世の終わりのキリスト全能神

終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられます。考察したい者は全能神教会にご連絡してください。

自分の本性を目の当たりにする

2018-06-29 19:45:49 | 証しの文章

自分の本性を目の当たりにする

  教会での働きの必要性から私は配置転換となり、新たな場所で働きをすることになりました。当時その地での伝道活動は低調で、兄弟姉妹たちの状態も概してよくありませんでした。それでも聖霊に心を動かされた私は、任された仕事を全て自信をもって引き受けました。仕事を引き受けた私は、大きな責任感と神からの導きと示しに満たされ、自分は相当意志が固いとさえ思っていました。自分には能力があり、この仕事を上手くできると信じていました。でも実際には、聖霊の働きについて、そして自分の本性について、私はまだ何も分かっていませんでした。完全に自己満足と自画自賛に浸かって生きていました。

  私の心が自尊心でいっぱいだったちょうどそのころ、あるホストファミリーのお宅で、私の担当する働きの責任者をしていた兄弟と出会いました。彼に仕事の進捗状況を聞かれたので、きっと私の能力や優れた洞察力に感心するだろうと思いながら、彼の質問にひとつひとつ答えていきました。ところが私の予想は外れました。私の話を聞き終わると、彼は感謝して頷きもしないどころか、私が十分成果を出しておらず、人の動員の仕方も不適正で、何の成果も出していないなどと言ったのです。彼の不満げな表情と自分に対する評価に、私の心は突然冷めてしまいました。そして思いました。「成果が不十分だと言うの?もし私が何も成果を出していないと言うのなら、成果を出したと言えるには一体どれだけやれば良いの?こんなつまらない仕事を嫌がらずに、進んで引き受けた、それだけでも十分なはずなのに、彼は私が仕事を上手くやっていないと言うの?」私の心はひどく反抗的になり、傷ついて涙がこぼれそうになりました。そして私の中の傲慢、反抗心、不満といったものが突然姿を現しました。「私の力ではこれが精一杯よ。私なりに最善を尽くしたわ。不十分なら誰かほかの人を探せばいいのよ・・。」私はひどく落ち込み、どうしてよいか分からなくなり、彼がその後何を話しているのか分からなくなりました。その兄弟と会った後の数日間で、自信にあふれていた私は憂鬱になり、落ち込み、数日前まで自分を誇らしく思っていた私の心は悲しみでいっぱいになってしまいました。私は喪失感に包まれました。その暗闇の中で、私は思い出しました。「ペテロは、神を愛する人の姿を実現してみせること、神に従い、神による刈り込みや取り扱いを受け入れ、そして被造物としてのその本分を尽くす者になることを追求した。」(「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より)「それに比べて私はというと、成果が不十分なことを少し批判されただけで腹を立て、辞めたくなっている。これが、自ら進んで神による刈り込みや取り扱いを受け入れようとしている人間か。これがペテロのように神を愛そうとすることか。私の態度は神が嫌われるようなものではないのか。人から仕事ができないと言われたくない、賞賛されたい、褒められたいという思いだけではないのか-これは最も卑しい目的ではないのか。」そう思った瞬間、私の心の中に一筋の光が差しました。私が本を開き、読んでいくと、次の個所が目に留まりました。「あなたがたにとって、己を知るという真理にもっと努力を捧げるのが最善だろう。あなたがたはなぜ神に気に入られないのか。あなたがたの性質はなぜ神に嫌われるのか。あなたがたの言葉はなぜ神にとっていまわしいのだろうか。あなたがたはわずかな忠誠心を持っているからと言って、自分を褒め、わずかな犠牲に対して報われたいと望んでいる。あなたがたは少しの従順を示す時、他者を見下し、つまらない働きしかしないと言って神を軽蔑する。……あなたがたのそのような人間性は、本当に話すのも聞くのも不快なものだ。あなたがたの言葉と行いのどこが称賛に価するのだろうか。……これは笑いものにされるようなことだと思わないか。あなたがたは、確かに自分が神を信じているとわかっているが、あなたがたは神に味方することはできない。あなたがたは確かに自分には価値がないと分かっているが、それでもあなたがたの自慢は変わらない。あなたがたは、自分の理知が既に自制心を失うほどになったと感じはしないのか。そのような理知を持つあなたがたはいかにして神とつながるにふさわしい状態になれるだろうか。自分自身のことを心配してはいないだろうか。あなたがたの性質は既に神に味方することができないほどになってしまったのだ。あなたがたの信仰は、笑いものになるほどではないだろうか。あなたがたの信仰はばかげていないだろうか。あなたは未来をいかにして扱うだろうか。あなたは進むべき道をいかにして選ぶだろうか。」(「キリストに味方しない者は確実に神の敵だ」より)これらの言葉は鋭い刃のように私の本質を刺し通し、私は言葉を失いました。私は自分の姿に深く恥じ入りました。私の理性、そして心の中の葛藤は煙のように宙を舞って消えていきました。その瞬間、私はこれらの神の御言葉の力と権威を心の奥底で自分のものとして理解できました。これらの御言葉の啓示を通して、私はやっと知りました—自分に与えられた働きをするなかで、私は、神に満足して頂くために常に精一杯働き、最高の結果を出そうとしていなかった。現状に満足し自己満足に浸っていただけだったと。神は次のように言われます。「神の前において、人間はいつも子供である」それでも私は、神は自分のような人間をお嫌いになると自覚しないばかりか、誰かに批判されると、不当な扱いを受けたと感じていました。私は実に無知で分別に欠けていました。いつも僅かな実績にも称賛を求め、すぐに称賛を得られなければやる気が失せました。自分のした事を感謝されずに疑問視されればイライラと不機嫌になりました。そう思った瞬間、自分の顔は偽善に満ちていると気づきました。私の働き方は自分の要求と取り引きを伴うもので、不純物でいっぱいであると気づきました。神に満足していただくためでも、神の愛に報いるためでもなく、隠れた動機によって働いていました。

 それまでは、神の御言葉が人間の醜さを露わにするような時でも私の心に光が射すことはなく、神の御言葉は誇張され過ぎだと思っていました。私の目が開かれたのは、ひたすら神が示して下さったからです。今日私が自分の働きを全うできるのは、神が引き上げて下さったからで、神の素晴らしい愛によるものです。それでも私はその事実を大切で価値あるものとせず、何の価値も意味もないものばかりを追い求めていました。人に褒められ、称賛され、注目され、そして誰にとっても存在感のある人でいることを追い求めていました。そのようなものにどんな意味があるというのでしょうか。人はパンだけで生きるのではなく、キリストが語られる一つ一つの言葉によって生きると言われています。でも私は何に頼って生活していたでしょうか。他人が私にどのように振る舞うか、どのように私を見ているか、そればかりを気にして生きていました。そしてそのようなものが私にどのような損得をもたらすかをよく心配していました。僅かばかりの誉め言葉や称賛、慰めや優しい言葉で元気になり、そうかと思えば、非難の言葉を少しでも聞いたり、否定的な表情を見たりすれば意気消沈し、無気力になり、どの方向へ進めば良いか分からなっていました—結局のところ、なぜ私は神を信じているのだろう、人々に認められたいからなのだろうか、と。神の御言葉が明らかにしているように、私にとって重要だったのは、真理でも、人間として生きることの原理でも、神の偉大な働きでもなく、私の肉が愛するもので、私の人生に何の利益ももたらさないものだったのです。周囲が私に示す熱意など、神の私に対する称賛の証明となるでしょうか。私が神の御旨に叶わないなら、私の仕事は無意味ではないでしょうか。神様、私の目を開いて下さり、感謝します。私自身の啓示の体験から、私はキリストの存在と、人類を救うためにキリストが世に来られたことを思いました。人々の神に対する態度はどうだったでしょうか。神は聖なるお方であり、崇められるべきお方、栄光なる神ご自身であるのに、いったい誰が神を尊いお方とし、心の中に神を受け入れ、心から神に栄光を捧げているでしょうか。反抗心や抵抗だけでなく、人が現わすものは神への冒涜であり、拒絶です。それでもキリストは不平を言うことも、人をその罪に従って扱うこともなさらない。神は人々の荒れた心と迫害を拒むこともなく、静かに耐えられます。キリストのその謙虚さや優しさ、寛容を心から褒めたたえる者がひとりでもいるでしょうか。キリストと比較することで、私は自分の心がいかに狭いか、何かあれば不平を言い、いつでも人に褒められたい、認められたいと思う自分に気づかされ、自分勝手で卑劣で、恥知らずな自分の振舞いに気づかされました。このような卑しい性格でも、自分は金と同じくらい尊いと考えていたのです。人間の理性はもはや人間には制御できないまでになってしまった、そう神が言われるのも当然です。私は神の御言葉に深く納得しました。この時、万物の主であるキリストの傍にいたいという強い思いが、私の心の奥深くで自然に生まれました。私は神に祈らずにはいられませんでした。「ああ神様、あなたのご性質、本質、そして善良さを羨望して止みません。あなたと比べることができる人間などいません。あなたが示し、明らかにされ、見せて下さったことはすべて、あなたの美しさ、徳、義、そして権威です。ああ神様!あなたは私の心を開き、私を恥じ入らせ、首を垂れさせました。あなたは私の自尊心やうぬぼれを良くご存知です。あなたのすばらしい指揮と采配なしでは、私を扱うためにあなたが兄弟を送られなかったならば、もうとっくに自分がどのような人間かを忘れていたでしょう。あなたの栄光を盗んでおきながら自分を誇りに思う私は、何と恥知らずだったことでしょう。ああ神様。あなたの啓示と御守りに感謝します。自分の真の姿がはっきりと見え、あなたの素晴らしさを発見しました。ああ神様!私はもう後ろ向きでいたくありません。もう卑しいもののために生きたくはありません。私の唯一の願いは、あなたの刑罰と審判、あなたの鞭と鍛錬を通してあなたを知ること、あなたを求めること、そしてそれ以上に、あなたの取り扱いと刈り込みによって私のなすべき働きを成し遂げ、あなたに報いることです。」


【東方閃電】全能神教会の救い証|全能の神は私に人生の二度目のチャンスをお与え下さりました

2018-06-23 10:39:28 | 証しの文章

東方閃電全能神教会の救い証

「全能の神は私に人生の二度目のチャンスをお与え下さりました」

 2012年7月21日は私にとって最も忘れられない1日、そして私の人生で最も重要な1日となりました。

 あの日、北京の房山区は過去61年で最も激しい豪雨に見舞われていました。午後4時過ぎに、私は外の様子を見に街路に出ると、あちこちが水浸しになっていました。私の家の車は既に水に浮かんだ状態で、未だ水流に流されていなかったのは車の前にあった物が車をブロックして動かないようにしていたからです。この光景を見てとても気掛かりになった私は、すぐさま私と同様に神の信者であった旦那に電話をしたのですが、何度電話しても連絡が取れませんでした。その時、私は神の御心を求めずに、急いで家に戻って旦那と連絡を取ることにしました。

 その後、私と旦那は傘を手に車を見に行きました。私達が車の隣まで行くと、旦那は運転しようと車に入ろうとしたのですが、車は旦那が触れる前に勝手に動き始めたのです。旦那は急いで数歩だけ追い掛けましたが、車は水流に流され、旦那も一緒に引き込まれてしまったのです。これに慌てた私は駆け寄って旦那を掴みたかたのですが、そう動く前に私も水流に引き込まれてしまったのです。あっという間に、私達はこのうなるような水流に60メートル以上も押し流されてしまったのです。丁度その時でした、ミニバンタイプのタクシーが突然私達の目の前に横向に浮かび上がって来たのです。私の旦那はこのタクシーに寄り掛かって体を起こそうとしたのですが、そうする前にタクシーは押し流されて行き、私達も一緒に数メートル押し流されてしまいました。水流の流れが変わった個所で、旦那はついに無理やり起き上がる事ができたのです。旦那は、「早く!あの高いパビリオンに入るんだ!」、と言って、私達は手をつなぎ、やっとの思いで小さなパビリオンの中によじ登っていったのです。丁度その時、洪水はその水位を増し、私達はまた流されてしまわないかとビクビクしながら柱にしがみつきました。私は、この生きるか死ぬかの危機に陥ってから初めて神を頼りにすることを思い出したのです。私は心の中から、「神様!今日私が生きるか死ぬかはあなた次第で御座いますが、私の死もあなたの義となることでしょう!」、と続けて祈りを捧げて懇談しました。私は神から一瞬たりとも離れようとせずに、何度も続けて祈りを捧げ続けました。突然その時、奇跡が起こったのです。沢山の棒が私達の方向に流れる水流をブロックし、洪水に体を打たれ続けても痛みを感じなくなったのです。水位が高くなるにつれ、私達は神を讃えながら祈りを捧げ、讃美歌を歌い続けました。後に、水流の勢いは増し続け、私は完全に疲れ果ててしまい、これ以上は柱にしがみついていられないと思いました。私は慌てて、「これ以上は無理。私はこれで終わりだわ!」、と旦那に叫びました。そして突然、私は洪水に飲み込まれてしまったのです。私の旦那は急いで私を掴もうとしたのですが、その瞬間が私の生死の分かれ目となったのです。丁度その時でした、車が私達の前に浮かび上がり、偶然にも柱の間に挟まったのです。急流は車の両サイドを流れるようになり、私達の無事が確保されたのです。神はなんて素晴らしいのでしょう!神は本当に全能なお方なのです!あの日、神が私を御救い下さっておらなければ、私は洪水に流されてしまいどこかで命を落としていたことでしょう。全能の神が、私に人生の二度目のチャンスをお与え下さったのです。神はこれについてこう仰っておられます、「神は自分のいのちを使って生けるものといのちのないもの両方のすべてのものを供給し、神の力と権威によって、すべてに良き秩序をもたらすのである。これは、誰も想像できず、たやすく理解できない事実であり、これらの理解不可能な事実こそが、神の生命力の顕示と証明なのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神は人のいのちの源である」より)

 こうして私達は5時間も雨に打たれ続けました。実は、それまでに、レスキュー隊員数人が既に私達を発見していたのですが、水流の勢いを見た彼らは自分達が流されてしまうことを懸念して、私達を救助しに来ずにただ単に遠くから見つめていたのです。明らかに、人は災害発生時には自分勝手でどうすることも出来ないのです。全能の神のみがいのちの源であり、それ以上に、神のみが時にかなって私達を救うことが御出来になるのです。全能の神から離れるということは死ぬということなのです。私は神の愛を個人的に体験できたことを踏まえ、「私は、本日より、意を決して全能の神に従い、神から授かった御救いに対して、神の優しさの恩に報いることが出来るよう自らの個人的な経験を用いて福音を広げ、より多くの人々を神の前に導いて行く」と神に誓いたく思います。


 

私たちについて:全能神教会の紹介
世の終わりのキリスト全能神は、イエスの再臨です、「東方閃電」全能神教会を考察しまょう



【東方閃電】全能神教会の証し| このような奉仕は本当に軽蔑に値します

2018-05-14 12:36:00 | 証しの文章

東方閃電全能神教会の証し 

このような奉仕は本当に軽蔑に値します

 2、3日前、教会は私の働きを変更しました。この新しい働きを任命された時、「この最後の機会を使って兄弟姉妹と集会を持ち、物事について明確に話し、彼らに良い印象を残さなければならない。」と考えました。そのため、数名の執事と会い、緊密な時間を過ごしている時に、「ここを出て、別の働きに異動するように言われました。あなた方には、私の後任として来るリーダーを受け入れ、1つのハート、1つの心で彼女と協力して働いて欲しいと思います。」と言いました。私の言葉を聞くやいなや、そこにいた姉妹のうちの数名は青ざめ、顔から笑顔がなくなりました。私の手を握りしめる人もいれば、私を抱きしめる人もいて、彼らは泣きながら、「行かないでください!私達をほっぽり出し、私達が必要としていることを無視しないでください!・・・」と言いました。ホストファミリーの妹は、特に私を行かせたくないようでした。彼女は、「あなたが私達とここにいるのはとても素晴らしいことです。あなたは、苦難を耐えることができる人で、真理について話すのが上手です。私達があなたを必要とする時はいつでも、側にいて、辛抱強く私達を助けてくれました。あなたが行ってしまったら、私達はどうすれば良いでしょう。・・・」と言いました。私と別れるのを彼らが嫌がる様子を見て、私の心は喜びと満足感で一杯になりました。私は、「神に頼りなさい。できる時には、あなた方に会うために戻ってきます・・・」と言って彼らを慰めました。

 しかし、その後、兄弟姉妹との別れの場面を思い返すたび、心の中は不安になりました。「このような悲しみの表現は当たり前なのだろうか。なぜ、彼らは私との別れをこんなにも悲惨なことのように振る舞ったのだろうか。そもそも、なぜ、教会は私を異動させたいと思ったのだろうか。」と考えました。心が疑いの雲で一杯になると、神の前に来て、よく答えを求めたものでした。ある日、「神に仕えるために理解すべき原則事項」を読んでいる時に、次の聖句を目にしました。「神に仕える者は、全てのことにおいて神を高め、神の証を立てなければなりません。こうして初めて、他者に神のことを知ってもらうという成果を達成することができます。そして、神を高め、神の証を立てることによってのみ、他者を神の元に連れて行くことができるのです。これは、神に仕える原則の1つです。神の働きの最終的な成果は、まさに、人々に神の働きを知ってもらい、これにより神の元に連れて行くという働きです。指導職に就く者が神を高めず、神の証人としての役割を果たさず、その代わりに、自分自身を常に見せびらかせているならば、彼らが実際にしていることは、神に対抗する者として自分自身を置いているということです。・・・人々の魂を巡って、実際には、神と競っているということです。・・・ですから、もし誰かの奉仕が神を高めず、神の証を立てるものでなければ、彼らは自分自身を明らかに見せびらかせています。彼らが神に奉仕していると高らかに宣伝していたとしても、実際には自分自身のステータスのために働いており、本当は肉の満足のために働いています。彼らはその働きの中で神を高めることも、神の証を立てることも一切ありません。誰かが神に仕えるためのこの原則を裏切っている場合は、それは、神に抵抗していることを単純に示しています。」 (「全能神教会の仕事計画の記録・選集」内、「神に仕えるために理解すべき原則事項」より)。読めば読むほど、心が苦しくなっていきました。読めば読むほど、恐ろしくなっていきました。自責の念が何倍にも膨れ上がりました。兄弟姉妹が私に向けて示した態度から、私の働きは実際には、兄弟姉妹を神の元に連れて行くものではなく、私の元に導くものであったことが分かりました。そして、兄弟姉妹と過ごした時間の中の、数多くの場面を思い返さずにはいられませんでした。私はホストファミリーの妹に、よく、「あなた方は全員本当に幸運です。あなたの家族全員が信者です。私が家にいる時は、夫は1日中私を不当に扱っています。私を叩くか、ひどいことを言うばかりです。私は最大限自分の本分を尽くしてきました。神への信仰により、私がどれほどのひどい目に耐えてきたかを見てください。」と言っていました。兄弟姉妹が苦難に遭遇した時は、神の心を彼らに話すことはなく、神の働きや神の愛の証人者として振る舞いませんでした。その代わりに、常にまず肉を優先させ、私がとても親切で思いやりのある人だと人々に思ってもらえるようにしました。兄弟姉妹が原則に反する行いをしているのを目撃した時は、いつでも、対立するのを恐れ、彼らを助けたり、方向性を示したりすることはなく、常に、人との関係を守ろうとしました。私の全ての行いにおいて、私が一番気にしていたことは、人々の心の中にある私の立場であり、私のイメージでした。・・・私の一番の目的は、常に、他者の共感と称賛を得ることで、これは私の満足感を最も満たすものになっていました。これは、私が自分自身を高め、自分自身の証を立てていたと言うことの、真の現れです。私がした全てのことは、実際には、神に対立することでした。私は、神の次の言葉を思い出しました。「わたしはあなたがたの間で業を行っているが、あなたがたは依然としてそのような状態である。あなたがたを思い遣り、見守る者がいつの日かいなくなったら、あなたがたは皆お山の大将になるのではなかろうか。その時、あなたがたが大惨事を引き起こした時、誰がその後始末をするのであろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題:裏切り(1)」より)神の言葉は、私の神への奉仕が実際はいかに自分自身の証を立て、自分自身を高めるものであったかを再び私に気付かせてくれました。そして、このような態度がもたらす深刻な結果を私が認識するのを助けてくれました。神の言葉は、大天使のような自分の本性が私を専制的な詐欺師にし、私が大きな災害をもたらしていたことに直面するのを助けました。いかに私の神への奉仕が奉仕の正しい原則に従い達成されておらず、神を高めず、神の証を立てず、本分を尽くしていなかったについて考えました。その代わりに、自分自身を見せびらかし、自分自身の証を立て、兄弟姉妹を私の元へ連れて来る日々を過ごしていました。このような奉仕は軽蔑に値するものではないでしょうか。これは、単に、キリストの敵の“奉仕”ではないでしょうか。神の寛容と慈悲がなければ、既に神から呪われ、打ちのめされていたことでしょう。

 同時に、私は畏れと恥ずかしさで震えました。膨大な借りがあるという念が心一杯に溢れ、地面にひざまずき、苦い気持ちで泣きながら、神に、「あぁ、神よ!神の黙示と啓示がなければ、私がどこまで深く落ちていたかを知ることはありませんでした。私は、確かに、神にお返しできる以上の借りがあります。私を救済してくださり、ありがとうございます!神よ、私の魂の奥にある醜く卑劣な自分自身を見る手助けをしてくださり、ありがとうございます。私の神への奉仕が実際には神への抵抗となっていたことを示してくださり、ありがとうございます。自分の行動により裁かれるならば、神の呪いにのみ値するにも関わらず、神は私の欠点に基づき私を取り扱うことはありませんでした。そうする代わりに、神は私の目を開かせ、私を導き、私が悔い改め、最初からやり直せるチャンスを与えてくれました。あぁ、神よ。私はこの経験を教訓とし、生涯忘れることはありません。神の刑罰と裁きが常に私と共にありますように。そして、それが、早く、サタンであるこれまでの自分を捨てるのを助け、畏敬の念を持つ真の神の従いとなるのを助け、私が神に負う大きな借りを返し始められますように。」と、懇願しました。

ディン・ニン (山東省荷泽市)


[東方閃電]全能神教会|証しの文章|2.私は災害の中で神の御手を目にしました

2018-03-05 00:39:02 | 証しの文章

東方閃電全能神教会|証しの文章

2.私は災害の中で神の御手を目にしました


   7月21日に北京で洪水が発生した翌日の2012年7月22日、私はその2か月前に世の終わりの神の働きを受け入れたばかりの姉妹を急いで訪れました。彼女の住む村に入るや否や、私は目の前の光景を目にして言葉を失いました。道路は崩れ、アスファルトの下に敷かれたその基盤がむき出しになっているのが見えました。山から崩れ落ちた石の破片があちこちに転がっており、大きいものの中には重量が数トンほどのものまでありました。泥は高さ30センチまで山積し、山の斜面から流れ落ちる雨水は既に小川と化していました…村全体が完全に混乱した状態で、その姿は完全に変わり果てていました。

   私は村を通り抜けて、山を半分登った所で姉妹のリーさん(新しい姉妹)を見つけ、彼女は災害がどのように起こったかを説明してくれました。

   21日の夜、この姉妹の旦那は二人の住む石造りの家の隣にある小さな小屋で料理をしていました。二人は会話をして笑いながら、この暴風雨がどれほど恐ろしいものに発達するかなどは想像もしていませんでした。姉妹が自分の履いていた膝まであるガロッシュに水が入り込んでいるのに気が付いた時、彼女はとても嫌な予感がして、「大変だわ!急いで、山を駆け上がらなきゃ!」、と叫んだのです。彼女がこう言ったとたん、二人は洪水が丘から流れ落ち、地面を高さ1メートルまで水浸しにしている光景を目にしたのです。その瞬間、姉妹は恐怖のあまり気が動転してしまい、慌てて旦那を引っ張って、家の裏に生えていたニセアカシアをいつくか使って山の斜面を登り始めたのです。高地に辿り着いてからおよそ1分後、山を勢いよく流れ落ちる激流が岩と丸石とがれきの地滑りを引き起こしたのです。電動スクーター、自転車、中庭にある小屋、更には石造りの家の角の部分までもが猛烈な水流によって荒々しく流されて行ってしまったのです。

   その後、姉妹は、「私は沢山の物が流されていくのを見ても怖くはなりませんでした。それどころか、特に心の中では落ち着いて安らかな気分がしました。私達は物を沢山失いましたが、私には未だ神が側にいて下さりました。水流の勢いはとても激しかったから、落ちた人は間違いなく命を落としていたことでしょう。でも、私達は無事でした。これは全能の神が私達を御救い下さったからです」、と言ったのです。姉妹は片づけをしに家に戻った時、偶然にも完全に無傷な状態の『神の三つの段階の働きの実録精選』のコピーをベッドの上で見つけたのです。机と椅子を含んで、部屋の中にあった全ての物は水に浮かんでいる状態であったにもかかわらず、ベッドは水浸しになっておらず、本も濡れていなかったのです。姉妹は興奮して、“神様は意図的にこの本を私に御残し下さったのだわ。今日からは神様に従うために最善の努力をしないといけないわ!”、と言ったのです。彼女はまた、普段は仕事から帰って着替えをしたら、服をそのままあちこちに置きっぱなしにするところを、その日はハンガーにかけたとも言っていました。後に、彼女は自分の所持品を整理していた時、服のポケットの中に2000元が残っていたのを見つけたのです。これは全てが神の御加護によるものだったのです。姉妹と私は、彼女がキノコの栽培をしている小屋の裏を歩いていた時に更なる驚きの光景を目にしました。この小屋から別荘エリアにつながる道に岩と丸石が30センチか40センチほどに山積されていたのです。これらが山から流れ落ちてきた急流が彼女のキノコ小屋と石造りの家に向って打ち付けるのを防ぎ、更にはこの急流を枝分かれさせて、横に流れて行くように仕向けていたのです。まるで洪水と石に目ができて、それぞれが見えるようになっていたかのようでした。神の御行為は正に奇跡的なのです!

   実は、災害を利用される神の御目的は人類を完全に破滅させるためではなく、むしろ私達の魂を揺り起こして私達全員が大惨事の中でいのちの本質を見抜けるようにして、その結果、私達が自分達をサタンの罠から解き放ち、神の御救いと御加護を受けるために神の元に戻れるようにするためにこういった災難を御遣いになられるのです。同時に、神は私達が神を真の意味で知り、神の御行為を自らの見で確かめ、神に属することが出来るようにするために、災害を遣うことを御望みになられるのです。これが神から私達人間に対する愛であり、御慈悲なのです。神の御言葉を歌った讃美歌「神は裁きとともに降臨する」の歌詞はこのように歌われています。「神は赤い大きな竜の国に降りて来たが、顔を宇宙に向けている。すると全世界は震え始めた。神の裁きを受けない場所などあるだろうか?災難のもとにない場所はあるだろうか?どこに行こうと、神は天災の種をばら撒く。しかしそれを通して救いを与え、神の慈愛を示す。神は更に多くの人々が、神を知り、見ることを望んでいる。人はもう長らく神を見てないが、今はとても実際的な神を畏れるようになる。」

   兄弟姉妹の皆さん、災害が頻繁に起こるこの時代、私達はどのようにして歩む道を選択すべきでしょうか?私達はどのようにして、神の御心を気遣いながら最終的な検討をすべきでしょうか?大惨事は規模が大きければ大きい程、神様は増々御心配されます。私達が前向きに率先して神と協力し合って行動できるように、神の御召しと神からの任務を受け入れられるように、もっと多くの魂を神の前に導くことができるように、そして最後にいざという瞬間が訪れる時には、神の国の福音を広めて私達の存在そのものを神に捧げることができるように、神のひたむきな思し召しと熱心な御意図を理解できるようになりましょう!

迎新(北京)
2012年8月15日


素晴しい証しです。全能神に感謝します!