小樽と永倉新八


 小樽いってきました。
 旧日本郵船小樽支店の二階、会議室(↑)。

 この部屋は、日露戦争後、両国で国境画定のための会議をしたところなんですね。
 なんでそんな重要な会議を小樽で、しかも民間の建物で開いたかというと、案内のおじいちゃんは、この部屋のきらびやかさで日本の文化力をロシア側に印象付けようとしたのだ、というんですね。
 当時あったであろう豪華な調度品はもうありませんが、たしかに往時の気品は十分とどめていますね。これ、もうちょっと観光資源として知られてもいいような気がします。

 でも、なんかこういうところで、民間の手を借りてでも外国に見栄を張ろうというのは、じつに日本らしいやり方のような気がしますね。パリの大学都市の「日本館」も、薩摩治郎八が私財を投じて建てたものだったのを思い出します。
 それだけ日本は「小さい政府」志向だということかしら・・・

 そのロシア人がいま小樽でどんな存在になっているか、なんとなく感じられたらという思いがありましたが、ロシア人らしき人は結局みませんでした。
 運河のところに西洋人のカップルがいましたが、話しているのはまぎれもないフランス語でしたし(なんか最近、日本にフランス人観光客あふれてるみたいな気がするんですが・・・ ミシュランの力かしらん)。

 銭湯で差別されているというメディア報道がありましたが、一件だけ見つけた銭湯を外からみただけでそんなことが分かるわけもありません。番台が入口のところにありましたが、これは多くの銭湯の採用するスタイルでもあります。

 さて小樽は、新撰組二番隊長、永倉新八が晩年を過ごした町でもあります。

 孫に剣術の稽古をつけたという水天宮以外、彼のゆかりのものは残ってないのかもしれませんが。
 息子の杉村義太郎が専務取締役だった北海ホテルというのも、池波正太郎が彼を主人公とした歴史小説『幕末新選組』を書いた時にはまだあったはずですが、それからさらに45年も経った今日、これも残ってないみたいです。

 永倉新八というのは、稀有の人物です。
 新撰組でも剣の腕は一番とうたわれ数多くの闘いを潜り抜けた、まぎれもない歴史上の人物なのですが、維新後単に生き延びただけでなく、新撰組の記憶と、彼らの真摯な思いを後世に伝える語り部の役割を果たし、近藤勇刑死の地に「新撰組隊士殉難の碑」をたてることに成功して同志たちの名誉を回復しえたのですから。
 彼は勝ち組にはなれなかったですが、無理な転向を強いられずにすんだこと、剣道指南でそれなりに充実した余生が送れたこと、多くの子孫にも恵まれたことなど、やっぱり幸せな人生と言っていいでしょう。

 でもその彼の晩年の人生をいろんな意味で豊かにしたのは息子義太郎の成功であり、またその成功を可能にしたのは小樽の経済的繁栄だったのです。

 日本郵船が小樽支店に贅をつくした会議室を作るほど、むかしの小樽は繁栄していました。漁業だけじゃなくて、ロシアとの貿易と石炭輸出港としてすごく活気があったんです。
 ということは、再びロシアとの通商が盛んになれば、小樽にもまた再び経済的繁栄が訪れるかもしれないわけですね。

 ところで池波正太郎には上に書いた『幕末新選組』とは別に『新選組異聞』というのがあって、こっちは永倉新八の孫、杉村道男から聞いた話をそのまま書いた、という体裁になっています。

 わたしが好きなのはこっちに載っている永倉の述懐です。
 永倉は晩年、孫の道男を連れてよく映画に行ったのだそうですが、その道男に:

 「わしも長生きをしたので、こんな文明の不思議を見ることが出来た。実になんともうれしい、妙な気もちだ。近藤や土方が、この映画というしろものを見たら、どんな顔をするかなあ・・・」

と言っていたというんですね。

 「文化」は差異をきわだたせ、ときに争いを起こさせることもあるけれど、「文明」は最終的に人を結束させるところがある、と言えるのかもしれません。そして日本の開国はその意味でいいタイミングだったのでしょう。映画みたいなものが、日本で攘夷だいや開国だとか言って殺し合っていたころには西洋にもまだなかったのが、江戸時代に生きていた人が存命のうちに「攘夷なんて意味なかったなあ」と心の底から思うことができるくらいのタイムラグで発明され、輸入されたのですから。

 ところで池波正太郎は小説の『幕末新選組』の方では「映画」というのは出してないです。文明の象徴として鉄道は出してますが。

 老境の永倉が気迫と眼力だけでやくざ共を畏怖せしめたという有名な話も、芝居の帰りということになってますね。
 『新選組異聞』に載っている孫・杉村道男からの聞き書きからすると、それは映画の帰りなのかもしれないし、それにその映画自体、永倉の息子の義太郎の経営する小屋、芝居も映画もやる小屋で見たもののようなのですけど。

 たしかに、「この」作品の結構としてはこの場合「映画」というのは、なぜか、出さない方がいいような感じがします。映画館=芝居小屋が永倉の息子の経営だというのも。
 それを書いたら、なんというか、「突き抜ける」感じがしたと思います。

 でもわたしは、晩年の永倉を支えた息子(遊郭に遊びにいく小遣いまで気前よくくれたというんですから、いい息子さんです)が、いわば当時の日本経済の重要拠点のひとつであった小樽で文明伸長の最先端にいる人だったということが、ずいぶん面白く思えるんです。

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コメント
 
 
 
とはいえ (raidaisuki)
2009-05-05 18:14:23

今の世の文明ってどうでしょう。
たとえばインターネットはどうでしょうね。

文明の利器ではありますが、これが普及する前に死んでしまった人たちにたいして、わたしは別に優越感覚えることもないです。

便利と幸福は違うということでしょうか。
 
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