るぅあんのブログ”晴れが好き!”

店情報『aboutRouen』に続く、日々の雑感をつづっています。スウイーツの情報などの交流の場にしたいと思っています。

「竜馬生家跡から、高知城を見る」は、かなわなかった。(四国の旅③)

2021年09月20日 | 日記
土讃本線で大歩危・小歩危の四国山地を抜けたそこは、なんだかとても明るいところだった。

四国の旅、3県目は高知。
それも高知市の「坂本竜馬生家跡」周辺のみ。
夕方に高知駅について、翌日のお昼には帰途に就くという、
「これで、何が分かる?」というようなスケジュール。
目的は、「竜馬がゆく」の聖地巡礼である。竜馬を生んだ風土を感じたかったから。

それにしても、なぜ四国の旅の最後が、”竜馬”なのか。
4年前からなぜか、竜馬を追いかけている自分である。
その時もこれと言ってはっきりした考えはなかった。
だから、「竜馬」の何かが、自分を呼んでいる気がして仕方がなかったからとしか言いようがない。

だが帰ってきた今になってみると、
この混沌とした世の中が、"竜馬のような人"(つまり一気にこの局面を打開してくれるヒーロー)を、待ち望んでいる気分を感じていたのだと思う。
幕藩体制の末期に、「大政奉還」を考え付いたような人を。


高知駅前には、この「土佐三志士」の像が立っている。(除幕式2011年7月9日)
維新を見ることなく、倒れ去った3人。
後世の土佐・高知の人のどんな思いがあるのだろう。

また、竜馬を中心に立たせた意味は何かと考えた。
亡くなった順に並べたか、とも思った。
単に年齢順かもしれない。武市を師や兄と慕って勤皇党に入り、幕末を走り抜けた2人という設定。

さて土佐は、竜馬が泣き虫で寝しょんべんたれの幼年時代から、
18歳で江戸の北辰一刀流千葉道場に入門するために江戸へ、また、免許皆伝して帰郷しその後脱藩するまでをすごした土地である。

幼年時代。
高知藩の郷士の身分に生まれた彼は、学問や剣を人並みに学ぼうとする。
が、どちらの師匠筋からも「愚鈍」と言われ、教えることを断られ、剣の方も最初のうちは打ち込まれっぱなしの弱腰で、ピーピー泣いて家に帰っていたという。
そんな彼を、母親代わりに鍛え上げたのは姉の「乙女」である。

そんな彼の生家跡である。その昔、城下本町筋1丁目にあった。
「生家」といっても、家はない。「跡」という頑丈な石碑が立っているだけ。垂れ幕の下がった隣は、上町病院(どんな関係が?)。

そこから、高知城を見てみたかった。
竜馬をついぞ「郷士、坂本権平が弟」としてしか認識しなかった前藩主・山内容堂の城、高知城。
その「高知城」を、仰ぎ見ていたであろう郷士・竜馬。
しかし現代においては、その生家跡からは高い建物に遮られて、見ることはかなわなかったけれども・・・・

竜馬の家は、武士と言っても「郷士」である。
郷士というのは、その上の「上士」から「軽格」と呼ばれ、人間扱いされない身分であったという。
土佐藩には、この上士(徳川方)と郷士(豊臣方)の『関ヶ原以来の対立』という特殊な事情がある。

幕末は郷士たちが、こういった身分上の差別待遇に、一気に不満を爆発させた時。
竜馬も一時関わっていた「土佐勤皇党」というのは、こういった郷士が中心になった尊王攘夷集団だった。

脱藩後、土佐には戻らなかった(ことになっている)竜馬だが、
故郷「勤皇党」の同志たちを、元藩主山内容堂により壊滅させられた時、
正にその時から「勤皇党」として動き始める。

司馬遼太郎は『竜馬がゆく』の最後の章で書いている。
”筆者はこの小説を構想するにあたって、事をなす人間の条件というものを考えたかった。それを坂本龍馬という、田舎生まれの、地位も学問もなく、ただ一片の志のみをもっていた若者に求めた。”と。

今、竜馬の『船中八策』のことを考えている。
その第二策、「上下議制局を設け、議員を置きて、万機を参賛せしめ、万機よろしく公議に決すべきこと」は、日本を民主政体にすることを規定している。
後世の国会のありさまを見て、竜馬は自分の描いた政体とのあまりの違いに「ちがうぜよ」と嘆いただろう。
近頃の首相の誰が、”大統領が下女の心配を”しているだろうか。
自分たちの流した血は、そんなもののためではなかったというだろう。

そういえば4年前長崎・五島列島に旅した時、市内風頭公園の竜馬像の所で、
竜馬の兄・権平の子孫という青年に遭ったのだった。
バイクで高知を立ち、海を渡って、九州を一回りする計画だと話していた。
竜馬のように背が高く、ハンサムな濃い顔立ちをした青年だった。
彼が今後、政治の世界を目指すことはあるだろうか。その時は大いに期待して応援したいと思った。

着いたその日の夕方、その場で食事ができるという「ひろめ市場」から高知城へと足を延ばした。
その帰りは歩いて駅近くのホテルまで戻ったのだが、川を渡ってふと振り返ったときに見たものは、丈高いヤシの木が並ぶ南国そのものの景色だった。
そうだ。ここは、「南国土佐をあとにして~」の土地だったと思い出したのだった。


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三筆 空海の生誕地を訪ねて ー 四国の旅➁

2021年03月04日 | 日記
香川・高松市には2連泊をした。
徳島から高松に入った1日目の午後は、市内の散策がてら翌日の下見に。
2日目朝8時30分には、日本三大庭園の一つ栗林公園内の『H亭』で朝粥定食を。
食後は、弘法大師空海の生誕地『善通寺』を目指すことにしていた。

真言宗善通寺派総本山『善通寺』は、四国霊場、第75番札所である。
しかし自分の目的は、お遍路さんのそれではない。
平安初期の能書家(傑出した書家)空海の生誕地を訪ねる『聖地巡礼』である。

高松駅から善通寺駅まで1時間30分。
着いたところの善通寺駅はなんのことはない普通の駅だった。
降りて駅を出ると、まっすぐに一直線に伸びた道路の先に
小高い山が2つ見えた。

寺への方向は分かっていたが、タクシーで寺に向かう。
走り出してすぐ、運転手さんがその山について教えてくれた。
「正面に2つの山が見えますね。あの左側の切り立ったところから、7歳の空海さんが飛び降りたというんで、有名なところ。」

五岳山のひとつ、1番高い我拝師山(がはいしざん)である。その中腹の崖から、飛び降りたというのだ。
遠目でも随分な高さである。正直、驚いた。
あんな高さから飛び降りて助かったのなら、「お釈迦さまが現れて救ったのだ」という伝承があっても仕方がないなと思った。

と同時に、「7日間も修行したのに、仏に出会えなかった」と言って、
つまり自分には僧になる資格がないのだと思って、身を投げてしまう。
「死んでやる!」的発想の強い人。癇癪気質なんだとも思った。

運転手さんの説明が終わったと思ったら、直線道路は同じような広さの道路にぶつかった。
右へ曲がると、目の前のすぐそこに『善通寺』の南大門はあった。
あっけないほどの距離。あとで知ったが300mとのこと。初乗り運賃内でもおつりをもらいたいほど。

門の後ろに、聳え立つ五重塔が見える。
さあ、いよいよだ。入ったそこは、「伽藍」と呼ばれる『東院』である。
正面に金堂が見える。
左には、空海が生まれたとき、すでに生い茂っていたという「大楠」。
大楠を横目に見ながら、金堂に向かえば、
途中左におれる道があって、中門がある。

そして次の仁王門をくぐると、「誕生院」と呼ばれる『西院』となる。
つまりそこが「御影堂」であり、佐伯家の邸宅跡であり、空海が生まれたところ、育ったところである。
西院の後ろに位置する物産館を含めると、寺の敷地は東京ドームと同じになるとか。

おりしも御影堂では、年中行事の「空海まつり」が行われようとしていた。
年中行事として3日がそれと案内には書いてあるから、コロナで少し遅れていたのかもしれない。
御影堂の奥殿にはパイプ椅子が並べられ、寺の関係者が忙しく動き回っている。
自分は「空気」にふれるのが目的なので、そんな慌ただしさを横目に見ながら
『戒壇めぐり』とやらを体験した。

真っ暗闇の中を進んで行くと、空海さんの『声』が聴けるという。
そこは地下道場であるから、「南無大師遍照金剛」と唱えてから入るのだが、いざ本番ではその『全き闇』が怖くて、そのお作法はどこかに行ってしまった。

本当に何も見えない中を、闇雲に左手で壁を伝っていくこと数分。
(実際は100m)
突然薄明かりがついて、「声」が降ってきた。
何と言ったか。
これが全然思い出せない。雷にでも打たれたみたいにびっくりして、
気が付いたら稚児大師と両親像の祀られている壇に向かって、
必死に拝んでいる自分がいた。
日本音響研究所が制作したというモンタージュヴォイス『弘法大師空海の声』は、柔らかな声だった。
しかし「~してください。」の最後しか覚えていない。
何と気の小さい自分であろうか・・・。


空海は屛風ヶ浦で生まれたとある。海岸の砂浜に設けた産屋で生まれたと。
しかし現在の屛風ヶ浦は、多度津から南へ行ったところの、そそり立つ岩肌と夕日が映える海岸線の絶景ポイントである。
つまり空海さんのころは、善通寺あたりまで海が来ていたということだ。
長い間に陸地が隆起して、現在の位置まで1.4kmも瀬戸内海側に押していったことになる。あるいは、海の水がそこまで退いていてしまったのか。
ガイドブック『五岳山・五ケ寺』によれば、「善通寺の裏山は、五つの山が屏風のようにつながる美しい様から『屛風ヶ浦』と呼ばれた」というし・・・

このことだけで、空海の生きていたころから千年以上の時が経っているのだと、実感させられる。
また、そんな昔に生きていた人なのだとも思い、愕然とする。

遣唐使船で流れ着いた、漢字の本場である中国。
その中国華南の田舎役人を驚嘆させ、正式の遣唐使として認めさせ、長安まで案内させた空海の書。六朝駢儷体の名文。

空海が留学僧(るがくそう)として入唐したのは、顔真卿没後20年も経っていない頃という。
顔真卿の肉筆が残っていたとしてもおかしくない頃なのだ。
ボロボロになった、あるいは擦り切れた中国古典しか目にすることのない現代にあって、空海は実際にまだ新しいそれを目にしたにちがいない。
それどころか、皇帝憲宗の前で王義之の対面の壁に、五本の筆を口・両手・両足を同時に使って、篆書・隷書・楷書・行書・草書の五行詩を書いたという。
これがその後、『五筆和尚』と呼ばるようになった所以だ。
現在でも中国では、空海は真言密教の僧としてではなく、能書家としての名の方が知られているそうなのだ。

その空海の書はしかし、『宝物館』にはなかった。
国宝「一字一仏法華経」は、空海の母君である玉寄御前が仏様を描き、弘法大師空海が経文を書いたとなっていたが、どちらも母御前の手になるものという説もある。
この時代、女性は漢字の素養はないはずだから、
実兄が、かの阿刀大足(あとのおおたり)だとしても、経文を書写できたかどうかは分からない。
行事に忙しい関係者に聞くと、空海の他の書は、高野山の方に行けば見ることができるとのこと。『聾こ指帰』のことかと思う。

とりあえずは、空海の生誕地を訪ねた(空気に触れた)。
善通寺は、市と町の名前になっている。
また善通寺は南大門から東へまっすぐに伸びた道路を行くと、陸上自衛隊の駐屯地でも有名だ。
赤レンガの『旧陸軍第一師団(初代師団長は乃木希典将軍)兵器庫』が3棟も残る日本の「近代化遺産」なのだ。現在でも倉庫として現役だそうだ。


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恭賀新年 2021年もよろしくお願いします。

2021年01月01日 | 日記
今年の干支は、「辛丑
十干の8番目の「」と十二支の2番目の「」の組み合わせである。
 ①からい➁つらい 金の弟の意
  ③つみ 大きな罪 
  象形は刺青をするときの針 つらい・罪の意(昔、罪人は罰として刺青を入れられ、区別されたことから) 

 ①方位は北北東、月では12月、時刻では午前2時、または午前1時から3時までの間。➁はじめ(作業の準備段階)③中国劇の道化役者。
  動物では牛に充てる。
  象形文字は手指に力を入れてひねる形にかたどる。
  この象形についてもう少し分かりやすいものはないかと、昔の漢字辞典をみた。
  それによると、「指示。本義は、寒気が緩むのを待って仕事を始めようとする意。又と|との合字。又は「手」を意味し、「|」は寒気のため指が凍えて連なりついていることを示すとあった。

さらに、この二つの組み合わせを陰陽五行説でまとめると、
は、痛みを伴う幕引きを表し、
は、殻を破ろうとする命の息吹きそして希望を表すのだという。
この干支の働きは互いに牽制しあったり、逆に支えあう関係(「土生金」と呼ばれる「相生」)でもあるという。
つまり、辛いことが多いだけ、大きな希望が芽生える年になるのだと解釈すればよいらしい。
だから、今年は『何があっても、希望を失わずに歩いてゆく年にしよう』ってこと! 焦らず慎重に物事を進める、強い意志が試される年なんだ、と思う。

さて、十二支を覚えやすくするために「丑」には「牛」の字を当てられて来た。
この牛と神社や寺との間にはどんな関係があるのだろう。
我が家の氏神さま、荒雄神社にも「臥牛」はいらっしゃる。
太宰府天満宮もいらしたし、北野天満宮の「立牛」も有名なんだとか。
「牛に引かれて善行寺参り」というのもある。

天満宮というと、菅原道真公である。
学問の神様、合格祈願の神として大変崇め奉られているが、
その道真公と「牛」とは、何の関係があるのだろう。
代表的なものでも4つぐらいの「関係」があるのだが、最も引き合いに出されるのは次の話。
 道真公は、丑年・丑月・丑の刻に生まれだということ。
優れた学者だった公は政争に巻き込まれ、太宰府に左遷され、その果ての失意の中で亡くなった。棺を載せた車を引く牛がある場所に来ると、その場に臥せて梃子でも動かなくなってしまった。そのため、その場を墓として葬ることにした(安楽天満宮)。後に、公の恨み・祟りを恐れた朝廷が、公を神として祭ることにしたのが太宰府天満宮となる。(その意味(鎮魂)では、北野天満宮の方が先に作られている。)
つまり生まれた時も、亡くなった時の逸話も「牛」が関係しているからなんですね。

幸先詣りをした、我が荒雄神社の「臥牛」様は、五穀豊穣の神様である。米作りなどの大変な作業を、牛は「長い間、人間に寄り添って最後まで地道ながらも手伝ってきた」という感謝の気持ちから、「神」になったのだ。

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水都 徳島へ ー  四国の旅➀

2020年12月30日 | 旅行
 出かける前の徳島市に、『水都』というイメージは全然なかった。
 それより「新神戸駅」から「徳島駅」まで、JR西日本のバスで淡路島を横断することの方にワクワクしていた。
 あわよくば、明石海峡大橋から「うず潮」にお目にかかれるかも、という期待に胸躍らせていた。なにせ、小中学校時代の地理学習以来の「鳴門の渦潮」。胸が高鳴らないわけがない。11月半ばのことだ。
実際には、終わりかけていた渦のしっぽを見ただけだったが・・・・

さて、”心おどる水都・徳島”である。
暴れ川「四国三郎」の吉野川の河口に位置し、その三角州の上に発達した市内には、138もの川が流れ込んでいるという。
 徳島市役所はじめ、徳島城跡など主要な施設は、四方をこの川に囲まれた徳島という島にある。
 これが水都と名付けるいわれだ。

 徳島と言えば「阿波踊り」であるが、コロナ禍で今年は当然のように中止である。

 「眉山」も有名だ。さだまさしの同名の映画やテレビでも有名だ。古く万葉集にも詠まれていて、知る人ぞ知る名山なのだ。
ロープウェイも通っていて、頂上から徳島市内全体を見晴らすことができるらしい。
これだけ有名でも、標高は290mという。
どの方向から眺めても眉の形に見えるからその名がついたという、なだらかな山である。

であるのに、自分たちは『ひょうたん島クルーズ』を選んだ。
それはどういうクルーズかというと、
徳島タウンというのは、「ゆるやかに流れる新町川沿いを中心に広がる水の都」なんだそうで、「その街並みを眺めながら優雅に水上散歩」するのがこのクルーズなのである。
そしてその名のいわれは、徳島タウンが乗っかっている島の形があの「ひょっこりひょうたん島」そっくりだからなんである。

新町川と助任川の水上から、町の主要な建物や青石の護岸、眉山を眺める30分のクルーズ。
というので、徳島市を短時間で手っ取り早く掴めるなと思ったし、お昼には高松行きの電車に乗らねばならないしで、駅に近い観光を選んだのである。
そういうわけで、いくら全体像がつかめるといっても、ロープウェイで眉山に上ってみる時間はなかったのだ。

あまり期待はしていなかったのだが、このクルーズ。
なかなか楽しめた。
徳島の人たちと吉野川氾濫との戦いの長い歴史を学べたし、なかでも
写真のヨットハーバーがあるのにはびっくりさせられた。徳島市には自己所有のヨットを係留する裕福な人たちが相当数いるんだということだ。係留費用は、こちらが想像するようなものではなく、割安なんだそうであるが・・・

また、降りてから知ったこと。
このクルーズを毎日運航させているのは、NPO法人「新町川を守る会」の方々なのだそうだ。乗船料は、300円。
もともとこの新町川。ゴミが浮いて、臭いもするし、魚も住まない川だったのを、地元の人々が自らゴミを拾い川をきれいにする努力をしての結果だという。
地元の剣山の青石を使った護岸工事なども、地元住民の地道な働きかけから始まった成果だ。そこに整備された阿波製紙水際公園も、残念ながらコロナのせいで、観光案内の写真にあるような雰囲気はなかった。
また、この新町川、「とくしまマルシェ(産直市)」「マチ★アソビ(アニメイベント)」などの名物イベントで賑わうところ。コロナがなければ、街も岸辺の様子ももっと活気と熱気にあふれた界隈になるのだろうと思った。
船頭さんの、操縦しながらの長閑な味のある解説も良かった。万葉集の「眉山」の歌はうろ覚えだったけれど・・・。



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小説『宝島』は今も続いている。

2020年08月03日 | 日記


小説『宝島』の舞台は、沖縄だ。
私は一度だけ、観光で行ったことがある。
一度だけで、観光でいくのはもうない、と思う。
そんな体験をしてしまったから。

それは、「沖縄県営平和祈念公園」でのことだった。
資料館など一通り見て回った後、
そばを歩いていた二人の地元の人らしい年配の女性に、
次の目的地「ひめゆりの塔」のことを訪ねた。

「どう行けばいいんですか?」と。
(乗っていたレンタカーにナビはなかったので)

すると、女性たちは、
どこの県から来たのかだけ尋ね、
まさしく問答無用の体で、
小さな仏花の束を二つ渡し、
「何円です。」と言い、お金を受け取ると、
そのまま宮城県出身戦没者の名前が刻まれた慰霊碑の前まで
私たちを連れて行った。

そして、
茫然とする私たちをしり目に、
二人はさっさと行ってしまった。

何とも言えない「嫌な感じ」が残った。
叱りつけられたような、
花束を押し付けて当然と言わんばかりの
花売りの「したたかさ」のようなものさえも感じて。

なにより、その「叱りつけられたような感じ」は心外だった。

そして12年後、この『宝島』に巡り合った。

読んで、あの二人の態度と行動が、
二人の、ウチナー(沖縄)の
「まだここでは終わっていない戦争への【怒り】」だったのだということを。
今もその【怒り】は進行中なのだということを、
あの時の私たちにしっかり認識してほしかったのだと、思い当たった。

この直木賞小説は、フィクションだ。
だが、実名がポンポン出てくるし、実際に起きた事件も出てくるし、
半分はホントなのだ。

魅力的な主人公3人、
熱く、どこまでも熱く”闘争や蜂起に向かう”レイと
あのガマ(洞窟)を生きのびた、カチャーシー(沖縄踊り)の名手グスク。
情熱のありったけで”おんちゃん”を愛した、働き者のヤマコ。
それぞれの生き方は、「つくりもの」でも、
彼らを通して展開した小説の世界は、
50年前から、否、あの敗戦から続いている「日本の現実」を
くっきりと描き出した。

過酷な日常や場面を描いているのにもかかわらず、
合間合間に沖縄の方言が合いの手のように入って、
つい調子に乗せられてしまったりするのだった。

12年前のあの時、私はやはりただの
いい年をした「観光気分の人」に見えたのだ。
沖縄の歴史とその現実を知ってはいたけれど、
やはり「普通の観光客」の目をしていたのだと思う。

「基地」はウチナンチュー(沖縄人)の目の前にあって、
アメリカや本土(やまとぅ)に対する「怒り」や「やりきれなさ」は、
70年間も続く「日常」として、現に「ある」ということだ。

マリンスポーツの「沖縄」をめざす、「何も知らない」若者でないなら、
旅行者はそのことを弁えずに観光してはならないだろう。
沖縄は「敗戦国日本」を、今もあからさまに体験させられているのだから。

折りしも今日、NHKスペシャルは『沖縄戦・最後の1か月』だった。
これから15日の終戦記念日まで、特集番組は続く。

だからせめて、コロナ禍だけは早く終息してほしい。
沖縄県は今日、人口10万人当たりの感染者数が、
全国の大都市を抜いて最多になった。

玉城知事は、悲痛な顔で非常事態を訴えている。
やまとぅよ、観光するなら、PCR検査を受けるなりして、
事態をこれ以上悪化させてはならないよ!


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