世の終わりのキリスト全能神

終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられます。考察したい者は全能神教会にご連絡してください。

個人的な復讐の本質

2018-10-26 12:07:20 |  キリストの裁きを経験する証し

 

  少し前に、私たちの地域をいくつかの地区に分ける必要がありました。リーダー選出基準に基づくと、比較的相応しい候補者として一人の兄弟がいました。私は彼を地区リーダーに昇格させる準備をしました。ある日、この兄弟と話していると、私が働きにおいて威圧的で、あまりにも張り詰めており、私との会合はあまり楽しくないと彼は言いました。これを聞いて、私は軽く扱われていたと感じました。嫌な気持ちになり、すぐさまこの兄弟に対するある種の見方が生じて、地区リーダーに彼を昇格させるのは止めることにしました。

   その後、ホストファミリーの家に戻りましたが、気分は晴れず、気持ちを落ち着かせることができませんでした。その時、私は、人の説教にあった「適切な働きをしない放漫なリーダーは解任されるべきである」という主題の内容を思いました。「リーダーが、自分が不愉快に感じ、自分に反対してくる、自分とは全く異なる意見を持つ兄弟姉妹をどのように扱うかは非常に重大な問題で、慎重に対応する必要があります。リーダーが真理に入らないと、この種の問題に遭遇した時、このような人物を差別したり、攻撃的な態度に出たりします。このような行動は、神に抵抗し、神を裏切る赤い大きな竜の本性を正確に露呈しています。リーダーが真理を追求し、良心があり、分別をわきまえている人であれば、真理を求め、適切に対応するでしょう。…人として私たちは、公正かつ公平でなければなりません。リーダーとしては、神の証人となるよう、神の言葉に従い物事に対処する必要があります。私たちが、私たち自身の堕落した性質に従い、自らの意志のままに行動するならば、恐ろしい破綻が待っているでしょう。」この兄弟と会話する前と会話した後の、私の全く異なる二つの態度を比較せずにはいられませんでした。私はもともとこの兄弟を地区リーダーに昇格させるつもりでした。しかし、会話の中で、彼は私に面子を失くさせるようなことを言ったため、私は彼に対する考えを即座に変えて、もうそうしないことにしたのです。これは、まさに個人的な復讐のための職権乱用ではなかったでしょうか。この行為は、異議を唱える人を差別したり、攻撃したりする赤い大きな竜と何が違うと言うのでしょうか。このような行動は卑劣ではないでしょうか。教会は社会とは同じではありません。教会は、どのレベルにいるリーダーにも、真理を愛し、真理を受け入れることができる人間性のある人であることを求めます。真理を認識せずにおべっかを使う人は求めていません。一方、私がしていたことは、神の心とは正反対のことでした。候補者を選んでいた時、私は自分自身の利益のみを考ており、相手が私に不快なことを言い、私を支持しないとなると、直ちに彼を差別し、腹を立てたのです。私のこのような行動は、神に抵抗し、神を裏切る赤い大きな竜の本性を正確に表していなかったでしょうか。これは、「我に従わないものは滅びよ」というサタンの性質を正確に露呈してはいなかったでしょうか。このような振舞いはサタンの下僕のものであり、神の働きを混乱させ、神の敵となるものではなかったでしょうか。私の心は非常に邪悪ではないでしょうか。教会はある地位につく人を選出しようとしており、この兄弟は地区リーダーにうってつけの候補者でした。彼の私に対する評価は、私にとっては不愉快でした。私はこの件に関して真理を求め、彼の意見を受け入れるべきでした。私は自分を省みて、自身を知り、働きにおける私の欠点を補うべきでした。しかし、私は自分自身の中に理由を探そうとしなかったばかりか、私の中に潜むサタンの本性に身をゆだね、彼を差別し、復讐しようとしたのです。私はなんと傲慢で、人間性が欠けているのでしょう。私のこのような性質に、神は強い嫌悪感をお抱きになります。その後もこのような堕落した本性のなすがままにさせていたら、私は神が見えない、悪の傲慢な下僕として最終的には荒んでしまっていたことでしょう。私は本当に危機的な状況にいました。あの時、私の中に赤い大きな竜の毒が一杯あり、神に対する完全な反目行動が現れるのを目の当たりにし、自分の考えや行動に身震いせずにはいられませんでした。神は本当にこれをお嫌いで、うんざりしておられます。

  神よ、すばやく啓示を授け、私の差別的な行動を防ぎ、私の中にある悪の本性やあなたの敵として振舞うサタン的な面をよく見ることができるようにしてくださり、ありがとうございます。今日から、私はこの性質を変えるべく模索していきます。私にとって心地良くない人や物事に遭遇した時は、私自身のことは脇に置き、肉に背き、すべてのことにおいて教会の利益を守り、私の責任を果たしていけるよう最大限の努力をするように努めます。


神の言葉が私を覚醒させました

2018-10-25 14:20:58 |  キリストの裁きを経験する証し

 

 過去に、「偉大な白い玉座から逃れる操り人形であり裏切り者」と神様が言った際に、働きのこの段階を受け入れるものの神様の刑罰と裁きの苦しみを耐えようとしないため、結局後ずさりしてしまう人々に神が言及していると私はいつも思っていました。それ故、どんな理由であれ兄弟姉妹たちがこの道から退くのを見るといつでも、私の心はそうした人々に対する蔑みで一杯になりました。偉大な白い玉座から逃れ、神様の懲罰を受けるべき別の操り人形であり裏切り者もいます。それと同時に、私は神様の裁きを受け入れるうえで正しく行動しており、神様の救いを受けるのはそう遠くないと感じていました。

 ある日、私がデポーションを行っていたとき、私は「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」というテキストで神様の以下の言葉を読みました。……裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。もしあなたがこうした真理を重視せず、避けたり、別の道を考え出そうと常に考えたりしているなら、あなたはひどい罪人だとわたしは言おう。もしあなたが神を信じていても、神の真理やその心を追求せず、あなたを神に近づける道を愛さないなら、あなたは裁きを逃れようとしている者だとわたしは言おう。あなたは、偉大な白い玉座から逃れる操り人形であり裏切り者で、神は自分の目から逃れようとする反抗者を誰ひとり容赦しない。そうした人は、更に重い懲罰を受ける。裁かれるために神の前に来たもので清められている者は、永遠に神の国に住むことになる。」これらの言葉を熟考した後、私はついに偉大な白い玉座から逃れる操り人形であり裏切り者はこの道から後ずさりする人々だけを指しているのではないということを理解しました。さらに重要なのは、神様に従いながらこれらの真理を尊重しない人々、これらの真理から外れた新しい道を探し、常にこれらの真理を忌避している人々、神樣の刑罰と裁きに従おうとしないのに、神様によって清められようとする人々を指しています。私は神樣の啓示と導きの下で、自らの行動を反省し始めました。神様は今、人を裁く言葉を表し、苦しみと精錬によって神様と矛盾するものを人から除いています。しかし、神様の刑罰と裁き、苦しみと精錬に直面して、神樣がこうした状況をすぐに変えることを願いつつ、私はいつも逃げようとしています。これは真理を避け、真理から外れた道を探しているのではないでしょうか。神樣が連れてきた人々や物事が私の個人的な考え方に合わない、あるいは私が後ろ向きな状況に陥ると、兄弟姉妹たちとの交流が私の問題を解決し、神樣への私の誤解を解消し、神様との正常な関係が復活する一助となっても、私はまだ抵抗し聞くことを拒否しています。神様が言うように、これは真理を求めておらず、私を神様にさらに近づける道を愛していないということではないでしょうか。仕事を行うおざなりな方法のために私が取り扱われ、刈り込まれるとき、私はいつも自らを説明する言い訳を探しています。これは真理を受け入れることを拒む本質ではないでしょうか。私は実生活で順応することがよくあります。それが真理であることを知っているときでさえ、私は肉を裏切り真理を実践することを拒否しています。これは裁きを受け入れるだけで浄化されることを求めていないのではないでしょうか。……私はそのことについて考え、さらにはっきりと私はそのことを理解しています。偉大な白い玉座から逃れていると神樣が言及する人々は、教会を離れる人を指すだけではありません。もっと重要なのは、それは真理を受け入れず、神樣の裁きに従おうとしない私たちの心を指しています。今になり、初めて私は恐怖や慄きを感じ始めました。私は教会を去っていませんが、私の心は常に神樣の裁きを避けようとしていました。私は正に、神様の裁きの席から逃れる操り人形であり裏切り者ではないでしょうか。しかし私は、私がやがて神樣の救いを受ける一方で、教会を離れる人々だけが神様の玉座から逃れる操り人形であり裏切り者であると信じていました。神様の言葉に対する私の理解があまりにも一方的で浅はかで、そして神様の働きについての私の認識があまりにも不足していたことを私は理解しています。今や、神様の刑罰と裁きを誠実に受け入れ、性質の変化を成しえた人々だけが神様の救いを正当に受けます。一方、私は自分の想像に生き、真理を渇望せず、自らのいのちに責任を持たず、危機感や切迫感が全くありませんでした。これを続けていれば、私は正に神様の懲罰の対象になるのではないでしょうか。

 神様の言葉の啓示のおかげで、私は自らの考えや想像から目を覚まし、自分が神様の刑罰や裁きを受け入れようとしている者ではないことを認識しました。それはまた、私が危機に瀕していることを私に理解させました。やがて神様により清められ、完全にされるために、今後私は心をすべて神様に捧げ、神様の刑罰と裁きに従い、最大限の努力を行って真理と性質の変化を求めます。

 


私は他人と協力する事を学びました

2018-10-16 20:57:26 |  キリストの裁きを経験する証し

   

   私は、神の恵みと引き上げにより、教会のリーダーとしての責任を引き受けました。当時、私はとてもやる気に満ちており、神の前で次のように決意をしました。「どんな事に直面しようとも、私は自分の責任を放棄しません。他の姉妹と上手く協力して真理を求める人になります。」しかし、私は単に決意をしていただけで、実際にはどのようにして調和のとれた仕事関係の現実に入ることができるのかを知りませんでした。ペアを組んだ姉妹と最初に働き始めた時や、彼女と意見の食い違いがあった時、口論になった時など、私は自分のパートナーを非難しないよう、神に私の心と魂を守ってくださるよう意識的に祈りを捧げました。しかし、私はパートナーと衝突しないよう、自分の行動をコントロールする事をのみに意識を向けていたため、真理に入る事ができていませんでした。したがって、時間が経つにつれ、この姉妹とはますます衝突するようになりました。ある時、私は、ある姉妹を神の御言葉の伝道の働きへと昇格しようとすると、一緒に働いていた姉妹がこの姉妹は不適格だと言いました。候補者を変えた後も、この姉妹は依然として不適格であると言い張りました。これをすぐさま不快に感じた私は、苛立ちを露わにこう言いました。「あなた以外は全員が不適格なんですね!」この結果、もう私は二度とこの話を持ち出しませんでした。しかし、彼女がこの件を持ち出してきた時、私は激怒して彼女にこう言いました。「誰でも好きな人を選べばいいでしょう。私はもう知りません!」これ以降は、彼女が何を言ってきても、意見の相違あれば、私は何も言わない様にしました。衝突しないで済むように、心の中に意見を押し隠していたのです。心の中に抑え込むのが耐えられなくなったら、どこかに隠れ、ひどい扱いを受けたと感じながら泣いていました。最終的には、この状況の改善などどうでもよくなり、「あなたが出来るんでしょう。ならば、自分でやれば良いじゃない。やりたい様にやりなさい。恥じをかくところを見てやる!」と思いました。私は彼女をバカにしてやりたいという悪意に満ちた態度を持つようになりました。その後、ある時、私は地域で使用するためのアパートをある姉妹に借りさせました。私はそれを見て、上手く行くと思いました。その地域の姉妹をそこへ連れて行き、家賃の支払いも全て済ませました。これについては全て私が単独で決断し、調整しました。私はこれにとても満足し、一緒に働いているあの姉妹も私を褒め、安心させてくれると思いました。予想外にも、私のパートナーはこれを受け入れず、私は鍋で水を浴びせられた気分にさせられました。彼女はこう言いました。「そんな事絶対に認めません!そのアパートは理想的な階にありません!」これには、本当に私の神経を逆なでし、こう思いました。「あなたはアパート全体を見てすらいないのに、よくもそんなきっぱりと却下できるわね。思い上がるにも程がある!」結果的に、それぞれが自分の意見に固執し、互いに譲らない状況となりました。その後、私は神の御言葉の交流にすら耳を傾けず、これについて考えれば考えるほど、彼女が間違っているとますます感じるようになりました。彼女は先輩としての立場を悪用し、私に面倒な状況を意図的に作っていたのです。彼女の事をずっと我慢してきたのに、彼女は依然として私をこんな風に扱う事にも頭を悩ませました。……これについて考えれば考えるほど、私はますます不当な扱いを受けていると感じるようになり、ついには完全に暗闇の中に取り残され、聖霊の働きを失ってしまいました。それ以降、私は彼女とは一緒に働きたくなくなりました。私は、「もう対応するのは困難だから、隠れていよう」と考えたのです。その時私は、このような状況は非常に危険である事も分かっていました。私は、何か悪い事をしてしまう前にできるだけ早く任務変更の申請を出し、彼女には他の誰かと働いてもらった方が賢明だと考えました。結果的に、私は自分の霊的背丈の低さと能力不足を理由に辞表を書き、総務グループに提出しました。その後間もなく、私は地域のある姉妹に会った時に自分が辞職について伝えました。その時彼女は、自分の失敗を認めて辞職する事の原則、および神が人々をお救いになる事に注ぎ込まれる大変な配慮についても話してくれました。しかし、私は頑なになり、これを受け入れようとしませんでした。

  翌朝、ベッドから起きた時、私の頭の中は真っ白でした。神は私をお見捨てになられ、もはや私を求めておられないように感じました。私の行いにより神は私を嫌悪されたに違いないと、私は怖くなってパニックになりました。この結果、私は自分自身を見つめ直し始めました。これまでに起こった事全てについて考えた後、自分の性質が神に私を嫌悪させたと分かったのです。私の思考と行動は正に未信者のようであり、私はまるで昔から変わらずにいる老悪魔、サタンの様に生きていました。私は神の御言葉に従って行動しておらず、神に対する敬虔の念も持っていませんでした。私は全く真理を受け入れている人ではありませんでした。結果的に、私はサタンに騙され、知らぬ間に自分の責任を放棄していました。これに気が付いた私は、すぐさま神の前に平伏し、このように悔い改めました。「ああ、全能神よ、私は間違っていました。私は神を信じてはいましたが、神の働きを受け入れようとしていませんでした。神がわざわざ私の環境を用意してくださったにもかかわらず、私はそれを受け入れようとしていませんでした。私は、神の刑罰と裁きを受ける事を全力で免れようとし、神が私に愛を差し伸べてくださった時、私はそれに感謝しないばかりか、神に対して不平を言い、さらには神を誤解までしていました。私の行動は神に苦痛を与えました。ああ、神よ、神が働きの中で私に啓示を与えてくださり、私の内にいるサタンの性質に気付かせてくださった事を感謝いたします。これが起っていなかったら、私は依然として自分は悪くないと思い、自画自賛の日々から抜け出そうとしていなかったでしょう。この事で私は自分の霊的背丈が実に低いという事がよく分かりました。私は極めて小さな苦難ですら乗り越える事ができません。私は、神を裏切る事だけを考え、神との誓いを放棄してしまいました。ああ、神よ、私は悔い改めます。神の御言葉を通して自分自身を知り、神の御言葉による裁きと刑罰をお受けます。もう、神に対して頑なな態度をとったりはしません。今後は、私の置かれた環境の中で神に服従し、あの姉妹とも仲良く協力していきます。ああ、神様、私は、神が私を求めておられようと、そうでなかろうと、私を御遣いになろう、そうでなかろうと、これ以上サタンの影響にコントロールされながら生きていきたくありません。私は辞表を取り消す事にしました。私は今後、自分の尊厳のために生きるのはやめ、一度は神の御心を満たしたいと思います!」祈りを捧げた後、私の目は涙でいっぱいになりました。私は顔を洗った後、総務グループに足を運び、辞表を取り消し、それをその場で細かく破りました。その日、皆で集まった時、私達数人で一緒に神の御言葉を読みました。「あなた方の評判は崩れ、振る舞いの品格が落ち、話し方は卑しい。あなた方の人生は卑怯で、人間性は全て卑しい。他人に対して心が狭く、些細なことまでことごとくゴネる。自分の評判や地位のためには口喧嘩も辞さず、そのためには地獄や火の湖にまであえて落ちるほどだ。」(『言葉は肉において現れる』の「あなた方の性格は卑しすぎる」より)「人々は自らに多くを求めませんが、他人に多くを求めます。人々は忍耐強く、我慢強く、他人を大切にして、養い、微笑みかけ、親切で、譲らなければなりません。人々はいろいろな面で他人を気にかけねばならず、厳しくできず、怒らせるようなことや、好きではないだろうことを行えません。人の道理があまりにも欠けています。」(『キリストの言葉の記録』の「常に神に要求している人々は最も理性に欠けている」より)神の御言葉は私の不名誉な状況と悪魔の様な姿を明らかにしてくださいました。私は地面の割れ目に入り込んでしまいたいくらいに恥ずかしくなりました。そして、明らかにされたものと神の御言葉の御啓示を通して、自分の中にあったサタンの性質はとても深刻なものであったと知いました。とても傲慢でうぬぼれた本性を持っていた私は、他の人よりも優れていると思っていました。自己認識が全くできていなかった私は、自分が他の人より優れいない事に気が付きませんでした。だからこそ、あの姉妹と一緒に働いていた時も、私はいつも自分が責任者で、リーダーだと考えており、あの姉妹が全てにおいて私に従い、私の言う事を聞いて欲しくてしかたがありませんでした。私は、いつも自分が指導者だと思っていました。あの姉妹の意見が私の意見と食い違う時、私は真理を求めて彼女との衝突を解決したり、共通の理解を見いだしたりしようとしませんでした。それどころか、私は、不満を発散させるために職場を離れようと考えるほど面目を失ってしまったため、激怒し、反抗的な態度をとっていました。私はこの姉妹に対する先入観を持ち、彼女との不良な関係を改善しようとは考えもしませんでした。一緒に働いていた時、私はいつも彼女に対して尊大な態度を示してきました。私は、自らが変わるようにと自分に要求する事はなく、彼女と率直な話し合いをする事を拒絶し、彼女に対する愛情を全く持っていませんでした。彼女にばかり集中し、彼女が変わる事を要求していたのです。私は、自分は真理のマスターであるけども、他の人々は堕落しているとみなしていました。私は、彼女と一緒に仕事をしていた間、自分を見直す事はありませんでした。この姉妹が反抗的である時や、私達の間に意見の食い違いがあれば、私はそれを全部彼女のせいにしていました。私は、彼女は間違っているけど、自分は正しいと信じていたのです。そのため、私は、心の中で彼女を見くびり、彼女をまるで敵の様に扱い、恥じをかくところを見たいと思うほどに差別していたのです。自分の傲慢さ、野蛮なプライド、非常識さ、浅ましい姿、そして偏狭な行動に気が付いた今、私の中に普通の人間性が持つ正気が残っているとはとても思えません。私はサタンに驚くほど似ていました!そして私は全く不合理でした!神は私を引き上げ、責任を担う機会を与えてくださったにもかかわらず、私はあの姉妹と協力して本分を尽くし、神の御心を満たそうと考えていませんでした。私は、一日中、正直な仕事をせず、あの姉妹に対する策略を企み、彼女と嫉妬混じりの口論ばかりしていました。自分の不満について口論しては、自分の尊厳と虚栄心をめぐって喧嘩していたのです。こんな私に理性的な良心があったでしょうか。私は真理を追い求めていたでしょうか。あの姉妹と私は、最初から仕事において互いに譲らず、支え合おうともしていませんでした。むしろ、別々に指揮をとって勝手な事をしていただけなのです。私はキリストの敵の道を歩んでいたのではないでしょうか。キリストの敵のような生き方をして自滅に向っていたのではないでしょうか。今日、私は、自分の行いは利己的な肉の欲求に完全に支配されていた事が分かりました。私の本性はあまりにも利己的で浅ましいものでした。私は真理を追い求めていなかったため、何年も神を信じて生きてきたにもかかわらず、何の現実性も得られず、自身の性質に僅かな変化すら起こせませんでした。もし神が私を哀れに思われず、愛情に満ちた手を差し伸べてくださらなかったら、そしてあのまま事が進んでいたとしたら、私は間違いなく炎の池に落ちる者へと堕落していた事でしょう。神は、私達が自分達の人生において神の御言葉を実践する事を求めておられます。しかし、私は自分の本分を尽くす事から自らを切り離していました。私は正に不信心者です!このような形で生き続けることはできず、真理を求めて自分を変えたくなりました。

   後に、私は神の次の御言葉を読みました。「教会で協力して働くあなた方がお互いから学び、意思疎通を計り、お互いの欠点を補い合わなければ、どこから学ぶというのだろうか。何か事が起きたならば、お互いに交わり、いのちの益となるものを得るようにすべきである。……あなた方は神の働きを目的として、教会の益のために、そして兄弟姉妹を励まして前進させるために、調和をもって協力しなければならない。あなたは相手と協力し、相手もあなたと協力し、互いに誤りを正し、働きが更に良い結果をもたらすようにし、そのようにして神の旨に配慮すべきである。そうすることのみが真の協力であり、このような人々のみが真に霊的に成長することができる。……各自が奉仕する者として、自分が成すあらゆる事で、自己の利益を考えるのではなく、教会の益を守ることができなければならない。互いに密かに攻撃し合い、自分ひとりで行動するようなことは受け入れられない。このように行動する人々は、神への奉仕に相応しくない。」(『言葉は肉において現れる』の「イスラエルの民のように神に仕える」より)兄弟の説教で次のような話がありました。「共に働く上で、上下関係は関係ありません。二人は同等の立場にあり、共通の理解を持つために真理をお互いに話し合うべきです。これにはお互いに従い合う事が求められます。すなわち、真理に服従する原則により、正しくかつ真理に従って話をする人には従うべきなのです。真理は権威であるため、真理を話し物事を正しく捉える事ができる人には従うべきです。何を行うにしろ、どの本分を尽くすにしろ、全ては真理に服従する原則に従って行うべきです。」(『全能神教会の働きにおける采配の紀要選集(二)』の「神の家が成立した教会での生活における10個の原則の意義と説明」より)私は、交流と神の御言葉を受けて、任務の調整をどのように実践すべきかが分かりました。それは、神の心を考慮し、共に働きながら神の家族にとって大切な事を守るという事です。何をする場合も、何の働きであろうと、その全ては共通の理解に至る事ができるように真理を話し合い、真理に服従した形で取り組むべきです。自分自身の意見を貫こうとしたり、他の人に自分の言う事を聞かせようと傲慢になったり、うぬぼれてはなりません。真理を犠牲にして人間関係を守ろうとしてはなりません。また、主体性を作り出す上で個性にこだわってはなりません。そして、調和のとれた協力関係を築くには、謙虚な態度で私欲を率先して自制し、お互いから学び、お互いの欠点をカバーし合う必要があります。このような真の協力関係に入り、全てにおいて心と魂を一つにして神の御心を満たし、お互いの欠点をカバーし合って初めて神の祝福と御導きを授かる事ができ、結果的に教会はその働きにおいてより優れた結果を出す事ができます。その過程で、私達自身のいのちにおいても利益を得る事ができるのです。逆に、人と働く際に傲慢な態度をとったり、真理の原則を求めず、独裁主義で他の人を操ったり、単独で働き自分自身のみに頼りながら働いたりすると、あなたは神から忌み嫌われ、神の教会に損害を及ぼす事になります。それにもかかわらず、私は傲慢で常に最終決定権を握ろうとしていました。どうして私は、神の家族の働きは一人の人間が単独で成し遂げられるようなものではないと分からなかったのでしょう。人々は皆、全く真理を得られておらず、あまりにも真理を欠いています。自分のみに頼り、何かをしようとするとアクシデントが起きやすくなります。協力し合って働いてのみ、聖霊の働きをより多く得、互いの不足を埋め合わせ、ミスの発生を防ぐ事ができるようになります。この時点で、私は、自分自身の傲慢さと利己的な姿勢に露見されたサタンの性質、そして神の御心をほんの僅かも考慮していなかった事やひどく無礼な振る舞いを披露してしまうほどに自分の面目を守ろうとしていた事について、罪悪感と自責の念を感じずにはいられませんでした。私は盲目かつ愚かすぎました。私は、自分が任務の調整を実践できる環境を作ってくださった神の御意向を理解していませんでした。それは、自分の欠点を補うためにパートナーの長所からどのようにして学ぶのか、協力して働くことを通して自分が必要なものをどのようにして学ぶのかについて、全く理解していないほど酷かったのです。その結果、教会は損害を受け、私自身のいのちにおける成長も遅れてしまいました。神の哀れみと御言葉の光を受けていなかったら、今日、私は我執に囚われたままで、自分は他人より優れてなどいないと知る事もなかったでしょう。まるで教会の働きを自分でこなせるかのように、依然として人が自分の言う通りにする事を望み続けていた事でしょう。最終的に、どのような大惨事につながっていた事でしょう。この結果、私はある決意をしました。私は神の御言葉に従い行動し、教会の働きおよびいのちにおける自分自身の成長を遂げるため、あの姉妹と共に仲良く働き、今後は利己的な事を考えないようにします。

   その後、私は一緒に働いていた姉妹に自分の事を知る事ができたと打ち明けました。私達はしっかりと話し合い、共に働く原則に入る事ができました。それ以降、私達の仕事は以前よりもかなり調和が取れるようになりました。意見の食い違いがあった時も、私達は真理を得られるように祈りを捧げ、神の御心を求めました。お互いの欠点を見つけた時も、お互いを思いやり、許し合う事ができました。私達はお互いに愛情を持って接する事ができるようになりました。私達は、それとは知らずに、神の祝福を感じ、福音の伝導業務は以前よりも多く成果を出すようになっていました。この時点で、私は自分が持っていた堕落の本性をさらに強い嫌悪感を抱くようになり、真理を求めず神を沢山失望させてしまった事に嫌悪感を抱きました。私はやっと真理を実践する事の満足感を味わう事ができ、同時に、自分の本分を尽くし、神の御心に安心していただけるための力を実感する事ができるようになりました。今後私は、真理の他の側面の実相にも入り、全ての事に原則を持って取り組んで行きたいと思います。


 

やっと少しは人間らしく生き抜けるようになりました

2018-10-03 18:28:25 |  キリストの裁きを経験する証し

 私は次の神の御言葉を目にする度に厳しく罰せられている気分になります。「人類とはなんと残酷で残忍だろうか!狡猾で陰謀を企て、互いに争い、名声や富の為に争い会い、殺し合う――そのようなことは一体いつ終わるのだろうか。神は何十万の言葉を話したのに、誰も理解しなかった。彼らは自分たちの家族や、息子や娘たちのために、また自分たちの職業や将来、地位、虚栄心、金銭のために、また衣服や、食物、肉のために働いて来た――誰の行動が真に神のためなのだろうか。神のために行動している者たちにしても、神を知る者たちはほとんどいない。自分たちの利益のために行動していない人たちは一体何人いるだろうか。自分たちの地位を維持するために周りの人たちを圧迫も差別もしない人たちは何人いるだろうか。このように、神は数えきれないほど何度も力ずくで死の宣告を受け、数えきれないほど野蛮な裁判が神に有罪判決を下し、もう一度神を十字架に釘づけにした。……(『言葉は肉において現れる』の「悪人は罰せられなければならない」より)私は自分が真理を求めていなかったこと、自分のパートナーと繰り返し競いながら本分を尽くそうとしていたこと、自分の評価と利益のために他者を抑圧したり、排斥したりしたこと、自分のいのちと神の家族の働きに損害を及ぼしていたことについて振り返ることがあります。神が私を救おうと多くの出来事をご用意してくださったにもかかわらず、私は感度が鈍っており、神の意図を完全に捉え損ねていました。しかし、神は止むことなく私を憐れみに思い、私を救ってくれました。そして、私は何度も繰り返し刑罰と裁きを受け、初めて目を覚まし、私達を救おうとする神の望みを理解し、評価と地位を追い求めることを止め、僅かながらも人間らしく振る舞えるようになりました。

 1999年、私は世の終わりにおける神の働きを受け入れました。当時、私の家族は兄弟姉妹を自宅で接待する本分を尽くしており、私は兄弟姉妹が上手に交流し、神の御言葉を使ってどんな質問にでも答えられている様子を見ました。私達は皆、彼らと関わりを持ちたいと思い、どの様な問題についても率直に話し合いました。私は、「いつか彼らの様になって、兄弟姉妹に囲まれながらこの人達の問題を解決することができたらきっと素晴らしいだろう」と思い、羨ましく思いました。これを目標に、私は教会で自分の本分を尽くし始めました。2007年には、神から引き上げられ、評価を受け、地域リーダーの本分を尽くすことになりました。私の兄弟姉妹は、私の働き対象者の状態が良くない場合や、彼ら自身が問題を抱えている場合、地域で問題がある場合等は私に報告してくれていました。私は働きは自分を中心に行われていて、長年働いてきた価値があったと感じました。これでやっと私は真理の交流を行い、兄弟姉妹がそれぞれ抱える問題の対応に協力できるようになったのです。仕事量は少し多かったものの、私は一生懸命働こうと思っていました。この地位を維持して、自分の虚栄心を満たすために、私は自分の本分を尽くす時は模範的に、肯定的な態度で取り組みました。リーダー達に割り当てられる仕事が何であれ、同労者達がそれを難しいと感じても、協力したがっていなくても、私は常に上手く対応していました。自分が困難を抱えていても、それを表面に出したりはせず、前向きに彼らに賛成していました。理解できないことがあっても、自分のリーダー達から称賛を得られるように理解できているふりをしていました。

 リーダー達に良く思われ、同労者達の中で目立ちたかった私は、この目標を実現させる方法を考え始めました。「一番楽に注目を引き寄せ、自分の能力を証明し、リーダー達の称賛を得られるのは福音の働きにおいてだ。福音の働きさえ上手くこなしていれば、他の働きをそれほど上手く行なっていなくても大した問題にはならないだろう。リーダー達は私を刈り込んだり、取り扱ったりすることはないだろう」と思いました。そして私は働きに取り掛かりました。福音の働きの取り組み方を変え、兄弟姉妹を辛抱強く指導するもの止めました。福音の働きにおける問題を報告する者がいれば、私はその者を刈り込む、または取り扱うようにしました。私は教会リーダー達に結果を出すようにプレッシャーをかけ、しつこく要求するようになりました。結果にがっかりした時は怒ってこう言いました。「どうしてこんなに少人数なんですか。この働きを失っても構わないのですか。来月これよりましな結果が出なければ、あなたを異動させます!」私は兄弟姉妹の霊的背丈を考慮していなければ、真理を用いて彼らの直面していた問題や困難を解決しようともしていませんでした。私は単に、自分の職務を維持する目的のためだけに彼らにプレッシャーをかけて、しつこく要求を課していたのです。結果は直ぐに伸び、私はそれを喜びました。結果が伸びたということは、私が同労者達の間で一番の成績を上げている1人であることを意味し、私はそういう自分に惚れ込む様になりました。その後すぐに、ある兄弟が私達の所に配属されてきました。彼はハンサムで、喋りと交流にとても長けていました。彼は数々の教会に足を運んでおり、兄弟姉妹は誰もが彼の交流を称賛していました。私はこれに動揺しました。「皆が彼の交流を称賛しているということは、私のは良くなかったということだろうか。あの兄弟はここに配属されてこなければよかったのに。」しかし、自分を彼と比べてみると、彼は本当に私よりも優れていました。それでも、私は諦める気はありませんでした。当時、私は評価と利益を気にしていましたが、教会の抱えていた様々な問題には興味がありませんでした。私は自分の服装、喋り方、振る舞い方を気にするようになりました。集会の場では、兄弟姉妹に尊敬されようとして、わざと自分の知恵を誇示するようになりました。時には、私と働くために配属されてきた兄弟を軽くあしらい、私達が交流をしていた人達がどの様な目で自分を見ているかを確認しようとまでしました。私は誤った状態に生きて、自分を救うことができませんでした。私は全てにおいて自分をあの兄弟と比較するようになり、聖霊の働きを完全に失っていたのです。それから間もなくして、私は異動となりました。この知らせを受けた時は、まるで心臓の中をナイフでかきまわされているの様に苦しいものでした。私の面目、地位、将来はどうなってしまうのでしょうか。神は私を裁き、刑罰を与えたにもかかわらず、私は自分の本性を全く解っていなかったのです。それとは逆に、私はリーダー達が別の場所で自分をどう評価するかについて気を揉んでいました。どんな顔で人と接すればいいのでしょうか。私のことを知ってる人達はどう思うでしょうか。サタンの罠にかかっていた私は、リーダーとして本分を尽くしたことを後悔したり、その職務を受けてさえいなければこんなことは決して起らなかったのにと不平を言い始めたのです……。考えれば考えるほど、苦しみが増していきました。神の刑罰を受ける中、私は睡眠不足となり、狂気じみたことを考えるようにもなりました。最終的には、精神が崩壊しそうになり、道の真ん中に横たわって車に轢かれてしまおうと考えたことも数回あったほどでした。この時、私は危険な状態にあり、その状態から自分を解放できなかった私は、神の前に立ち、こう祈りを捧げるしかありませんでした。「ああ、神様、私は今、サタンに騙され、ひどく苦しみながら暗闇の中で生きています。私は今日自分に起こったことを受け入れたくありません。私はあなたの刑罰と裁きから自由になりたいと思います。そして私は不平を言い、あなたを裏切ってしまいました。ああ、神様!どうか私の心をお守りください、私が自分を見つめ直し、理解できるようにしてください、どうか私に情けをお与えください。」この後、私は人の交流を読みました。「神は人に特別な優しさと引き上げを与えることがあります。この者達はリーダーや働き手に昇任し、重要な働きを与えられます。しかし、この者達は神の愛に応えようとしません。この者達はそれぞれの肉のため、地位、評価のために生き、自分達の証を立て、尊敬の念を得ようとしているのです。これらの行為を善行と言えるでしょうか。言えるわけがありません。この者達は神に安らぎをもたらす方法を理解しておらず、神の希望に対する配慮が全くありません。自分達を満足させることだけを求めているのです。この者達は神の御心を傷つけ、悪事のみを働き、神の御心をひどく、ひどすぎるほどに傷つけてしまうのです。神はこの者達が完全になれるようにと、リーダーや働き手に昇任させ、育くもうとします。しかし、この者達は神の希望を全く配慮せず、自分達のためだけに働くのです。神の証を立てるために働いたり、神に選ばれた人々がいのちに入れるように働いたりはしないのです。この者達は自分達の証を立てるために、自分達の利己的な目標を達成するために、神に選ばれた人々の中で地位を獲得するために働くのです。この者達は神に最も抵抗し、神の御心を最も傷つけます。これは神に対する裏切り行為です。人の言葉で表現すると、これは自分のために成された好意に感謝できていないということで、霊的な意味としては、神に抵抗する邪悪な者達ということになります。」(『いのちに入ることに関する交わりと説教II』の「善行を準備す重要な意義」より)この交流はまるで両刀の剣が私の心臓に突き刺さったかの様に辛く、私は厳しく罰せられた気分になりました。私がリーダーに昇任したのは、神の親切心であり、私を引き上げようとしてくださったからであり、それは私が完全になれるようにと、神がなされたことでした。しかし、私は神の意図に対し配慮が欠けており、神の愛に応じる必要があることも知らなかったのです。私は地位と評価のため、自分の証言をするために生きていました。そしてこの本性は神に抵抗し、神を裏切るというものでした。神は私が行なったこと全てを忌み嫌われたため、私の働きを中止させ、神の家族の内では神と真理が支配するのだということを示しました。私は以前求めていたものを振り返ってみました。私はリーダー達と良い関係を保っていれば自分の地位を維持できると思っていました。だからこそ、彼らに頭を下げて、言われること全てに賛成していました。それにもかかわらず、私は自分の兄弟姉妹に対しては厳しく、批判的でした。私はなんて卑劣だったのでしょう!私は地位のためなら何でもしていました。他の人達よりも目立ちたくて自分の兄弟姉妹を利用しようとしました。兄弟姉妹のいのちのために自分の責任を果たすことはありませんでした。私は自分の業務対象者が私を恐れて避ける様になり、心を打ち明けてくれなくなってしまう程にプレッシャーをかけ、しつこい要求をしていました。それでも、私は自省し、自分を見つめ直すことはありませんでした。神が私の元へあの兄弟を送ってくださったにもかかわらず、私はこの教訓を学ぶことに失敗しただけでなく、評価と利益のためにますます奮闘するようになり、自分の肉を露わにし、神には忌み嫌われ、聖霊の働きを失ってしまいました。私が異動となったのは、私に降りかかった神の義だったのです。私に対し実現しうる最高の裁きであり、最高の救いであり、神の偉大な愛だったのです。そうでなければ、私は無意識のうちにキリストの敵の道を歩み進んでいたことでしょう。神は私が罪深い道を歩むのを止めてくれました。私は、自分の追求していたそもそもの目的が間違っていたこと、そしてその問題の解決に集中していなかったことを深く後悔しました。その全てが今日における私の失敗につながったのです。当時、私は、自分の体験について次の讃美歌を歌う度にすすり泣き、涙が顔を流れ落ちました。「あなたの性質を犯した後、私は暗闇へ落ちて行き、サタンによる害を十分に実感しました。私は孤独さと無力さを感じ、自らの良心に非難され、死よりも辛い苦しみを味わいました。その時初めて、私は心にやましさがないことの幸福感を知りました。あなたの善良な意図を見抜けなかった私は、完全になる機会をいくつ無駄にしてきたのでしょう。私の全てを以てしても、あなたの御心を傷つけたおわびをすることはできません。ああ、神よ、実際の神よ、私は昔に戻ってやり直したいです。私の心が度の過ぎた欲望を秘めた状態で、どうして神と心を合わせることができるでしょうか。私は地位に付随する利益が欲しくてたまりません。こんな私が堕落しない訳がありません。私はあなたが望まれることに対して配慮が欠けておりました。あなたに対して消極的で、反抗的でした。あなたに仕えながら、抵抗したり、だましたりもしました。あなたの憐みを受けていなければ、今日私はここにはいないでしょう。私の犯した罪を考えると、死を以てしても私が救われることはないでしょう。私がこう息をしていられるのも、あなたの寛容さのおかげです。ああ、神よ、実際の神よ、私は、自分のためにあなたをこれほど苦しめてしまう様なことをすべきではありませんでした。あなたのいのちの御言葉が私の心に染みて感じます。私はあなたの説教から無限の力を授かり、挫折しても又奮闘することができます、いのちの価値と私を創造していただいた理由も分かりました。あなたから最後の要望を受ける時、私は逃げたりいたしません。私は実際の行動で、あなたが支払った代償の恩返しをしたいと思います。私は祝福を受けようとも、逆境に立たされようとも、見返りを求めることなく、あたなに満足していだたくこと、あなたに自分を捧げること、注意深くあなたに従うことだけを望みます」。(『子羊を従って新しい歌を歌おう』の「神の憐みに再生を授かりました」より)私のこの精練は1年以上続き、生きたまま皮を剥がされているかのように辛く、生きるか死ぬかといった苦しみを受けたにもかかわらず、私は地位と将来性に対する自分の欲望が弱くなっていることが分かり、この精練がどれだけ価値のあるものであったかを知りました。

 2012年に、働きの責任者である姉妹が、私とある兄弟をある特定の地域の除去‧除名作業に配属しました。私はしばらくの間教会の働きをしていなかったため、理解に欠けている原則がいくつかありました。私は、教会内の問題と、除去‧除名業務の本質に影響している問題は解決が若干困難であると感じました。しかしその兄弟は今まで続けて教会の働きをしてきていたので、私の欠けている部分をカバーしてくれると同時に、私が学ぶ必要のあった事を教えてくれました。これは神の愛だったのです。神は私に重荷を課しませんでした。この兄弟は私達の働きを報告し、物事の本質を判断する場合に、ほとんどの交流も行なっていました。私達の業務対象者と対面した時、最初に交流を始めるのもこの兄弟で、時間が経つにつれて私はまるでそこにいないかの様な状態になっていました。その時、私の中の何かが現れてきました。「一緒に働いている時、あなたは交流においては私より優れているけれど、福音の働きでは私の方が上です。どれだけ交流に長けているとしても、あなたには実践面で結果を出す必要があります。除去‧除名業務は福音の働きの妨げになってはいけないと兄弟が言ってたではないですか。あなたは喋りまくって、いいところを見せようとしてるだけです。私達は別々に働いた方が無難だと思います。そうしたら、私の強みを発揮することもできます。私は無能ではありません。あなたは私が交流にはあまり優れていないと思っているかもしれませんが、実践的な働きでは私の方が優れています。とにかく、福音の働きは私の強みなんです。」その時、私達は働きの責任者であるあの姉妹から1通の手紙を受け取りました。実務上の理由で、私達は別々に働くことになり、それぞれが地域を1つずつ担当することになりました。私の担当地域における全ての働きの結果は、この兄弟の担当地域の結果ほど良くはありませんでしたが、それでも私は嬉しくて、「私には自分の才能を発揮できる場所ができた。結果がそれほど良くなかったことは気にしなくてもいい。それはこれから改善して、自分の能力を証明しいこう。」と思いました。あの兄弟と別に働くようになって以来、私は自分の仕事に専念するようになり、物事をまとめたり、業務指示について兄弟姉妹と話し合ったり、神の御言葉を彼らと交流するようにまでなりました。そして、状況は改善し始めました。その時、私は、「あの兄弟はどうしているだろう。私よりも良い結果を出しているのだろうか。」と思いました。そして本人に会い、自分は福音の働きで彼よりも良い成績を出していて、自分の方が人数を多く確保できていると知った時、私は密かに嬉しくなり、「私はついにあなたを超えました。何て誇らしいことなんだ。」と思いました。そして、丁度私が喜びに浸っていた時、聖霊が私を「あなたは神の栄光を盗んではいませんか。」と叱責しました。私の心は沈みました。そうです、福音の伝導は神に選ばれた人達全員の本分であり、責任です。しかし、私はそれを評価と利益を得るための手段として捉えていたのです。そして、私達がこの人達を確保することができたのは、私の兄弟姉妹の協力と神の祝福のおかげでした。私には自慢できることなど何もなかったのです。こう考えて思わず赤面しました。私はとても卑劣な人でした。神の神聖さはこのような堕落考えを抱くことを許しませんでした。私は自分の置かれた状況に気が付いた時、正気を取り戻せたことを神に感謝しました。私はもう評価と地位を求めることは止めました。それ以降、私は神の御言葉を読むことに集中するようになり、何らかの事態に直面すれば、それは神からのものとして受け入れるようにし、評価と地位を求める衝動を徐々に弱めていきました。私は自分が持つ神への愛と同労者達の持つ愛とを比較し、お互いの強みを生かし、お互いの弱みを補うようにしました。その後間もなく、私は他の本分を尽くすために昇任したのです。これには驚きましたが、神が私を引き上げてくださったのだと思いました。私は神に満足いただけるよう自分の能力でやり得る全てのことをしようと思いながら、この本分を大切にしました。

 20128月、私達の働きの責任者である姉妹と話しをした結果、彼女は私に他の地域で本分を尽くす様に任命しました。その時、私は前向きな姿勢で合意したのですが、私がそこを去る前に彼女は私に、「あの兄弟を送り込んであなたと一緒に働いてもらった方がいいわね。神の家族の働きにとってもその方が良いでしょう…….。」と言いました。彼女に意見を聞かれたので、「それで構いません。彼と一緒に働きます。」と答えました。その後、集会の場で彼と顔を合わせた時、彼は率直に、「私は姉妹達があなたを選んだことに納得していません。あなたは私ほど上手く交流できないくせに!」と言ってきました。この不作法な発言を聞いて、私は非常に動揺しました。この兄弟に対する偏見は振り払ったつもりでいましたが、この発言を聞いた私は、心の中で思わず、「これは本当に残念だ。彼と働くことに合意なんかしなければよかった。彼は私の欠陥を全部知っている。新しい配属部署に着いたら、新人としてもっと歓迎されるものだ。」と思っていました。しかしどうする事もできません。私は苦笑いをして平然を装いながら、「私は交流能力に長けていないかもしれないけど、私はあなたより優れているから最初に選ばれたんだ。信じたくなくても、見ていれば分かる!」と思いました。私達は新しい働きの場へと異動し、私達の本分に専念しました。最初に、業務対象者と対面した時、私は肉に背けるように、調和のとれたパートナーシップを築くために自分を抑制できるようにと祈りを捧げました。私は彼がこの人達とそれぞれの状態について会話しているのを注意深く聞いて、彼のために祈りを捧げました。福音の働きの際は、私が彼らと会話しました。しばらく経った後、私は彼の方が自分よりも分かりやすく会話できていることに気が付きました。業務対象者との集会の際、私は交流の最中は一言も喋りたくなくなってしまいました。私はこの集会が早く終わって欲しくて、どこかへ行ってしまいたくなりました。当時、私達は広い範囲を担当していたので、「別々に働けば、そんなに嫌な思いをしなくて済むだろう」という考えが頭に浮かびました。これを兄弟に打ち明けたところ、彼はこう言って賛成しました。「この地域は広いから仕事が難しい。手分けしても問題ないだろう。」私が業務対象者と単独で対面した時、私は長々と喋り、会話したり、取りまとめたりして、彼らの大きな「重荷」を背負うことができたのです。直ぐに、私は自分の担当業務全てにおいて結果を出すことができました。一方、兄弟はそれほどの好成績を出してはいませんでした。私は自分の知ったことではないと言わんばかりに、何の対応もしませんでした。集会で、私達のリーダーは私達が別々に働いていたことを知り、私達の働きにおける責任と調和のとれたパートナーシップの真理について話をしてくれました。私はこれを受け入れ、別々に働くのを止めても構わなかったのですが、私達はお互いに自分の方が仕事を良く分かっているという口実を使いながら、別々に働き続けました。リーダーから批判されることを恐れた私は、兄弟の担当地域に行って、彼の業務対象者と話をしようともしましたが、自分の担当地域外に足を踏み入れているような気がしてなりませんでした。また、私が上手に交流すれば、それが兄弟の手柄になってしまうように思えました。なので私は、働いているふりだけをして、管理業務があると言い訳をしながら急いでその場を後にしました。兄弟は依然として結果を出せていませんでしたが、私は自分を責めたり、不安に感じたりもしませんでした。私は神を全く畏れておらず、リーダーからの連絡を何度か無視することまでありました。この状況は私達が業務報告書を提出する時期まで続き、それを見た時、私は唖然としました。私の担当地域では多くの人を得ることができていたのですが、私達の担当地域両方を合計した数がとても低かったのです。さすがにこの時は、私も不安になりました。私は自分の能力を示そうと、自分がどれだけ効果的に仕事ができるか、そして自分が福音の働きでは彼より優れていることを示そうとしました。しかし彼の担当地域では、福音の働きが休止してしまいそうな状態にあり、それはどういう状況でも起こしてはいけないと兄弟が言っていました。私は神の御心が現実化されるのを邪魔する障害となっていたのです。私は、この事態の根本原因を見つけ出すために神の御言葉に目を向けざるを得なくなりました。そこで私は神の次の御言葉を目にしました。

 「各自が奉仕する者として、自分が成すあらゆる事で、自己の利益を考えるのではなく、教会の益を守ることができなければならない。互いに密かに攻撃し合い、自分ひとりで行動するようなことは受け入れられない。このように行動する人々は、神への奉仕に相応しくない。このような人の性質はあまりにひどい。人間性のかけらも残っていない。100%サタンである。けだものである。今でさえ、あなた方の間でこのようなことが起こっている。交わりの最中にお互いを攻撃し、意図的にもっともらしい言い訳を探し、顔を真っ赤にして些細なことで言い争う。どちらの者も引こうとしない。お互い相手に心中を隠し、ひたすら相手を観察し、身構えている。このような性質が神への奉仕に相応しいだろうか。あなた方のこのような働きが兄弟姉妹への施しとなり得るだろうか。あなた方は正しいいのちの道に人々を導くことができないだけではなく、実際には兄弟姉妹に自分の堕落した性質を注ぎ込んでいる。あなたは他者を傷つけていないか。あなた方の良心はあまりにひどく、心底腐っている。現実において成長しておらず、真理を実践していない。更に、恥も外聞もなく他の人々に悪魔のような性質を晒しているあなたは、まさに恥知らずである。あなた方に兄弟姉妹を任せているのに、あなた方は彼らを地獄に連れていくのだ。あなたは良心が腐った人間ではないのか。本当に恥知らずである。」(『言葉は肉において現れる』の「イスラエルの民のように神に仕える」より)神の厳しい御言葉が私の本性を明らかにし、私は恥ずかしい思いをしました。私があの本分を尽くすことができたのは神による引き上げと、神の優しさがあったおかげで、神は兄弟姉妹を神の元へ導くことを私に任せていました。それにもかかわらず、私は实际に入らず、真理を実践せず、評価と地位のために神の家族にとって大切なことを無視していたのです。私は1人で働きながら、あからさまに、そして秘かに兄弟と争っていました。今こそ、福音を伝道する時です。神はそれを心から求める人達がすぐにでも神の家族の元に戻ってくることを望んでいます。しかし、私は自分の責任を逃れ、神を愛さず、神の最も切なる希望も配慮せず、真の道を求める人達を神の元へ導いてもいませんでした。私は人々を助けるためではなく、自分の能力を示すために評価や地位といったつまらないものを追い求めていました。私は兄弟が私から遅れを取ることを期待して自分達の仕事における問題を明らかにせずにいました。私はこの兄弟が仕事で自分より優れていた部分があったことを羨望したり、それを無視することすらありました。私は自分を誇示をしたり、自慢したり、兄弟を小さく見せるためのゲームの様に仕事を扱っていたのです。私はあまりにも邪悪で、人間性に欠けていました。神は私の様な人を嫌悪します。私は自らを変えずにどうして神に仕えることができるでしょうか。自分が实际に入れていないのに、どうして兄弟姉妹を神の元へ導くことができるでしょうか。私は泣きながら、神に祈りを捧げました。「ああ、神様!私は間違っていました。これら全ては私の反抗的行為でした。私はあなたの希望を配慮することができず、自分の能力を証明するために兄弟と争い、彼を倒すために自分の良心を無視し、結果的に自分の責任を果たすことができていませんでした。そして、今、福音の働きに支障が起き、私はあなたの前で罪を犯してしまいました。しかし、私はこれを悔い改め、自分を変え、兄弟と共に仲良く働き、福音の働きをより活発にしていくことを望んでいます。もし私が、又しても地位を得ようとすることがあれば、罰をお与えください。どうか私を監視してください、アーメン!」この祈りを捧げた後、私はバスに乗って兄弟の所へ行きました。私は彼と率直に話し合い、自分が神の前で反抗的に振る舞っていたこと、そして自分を良くしていくつもりであることを認めました。私達はそれぞれの見解についても話し合いました。その後、私達は一丸となって神と共に協力し合い、見落としていたことや過失を探し、私自身が収めた成功の経験をまとめ上げ、業務指示に厳密に従いながら私達の仕事上の欠陥を改善しようと取り組み始めました。私達の福音の働きはすぐに改善しました。この経験より、私は神の義なる性情を見ることができました。神の神聖さは、私の内にいかなる腐敗や堕落があることも許しません。私がサタンに欺かれ、自分を救うことが出来なかった時、神は救いの手を指し伸ばし、死にかけていた私を引き戻し、サタンの支配から解放し、私を変えさせてくださいました。私は真理を求め、これ以上反抗せずに、神が私にお任せになる事すべてにおいて完全に忠実でありたいと思います。

 私は神の次の御言葉を目にしました。「あなた方が他の者たちとともに奉仕している中で、あなた方の中の一人でも、『真理のこの側面について、あなたの話が聞きたい。なぜなら、私にははっきりわかっていないから。』とか、『あなたはこの件に関して私より経験豊富です。私になにかアドバイスをいただけませんか』などということは稀であるが、そのようにできれば良いのではないか。他の者たちよりも上の地位にあるあなた方は、多くの真理に触れ、奉仕に関して多くを知っている。教会で協力して働くあなた方がお互いから学び、意思疎通を計り、お互いの欠点を補い合わなければ、どこから学ぶというのだろうか。何か事が起きたならば、お互いに交わり、いのちの益となるものを得るようにすべきである。そしてどのような決定を下す際にも慎重にし、事前に良く話し合うべきである。このようにして初めて、形だけのものではなく、きちんと教会に対する責任を果たせるのである。あちこちの教会を訪問した後は、一同が集まり、気づいた全事項、仕事で遭遇した問題について語り合い、自分が受けた啓きと照らしを分かち合うべきである。このように実践することは奉仕する上で必要不可欠なことである。あなた方は神の働きを目的として、教会の益のために、そして兄弟姉妹を励まして前進させるために、調和をもって協力しなければならない。あなたは相手と協力し、相手もあなたと協力し、互いに誤りを正し、働きが更に良い結果をもたらすようにし、そのようにして神の旨に配慮すべきである。そうすることのみが真の協力であり、このような人々のみが真に霊的に成長することができる。」(『言葉は肉において現れる』の「イスラエルの民のように神に仕える」より)私は、神の御言葉中に、真理に入ることを実践する方法を見い出し、他者と共に神に仕える方法を見出しました。私は、「皆がそれぞれに強みを持ち、神は皆が神の家族の働きにおいてそれぞれの強みを発揮することを望んでいる。そうすることで皆の弱みを補うことができる」という神の希望を理解することができました。あの兄弟と働くことは正に私が必要としていたことでした。私の弱みは真理について語ることにありました。だからこそ、彼の強みを以て私の弱みを補えるよう、神の愛が私と彼とを連携させてくださったのです。しかし、私にはこれが見えていませんでした。兄弟と一緒に働いていた時に、何か分からないことがあっても、私は彼の助けを求めることができませんでした。彼が私と話しをしようとしても、話を聞きたくない時もありました。私は自分のいのちと福音の働きに支障をきたしながら彼とこの地位を争い合っていました。その後、私は理解できないことや、はっきりと分からないことがあれば、「この真理の意味がはっきりしないのですが、これについて一緒に話し合ってもらえますか。」と彼に相談し、真理のこの部分に入ることを実践するようになりました。自分の働きで難しい事があった時も、「これが良く分からないのですが、アドバイスをもらえませんか。」と相談に乗ってもらうようになりました。それ以来、私達は教会に足を運んだ時はお互いから学び、お互いを補い合うようになりました。そして、問題に直面した時は、一緒に話し合い、一丸となって神の御言葉を見つけ、教会の問題解決に取り組みました。私達は霊的なレベルでパートナーとなり、互いを受け入れ、互いのことを大切に思い、互いを理解し合いました。時には、意見の不一致がありますが、兄弟姉妹の命と、神の家族の働きにとって益となることであれば、互いに賛成することができました。面目を失ってしまう様な状況でも、自分達の希望は後回しにすることができるようになりました。私達は共に、幸せに働ける様になり、私達の働きは全ての面において改善を遂げました。

 私は、全能神が裁きと刑罰によって私を変えてくださったこと、そしてサタンの毒と害に気付かせてくださったことに感謝しています。今私は、適切なことを求め、人間らしく生き抜くことができるようになりました。私の内には依然として清めを必要とする堕落した部分が多く存在しおり、私は更なる裁きと刑罰を受ける必要がありますが、神の裁きと刑罰は人類にとって最高の救いであり、神が人類に対して持っておられる真の愛であることが分かりました。私はこういう経験をもっと積んで行きたいと思います。私は、これからの成長を通して、最終的に神に仕えるにふさわしい者になるまで、神の裁きと刑罰を受け続けられることを望んでいます。

 


自分の本性を目の当たりにする

2018-09-17 20:37:31 |  キリストの裁きを経験する証し

   

   教会での働きの必要性から私は配置転換となり、新たな場所で働きをすることになりました。当時その地での伝道活動は低調で、兄弟姉妹たちの状態も概してよくありませんでした。それでも聖霊に心を動かされた私は、任された仕事を全て自信をもって引き受けました。仕事を引き受けた私は、大きな責任感と神からの導きと示しに満たされ、自分は相当意志が固いとさえ思っていました。自分には能力があり、この仕事を上手くできると信じていました。でも実際には、聖霊の働きについて、そして自分の本性について、私はまだ何も分かっていませんでした。完全に自己満足と自画自賛に浸かって生きていました。

   私の心が自尊心でいっぱいだったちょうどそのころ、あるホストファミリーのお宅で、私の担当する働きの責任者をしていた兄弟と出会いました。彼に仕事の進捗状況を聞かれたので、きっと私の能力や優れた洞察力に感心するだろうと思いながら、彼の質問にひとつひとつ答えていきました。ところが私の予想は外れました。私の話を聞き終わると、彼は感謝して頷きもしないどころか、私が十分成果を出しておらず、人の動員の仕方も不適正で、何の成果も出していないなどと言ったのです。彼の不満げな表情と自分に対する評価に、私の心は突然冷めてしまいました。そして思いました。「成果が不十分だと言うの?もし私が何も成果を出していないと言うのなら、成果を出したと言えるには一体どれだけやれば良いの?こんなつまらない仕事を嫌がらずに、進んで引き受けた、それだけでも十分なはずなのに、彼は私が仕事を上手くやっていないと言うの?」私の心はひどく反抗的になり、傷ついて涙がこぼれそうになりました。そして私の中の傲慢、反抗心、不満といったものが突然姿を現しました。「私の力ではこれが精一杯よ。私なりに最善を尽くしたわ。不十分なら誰かほかの人を探せばいいのよ・・。」私はひどく落ち込み、どうしてよいか分からなくなり、彼がその後何を話しているのか分からなくなりました。その兄弟と会った後の数日間で、自信にあふれていた私は憂鬱になり、落ち込み、数日前まで自分を誇らしく思っていた私の心は悲しみでいっぱいになってしまいました。私は喪失感に包まれました。その暗闇の中で、私は思い出しました。「ペテロは、神を愛する人の姿を実現してみせること、神に従い、神による刈り込みや取り扱いを受け入れ、そして被造物としてのその本分を尽くす者になることを追求した。」(「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より)「それに比べて私はというと、成果が不十分なことを少し批判されただけで腹を立て、辞めたくなっている。これが、自ら進んで神による刈り込みや取り扱いを受け入れようとしている人間か。これがペテロのように神を愛そうとすることか。私の態度は神が嫌われるようなものではないのか。人から仕事ができないと言われたくない、賞賛されたい、褒められたいという思いだけではないのか-これは最も卑しい目的ではないのか。」そう思った瞬間、私の心の中に一筋の光が差しました。私が本を開き、読んでいくと、次の個所が目に留まりました。「あなたがたにとって、己を知るという真理にもっと努力を捧げるのが最善だろう。あなたがたはなぜ神に気に入られないのか。あなたがたの性質はなぜ神に嫌われるのか。あなたがたの言葉はなぜ神にとっていまわしいのだろうか。あなたがたはわずかな忠誠心を持っているからと言って、自分を褒め、わずかな犠牲に対して報われたいと望んでいる。あなたがたは少しの従順を示す時、他者を見下し、つまらない働きしかしないと言って神を軽蔑する。……あなたがたのそのような人間性は、本当に話すのも聞くのも不快なものだ。あなたがたの言葉と行いのどこが称賛に価するのだろうか。……これは笑いものにされるようなことだと思わないか。あなたがたは、確かに自分が神を信じているとわかっているが、あなたがたは神に味方することはできない。あなたがたは確かに自分には価値がないと分かっているが、それでもあなたがたの自慢は変わらない。あなたがたは、自分の理知が既に自制心を失うほどになったと感じはしないのか。そのような理知を持つあなたがたはいかにして神とつながるにふさわしい状態になれるだろうか。自分自身のことを心配してはいないだろうか。あなたがたの性質は既に神に味方することができないほどになってしまったのだ。あなたがたの信仰は、笑いものになるほどではないだろうか。あなたがたの信仰はばかげていないだろうか。あなたは未来をいかにして扱うだろうか。あなたは進むべき道をいかにして選ぶだろうか。」(「キリストに味方しない者は確実に神の敵だ」より)これらの言葉は鋭い刃のように私の本質を刺し通し、私は言葉を失いました。私は自分の姿に深く恥じ入りました。私の理性、そして心の中の葛藤は煙のように宙を舞って消えていきました。その瞬間、私はこれらの神の御言葉の力と権威を心の奥底で自分のものとして理解できました。これらの御言葉の啓示を通して、私はやっと知りました—自分に与えられた働きをするなかで、私は、神に満足して頂くために常に精一杯働き、最高の結果を出そうとしていなかった。現状に満足し自己満足に浸っていただけだったと。神は次のように言われます。「神の前において、人間はいつも子供である」それでも私は、神は自分のような人間をお嫌いになると自覚しないばかりか、誰かに批判されると、不当な扱いを受けたと感じていました。私は実に無知で分別に欠けていました。いつも僅かな実績にも称賛を求め、すぐに称賛を得られなければやる気が失せました。自分のした事を感謝されずに疑問視されればイライラと不機嫌になりました。そう思った瞬間、自分の顔は偽善に満ちていると気づきました。私の働き方は自分の要求と取り引きを伴うもので、不純物でいっぱいであると気づきました。神に満足していただくためでも、神の愛に報いるためでもなく、隠れた動機によって働いていました。

 

   それまでは、神の御言葉が人間の醜さを露わにするような時でも私の心に光が射すことはなく、神の御言葉は誇張され過ぎだと思っていました。私の目が開かれたのは、ひたすら神が示して下さったからです。今日私が自分の働きを全うできるのは、神が引き上げて下さったからで、神の素晴らしい愛によるものです。それでも私はその事実を大切で価値あるものとせず、何の価値も意味もないものばかりを追い求めていました。人に褒められ、称賛され、注目され、そして誰にとっても存在感のある人でいることを追い求めていました。そのようなものにどんな意味があるというのでしょうか。人はパンだけで生きるのではなく、キリストが語られる一つ一つの言葉によって生きると言われています。でも私は何に頼って生活していたでしょうか。他人が私にどのように振る舞うか、どのように私を見ているか、そればかりを気にして生きていました。そしてそのようなものが私にどのような損得をもたらすかをよく心配していました。僅かばかりの誉め言葉や称賛、慰めや優しい言葉で元気になり、そうかと思えば、非難の言葉を少しでも聞いたり、否定的な表情を見たりすれば意気消沈し、無気力になり、どの方向へ進めば良いか分からなっていました—結局のところ、なぜ私は神を信じているのだろう、人々に認められたいからなのだろうか、と。神の御言葉が明らかにしているように、私にとって重要だったのは、真理でも、人間として生きることの原理でも、神の偉大な働きでもなく、私の肉が愛するもので、私の人生に何の利益ももたらさないものだったのです。周囲が私に示す熱意など、神の私に対する称賛の証明となるでしょうか。私が神の御旨に叶わないなら、私の仕事は無意味ではないでしょうか。神様、私の目を開いて下さり、感謝します。私自身の啓示の体験から、私はキリストの存在と、人類を救うためにキリストが世に来られたことを思いました。人々の神に対する態度はどうだったでしょうか。神は聖なるお方であり、崇められるべきお方、栄光なる神ご自身であるのに、いったい誰が神を尊いお方とし、心の中に神を受け入れ、心から神に栄光を捧げているでしょうか。反抗心や抵抗だけでなく、人が現わすものは神への冒涜であり、拒絶です。それでもキリストは不平を言うことも、人をその罪に従って扱うこともなさらない。神は人々の荒れた心と迫害を拒むこともなく、静かに耐えられます。キリストのその謙虚さや優しさ、寛容を心から褒めたたえる者がひとりでもいるでしょうか。キリストと比較することで、私は自分の心がいかに狭いか、何かあれば不平を言い、いつでも人に褒められたい、認められたいと思う自分に気づかされ、自分勝手で卑劣で、恥知らずな自分の振舞いに気づかされました。このような卑しい性格でも、自分は金と同じくらい尊いと考えていたのです。人間の理性はもはや人間には制御できないまでになってしまった、そう神が言われるのも当然です。私は神の御言葉に深く納得しました。この時、万物の主であるキリストの傍にいたいという強い思いが、私の心の奥深くで自然に生まれました。私は神に祈らずにはいられませんでした。「ああ神様、あなたのご性質、本質、そして善良さを羨望して止みません。あなたと比べることができる人間などいません。あなたが示し、明らかにされ、見せて下さったことはすべて、あなたの美しさ、徳、義、そして権威です。ああ神様!あなたは私の心を開き、私を恥じ入らせ、首を垂れさせました。あなたは私の自尊心やうぬぼれを良くご存知です。あなたのすばらしい指揮と采配なしでは、私を扱うためにあなたが兄弟を送られなかったならば、もうとっくに自分がどのような人間かを忘れていたでしょう。あなたの栄光を盗んでおきながら自分を誇りに思う私は、何と恥知らずだったことでしょう。ああ神様。あなたの啓示と御守りに感謝します。自分の真の姿がはっきりと見え、あなたの素晴らしさを発見しました。ああ神様!私はもう後ろ向きでいたくありません。もう卑しいもののために生きたくはありません。私の唯一の願いは、あなたの刑罰と審判、あなたの鞭と鍛錬を通してあなたを知ること、あなたを求めること、そしてそれ以上に、あなたの取り扱いと刈り込みによって私のなすべき働きを成し遂げ、あなたに報いることです。」