オリジナルの質感

 北斎展(於東京国立博物館)。

 いやあ、これは凄い。
 巧い!
 実物の洪水に接してみて、はじめて北斎の天才が少し分かった気がします。
 でも、このオリジナルの発するエネルギーが図版になっちゃうとあらかた消えてしまう(だからわたしの感性にもこれまでたいして印象を残さなかった)のはなぜなんだろう?・・・ と考えて、博物館を出たところで思い当たりました。「紙だ」。
 彼の作品はあの和紙の質感の上で見られることを前提に製作されているわけなのです。それが図版集の白いつるつるした日本製の洋紙に乗ってしまうと迫力半減するのも仕方のないことなんでしょう(ましてやブラウザーの無機質な画面の上ではあの画像はとても実力発揮できないと思いますよ)。こんなの専門家の方にとっては当たり前のことなんだと思いますが、わたしは初めて実感しました。
 紙だけではないかもしれませんが、とにかくオリジナルにともなう質感というのはなにものにも換え難い。人間の心というのはこういうのを見てしまうとどうしても物質に固執してしまうようにできてるんですね・・・ 前に言ってたことと激しく矛盾しちゃいますけど。 f(^_^;)

 ついでなので、ひとつだけ思い出を書いておきます。
 システィナ礼拝堂の天井画の思い出です。 (^_^)
 むかしローマの国立図書館にこもってDestutt de Tracy の Dell'amore のイタリア語版(というかこの著作はイタリア語版しか出てない)を調べたことがありました(結局スタンダールがどういう形でこの著作を見たのか推定のヒントになる材料は出てこず、この仕事は全然論文とかには育たなかったんですけど)。「図書館に居る」という行為そのものがわたしは大好きなので、他にほとんど観光しませんでしたがそれでも楽しいローマ滞在として記憶に残っています。
 楽しさをより印象的にしたのは日曜日、図書館の休みの日にでかけたヴァチカンでした。一週間仕事して、休みの日にふらっとひとつだけ美しいものを見に行く---たぶんこれ、もっとも贅沢な美術鑑賞法です。システィナ礼拝堂の天井画は、それはそれは素晴らしく見えました。あのときもオリジナルの持っている力(ミケランジェロの場合、それはもはや「美」ではない、という言い方もされますが)が、わたしの感性にもうビンビンに入ってきました。
 あの絵---『光と闇とを分つ神』とか『アダムの創造』とか『楽園追放』とか---の場合は、高い天井に描いてあって、ミケランジェロも当然はるか下の方から見上げて見られることを前提の上で、そうやって見られたときに最大の効果があがるような描き方で描いている、というのが分かる感じなのです。だから図版ではどうにもならない。大きく拡大カラーコピーしたのを高い天井に貼っつけて下から眺めたらある程度疑似体験ができるんでしょうかね・・・でもそれでも天井の漆喰の質感はやっぱり再現不能ですしね。

 ちなみに北斎展は、とても1時間くらいでは見切れる、というか体験できる規模ではありません。ゆうに半日はかかります。時間がなくてあまり見られなかったという感じがあるので、わたしは終了までにもう一度行こうと思ってます。 (^_^)y

(ところであの「浮絵」(浮世絵じゃないですよ)という遠近法を使ったジャンルというのは浅学にして知りませんでした。たしかに前景が浮き出るような感じで、言い得て妙です。会場の解説には西洋絵画の影響がどうのとかちらっと書いてあったように思うのですが、このへんのこともっと解説されないんでしょうかね。あんまり詳しいことが分かってないのかもしれませんが。北斎ほどの人間がもし西洋画のグラヴィアみたいなものでも見たら、その技法を貪欲に吸収しようとしないはずがないですから、そのあたりのことはとても興味があるのですが)
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