性能とデザイン いい家大研究

こちら 住まいの雑誌・Replan編集長三木奎吾です 
いい家ってなんだろう、を考え続けます

【稀有な日本国家の新開地・北海道経営の成功】

2019年09月30日 07時13分08秒 | Weblog


さて昨日書いたブログ記事で開拓初期札幌での
「御用火事」と、その理由になった「草小屋」について。
札幌市公文書館に所蔵された歴史学者とおぼしき方の講演記録で
話が及んでいて、その説明写真を詳細に観察して
「これが草小屋」とされた建物について特定し、その疑問を書きました。
そうしたところ、読者のShigeru Narabeさんから
「各地に建てられた開拓民の草ぶき屋根の仮小屋でも構造的には
拝み小屋と掘っ立て小屋があった。三木さんが示した写真の小屋は
ログハウスのような構造にも見え小屋と呼ぶにはちょっと大きい印象がある」
というご意見をいただきました。
こうしたご意見にはわたしもやはり同意できると思います。
上に掲載した写真は、北海道建築士会がまとめた写真資料から。
これらは「開拓者」として入植した人々の入地当座の仮住まい。
テントについては複数の写真資料が散見されるので、
テントの布生地と制作マニュアルとが事前取得されていた形跡がある。
開拓地に到着したら、とりあえずこうしたテントを設営する場所を開削し、
数日程度過ごした後、下の写真のような「拝み小屋」と呼ばれる
仮設住宅を、入植地周辺から材料を入手して造作した。
常識的に考えて、官府札幌とはいえ入地当座はこのような「住」が
一般的だったと考えた方が自然だろうと思われます。
こうした「拝み小屋」の屋根(壁)は周辺の草、萱などで被覆され、
タバコの不始末などからの火災発生源として危険だった。
住み手がいて、生活管理できていればまだしも、
流動性の高い都市サッポロ創成期には「とりあえず」建てられた
こうした「小屋群」がその後うち捨てられ、火災発生源として
危険極まりない存在であった可能性・蓋然性はきわめて高かっただろう。
そのような危険姓を訴えていた「世論」は「さっぽろの昔話」でも
たくさん証言されています。
やはり自然に考えて、こういった危険姓を除去するために、
消防隊を組織しての「御用放火」だったと考えた方が納得できる。
・・・今後とも、この「草小屋」と名指された開拓初期の建物について
歴史事実の掘り起こしは続けたいと思いますが、
おおむねこのような理解で、探究を続けたいと思います。

というように「北海道での住宅建設事始め」探究をしていますが、
いろいろな資料を整理して、この時期の実相を見るに付け、
1868年の明治維新時期から着手した日本国家の「北海道経営」総体は
まことに人類史的にも稀有な国民国家的事業としての
北方新領土経営の様子が血肉的な情報として迫ってくる。
なぜに日本人は「地域好感度ランキング」でこの寒い北海道を
ナンバーワンと考え続けているのか、
そういった心情的な部分にまで思いが至ってきます。
江戸幕府もたしかにこの地の経営に苦闘してきたけれど、
成功を見ることはなかった。しかし端緒的な基盤は整備された。
この新領土開拓は第1に対ロシアの「国防」が起点であって、
青年国家明治ニッポンにとって、北海道は民族自立の焦眉。
さらには有色人種国家へのさげすみとか差別的な国際秩序に対して
日本人が行い得た明瞭な「民族意志」の発露だったと思えるのです。
欧米列強にしてみたら、極東アジアの有色人種国家がこのような
新領土建設を、必要な情報・知識を貪欲にアメリカなどから入手して
苦難に耐えながら成功させた事実は刮目する事態だっただろう。
その後の日清・日露という流れ、国家としての大きなスタートアップが
この北海道開拓だったのだ、という思いが強くなってきています。
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【明治4-5年札幌 「草小屋」住宅と家作料補助】

2019年09月29日 09時27分54秒 | Weblog


本日はふたたび「北海道戸建て住宅事始め」テーマ復帰であります。
明治初年ですがまだ150年程度なので、先人の残された資料も多いし、
なんといっても「写真記録」までもあるので、実相にも迫れる。
先日、この明治4年時期、2代目判官・岩村通俊の官制放火について書いた。
その放火対象になった「草小屋」住宅というものがどんなものだったか、
どうもこれについては確たる写真資料がよくわからない。
札幌市公文書館所蔵の資料である歴史学者とおぼしき方の講演記録が残っていて
そこでの写真説明で、特定する情報が記載されていて、
上のような住宅写真が、草小屋というように把握できます。
当時の開拓判官や官吏にはこうした住宅が「憎むべき」と考えられていた。
2枚目の写真には「草小屋」の施工途中とおぼしきものがある。
それをみると柱梁の構造に野地板が張られた上に、
どうも草の生えたままの土壌表面を切り取った「土草」が置かれている。
置くだけではたぶん心許ないので一定の固定化はされていたでしょう。
こういう屋根を持った住宅を草小屋として、場合によっては焼くぞ、
とまで憎んで破却するように「指導」警告を行ったとされるのです。
講述のように「家作料」まで渡しているのに、という怒りだと。
では、よき屋根施工とはどう考えられていたかというと、
どうもその後の屯田兵屋で採用されている「柾葺き屋根」が想定される。
柾葺き屋根と茅葺き屋根、そしてこの草葺き屋根とで、
そこまで憎むべきほどに違いがあるとする判断に即同意はしにくい。
むしろ今日的「断熱」の考えからは、柾葺き建築を「薄紙のような」と表現した
当時の開拓総設計者ケプロンの言が正解のように思える。
現代のわれわれからすると、草屋根って好感イメージなのです(笑)。
アイヌチセを参考にすれば居住性は萱葺きの方がマシだっただろうし、
草屋根もいごこち優位性は多少はあったのではないかと思える。
わたしの個人的な思い込みでは、草小屋というのはこんなイメージだった。

こういうものなら「およそ文明人が住む建物とは思えない」というのもわかる。
見るからに草深く、非文明そのものと断じたくなる気分。
官の側には下の写真の「琴似屯田兵屋」のようなイメージが
強かったのではないか。規格的であることの方が「文明的」だと。

いわば「見てくれ」的価値感を優先させ住みごこちは顧慮しなかった?
このあたりは日本的な「恥」文化気質の明治国家の一面なのかも。
後述の家作料補助金支給の「条件」として近代的住宅のあるべき屋根として
柾葺き屋根を上位とする観念が強かったのかも知れません。
この草小屋についてはさらに正確な情報をもっと探りたいと思います。
ただ、建材費用の中で屋根材が占める割合は高かったことは伝わってくる。
なにか情報があれば、ぜひお知らせ願いたいです。

で、河野常吉氏編の「さっぽろの昔話」で
<佐藤金治>さんが家作料補助金について以下証言されている。
当時の開拓使の主要任務として人民募集を行っていたその具体策として
「家作料」を永住希望者に渡していたと明治4年3月の条で証言されている。
当時は札幌市街地での住宅はわずか30-40戸であり、そのうち妻帯家庭には
「1戸分の地135坪に家作料として総額金100円」を渡したとされるのです。
「女房同道」が補助金の条件だった。ところが実際には「妻あるは21戸」。
で、方便のため民たちはバイト料を支払ってご近所の奥さんを「女房だと」
偽って役所に同道した。当然その担当者は同じ「女房」と毎日顔見知りなのに
「あれ、似ているかなぁ(笑)」と見て見ぬ振りをして許諾したとされる。
そんなこともあって同年8月には40戸が250戸に増えたと。
思い切って単純化するとこの当時の100円は、現在価値では200万円ほど。
イマドキの住宅補助金もこの金額程度なので妙に納得できる。
しかし内戦による財政危機もあっただろうなかで、
いかに移民増加が明治政府の宿願であったか、偲ばれます。
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【9.26-27新住協総会 in 仙台に参加】

2019年09月28日 07時45分47秒 | Weblog


26-27日と仙台で開催された新住協全国総会に参加。
北海道内では顕著なのですが、基本的には高断熱高気密住宅運動は
いま、世代交代期に差し掛かってきて、
どのようにその運動を根付かせて日本の住宅建築風土、構造の中に
定着させていくのか、ということが課題なのだと思っています。
そのなかで北海道は建築内部の気候環境を制御する技術が
特定の作り手だけのものではなく地域全体として共有されつつあり、
そのレベルをしっかり維持しつつ、どう社会的に認知を拡大するのか、
ということが最大の課題。歴史的に住宅建築に深く関わる地域政府・北海道と
地域の工務店+建築家などのシンボリックな新たな「枠組み」が進展しつつある。
そういうなかで技術集団として、どのような役割を果たすべきかの
模索が続けられてきて、そのなかで世代交代が大きなテーマになっている。
わたしどもも含めて、今回の総会参加では北海道の作り手は次世代が中心。
30年を超えた実践活動の中心世代は一歩道を譲ろうとしている状況。
そんな空気感が支配的だと感じていました。
そんな空気も反映してか、今回の総会では北海道からの「発表・提起」は
2日間を通してありませんでした。

一方で本州、それも関東以南地域では、
蒸暑の夏、という北海道とはややニュアンスの違う、
より広域地域の室内環境制御の基本的な主要テーマに向かって、
まさに取り組みを始めた熱い「ファーストペンギン」世代が中心層。
北国発の住宅内部環境制御技術を学んだ人たちが
本格的にやっかいな「ニッポンの夏」に向かって叡智を傾けている。
そこで展開される技術言語はエアコンに関連する空気質論議。
結露についても「夏型結露」との戦い、あるいは、
エアコン冷房での必然的発生水分のコントロールが主要なテーマ。
2日目の主要発表者である新潟オーガニックスタジオの相模氏の豊かな語彙では
従来、エアコンの設備開発企業内部で論じられていたような内容を
よりヒューマンな素材や技術を使って建築的に立ち向かっている、
いわば中世の「一向一揆」みたいなカタチで環境技術を「民衆化」させている。
事実、鎌田紀彦先生からも「最近、エアコンメーカーからの
技術情報提供が細り気味」というような話題も出ていました。
メーカーにすると「エアコンが売れなくなるんじゃないか」という危惧。
こうしたファーストペンギンのみなさんに共感しつつ、
では北国人はどのように「血肉化」できるのかと自問もしていた。
やがて温暖化が加速して、こうした論議が北国のあすの住環境に
決定的「要素技術」になっていくと考え、学んでわがモノとしていくのか、
あるいはそれに共感しつつ、また別の志向性を探っていくべきなのか。
いずれにせよ、全体として運動の変化・移行期と感じた次第です。
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【先住アイヌ社会も協力した札幌都市建設】

2019年09月27日 07時00分12秒 | Weblog
昨日書いた記事の参考資料として札幌公文書館所蔵のデータに
「琴似又市」というアイヌの「乙名」のことが書かれていた。
開拓のとき、明治天皇の詔勅を背中にくくりつけたまま、
明治2年に海を渡ってきた判官・島義勇は、いったん「銭函」で逗留し
そのあと、正式に札幌を開拓のための根拠地・本府と定め、
入地したという記録が残されています。
このあたりは記述者の立場の違いによって書き方が変わると思います。
間違いなく先導して現地札幌に入って準備しているメンバーはいて
さらに受け入れのための作業は相当に進んでもいたことでしょう。
たぶん記述者は島義勇と同行して、その目線で書いたと思える。
国家意志としての「北海道開拓」は天皇の詔をもって創始されるのが建前。
維新回天から連続した時間経過、また箱館戦争の戦陣同時進行中、
北海道の地はまさに明治国家にとって国防であり民族独立の焦眉だった。
緊迫した時局認識、政治動乱の沸騰点でもあったのでしょう。

しかし開拓とは言ってもその当時は本州地域から
基本土木整備、測量実施、森林伐採などのための人手を確保するのが
緊急の課題であって、使えるのであれば誰でも使うということで、
札幌に隣接するコタンのアイヌの協力も仰いだとされているのです。
この「琴似又市」という首長は、和語にも通じていたそうです。
その後、かれは内地に留学もしているということなので、
明治政府に対して親和的なスタンスで協力していたことがわかる。
琴似、という名前はいまの札幌市北区の北大構内から、
桑園競馬場、さらにその西部にいたる一帯の地名を指したようです。
いまは、JR札幌駅から桑園駅を経過した次の駅が「琴似」。
わが社のある山の手に隣接する町名にあたります。
琴似の地名の語源は、アイヌ語「コッ・ネ・イ」(窪地になっている所)。
1872年(明治4年)開拓使によって「琴似」と命名された。
上の図は明治25年当時の札幌の手書き市街図とされますが、
碁盤の目状の市街配置の上側、北側には幾筋もの小川が流れていて
それぞれに「コトニ・・・」という名前が付けられている。
札幌地名も(乾いた大きな川を意味するサッ・ポロ・ペツ)であり、
いずれもアイヌへのある種のリスペクトがなければ
大命を奉じての開拓に当たって、こう地名は付けないだろう。
ふつうの日本人感覚では、北京というような地名がふさわしく感じられる。
<現実に対ロシア軍団配置された旭川には、この名を付けて
天皇の在所を作る、そうした計画も立案されたりした。>
であるのに、さっぽろと名付けた先人たちには共感をもつ。
江戸幕府以来、対アイヌの日本国家対応には納得できるものが多い。
平和的で民族和解的な対応を心がけていた様子が伝わってくる。
武人支配の革命政権だけれど、明治政府の心象も興味深い。

「琴似又市」さんのこの頃の心事にある感慨も持つ部分はある。
「同胞意識」は共有されていた部分の方が大きかったのか、
あるいは長いものには巻かれろ意識だったのか、
さらには、それまでの松前藩、請負場所経営支配構造と比べて
明治政府・日本国家の対アイヌの対応ぶりがはるかに納得できたのか、
など想像を巡らせられる部分は大きい。
できればこのあたりについて歴史の掘り起こしを試みてみたい。
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【官府札幌始原期の判官命令「御用放火」】

2019年09月26日 06時32分41秒 | Weblog
さて、北海道の住宅史を歴史に沿って見始めております。
北海道での住宅の流れ、実像を掘り起こしてみたい。
アイヌ地名起源である琴似に屯田兵屋が建てられた
北海道での官制公営始原住宅は明治7−8年のことですが、
それに先だっての、明治4−5年頃の状況を探ってみることにします。
というのは、きのう書いた「官制放火」のことについて
読者の方から、実否定かならずではという情報が寄せられたのです。
札幌市公文書館所蔵の、ある「講演会」資料を教えていただいた。
この講演者が誰であるのかまだ調査中で不明なのですが、
公文書として保全された講演記録であり、
言葉遣いなどを考えると、名のある歴史学者の方のように見られる。
文書解釈についての厳密性への言及が文中多く見られる。
ただ、放火について基本的に平和な時代の価値感、一般的倫理解釈に
基づいていて開拓期の札幌本府建設の騒然たる社会状況が見えにくい。
この当時の「開拓判官」は天皇の新領土開拓・経営の勅命を奉じて
札幌に来て札幌神社(後の北海道神宮)頓宮設置などの国家意志を体した
島義勇の後任として判官になった岩村通俊であります。
<この間、開拓方針を巡っての意見対立の結果ともされる>
かれは土佐藩の出身で「陪臣」の長男とあります。
坂本龍馬が「郷士」出身で領主・山之内家の本来家来ではなく、
在来の長宗我部家臣家系で身分格差があったとされますが、
どうもそれですらない陪臣とされます。あるいは山之内家上級家臣の
その家来(陪臣)であったのかもと想像できる。
しかし明治政府の「薩長土肥」勢力として活躍の機会は広がっていた。
かれもまた、幕末の軍事動乱をくぐり抜けてきた武士。
荒々しい開拓期の混乱する開拓本府・札幌建設での「施政」は
平和な時代の日常感覚とは自ずと違いがあると思われます。
佐賀藩士とはいえ天皇に勅命を託されるように純なところの感じられる
島義勇はどちらかといえば、理想家肌だったように思われる。
一方の岩村通俊は、その後西南戦争後の鹿児島県令を務めているように
武人的な統治の傾向を持っていたに違いないと思えます。
西郷隆盛の遺骸を丁重に葬って、人心を掌握するなどの事跡がある。
硬軟織り交ぜながら、武人的「統治」を基本政治手法としたのではないか。
実際にかれが「草屋根」の小屋掛けに放火するという命令を発したとき
下僚たちは思わず「そこまでやるのか」と息をのんだという一節がある。
当時の札幌での定住促進のために民に家作料まで与えたのに、
便宜的な小屋がけ・草屋根で済ましていた民たちの現実に対して
「一罰百戒」として、見せしめ的な統治手段に踏み切ったことは、
容易に想像しうるのではないか。

この御用放火に際し事前にそれを告諭したところ、豊平川対岸地域で
民の側でも自ら「草屋根」を棄却した事実があり、岩村は喜んだとされる。
その上で、青年層による「消火隊」も組織した上でことに当たっている。
この官制放火のあと、まちづくりは粛然と進んだとされるので、
「一罰百戒」の政策的果実は確実に成し遂げられている。
その後、開拓建設のための大量の作業員たちのために
「ススキノ遊郭」の建設を行ったりもしている。現実は理想ではない。
現実家・武断統治者としての才をそこに見る思いがする。
そういった「評価」が後のかれのさらなる出世につながっていると感じる。
平和な時代の価値感では想像力不足であり、当時の統治実相を見る思い。
このような武断的「住宅政策」がその後の北海道のある部分を
歴史的に物語っているのかもと、思い至ってきております。

<写真は、開拓期明治4年の札幌創生川周辺。大量の材木と一部に
「草屋根」も見えるとされるけれど、どうも白黒で判別困難>
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【寒冷地の人口定着 「住」が北海道最大テーマへ】

2019年09月25日 06時55分39秒 | Weblog


きのうまでは明治初年、屯田兵の住宅を検証してみた。
やはり公営住宅としての機能性格が似通っていた江戸末期の
下級武家の公営住宅がその原型だったことが浮かび上がってきた。
江戸末期の八王子千人同心組頭の家と琴似・屯田兵屋との設計類似は
同時代の観察者からも指摘が遺されていました。
では、一般の移住者・入植者の状況はどうであったか、
こういった建築は保存されることはなく、また写真記録もほとんどない。

ただ、司馬遼太郎の北海道歴史紀行文に
明治開拓初期、札幌市内に建てられていた移住者の「小屋」を
開拓使の官人たちが火を点けて回っていた、という一文が残っている。
説明として、当時は北海道移住には「補助金」なども支給し、
それなりに官費も使って、北海道の開拓・定住人口の増加を
積極振興していたのに、その移住に対しての官給資金をなるべく残し
とりあえず「家を建てる」という条件をクリアさせるうわべだけの
ギリギリの「小屋がけ」で済まそうとしていた様子を見かねて
「こんな不正は許さない」という官人の心理からだった、とされていた。
こういった事情なのでもちろん正規記録として残るわけもなく、
明治初年、混乱期開拓地での住宅の実相状況をただす方途はないけれど、
脈絡としては、理解出来なくもないとは思われた。
一方、上の写真は北海道の公的な記録として残された写真で
「終戦直後」の北海道入植者の小屋がけの様子。
その下の「間取り図」は明治末年・大正初年当時のわが家、
北海道岩見沢市近郊・栗沢村に入植当時建てられた住宅の「記憶図」。
明治初年と終戦直後、北海道への日本人の受け止め方がどうであるか、
確実に確かめる術はないが、終戦直後には北海道は全国一の人口だった。
空襲で焼け野原になった首都東京から、農耕可能な土地ということで
北海道に生きることを選択した人は多かった事実がある。
敗戦という荒廃のなか物資のレベルは明治初年と大差のない状況、
とりあえず「着の身着のまま」というなかで建てられた住宅、
という意味では明治初年との近似性根拠は高いと想像できる。

とりあえず周辺の木を伐採して建築構造をつくり、
そこに同様に採取した萱などのストロー状繊維植物で屋根を掛ける。
徐々に壁に使う板材を切りだして張っていく、というような
小屋がけから木造住宅へという段階ステップを踏んでいったに違いない。
見よう見まねの建築技術。写真ではすでに構造が傾斜している・・・。
まだしも明治初年の方が官の支援が全面的に得られただけ
居住生活環境としてはマシであったかも知れない。
また一方で、開拓の最初期というのは北海道の土地は「地味」が豊かで
その農産品は驚くほどに大きくでき高品質なものが採れたとされる。
人間農耕の歴史が及んでいなくて集積されていた土壌自体に
積層されていた自然肥料、落葉腐葉土品質がきわめて高かった。
今日に至るまで「食の北海道」というブランドバリューが残り、
同時に終戦直後、北海道に行けばなんとか食えるのではないかという
そういった地域の特性評価が形成されたのも事実だっただろう。

こうした状況の中で住宅問題について、北海道という地方政府は
その寒冷気候での「安定的な人口定着」というテーマを抱え込んで
全国最高の住宅性能研究・実践に奮闘するようになっていった。
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【明治初年・屯田兵屋「住みごこち」と設計者】

2019年09月24日 06時26分09秒 | Weblog


きのうの続きです。琴似屯田兵屋の「設計者」は以下だという。
村橋久成(1842年〜1892年)幕末薩摩藩士、開拓使官吏。英国留学経験あり。
事跡からは特段「建築を学んだ」形跡は見られず、薩摩軍人として
明治戊辰の箱館戦争〜慶応4年/明治元年・明治2年(1868年-1869年)で
旧幕府・榎本軍と戦い戦功により400両の恩賞を受ける、とある。
明治6年(1873年)12月、北海道の七重開墾場に赴き、測量と畑の区割りを行う。
翌明治7年(1874年)屯田兵創設に伴う札幌周辺の入植地を調査、
琴似兵村の区割りを行う。明治8年(1875年)4月、七重開墾場と琴似兵村の
立ち上げを終えて東京に戻る。〜ということのようなので、
軍人・明治国家の高級官吏として関わったようなのだけれど、
建築は専門家とはいえないだろうと思われる。
設計者として名前は残っているけれど、建築計画は担当者が別にいて
かれは高級官僚として政府側との折衝責任者であったように見える。
その後官職を辞して数奇な人生を歩み、神戸で行き倒れて死んだという。
たぶん配下意識を持っていた明治の元勲・黒田清隆が葬儀を出した。
札幌市にある北海道知事公館前庭に村橋の胸像『残響』が建てられている。
屯田兵屋当初企画案では、煉瓦製の洋式炉が切られていたが、
実際には予算不足から一部土壁で純日本式の囲炉裏付きの兵屋に。
窓は隙間のある無双窓で煙出しからも雪が吹き込むなど
寒冷地対策はほとんど施されなかった。
琴似兵村の兵屋は「東京旧幕組屋敷足軽乃宅也」(松本十郎大判官)、
「薄紙様ノ家屋」(ホーレス・ケプロン)などと評価されたようです。
ケプロンの多くの発言からは北米式寒冷地住宅との乖離が読み取れる。

どうしてもこの屯田兵屋の住み手の感想が知りたくて探したら
以下、WEBでいくつかの証言を発見。北海道屯田倶楽部HPより。
〜屯田兵家族らの証言(一部・要旨・抜粋)
「天井が張ってなかったので屋根裏が直に見えた。冬になると柾釘先に
霜が着いて屋根裏が真っ白になった」(湧別・三浦清助・上湧別町史)
「屋根に煙出しが付いていたんですが、炉で薪を焚いたので煙たくて
いつも眼がクシャクシャ」(湧別・西潟かぎ、上湧別町史)
「5日がかりで永山へ入ったが来て驚いた。兵屋の中に蕗や笹がいっぱいで、
度肝を抜かれた。雪が五尺六尺と積もるのにも驚いた。雪中伐採木のため
兵屋が壊れたり死傷した者もあった」(永山将校・野万寿、北海タイムス)
「はじめて家に入ってみると土間に三尺 (約114cm) ある切り株が二つもあった。畳はカヤだった」(一已・原タマ、深川市史)
「家は粗末で焚き火に向かった前だけ暑かったが背中から寒くて煙たくて
吹雪の時は雪が入った。大きな囲炉裏に薪をいっぱいくべて寝たが朝起きたら、
蒲団の上に雪が積もっていたことも」(納内・北出長一、深川市史)

まさに前記の2人の「感想」がそのままに生活実感として語られている。
わたしの感覚で、この屯田兵屋の先行形態として旧幕府武家住宅との
類縁性を感じていたのですが、「東京旧幕組屋敷足軽乃宅也」(松本十郎大判官)
という当時の観察者の証言もあるようですね。
こういった住居から明治期北海道の住環境は始まった・・・。
この先人たちの「住みごこち」の感想は時代を超えて迫ってきます。
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【江戸由来の武家規格住宅 札幌・屯田兵屋】

2019年09月23日 07時08分18秒 | Weblog



さてきのうは江戸期の中級武家住宅、八王子千人同心組頭の家を
記事構成しましたが、ひるがえって北海道での特異な戸建て住宅、
札幌市西区・琴似の屯田兵屋について考えてみたいと思います。
わたしどもの事務所は、この屯田兵屋(跡)から徒歩7−8分。
いまは札幌西区役所周辺のビル群に囲まれるように建っている。
それでも上の写真のように、敷地の菜園も含めて1戸が遺されている。
敷地の面積は10間×15間の150坪で、住居面積は3.5間×5間弱、
平屋の17坪と記されている。このような住宅が写真図のように配置された。
配置から考えると、いまの「札幌地下鉄琴似駅」も敷地に含まれていた。
近隣には「琴似神社」もあり明治ニッポンの開拓を感じさせる。
昨日見た江戸幕府の中級武家住宅は21坪ほどですから
特異な「武人」向け住宅として、スタンダードっぽい規格住宅ぶり。
北海道には「歴史的建造物」はそう多くはありませんが、
この屯田兵屋はかなり特異な建物と言えるでしょう。
さすがに縁のある地域なので、いまもこの近隣に住んでいて
祖先が屯田兵として入地した、という高校同期の友人もいます。
かれの伝来の家もこの屯田兵屋にほど近いので、
この屯田兵屋群が展開したそのままの土地であるかも知れない。



明治初年に入植した当時の記念写真が残っている。
屯田兵の制度は明治7年に定められて、榎本武揚などの
旧幕臣を活用することを方針としていた開拓使次官・黒田清隆の
建議によって、制度が定められた経緯から東北諸藩の旧士族が
大量に採用されたといわれる。
明治8年、総戸数198戸がこの札幌市西区・琴似に入ってきた。
隊が編成され入植してすぐの明治10年に西南戦争が勃発して
旧幕府方だった屯田兵たちは動員され仇敵・薩摩に対し勇戦したとされる。
しかしその屯田兵部隊を指揮した士官たちは薩摩出身者が多く
戦場ですこぶる戦意が薄かったとされる。
であるのに、戦後の論功行賞では士官に篤く勇戦した東北諸藩出身者に
薄かったため、1人の将校が抗議の切腹をしたと言われる。
この写真に残る屯田兵の人々の表情にそんな歴史の残像が重なる気がする。
士官とおぼしき人物以外は、裸足のようにも見られる。
幕末から明治にかけての内戦がさまざまに陰を落としている。
その後、出征した日清戦争では交戦記録はなかったけれど、
明治37年の日露戦争では、乃木希典の指揮する第三軍に属した。
最激戦・旅順攻囲戦の一翼を担って甚大な損害を出した。合掌。

屯田兵は家族を連れて入地し、入地前にあらかじめ用意された家「兵屋」と、
未開拓の土地を割り当てられた。写真上の150坪ほどの敷地・菜園は
各戸のための農作地でほかに共同作業での農耕地があったとされる。
兵屋は一戸建てで村ごとに一定規格で作られた。
板壁・柾屋根(薄い板で葺いた屋根)の木造建築で、
畳敷きの部屋が2部屋、炉を据えた板の間、土間、便所からなり、
流しは板の間あるいは土間におかれた。決して贅沢な間取りではないが、
当時の一般庶民の住宅よりは良かったとされている。
高温多湿の気候に向いた高床式の日本建築ゆえ、冬季には
寒さで非常な苦痛を強いられたのは、他の入植者と差はなかった。
この時代というか、江戸期の公営規格「武家住宅」というのが、
この屯田兵住宅の基本的な作られようであったことがわかる。
ただ、昨日見た江戸期の八王子の家が「茅葺き」でまだしも
「断熱」を意図しているのに、薄い柾屋根というのはキビシイ。
このあたり明治国家の「規格」は江戸幕府よりも劣化した?
より温暖な薩長に権力が移ったことが、こんなことに反映したのか。
このように始まった明治ニッポンの消息がわが家直近にも息づいている。
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【現代住宅のルーツ? 「江戸期中級武家」屋敷】

2019年09月22日 06時49分46秒 | Weblog



写真は江戸東京たてもの園の「八王子千人同心組頭の家」。
秋田の設計者・西方里見さんから、よく
「現代住宅のモデルは江戸期の中級武家住宅」と言われる。
氏と本格的にこのあたりの「どうしてなの?」というところは
ヒアリングは出来ていません。
しかしまぁ、なんとなくこういうイメージなんだろうなぁ、
というのを感じている部分はある。

江戸期までの日本では「庶民の都市戸建て住宅」概念は乏しかった。
社会の基本のムラでは職住一体機能の「農家住宅」はあった。
そのなかでも支配階層の土地持ちの庄屋たちの住宅は
内部空間の大きな家で、たくさんの小作たちを組織する屋敷。
それらでは集団的農事作業の広大なスペースが用意されていたり
大人数での「寄り合い」集合も可能な広間もあったりする。
なかばは「半公共」的な家屋敷だったことが見て取れる。
実際に領主からの年貢のとりまとめ、請負機能も持っていたので、
社会的にもそういう側面を持っていたと思われます。
古民家として残されている一般小作層の住宅というのはごく少なく
例外的に見ることがあるけれど、土間主体のもので、
大家族が身を寄せ合う様子がその圧倒的な「貧しさ」として偲ばれる。
わが家系は商家でうまくいかず広島県から北海道に移住したのですが、
同郷の知人が農地地主でその小作として家族が生き延びた住宅は
時代は明治期ではあっても、ほぼ同様の「小屋」だった。
身分制というよりも、階層的分化が明確な住形態だったといえる。
一方で都市の「町家」は独立自営の商家の職住一体住宅。
税の基準が「間口」の寸法でおおむね計量されたという
そういう社会的制約に対応した建築群だった。
中庭の工夫など、規制制約の中での自由探究もオモシロい。
それ以外の都市集住者たちは「長屋」形式の賃貸住宅に暮らしていた。
その「長屋」のなかにも一部には成功者の戸建てタイプも
見られたようですが、しかし基本のくらしは長屋共同体生活。
大枠としては土地持ちの「旦那」に賃料を払う賃貸が大半の庶民住宅。
いわゆる都市での独立的「戸建て住宅」は概念自体がなかった。
というか、そういう社会的階層自体が存在していなかった。

明治維新以降、産業革命が徐々に日本に根付き始め、
そういう産業会社に勤務する勤労者という「階層」が成立して
大正期にいたって、そういう少数階層が戸建て住宅を都市に持った。
大正デモクラシーを生み出した都市居住者の生活文化。
こうした階層は、徐々に拡大していって、
戦後社会の高度成長に伴った地方からの大量の都市移住に結果して
「都市で勤労し戸建の独立的持ち家を持つ」というスタイルが作られた。
そういう時代になって住の歴史的なモデルとなり得るとすれば、
この写真のような江戸期での「階層とその住宅形式」が想起される、
ということだったのだろうと理解したのです。
そんな住宅の具体的なイメージで思い浮かんだのがこの家。
あらためて見てみると、間取り形式は3.5間×6間程度。
土間と座敷空間に大きく分かれている。
武家としてのしつらいと半農的な暮らしようも見て取れる。
まぁ、武士だから菜園仕事とか内職は別にして、
いわゆる生活の仕事の匂いというのは感じられない。
他の同時代住宅と比べて「職住一体性」がきわめて希薄。
たしかに現代住宅の仕様・形式への近縁性は強く感じられますね。
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【フェイクも多い中国正史 「明史」日本伝】

2019年09月21日 06時22分28秒 | Weblog
魏志倭人伝というのはナゾ多き古代史の白眉。
邪馬台国、卑弥呼というフレーズに日本人は揮発性が高い(笑)。
わたしは本格的国土になって150年の北海道ネイティブでもあり
やや引き気味。ただナゾといわれると野次馬的興味は高まるのですが、
でも、中国の正史と言ってもそもそも信憑性に疑問は持つ。
かの国にしてみれば遠い異国の、情報も乏しい時代での伝聞記録。
その片言隻句を日本人が微に入り細に入り論争し合うのはやや滑稽かもと。
そんな思いを持っていたら東京外国語大学名誉教授、故・岡田英弘氏は
著書「日本の誕生」のなかで1753年に編纂された中国・明の正史である
「明史日本伝」を引用。この時代より150年以上前の日本の
戦国時代末の歴史を描いた部分を抜粋している。以下。
・・・・・
日本にはもと王があって、その臣下では関白というのが一番えらかった。
当時、関白だったのは山城守の信長であって、ある日、
猟に出たところが木の下に寝ているやつがある。びっくりして
飛び起きたところをつかまえて問いただすと、自分は平秀吉といって、
薩摩の国の人の下男だという。すばしっこくて口が上手いので、
信長に気に入られて馬飼いになり、木下という名をつけてもらった。
・・・信長の参謀の阿奇支というのが落ち度があったので、
信長は秀吉に命じて軍隊をひきいて攻めさせた。ところが突然、
信長は家来の明智に殺された。秀吉はちょうど阿奇支を攻め滅ぼした
ばかりだったが。変事を聞いて武将の行長らとともに、
勝った勢いで軍隊をひきいて帰り、明智を滅ぼした。(p.33)
<以下、「明史日本伝」漢文当該箇所>
【日本故有王、其下称関白者最尊、時以山城州渠信長為之。偶出猟、
遇一人臥樹下。驚起衝突。執而詰之。自言「為平秀吉、薩摩州人之奴」。
雄健蹺捷、有口弁。信長悅之、令牧馬、名曰「木下人」。・・・
有参謀阿奇支者、得罪信長。命秀吉統兵討之。俄信長為其下明智所殺、
秀吉方攻滅阿奇支、聞変、与部将行長等乗勝還兵誅之。】

ご存知のように中国易姓革命国家では、
前王朝の記録を次の王朝が「正史」として記録するのがならい。
そして1753年に編纂された記録というのがこの内容なのですね。
さまざまな誤解が盛り込まれていて、日本人が読むと驚かされる。
メッチャ、オモシロいことは確かだけれど、
信長が関白や「山城守」だったとは寡聞にして聞かないし、
秀吉も平氏だったことはもちろんなく
また攻めたのは毛利であって、「阿奇支」ではない。
阿奇支と明智、認識の混同も明らかだけれど?・・・。
〜150年経過した18世紀でこうなのです。いわんや3世紀編纂の国史。
縁遠い他国情報の魏志「倭人伝」部分について、
その片言隻句を詮索するのは、論理的とは言いにくいのではないか。
なんとなく歴史の流れの概略としてストーリーの脈絡がある、
程度に抑えておくくらいが正鵠と思えますね。
中国ではかつて正史はやがて書かれたのだけれど、
現代の共産党支配の中国はその成立直前の時期について
かなり事実とはかけ離れた歴史フェイクも多いと思います。
白髪三千丈の国民性もあり、少し冷静な見方が必要でしょうね。
それよりは、きのうまで触れている国土の詳細な歴史地形、交通手段の
科学的探究などから歴史事実を再検証する方が、核心的ではないか。
歴史教科書に当時の国土地形を併せて載せる方法が有益かも。
<写真は吉野ヶ里の復元建築内の様子。ニアリー邪馬台国?>
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