るぅあんのブログ”晴れが好き!”

店情報『aboutRouen』に続く、日々の雑感をつづっています。スウイーツの情報などの交流の場にしたいと思っています。

『海賊とよばれた男』のモデルを追ってみた・・・・。

2013年11月05日 | 日記


『海賊と呼ばれた男』を読んで、
そのモデルとなった「出光佐三」氏に興味を持った。
その『海賊・・・』の中で、出光氏の生の声に触れられる本があることを知った。

『マルクスが日本に生まれていたら』
社内従業員用資料として作成され、その後、社外からの反響にこたえて、
もう47年も前に公刊された本だ。

しかし、このタイトルの本を読むのは、少し気が引けた。
自分は、マルクスの本など一冊も読んだことがないし、
その著者名を見ただけで、意気阻喪する。

だいたい、唯物史観だの、階級闘争だの、
平和ボケの自分の頭には到底理解できそうもないし、
その怖そうな(?)理論の展開には、どうしてもついていけそうもない気がした。

ところが、出光氏はこのマルクスを読破したばかりでなく、
よくよく咀嚼して、その思想の限界というか、
取り入れるべきものはもう50年前から取り入れたのだという・・・

この本。
質問者が特にマルクスの理論などを、分かりやすく説明しながら、
店主は(つまり出光氏は)どう考えるか、という構成になっている。

そして出光氏は、分かりやすい質問に対して、さらにもっと分かりやすく答えているので、
結果的に、とても読みやすく、分かりやすくなっている。
そんなことは錯覚なのだが、
自分などはもう、マルクスを読んだような気になっている。

特にすとんと落ちたのは、マルクスが唯物史観などを持つようになったのは、
征服されたり、圧迫されたりを繰り返してきた「外国」に生まれたからで、
自由や権利を主張するようになるのは、当然だ。
というあたり。

そして、
今日の世界の行き詰まりは、対立闘争の思想の行き詰まりである。
・・・特に現在のごとく・・・核爆発によって、
いつ人類が全滅するかもしれないというところまで追い込まれているときには・・・・
というところ。

自分の国の主義や権利ばかりを主張していては、
対立闘争は果てしなく繰り返され、終わることがない。

それは、今、まさに現在の世界情勢も証明しているではないか。

主義や理論の奴隷になるな。
みんなが平和に仲良く暮らすことがもっとも大事なことであるのに、
いつのまにか、自分の主義や理論が第一義になっている
、という。

また、「~の奴隷になるな」の中には、
「数や理論の奴隷になるな。」というのもあった。

この「数」について氏は、
勝手な理論を多数決で通すというのが、現在のあり方である。
として、
・・・国民を鍛錬するように出来ていない政治のあり方に問題がある。
鍛錬しようとすれば、その政党は票が減って勢力がなくなるから、
国民を甘やかして、国民の言うなりになる政治になっている。


まるで、現在の日本の国会のように見えてくる。
だからこそ、有権者を騙してまで大量に集票した党が、
その「多数」を嵩に、言いたい放題、やりたい放題。

出光氏は、人間は神とけだものの合いの子。放っておけば、けだものになる。
我欲・利己ばかりが発達する。
とまで言っている。
そして、「衆凡」といって、大衆というのは凡人なんだ。
凡衆をいくら集めても凡であることに変わりはない。
と。

民主主義というのは、愚民政治に通ずる恐れを含んでいる。
民主主義は、理想でも、究極でも、万能でもない。
世の中には人の数だけ、言い分や権利がある。
けれども、
集票力のある大企業や団体の言いなりになる政党の主義・主張が、
多数決で国会を通過し、法律が作られ、経済政策となっていく。

今の政党政治の世界は、そういうふうに進んでおり、
”鍛錬されていない”政治家や国民が多いので、
”頭の良い”官僚に牛耳られるあり様にもなるのだろう。

民主主義だろうが、社会主義であろうが、共産主義だろうが、
そこに、富を独占する人間がいる限り、
すべての人が平和と福祉の内に暮らす社会は、訪れないということだ。

氏は、自身の『全体主義』についての質問に、こう答えている。
マルクスや西欧の「全体主義」とは違うものだとして、
僕の言う全体主義は、個人のエゴイズムを否定しているのであって、
個人を否定しているんじゃない。
個人としては修養・鍛錬して人間として立派な強い個人となり、
その個人が集まって全体を作るときには、
私心を去って全体の平和と福祉のために働くということだ。と。

氏はまた、
互譲互助、義理人情、義侠、思いやりという『日本人の民族性』、
心を第一義にして、物を超越するという『日本の民族性』こそが、
「平和と福祉の国」を作ることのできる資質と、とらえている。
今の日本、その『民族性』を備えている人口は減っているかもしれない。

それでも、
あの震災の時、暴動に走ることなく、
救援物資を受け取る列に黙々と並んだ人々の姿を思い出せば、
あまりにも単純・素直すぎるように思われるが、
人間社会の平和と福祉を打ち立てるには、この『日本人の民族性』に戻るしかないのかもしれない。

日本の歴史の中心を流れているものは、無防備の皇室を中心とした澄み切った流れであり・・・
というあたり。
「天皇の政治利用」などという批判が出そうだし、今の日本には通用しまいが、
それでも、
日本ではお互いに仲良くしあわせに暮らすことができるのも、世間のおかげである。・・・
世間の恩を知っている
『日本人』ならば、
平和と福祉の国づくりも、そのうち成し遂げるかもしれない。
もう、間に合わないかな?
コメント
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