を高らかに告げる雄鶏のけたたましい声が、
庶民にとっての身近さということだったのかな?

なんでも、紀元前8千年のころ、
ニワトリは、闘鶏の対象だったらしく、中国でも食用とされたのはずっと後のことらしい。

食用といえば、ニワトリの卵。
無精卵は、孵化しないので、
「動物の殺生」には当たらないのだそうだ。

また、ヒンドゥー教の「牛」や、イスラム教の「豚」のような
『禁忌』には当たらない、とも。
二本足であり、4本足ではないから、とか・・・

酉年生まれの人は、総人口の7.4%で最小だという。
世話好きで、社交範囲も広く、情報に敏感で、時代を先取りする能力に優れているのだそう。

身近に1人。この酉年の人がいるけれども、あてはまらないところもあるかなぁ・・・
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嗚呼!大橋巨泉『今週の遺言』が、最終回になってしまった。

2016年07月05日 | 日記


週刊現代7月9日号は、『今週の遺言』の最終回だった。

巨泉さん。
その最終回の原稿さえ、
病院のベッドにつめた、奥さんと弟さんの二人の助けを得て、やっと提出したのだそうだ。

中の文章にあった。
気分転換に、病院の外に散歩に出、
外気に当たっただけで、
高熱を出してしまうのだ、と。

つまり、あの巨泉さんが、
あの競馬とゴルフの好きな巨泉さんが、
178cmの体が40kg以下の体になって、
病院のベットに、横たえているしかなくなってしまったなんて!

「これでは、生きているとは思えない。」と嘆く巨泉さんに、
弟さんは、
『日本では、安楽死は認められていないから。」
と、言ったそうだ。

その、ベットの上から、必死に「これだけは」と呼びかけている。

安倍総理の野望は恐ろしいものだ。
選挙民をなめている安倍晋三に一泡吹かせてください。
7月の参院選挙、野党に投票してください。
最後のお願いです。
と。

自民と公明党に、絶対3分の2の議席を与えてはならないのだと。

野党に、いろいろ欠点や頼りなさ、不備は多々あり、
それに対する批判はあろうが、
今度の参院選は、野党に投票してくれ、と。

この頃の政権与党。
野合だ、共産主義がどうのと、盛んに野党共闘を批判する。
かしましい

連日のテレビ、「自民党!」放送は、放送法に抵触しないのか?
公職選挙法違反ではないのか?

もし、今度の参院選で与党が3分の2を確保するようなことが起こったら、
それは、本当に、日本の民主主義が死ぬ日だ。
どうやって、
立法の府で、対等に意見をたたかわせることができるというのだ。

与党が決めた政策の、ただの「説明国会」「承認国会」になってしまう。
以前しばしば、「ねじれ国会が、決められない政治の元凶」と言われていたが、
それでは、この
「偏り(かたより)国会」は、異常ではないのか。
決められれば良い、というものではないはず。

最近の国会中継。
野党が何を質問しようと、
言わせてはやるよ。時間内なら。
とりあえず聞くし、答えられることには答えましょう。
だが、時間が来たら、「はい。お終い。」・・・。

質問へのはぐらかしと、論理のすり替えとで押し通し、
論議がつくされた、と言い、
話し合いは十分になされた、と言って、
結果がわかりきった多数決の裁決

あの、ちょっと下を向いた傲岸不遜のほほえみ。
一体、何様かとおもう。
一体、誰のおかげで政治家をやっていられると思っているだろう。

「みなさん、よろしいのですか?あの暗い時代に戻っても?」
微笑みながら、選挙応援の車上から、
こんな脅しを堂々とやってのける日本のリーダー、
私は、初めて見た。

何と言われようが、
「政権与党に3分の2の議席を与えない。」の一点に絞って
なんとしても、巨泉さんの『遺言』を果たしてあげたい。



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吉野山・中千本の千本の桜吹雪の中を歩く。・・・・・のはずだった。

2016年05月09日 | 日記

(これぞ、吉野の桜。奥千本から金峯山寺を見る。Wikipediaから借用)

我々は、吉野山というところに対して、あまりにも無知だったのかもしれない。
  
義経伝説と南朝の史跡
  秀吉も愛した桜の山里

自分たちにあったのは、このイメージしかなかった。

日々、桜情報はネットで確認していた。
そして、我々の目的はあくまでも満開の桜ではなく、
中千本の桜の散るなかに、我が身を置いてみたいと思っていたのだった。

そんな心がけだから
吉水神社の神様や、
金峯山寺の仏様のお怒りにふれたのだ、と思う。

4月13日の午前から午後にかけて予定していた吉野山。
だが、天気予報はその日は雨とのこと。
前日の旅の一日目に急きょ変更して、駆け付けたのだ。

だが、桜は、とうに散って、奥千本もどうかという感じ。
散り際を見たいなんて、どこの風流人を気取っていたのかしら。



今、何が思い出になっているかといえば、
ものすごく疲れた、ということだ。
なにせ、登りこそ一気にバスを利用したが、
下りはことの成り行きで、歩きとなってしまったからである。

改めて言う。
奈良・吉野山は
西行もビビッた修験道の聖地、「山」である。
紀伊山地の霊場と参詣道。その、三つある霊場のうちの一つ。
『吉野・大峯』は、世界遺産である。

開基1400年の霊場が、なぜ、いつから『花見』の山になってしまったのか?
それは、金峯山寺、本堂「蔵王堂」の仏像を役行者が桜の木で彫ったこと。
その後、功徳を積むために、桜の木を奉納することが流行したこと。
神木となった桜は、枝1本たりとも折ったり、枯れ枝でも燃やしたりできないので、増え続けたこと。
そして3万本にもなった山の有様が余りにも見事で・・・
という流れらしい。

だから「花見」をするつもりなら、
お金を一杯用意して、秀吉並みとは言わないが大盤振舞をした方がよい。
歩くのなら、一日がかりで登り下りするつもりでいたがよい。
時間がないなら、ロープウェイなり大小のバスを利用したほうがよい。

なにしろ中千本だけでも、
『義経千本桜』の舞台となった吉水神社や、
修験道の根本道場『金峯山寺』、吉野山最古の寺院跡『大日寺』、
神仏習合の修験道場『櫻本坊』など、
お賽銭はいくらあっても足りない。

参道に並ぶ店々には、けちけちせずに出費して、
団子なり、吉野名産葛甘味や、柿の葉寿司を食べたがよい。

自分のように、数日前仕入れたテレビの情報につられて、
胃薬のみを買ってくるなんて馬鹿はしないほうがよい。
(まったく、なぜ、胃薬?)
役小角(えんのおづの)に乗り移られたとしか思えぬ。

思えば、吉野駅に降り立った人々のほとんどが、
リュックを背負い、トレッキングシューズを履いた山登りの装備。
そうでない人は、自家用車を上手に参道の裏道に駐車して、花見を楽しんでいた。
吉野山を知っている人は、ちゃんとそれなりの用意してくるのだ。


思えば、吉野山の入り口に立っただけで、もう十分に旅なのである。
近鉄奈良駅から、吉野山を目指すとなると、3度の乗り換えを経ねばならない。
吉野川を渡っても、さらに山奥へ山奥へと電車は進み、
やっと終点、吉野駅である。この間、1時間45分。

花見を当て込んだ人の、のんきな期待などあっさり裏切られてしまうだろう。

もう一度言う。
吉野山は、修験道の聖地です!
たどり着くだけでも十分に修行です。
のんびり短歌を詠むところと思った自分こそが、
無知で愚かな馬鹿でした。(詠めないけれども・・・)

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雨上がりの、『旧大阪公館』のオープンカフェで。

2016年05月04日 | 日記


その日の目当ては大阪造幣局の桜。
そして、「藤田美術館」だった。
美術館では、『石山切』を一目見るつもりだった。
だが、その『藤田美術館』には、あっさりふられてしまった。

自分たちがそこに着いたのは、16時ちょっと前。
美術館そのものは、16時30分までということだった。

たばこの煙をくゆらせた、係員らしきおじさんは、
「30分なんかで見られないでしょう。」
と突き放すようにいう。そして、
「また、出直してくださいよ。」と。

そこで、
「宮城県から来てるのに?」と、言ってみたが、
「とにかく今日はあきらめてよ。」と、相も変わらず冷たい。

この、遠くから来た旅人に冷たいお方は、実は、藤田美術館員ではなく、
美術館を囲むように広がる旧藤田邸の庭園、
現在は公園になっているそうだが、
そこの管理人さんだとか・・・

私たちがそのやりとりをしていたところは、その公園の出口だそうで、
なるほど、向こうの方から公園を散策してきた人たちが、
この出口という方向に向かって、歩いてくる。

そこで我々は、仕方なく、すごすご引き下がることになった。
また、いつ来れるか分からないのに。

引き下がった私たちは、その後、大阪城を目指してとぼとぼ歩き始めた。
だが、何という僥倖。
藤田美術館の並びの低い塀には
『The Garden Oriental』の横文字が。

最初、書体がおしゃれすぎて、読めないので、
『何だろ、ここ?」と呟く。
奥の方には、これまた由緒正しき雰囲気の建物も見える。

はてさて道路に面して、おしゃれなオープンカフェ。
道行く人に、イケメン男子が「いかがですか?」と声をかけてくる。

「なんですか?ここ。}と聞く。
「○○○・・・」と答えてくれるが、聞き取れない。
で、
「何を売ってるの?」と聞いた。

「コーヒーとか、いろいろ、ありますよ。」の声に誘われ、
メニューをのぞき込む。
極めてシンプルなメニューだ。
  
ウーピーパイ  ラズベリー/チョコ
  苺のファルシ
  ブリトー

  コーヒー
  ワイン   白/赤/スパークリング
  ビール


コーヒーなどの飲み物以外は、どんな食べ物なのか分からない。

雨の中の「通り抜け」は、やはり寒かった。
傍らを流れる大川の川風は半端でなく、私たちは冷え切っていたのだ。
なので、まず、「コーヒー!」と叫ぶ。

白いカフェチェアに腰を下ろして、しばし、一息つく。
ややあって、イケメン、ジャニーズ系のウエイターさんが、
コーヒーを運んできた。

「ウーピーパイって、どんなお菓子?」と聞いてみる。
「うーん。ちょっと、説明、難しいですね。でも、おいしいですよ。」と言う。

美味しいというのであるから、旅の余興にと頼んでみる。
チョコの方を。

やってきたそれは、ハンバーガーを包むような紙に包まれ、
2つの丸い丘形のチョコレートケーキの間に、白い何か(生クリームが固まったようなの)を挟んでいる。

食べてみる。

「フツー。」

特に美味しくも、だが、まずくはない。
味が単純で、深みにかけるそれは、いわゆる繊細な「ケーキ」ではない。

後学したところによると、
チョコの方は、アメリカ、ペンシルバニア州アーミッシュの伝統菓子。
ブルーベリーの方は、メイン州の伝統菓子のようだ。
そして、挟んであったものは、アイシング(クリーム)というもの(らしい)。

『苺のファルシ』も気になる。
注文する。
ファルシ。これは、フランス系だな、と想像して待つ。
一緒に注文したスパークリングワインとが届いたときの写真が、以下の写真。

「ファルシ」とは、フランス語の動詞で、「包む」。
牛皮のような薄い皮で、チョコレートにくるまれた苺が包まれている。
わかりやすいたとえで言えば、「いちご大福」である。

これは、美味しかった。
ワインも、のどをスウーッと通っていくおいしさだった。

雨は上がって、少し気温も上がり、アルコールも適度に入って、
パリのオープンカフェもどきの雰囲気は素晴らしく、とてもご満悦になり、
この際、大阪城はどうでもよくなってきた。

(ザ・ガーデンオリエンタル大阪)。
元・迎賓館。前大阪市長公館。
そして・・・。かの橋本徹市長の行政改革で民間に貸与され、
14年の11月。
レストラン・会議、宴会や結婚式場を伴うブライダル施設としてオープンしたという。


(晴れた日の、上空から見た桜の季節の『ザ・ガーデン・オリエンタル』)

なんと!この『ガーデン』。
実は、
実業家
藤田伝三郎男爵の広大な屋敷『網島御殿』があったところ。
男爵の死後、その三番目の息子さんが受け継いだ西邸とその南部が、
もともとの場所。

つまり、藤田美術館つながりの施設だった。

雨に呪われた花見、
また、藤田美術館には冷たくあしらわれた自分たちではあったが、
この一件で、それなりに満足の旅となった。

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