こちら 住まいの雑誌・Replan編集長三木奎吾です
いい家ってなんだろう、を考え続けます
性能とデザイン いい家大研究
交易ルート・平泉の陶器

きのうのブログの関連で、交易ルートのこと。
平泉の藤原氏居館跡地の発掘作業では大量の陶磁器が出土するとか。
多くは日常使いと言うよりは、今日で言えば弁当箱のような
「かわらけ」が主体なんだとか。
都市平泉は「接待」が主要な役割であったといわれています。
こういうこともわかってくるということで、古代世界の実情が迫ってくる部分ですね。
で、そうした陶器類は、ごらんのようなルートで運ばれたとのこと。
平泉には遠く中国からの陶器類も多かったそうです。
これは平泉という存在の富を物語るものでしょう。
そのほか、愛知県との交易ルートが主体。
たぶん、「舶来」の中国陶器もいったん愛知県に輸入されて、
そこから全国に流通していったものと思われます。
仙台などでは愛知県との経済的な結びつきを感じることがあるのですが、
歴史的にはこのような交易の世界があったのですね。
海を使っての交易の世界の広がりは
当時の経済活動をいろいろに想起させてくれます。
政治的には栄枯盛衰が繰り返されたでしょうが、
こういう交易の世界では、いったん流通が始まれば、
ひととモノの交流は、そうは絶えなかっただろうと思うのです。
平安末期の東北の人口推定は約60万人。
関東が160万人。東海地区が50万人程度。
<歴史人口学・鬼頭宏さんの資料より>
この船の交易ルートを見ると、こういう人口地域間の
さまざまなひととモノの流れや動き、というものを想像します。
船の交易は行きと帰り、ともに積み荷を満載しなければ割が合わない。
お互いの地域から、いろいろな産物が行き交ったのでしょう。
一枚の図ですが、実に多様な想像を起こさせてくれます。
NPO住宅クレーム110番|イザというときに役立つ 住まいのQ&A
北海道・東北の住宅雑誌[Replan(リプラン)]|家づくり・住まいの相談・会社選び
ケプロンさんの経歴

北海道の開拓期については、
北海道内の小学校でも触れられている(ハズ)ですが、
・・・って、いま坊主に確認したら、
「いや、そんなの習ってないよ」
という返事。
わたしが習った小学校低学年歴史教育のスタートは
「地域の歴史」のようなものでしたが、
そういうの、やっていないのでしょうか?
わたしたちのころには、いちばん初めの頃に
この人の名前が登場することになっていました。
北海道の開拓の基本計画を定めた人物として知られています。
大久保利通に連なる薩摩の本流政治家・黒田清隆が
初代の「北海道開拓使」次官(長官は宮様)になったとき、
北海道の開拓方針を諮問すべき人物として目を付けた人物。
当時、アメリカ合衆国の「農務局長」を務めていた。
明治維新政府にしてみれば、当時のアメリカを
ヨーロッパ移民による新開拓地として見ていたので、
当然、日本にとっての北海道をそうしたアナロジーで見ていたなかで、
基本的な開拓策として、北米の体験を輸入しようと考えたものと思えます。
司馬遼太郎さんの数少ない、北海道に関する記述が
「街道を行く」シリーズにあります。
わたしは司馬さんのファンなので、これまであんまり検証せずに
その記述を信用してしまっていたのですが、
どうも、司馬さんの認識違いかも知れない点を発見してしまったところ。
司馬さんの記述にはホーレス・ケプロンを「農務長官」と書いてあるのですが、
どうも、そうではなく、「農務局長」が正しいらしい。
わたしも何回か、講演などで司馬さんの記述に沿って発言したので、
ちょっと冷や汗、というところです。
当時のアメリカの政治・政府組織制度などを確認もしなければならない。
現在の常識で考えると、「農務局長」はいわば官僚機構のトップという響きであって、
大臣・長官という政治家ではないと、認識できる。
ただし、アメリカは現在でも政権が変わると、一気に実務組織トップも替わると言われる。
日本の常識とも違いがあるので、難しい。
というところで、やや袋小路に入ってしまいました。
さてさて、歴史に関する記述の確認って難作業ですね、ふ〜。
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平泉、世界遺産「延期」

やや旧聞に属しますが、先日の新住協全国大会中に
残念ながら、岩手県の平泉の世界遺産登録が「延期」となったニューズが流れました。
<以下は、朝日新聞からの抜粋>
文化庁は平泉の価値を「浄土思想が核心を担った平泉文化の伝統は、宗教儀礼や伝承、文学作品などを通じて、今も日本人の精神構造に多大な影響を与えている」と主張してきたが、核となる浄土思想が十分に理解されない結果となった。
「平泉と浄土思想との関連性の重要さ」や「平泉の景観が『人類の歴史上の重要な段階を物語る見本』であること」などについて「十分に証明しきれていない」などと指摘。地下遺構が大半を占め、「浄土思想」が現在、目にみえる形ではわかりにくいことも、不利に働いたとみられる。
世界遺産委員会は7月2日からカナダ・ケベック市で開かれる予定。審議結果はイコモスの勧告に従う例が多く、近年は新規登録を抑制する傾向にもある。延期が決まると、推薦書の提出と現地調査を再び行うことになり、登録は最短で2010年となる。
という残念な結果ですね。
わたしは浄土思想云々よりも、
日本文化の多様性の方に重点を置いてアピールした方が良かったのではないかと
思われてなりません。
確かに日本中世を支配した「浄土思想」が中心的であることはそうなのだけれど、
平泉の魅力は、日本歴史のなかで、鎌倉幕府に先行する
「二重権力状況」、半独立的な権力とその文化性、ということではと思われます。
日本の歴史が秘めてきた「多様性」を表すことになると思うのです。
あきらかに多賀城の機構とはまったく別に
平泉は独立国家の計画的首府であったと思うのですね。
日本国家に対して、外交的に対処しているという意味では、
鎌倉幕府は、平泉を多いに参考にし、
それだけに、頼朝の平泉に対する恐怖は大きかっただろうと思われます。
そういう平泉を、日本国家が世界遺産申請するのですから、
海外のみなさんからは、ちょっとアピールが明確でない、と見なされたのかも知れません。
大変がっかりしたのですが、さて、石見銀山のように
逆転で申請受理されるかどうか、
まだ、望みを捨てずに見守っていきたいです。
<写真は毛通寺境内の建物>
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なぜ源氏は?

前九年、後三年戦争で勝利を収めながら、
結局、東北北部地域の覇権を握られなかったのだろうか?
というのが疑問です。
武門のライバル、平氏や秀郷流藤原氏に対して
常に劣勢だった源氏は、この奥州制覇に命をかけていたと思われます。
で、戦闘には最終的に勝利したのに、
公家社会での政治的戦いで、無惨に敗北します。
源氏も考えながら、公家政治家連中とも交渉しながら、
軍事行動を行っていただろうから、
ことは単純ではないのだろうけれど、
軍事面では配下に従っていたにすぎない藤原清衡に
政治的には完敗を喫してしまっている。
清衡という人物、秀郷流武門藤原氏の流れを汲み、
同時に北東北世界での盟主でもあるという存在に負けてしまったと言える。
なぜなんでしょうかね?
考えられる理由は、公家社会の興味はどこにあったか、ということでしょうか。
公家にとっては、衣川から北の北東北世界は
自分たちにとって、どういう意味があったのか。
荘園とかの直接的な利害について、たとえば源氏が力を持ってしまえば
その収奪構造の維持が難しい。
さらに、それ以外の馬だとか、金、北方交易品という
貴重な北東北の物資についての「安定的管理力」が
やはり「現地官人」の流れを汲む勢力のほうが、より高いと判断したのではないか。
そういう意味合いから考えると、
朝廷にとって、北東北は貿易をする相手であって、
その相手には、安定的物品調達力を最優先に考えたということ。
このあたり、複雑な経済的利害関係が渦巻いている感じがいたします。
源氏の流れを汲む、頼朝がほぼ1世紀後に
かれの祖父が安倍氏の頭領を処刑した「厨川」で、
奥州藤原氏の頭目を残酷に処刑した故事は
どうもこのあたりの政治的な要因が大きかったのではないかと思います。
藤原氏の追討に対して、朝廷の追討令が下りなかったということは
その辺で、いかに朝廷に対する奥州藤原氏の政治的影響力が大きかったのか、
ということを表してもいると思います。
本日は、まったくの歴史好きブログであります。
ではでは。
写真は、中尊寺の一建物に立っていた卒塔婆です。
北海道建築の歴史

表題のようなことをさらっと考えながら、
しなければならない仕事にいま、かかわっております。
で、いろいろ、写真を整理したりしている中から
北海道開拓の村に再建されているこの旧・北海道開拓使庁舎が出てきました。
今現在、北海道庁として赤煉瓦庁舎になる以前の建物。
明治の初年、それまで東北津軽が最北端だった日本の概念が
北海道地域まで拡大したとき、
それまでの日本とは違う、脱亜入欧の理念で開拓に当たった。
こういうデザインは、明治期の指導層が長期にわたって欧米を
視察し、一刻も早く列強並みの国家にしたいという思いから選択したものでしょう。
いま、見返してみれば、日本的な部分は一切顧慮せず、
早急に追いつかねばならないという必死さが伝わってきます。
古代の日本国家成立時期も、
中国に強大な世界最強国家が成立したことで、
その文化体系まるごとを移植して、権力機構から法体系まで
全部、コピーしたそうですから、
こういうことには歴史的な経験値が高いというのが日本人なのか。
こうした明治期の建築って、全国的にも数多いけれど、
とりわけ、北海道はここから歴史的積み重ねがスタートしているといって
過言ではないのですね。
わたしたち、北海道で生まれた世代の人間は
こういう建築が「伝統」的な建築と言うところから始まっている。
奈良、京都の歴史的建築物群は、教科書として学習するものなんですね。
まぁ、あるがままに見る、というしかないのです。
はじめに近代合理主義的なDNA的刷り込みがあって、
そのあと、歴史などの情緒性が追いついてくる、という感じでしょうか。
そういうことでの「違い」というものが
いろいろなところで、否応なく感じることが増えてきています。
日本の中で、北海道の建築って、
今後、どういうような存在になっていくものかどうか、
見定めていくことは、興味深いことだと思っている次第です。
きょうは岩手県で、新住協の総会出席。
寝不足気味ですが、気合いでがんばりたいと思います。ではでは。
胆沢城跡

最近になってようやく、高橋克彦さんの歴史小説「炎立つ」を読むことができまして、
なんだ、もっと早くに読めば良かった、と思っています。
っていっても、まだ半分くらいしか読むことができません。
盛岡在住らしく、東北地域のことが克明な描写で書かれていて、
わかりやすくて、とてもいいと思いますね。
写真は先日足を伸ばして見てきた「胆沢城」発掘センターで見た配置図。
東北地方に奈良から平安の時期に建てられた「城」って、
戦国期の城とは、概念も違うようなものですね。
多賀城が典型的なのですが、
基本的には「政庁」としての建築であり、
武によって制圧する、という概念よりも、
抜けがたく、文化性とか、律令的国家体制の尊厳性を訴求する、
まつろわぬ民人に、ありがたき「政〜まつりごと」を施す、というイメージに近い。
従って、きれいな方形に敷地を区切って、
侵しがたい神聖性や、権力の透明性などを理解させる様式を取っている。
ただし、位置は北上川と支流・胆沢川の合流点という
当時の戦略的要衝点を押さえてはいる。
きれいに四角く区切られた築地塀は、幅が2mで、高さが4mほどで
延長距離はここでも2km以上にはなっていたようなので、
古代世界で考えたら、たいへんな土木工事。
周辺住民の税金的労働提供・搾取によって実現させたものですね。
建前としては、新開拓地として住民を移住させ、
それらに農地を貸与しているわけですから、
税金徴収として、それなりには合理性があったのでしょう。
最近は、地図の下の方にマーキングされている
「伯済寺遺跡」の調査が進んでいるそうです。
この地域は、胆沢城に勤務していた「官人」たちが住居した地域なのだそうです。
そう考えると、この北上川のまわりに古代的・中世的な
「都市」が形成されていたと考えられますね。
当然、「政庁」ですから、税金としての農業生産物の収受が基本機能。
そうしたものを運送する必要もあっただろうし、
そうした関係から、多くの人たちがここを訪れただろうから、
ひととものの集散があるわけで、都市的なものだったでしょう。
どんな様子だったのか、興味が湧いてきますね(笑)。
日本の公共空間デザイン

写真は足利氏の本拠に建てられた寺院の正面からの外観。
よく歴史巡りなどをすると、日本では決まって宗教的な施設になる。
この足利氏の発祥地とされる居館跡地も
お寺として存続しているのですね。
京都に残っている建築も多くがそういう残り方をしている。
金閣は足利義満が私邸、迎賓館的に造営したものだし、
京都中、歴代の権力者が妄執に駆られて造営した建物がそういう形で残る。
なにやら、現代の宗教法人の無税特典というのは日本伝統の文化なのかと、
つい、疑ってしまいます(笑)。
こういう敷地の大きな建物空間の場合、
そのなかにいくつかの建物が共鳴するように配置されます。
よくあるのが、背の高い建築〜塔のようなもの、
校倉のような倉庫状の建築、
そして、大きな屋根のデザインで見せる主建築。
きっと、このような配置デザインって、中国の影響から来るものでしょうね。
地形と方位などを考えて、良い気が満ちるように考えられているのでしょう。
そして、時間を掛けて植栽が施され、
独特の東アジア的な「公共的空間」が演出されてきているのだと思います。
で、そういうなかでもやはり、この写真のように大きな屋根の
デザインというものが、一番直接的にひとびとに訴求してくる。
屋根はいろいろな建築的検討の結果、選択されるのでしょうが、
この建物など、大変ユニークな造形を見せてくれる。
寄せ棟を基本にした入母屋ですが、ちょっと寸詰まりなのが楽しい。
日本人はいちばん、寄せ棟というのが心情に似合っているのでしょうか?
寄せ棟は、台風などの風の被害に対して柔構造のような気がします。
まずそういう気候風土に対する適格性があって、
そのうえで、心情的なものが積み上がっていくものなのでしょう。
古民家などでは、ほとんどの屋根が寄せ棟です。
やっぱりこういう空間性には、ほっとするようなものがありますね。
日本人ということを意識させられる部分。
でも、北海道では、なぜか寄せ棟はほとんど採用されない。
たぶん、日本と北海道を分ける最大のものは屋根デザインでしょう。
江戸期の婚姻

きのうもご紹介した「歴史人口学」。
なかなか奥行きがあって、興味深いテーマですね。
そのなかに江戸期の一般的な婚姻年齢について触れていました。
というか、婚姻と言うこと自体についても研究されている。
そういうなかで、江戸期の「小作農」という社会的存在が
日本人の基準的規範の基礎になっているというような部分があります。
「伝統的家族観」とでも呼べるようなものが、
実は江戸期の「小作農」を基準とした「家族構成」だとしています。
直系家族を単位とした「家族3世代同居」型の単位が
江戸期に社会の基本因子と規定されたのだ、と。
婚姻率というのも、こういう社会的なシステムが常識化して
「皆婚」に近い率になっていった、というわけなんですね。
それより以前には、婚姻率って50%すら切っているような社会。
小作農にとっては、家族を基本とした労働集団が経済単位にもなっているので、
婚姻は、家を存続していくという子孫づくりの側面と同時に
直接的に嫁としての労働力獲得と言うことでもあったのです。
婚姻の年齢は男性で平均的に27,8歳前後、女性で20歳前後。
一度、このような「常識」が根付いて、
それが長い時間、「伝統」的とまで思われ続けて存続してきている。
現在でも、核家族化の進展はあるけれど、
基本的社会規範としては、この常識が基本になっている、ということ。
このように指摘されれば、ふむふむなるほど、と了解できます。
で、平均的な寿命は40歳前後だったそうなので、
婚姻というものは、都合10年前後ほどの期間、維持されるものだったことになります。
わたしの仕事は住宅を考える仕事なので、
住宅というものの基本因子である婚姻や家族というものを考えるのは大前提。
そして現代が、どのような家族関係に向かっていくのか、
見通していくためにも、こうした視点を持つというのは大変重要。
いろいろ考えさせられますね、ふ〜む。
<写真は近所の公園の様子>
歴史人口学

面白い本を発見して見ておりました。
人口から見る日本歴史、ということなのですね。
いまわたしは、どちらかというと平安末期の時期の動乱期の歴史を
いろいろに興味を持って見ているんですが、
こういうのに掛け合わせてみると実に面白い。
日本の戦争、土地争奪の歴史って、
織田信長がはじめて(といわれている)専従の軍事組織を作るまでは
兵農が一体で、分離不可能という状態だったのだろうと推定できる。
古代の頃の戦争にしても、兵は募兵が基本。
ということは普段の仕事は別にある人間が「いくさ稼ぎ」で駆り出されていたのが実態。
そしてその多くは、農民の次男三男ということだったのだろうと推定できる。
そういうひとびとを練兵して、戦場で使ったのでしょう。
平安末期の戦争の兵の実態を調べた本などでもそのあたりが見えてくる。
兵隊の数というのは、どうもいい加減ではあると思うのだけれど、
それにしても、富士川の合戦〜関東に武権を樹立した頼朝軍が対峙した
平氏の側の「朝廷軍」が12万人とか書かれている。
それに対して、この人口学の本によると
その当時の日本の人口が全体で680万人ほど、となっている。
実際には現地周辺での募兵が大きかっただろうと思われるので、
東海地域で見てみても、総体で43万人あまり。
女子ども、老齢者もいるわけで、そう考えたら
この当時の「戦争」って、いったいどういうものだったのか、
色々に興味深いものがあるのですね。
確かに政治軍事貴族たちの争乱ではあっただろうけれど、
そういう意味合い以上に兵站や運輸、兵糧の提供などなど、
現地にとっては、たぶん一大ビジネスという側面はあっただろうと思われる。
現地の人間にとっては、どっちが勝つとか負けるとかはあんまり関係なく、
誤解を恐れないで言えば、
いわば公共事業的なものでもあったのかも知れない。
昔は、「家」単位が基本の社会であって、
たとえば戦死しても、家が存続して行くことの方の価値観が大きかった。
個人の死というものの考え方がいまとは違う。
そういう「無常」感に、仏教という宗教も拡大できる素地があったのかも知れない。
というような次第なんですが、
この人口学って言う物差しで、歴史を見ていくって
ものすごく大切な視点を提供してくれるようですね。
考えてみれば、経済が、700万人程度の人口とその程度の生産段階での争いなんですね。
で、一般大衆はたぶん、ほとんどが明日の生活のことしか考えられない社会。
どうも、かなりのリアリズムが見えてくるような気がします。
東北の中心って?

北海道に生まれたわたしが、一番関わることになった
それ以外の地域が、東北です。
まぁ、首都圏地域にも学生時代を含めて8年間ほどいたのですが、
主に仕事で主体的に動き回れるようになって
関わることが大きくなったという意味合い。
そういうなかから、生来の歴史好きが目覚めてしまって、
東北の各地域を巡り歩くようになり、
知らず知らず、考えるようになります。
ようするに、歴史的にも地政学的にも「東北の中心ってどこ?」という点。
今はもちろん、仙台がそういう位置を占めているのは事実。
伊達「陸奥守」が江戸期を通じて存在し続けてきているわけですし、
幕末では「奥羽越列藩同盟」の盟主にも伊達氏がなっているのですから、
近世においては仙台が中心となっていたとは言える。
しかし、日本史のはじめ頃から繰り返されてきたのは
仙台平野地域までの日本の権力範囲に対して、
それ以北の地域住民の反抗の歴史。
仙台平野までは、古墳が残されたりしていて、
比較的早くの時期に日本の生活文化様式を受容していたと推定できる。
しかし、その時期には多賀城が王朝の現地中心地域であったことは明白。
地政学的にも、多賀城に伊達氏は入城すべきだったのではないかと思われてなりません。
しかし、その多賀城も、どうも中心とは言えない気がする。
歴史的に見ればやはり、東北という概念を初めて権力としても
明らかに現出させたのは奥州平泉の藤原氏政権。
基本的には王朝国家の体制の中での現地軍事警察権力を握る形で
相対的に独立的な権力を樹立した。
伊達氏が仙台平野を中心とする60万石程度の地理的支配範囲だったのに対して
「白河から外ヶ浜まで」という、現代の「東北」に相当する地域を
概念上も、明示的に支配していたと言えるのです。
東北を代表する大河、北上川を水運として活用して、
関西の日本中央地域とも物流・情報とも直結していた。
現代の地図で見ても、平泉の方がはるかに「へそ」に位置する。
さらに歴史的に見て、北東北地域にその権力基盤を持ち、
それ以南の地域に対しても、中央権力との調和という形で存在していた
奥州藤原政権の方が、「東北」という概念に親しい。
いま、世界遺産の登録審査が近づいてきていますが、
この平泉地域がより正当な評価を得るためのひとつのステップになり得る機会ではないかと
密かに期待している次第です。
って、東北地域に対してはエトランゼな人間なのですが、
でもだからこそ、歴史を知れば知るほど、
このような思いを強くしてきているというワケなのです。
<写真は、仙台城の復元想像パノラマ>
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