雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキの二輪事業と私 その47 昭和51年(1976)

2017-04-04 06:49:04 | 自分史

★昭和51年(1976)は、ロッキード事件田中角栄が逮捕され、毛沢東が亡くなった年である。

クロネコヤマトが宅急便を始めた年でもあるのだが、カワサキの二輪事業にとっては、本格的に開発途上国のCKD事業をスタートした年でもある。

事業部内では吉田専務を筆頭に、『小型車のプロジェクト』が主として生産構造体制を中心に検討が進められていて、これに基づく長期計画の策定が、企画室企画部の私自身に与えられていたテーマだったのである。

カワサキの場合は完成車での小型車の量販は非常に難しいと思ったし、それに対応する量産設備の大型投資などは、正直非常に危険だと思っていたので、未だ本格的には手を付けていない開発途上国市場への進出を具体的に検討すべきだと思ったのである。

 

 

   

 この年の1月19日に『東南アジア市場に関する当面の基本方針』ということで青野副本部長までの承認を得て、この1年がスタートするのである。

(今になって気が付いたが、50-1-19となっているが、51年の間違いである)

このプロジェクトに関しては私自身の提案であったが、企画室企画部としての提案であったので、それは即事業本部のこの年最大のテーマとして展開されたのである。

● 4月には『小型車に関する考察』という25ページに亘る論文を纏め、塚本本部長以下の正式承認を得て

● 5月17日から約1ヶ月間、髙橋鐵郎団長以下の『東南アジア市場調査団]による市場調査を 台湾ーインドネシアータイーイランーマレーシアと行い

● 7月には、その報告とその対策について具体的に吉田専務以下の承認を得て

● 9月には、『市場開発プロジェクト室』という新しい職制が立ち上がることが決まリ、高橋鐵郎さんが技術本部と兼務で担当されることになった。

● そのメンバー構成などの相談にも乗ったのだが、当初は私はあくまでも起案者の立場であったのだが、いろいろとあって

● 11月1日の新組織『市場開発プロジェクト室』のスタート時には、私も加わって高橋鐵郎部長を支える立場となるのである。

● 12月には進行中であった『タイとの合弁問題』を私自身が出張して、纏め上げタイとの合弁会社が具体的にスタートする運びとなるのである。

 

 

    

 

   

これは『市場開発プロジェクト室の基本運営方針』を塚本本部長以下に報告したその議事録だが、これらはすべて私自身が自筆で纏めたものである。

 

★昭和51年度は、こんな開発途上国対策を中心に事業本部は展開し11月には新職制が立ち上がったのである。

前年の10月に企画室企画部に異動しすぐこの小型車問題を担当したのだが、結局は自らが起案したものを自らがやるそんな立場になってしまったのである。

企画という普通一般には『エリートコース』と言われている職場をたった13ヶ月で去ることになったのだが、この年の10月29日の日記に次のように書いている。

企画での1年1ヶ月が今日で終わった。この1年は将来の勉強期間としては貴重であった。今日武本君は直接礼を言ってくれたし、今城君は寂しそうだった。木戸君は今回の異動を言ってくれなかったとおこった。森田君は新しい机を那波くんに頼んでくれた。気持ちよく部下に送り出して貰えることは満足である。企画に未練を持たずに、いつか本当の意味での中枢として、企画に返り咲く日を楽しみに、営業の仕事に突っ込みたい。』

このプロジェクトで、高橋鐵郎技術本部長と初めて『仕事』を一緒にすることになった

このあと私が現役を引退するまで、高橋鐵郎さんとの二人三脚が続くことになるのだが、『東南アジアの調査団』の団長は当初塚本本部長は大槻幸雄さんを指名されたようなのだが、大槻さんは、多分『小型車には興味がなかった』のだろう。それを断られたので、髙橋鐵郎さんが団長となられたのである。

若し高橋さんが調査団の団長をされていなかったら、新しい組織もできていなかったのではないかと思う。

 

★ 『東南アジア調査団』 カワサキの二輪事業の長い歴史の中で、これくらい組織的に大がかりに、事業本部長直接の指示で『市場調査』が行われたのは後にも先にもこれだけだと言っていい。本格的なメンバーを集めての1ヶ月に亘る現地調査だったのである。

●調査団団長 高橋鐵郎

 当時は技術本部長であったが、カワ販に出向されて以来、マーケッテングの分野に非常に関心を持たれていた。『市場開発プロジェクト室長』を兼務されて以来、営業部、カワ販、KMC、事業本部長を歴任されて、川崎重工業副社長となられた。

●副団長 安藤佶郎

 当時は生産管理部長、『リンカーン工場』の生産構造体制をを社長として確立。『トヨタ生産方式』をカワサキ独自のシステムとして完成など、カワサキの創世期のレース監督時にはF21M のエンジンの制作など。

● 川崎芳夫

 当時は商品企画課長、それ以前は単車の生産管理を担当、あの「青野ヶ原モトクロス」の実務担当をされた。川崎重工の創始者・川崎正蔵さんの曾孫つい先日の酔心館でもご一緒した。

● 山辺 昻

 当時は東南アジア営業課長。私と同期、ヨーロッパ部品会社社長、カワ販西日本販売専務などを歴任。若い頃は労働組合の専従者としても活躍された。

● 松田与市

 当時はカワ販中日本の専務。 メイハツ時代から、カワサキ九州・九州・近畿・東京などの市場最前線の営業を担当し、カワサキの中でもマーケッテングの第1人者として活躍された。

● 古谷錬太郎 当時は企画室企画部課長

案内役として現地担当していた多賀井くんの7人で構成されのである。

 

1ヶ月の市場調査は、各国の地方の末端市場まで足を延ばしたもので、『観光』など皆無と言っていい充実したものだった。

一番びっくりしたのはやはり『イラン』である。、

イランでは商社日商のメンバーとの合同調査となったのだが、テヘランから工場のあったサベイも、ホンダの工場など、遠く田舎へも足を延ばしたのである。

当時一番『行きたくない国』と聞いてはいたが、暑いし基本的に砂漠だし、回教徒の発想は独特で、計画は「そんなのは神様の分野」だという。数字の1,2,3が通じなくてアラビヤ語の数字がある。 テヘランの街には街路樹はあるが1日に数回山に貯めている水を流してやっと育っている、そんな状態なのである。

地方からテヘランに戻る飛行機が急遽飛ばなくなってレンターカーを借りて、見渡す限り砂漠の中を延々400キロ車で走ったりしたが、飛行機がなぜ飛ばなくなった理由も何の説明もないのである。あの時は現地の日商の商社の人がいたので助かった。

回教国の人たちの発想も習慣も独特である。会議の途中でも突如お祈りに入ってしまうし、日本人から見ると『変わっている』と思うのだが、日本人1億人の何倍もの回教徒がいるのだから、『日本人が変わっているのでは?』とこの1ヶ月の出張で私はそう思うようになったのである。

タイも、インドネシアも同じ華僑でも、商売のやり方は全然違うのである。同じカワサキのバイクを売るにもいろんなやり方があるのだということを身に染みて感じたのである。

私にとっては、アメリカに次いで2回目の海外、初めての仕事としての海外出張は『得るものいっぱい』だったのである。

 

最初のタイプロジェクトは、私の海外での初仕事であった。それを一緒にやってくれたのが『小池博信』くんである。

その小池くんが退職後、こんな自分史を書かれていて、そこに『タイプロジェクト』のことも、私のことも出てくるのでご紹介することにするので、ご一読下さい。

 

                   

       

 

  

 

          

   

  種子島経さんが『モーターサイクルサム アメリカを行く』という自分史の本を出版したのが、この年の7月ごろのことである。

 まだ、彼は企画室・企画部で、私の隣に座っていた現役パリパリの頃だったので、ちょっとびっくりしたのをよく覚えている。

 

 『小型車』を中心に、事業本部が動いた1年であったと言ってもいい。

 『中・大型車』のアメリカ市場の衰退が顕著に表れ始めた年でもあった。

 

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

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