Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

権威者を神さまにするのはやめよう

2005年08月02日 | 一般

 

 

 

 

 

昨日、ある長老のことをコメントに書いたら、ふと思い出しました。現役の方にはきっとうなっていただけると思います。
 

 

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【権威者を神さまにするのはやめよう】


権威者に対する恐れについて考えてみましょう。

日本ではとくに、先生、父親、警官、夫、先輩、政治家、上司など、地位のある者、年上の者、男性、お金持ちは、ただそれだけで権威者として威張っていたりします。また、子どもの頃から、こういった権威者を恐れるように教育されがちです。しかし度がすぎると、相手がただ権威者だというだけで、何の理由もなく自分を卑下し、恐れかしこむようになります。

真に実力と器量の大きい権威者であるなら、他人に対して思いやりと責任を持ち、自分の権力をむやみやたらとは行使しません。ですから、権威者とみなされている人に会ったら、まず、じっくりその人の人格を見てみましょう。

恐れはあなたを麻痺させます。深呼吸をして、恐れを遠ざけましょう。権威のある相手を「神さま」にしてしまうのはやめましょう。
 

 

(「心の傷を癒すカウンセリング366日/西尾和美・著」)


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どんな権威者であっても、他者の信条、思考、趣味、行動etc...までも支配するべきではないのです。権威者としての器を有している人物ならば、そこまで手を入れようとはしないでしょう。自分の目標を持ち、それに協賛してくれる人たちを部下・同僚としてパートナーシップを結びはしますが、彼らからの賞賛を求めているのではないからです。その代わり、その権威者は部下の選抜にあたっては、人をよく選びます。自分の目標を達成するのに役立つ人材を求めるからです。

一方、単に人々からの賞賛だけが欲しい人は、あまりにも熟練した人や有能な人を部下には持ちたがりません。自分の賞賛がかすむ怖れがあるからです。むしろ、意欲もなければ能力も未熟な人材を選びます。自分がナンバー・ワンであることが重要なのです、そういう人にとっては。精神科医たちは、この手の人々を「ひとかど」とはみません。むしろ、パーソナリティ障害とみます。この手の人たちには「自己愛性パーソナリティ障害」に分類される場合があるのです。アメリカの精神科医の学会で定められた、精神疾患の分類と診断基準というものが準備されています。「DSM-Ⅳ-TR」と呼ばれています。日本語版も医学書院から出版されていて、入手できます。3800円です。それによると、自己愛性パーソナリティー障害について、次のような診断基準が示されています。
 

 

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 空想または行動における誇大性、賞賛されたいという欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人期早期に始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち5つ(またはそれ以上)で示される。

1.自己の重要性に関する誇大な感覚(例:業績やオ能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)。
2.限りない成功、権力、才気、美しき、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
3.自分が特別であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達に(または施設で)しか理解されない、または関係があるべきだ、と信じている。
4.過剰な賞賛を求める。
5.特権意識つまり、特別有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する。
6.対人関係で相手を不当に利用する、つまり、自分自身の目的を達成するために他人を利用する。
7.共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。
8.しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
9.尊大で傲慢な行勤 または態度。
 

 

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解説によりますと、自己愛性パーソナリティ(人格)障害の人は、自分を賞賛してくれる取り巻きを求めるのです。「賞賛されていたい、という欲求」が異常に強い人だからです。賞賛こそ、彼・彼女のパンであり、活力源なのです。裏返して言うと、「この障害の人は批判に弱い。あるいは批判を全く受けつけない。ごく小さな過ちであれ、それを指摘されることはすべてを否定されるように見えるのだ。このタイプの人は強迫性パーソナリティの人と同様、完璧主義者なのである」。

なので、このタイプの人は批判されると、耳を貸さずに怒り出します。言を弄して徹底抗戦し、なかなか自分を省みるということをしません。「だが自分の非を受け入れざるを得ないと悟った瞬間に、彼はすべてのものが一切合財台無しになったような思いに駆られ、ひどく落ち込む」。

このタイプの人を「神さま」扱いにして、自分の「主」としてしまうと自己を破壊せざるを得ないところまで追いつめられかねません。それは次の二つの理由によります。
1.
「過剰な自信とプライドとは裏腹に、現実生活においては子どものように無能で、依存的であるのも、このタイプの特徴である。そのどちらもが、しばしば社会生活に不適応を起こす原因となる。というのは、批判によって不完全性、欠点が露呈してしまうのを怖れて、社会的引きこもりがみられるのである。自らを『不遇の天才』と考え、その者にかしずく者(たいていは親か配偶者、子どもの場合もある)にだけ王のように君臨して、あごでこきつかうのである」。
2.
「自己愛性人格障害の人は第一印象では、非常に魅力的で好感を持たれることが多い。しかし、つき合いが深まってくると身勝手で、粗野な面が露呈し、驚かされたり、失望したりさせられることが多い。

このタイプの人は対人関係においては、二種類を求める。
①賞賛だけを捧げてくれればいい大多数の者と、
②本人の世話をし(なぜなら、しばしば現実面では無能力であるからである)、
さまざまな現実問題の処理を代行してくれる依存対象となる少数の者、
…である。

彼にとってあなたが前者であるうちは、お客さま扱いをされ、あなたは彼に魅了される。が、交際が深まり、あなたが後者に代わったとたん、あなたは召使いやお手伝いさんの待遇に変わってしまうだろう。だが、あなたがこのどちらかであるうちは、彼・彼女にとってはあなたはまだ存在価値を認められる。しかしあなたがあなたの人権・権利を主張しようものなら、もう彼・彼女にとってあなたは前者、後者のどちらでもなくなるのだ。すると彼・彼女は使い終わったティッシュのように容赦なくあなたを排除するのである。

このタイプの人にとって、他者というものは、『特別な存在である自分』のためになんらかの奉仕をする人たちに過ぎない。彼・彼女は他者の内面や、他者の存在の尊厳をほとんど顧みない。あまりにも自分が重要なので、他者のことや、他者の問題はどうでもいいことなのだ。ある意味で他者は、自分の都合や利益のために利用するものでしかない。(上記の診断基準の、5,6,7を確認されよ) 利用価値がなくなったり、思い通りに動いてくれなくなったら、その関係は終わりを告げる。利用価値がなくなった者は無価値でつまらない者として言いふらされ、公にさえ宣告され、否定される。非常に冷酷で搾取的な構造がそこには認められる。

他者に対して搾取的であるという点では、反社会性人格障害に共通するものがあるが、異なるのは露骨な搾取ではなく、一見合法的であったり、優雅であったりすらする点だ。
(ルナ註: 今わたしはエホバの証人の一部の長老たち、支部委員たちを念頭においていますが、もっと一般的にも言いえることです。この診断基準はきちんと統計を取って定められたものですから)
がしかし、心の底では他人の気持ちに無関心で、共感性が乏しいという点では共通している」。

ですから、権威者であるというだけの理由で盲目的に恐れかしこんだり、彼・彼女の権威によって自分のアイデンティティーを立てようなどともくろむのは、自分に自信を失っている間はなおのこと危険なのです。むしろ「こうした人たちからは離れなさい(テモテ第二3:5)」、できればこちらから離れるのがいいことです。

自分に自信を持てないでいる間は、とかくわたしたちは誰か権威者の威光を借りて胸を張ろうとするものです。他の人たちが、自分に一目置いているのを態度で示されないと不審に思う、というのはかなり自分に劣等感が大きく根を張っているということの証拠です。本当の自分を知られればきっと彼らは自分を見下すに違いないと、勝手に思い込んでいるのです。…そんなことはない、こうでなければダメだ、ああでなければダメだ、というのはエホバの証人や、そうでなくても人間的に未熟な親たち、上司たちです。自分はどんなに欠点があっても、生まれてきたのですから、生きている価値はあるのです。むしろああでなければ、こうでなければという理由で蔑む人たちこそ未熟なのです。自分に自信がないのです。

だから、もうこれからは他人にへつらわせることなど考えないようにしようよ、ね。「自分」という者に確信が持てれば、誰かが低めよう、貶めようとしてきても心の中で自分を主張できます。「これがわたしだ、あなたたちの指摘するわたしの性質は欠点となる場合もあれば、長所となる場合もある。わたしが生きてゆくのに不足することはない」と。まいた種は刈り取る、これは真実です。誰かに対して上から見おろすように接すると、相手はかならず反発します。あなたに権力があれば、面倒を避けるために表面上は服しているように振る舞っても、内心では、心ではあなたを見下すでしょう。でも相手を尊重する態度で接するようにすれば、相手の人は早く警戒心を解くでしょう。そうすれば気持ちと気持ちを触れ合わせることがより容易になるのです。わたしはわたしの人格を尊敬して欲しいし、わたしを欠点をも含めて、個性まるごと受け入れ、尊重して欲しいと思います。あなたはそう思うのではありませんか。わたしはそのように、ほんとうに切望します。

だから、「自分にして欲しいことはまず相手に対してしなさい(マタイ7:12)」。
ね、他人の威光など当てにしないで、自分で目標を見つけ、そのために生きるようにしたら、もう他人と違うからってビクビクしないで済むようになります。「自分」というものを確信できるようになります。そうなれば、同じようにして生きている心の素直な人たちがきっと目に留めて近づいてきてくれるでしょう。その時わたしたちはすばらしい特質を持った健全な友人を得ることになります。そうなるのに参考になる本をわたしはいろいろ見つけてきました。もう二度と他人に操作されたくない、自分らしく生きてゆきたい、もっと心から信頼しあえる、温かい人間関係を持ちたい、このように考えている方々にぜひ紹介したいと思いのです。

 

 

 

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2 コメント

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初めまして (エコエコアザラク)
2005-08-03 08:59:03
初めまして。

gooのブログの検索で見つけました。

以前証人だった者です。

「権威者を・・」の話、我が意を得たりでした。

これがものみの塔聖書冊子協会の本質だと思います。

「自己愛性人格障害」は協会の行動の全てを説明するキーワードですね。

協会という魔物の全貌を見切れました。

現役ではないですがうなりました。
返信する
はじめまして (ルナ)
2005-08-04 19:16:28
こんにちは、エコエコアザラクさん。



コメントをありがとうございます。

「ものみの塔協会を解くキーワード」、うまい言いかたですね。言い得ているかもしれません。



エホバの証人を離れて、こういう反JWサイトをご覧になる人って、エホバの証人によっていっぱい悔しい思いをさせられたのでしょうね。わたしもそのひとりです。



よく、いい思い出もあるから、全く否定はできないっておっしゃる方をお見受けします。気の会う友人がいるからとか、そんな理由で、わたしのように徹底的にエホバの証人をたたくのを嫌われるようです。



でもそれは偏狭だと思います。ナチス・ドイツが残酷だったからといって、ドイツ国民がみんなそんな風だったわけじゃないし、ナチスの幹部だって、親としてはふつうのお父さんだったり、ヒムラーのように動物愛護家もいました。でも、そんなふつうの人たちが大勢になると、あんな残酷なことを容認するようになるのです。



ひとりひとりは自分にとっていい人、いい親、いい配偶者かもしれない。では自分たちの所属する組織はどんなことを行っているのか、そのことに考えを向けようとしないことは大目にみていいのでしょうか。根拠の薄い教えを意固地に守るために、命を粗末にするっていうのは決して看過してはいけないことだと思います。



自由というのは成長や、発展や、進歩に向かっている場合に主張できることであって、退行、退廃、破壊の自由なんていうのは間違っているのです。それらを「自由」と見なしてはいけないのです。進路を決定することについて言えば、親の希望とは別の進路を選ぶ自由はあります。でも社会を破壊するために革命家になる自由とか、手っ取り早くお金を稼ぐために売春女になったり、犯罪者になることは、自由の行使とは言いません。言うべきではありません。それらは堕落であり、逃避です。



同じことがエホバの証人にも言えると思います。信教は自由だからといって、助かる命をむざむざ死に渡すことは自由の行使じゃない。それは人類が積み上げてきた思索と試行錯誤の結実である文明への破壊的行為です。なぜなら、それは誤った知見に基づいた、他者の(特に子どもの)生存権を破壊する行為だからです。



1947年制定の、ドイツのバーデン憲法はナチズムへの反省から、「自由権を破壊し、または人民、国家、もしくは憲法に反対して暴力を行使する政党その他の団体を設けることは、禁止される。そういう団体の職員は、選挙または人民投票に参加することができない(第118条)」と規定していましたし、さらに「憲法により市民に保障された基本権および自由を濫用し、それらの権利や自由を破壊しようとする者は、自身を憲法の外に置くのであり、国の正当防衛措置に対して、憲法上の基本権や自由を援用することはできない(第124条)」と定めました。以上の憲法条文は岩波文庫の「人権宣言集」より引用しました。



誤った知見に基づいて医療を拒否し、死を選択することを「自由・権利」などと見なしてはいけないのだと、わたしは考えています。むしろそのような人権への破壊的な思想集団はたとえ宗教がらみであろうと設置を禁ぜられるべきなのです。何のために、自由と基本的人権を擁護するためにです。



自己愛性人格障害者の歪んだ欲求を満たすために他者がその存在、その人格ごと弄ばれていてはならない、ひとりひとりがいい人であるならなおさら!



わたしは、稚拙であろうとこの信念でこれから生きてゆくつもりです。
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