世の終わりのキリスト全能神

終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられます。考察したい者は全能神教会にご連絡してください。

全能神の御言葉「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」

2017-07-31 22:45:57 | 全能神教会各類文章

全能神教会東方閃電」御言葉を分かち合います

 いのちの道は、誰でも持てるものではなく、誰にでも簡単に得られるものでもない。なぜなら、いのちは神のみに由来しているからだ。それはすなわち、神自身のみがいのちの本質を持っており、神自身なくしていのちの道は存在せず、神のみが、いのちと永遠に流れつづけるいのちの生ける泉の源であることを意味する。神が世界を創造したとき以来、神はいのちの活力に関わる多くの働きをし、人にいのちを与える多くの働きをし、人がいのちを得られるよう多大な代償を払ってきた。神自身が永遠のいのちで、神自身が、人が復活できる道だからである。神が人の心に不在であることはなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の基盤であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱物である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分の持つあらゆる役割においてしっかりと生きられるようにする。神の力と、神の消えることのないいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのないような代償を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そしていかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても簡単に圧倒されない。神のいのちの力は存在し、時と場所にかかわらず明るい輝きを放つ。神のいのちは、天や地が激変する間も永遠に不変である。万物は過ぎ去るが、神のいのちは依然としてそこにある。それは、神が万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからだ。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の生存は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、いのちの力を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れ出ることはできない。このようにして、誰もが神の支配下に服従し、神の命令の下で生きねばならず、誰も神の支配から逃れられない。

 もしかしたら今、あなたはいのちを受け取りたいと望んでいたり、真理を得たいと望んでいたりするかもしれない。いずれの場合にも、あなたは神を見つけだし、あなたが頼れてあなたに永遠のいのちを与える神を見つけたいということだ。永遠のいのちを得たいと望むなら、あなたはまず永遠のいのちの源を理解せねばならず、神がどこにいるのかを知らねばならない。わたしは、神のみが永久不変のいのちで、神のみがいのちの道を持っていると既に言った。神のいのちは永久不変なので、それは永遠のいのちである。神のみがいのちの道なので、神自身が永遠のいのちの道である。それだから、あなたはまず神がどこにいるのか、そして永遠のいのちの道を得るにはどうしたらよいかを理解しなければならない。では、この二つの点について、それぞれ話そう。

 あなたが本当に永遠のいのちの道を得たいと望み、飽くことなく探し続けているなら、まずこの質問に答えてほしい。今日、神はどこにいるのか?おそらくあなたは、神は天にいると答えるだろう。もちろん、あなたの家に住みはしないだろう。あなたは、神は明らかに万物の中にいると言うかもしれない。もしくは、神は各々の心の中に住んでいると言うかもしれないし、神は霊的世界にいると言うかもしれない。これらのどれも否定はしないが、問題を明確にしなければならない。神が人の心の中に住んでいるというのは全く正しいわけではないが、かと言って全く間違っているわけでもない。すなわち、神を信ずる者の中には、その信仰が本物である者と偽物である者、また神が認める者と認めない者、神を喜ばせる者と神が嫌う者、そして神が完全にする者と神が排除する者がいるからだ。だから神は一握りの人の心にのみ住んでいるとわたしは言う。この人たちは疑いなく真に神を信じ、神に認められ、神を喜ばせ、神はこの人たちを完全にする。神はこのような人たちを導く。彼らは神に導かれていて、既に神の永遠のいのちの道を見聞きしている。神への信仰が偽物であり、神に認められず、神に嫌われ、排除される者たち――彼らは神に拒絶され、いのちの道を得られず、神がどこにいるのかに関しては無知なままでいるしかない。対照的に、心に神が住んでいる者は、神がどこにいるかを知っている。彼らは、神が永遠のいのちの道を与える者たちで、神に従う者たちだ。あなたは今、神がどこにいるかを知っているか。神は、人の心の中と、人の傍の両方にいる。神は霊的世界にいて、全てのものの上にいるだけでなく、人が存在する地上に、それ以上にいる。だから、終わりの日の到来により、神の働きの段階は新たな領域へとすすんだ。神は万物に対して支配権を持っており、人の心に根幹として存在し、さらに神は人の間に存在している。このようにしてのみ、神はいのちの道を人類にもたらすことができ、人をいのちの道へと導く。人がいのちの道を得ることができ、生存できるように、神は地上に来て、人の間に住む。同時に、人の間での自分の計画に沿うように、神は万物を支配する。だから、あなたが神は天と人の心にいるという教義のみを認め、人の間での神の存在の真理を認めないのなら、あなたは決していのちを得ることはないし、真理の道を得ることもない。

 神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そしてさらには死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけることができないなら、いのちの栄養は得られないだろう。いのちの施しを得られないなら、もちろん真理は全く得られないので、想像と観念以外には、あなたの肉全体はただの肉、臭い肉でしかない。活字による言葉はいのちとはみなされず、歴史の記録は真理として敬われることはなく、過去の教義は神が現在話している言葉の記録とはみなされない。神が地上に来て人の間に生きているときに告げたものだけが真理であり、いのちであり、神の心であり、神が実際に働くやり方である。昔神が語った言葉の記録を現代に適用しようとするのなら、あなたは考古学者であり、あなたにぴったりの表現は歴史的遺産の専門家ということになる。なぜなら、あなたは常に神が過ぎ去った時にした働きの痕跡を信じており、神が以前人の間で働いた時に残した神の影しか信じておらず、神が昔自分を信じる者に与えた道しか信じていないからである。あなたは、神の今日の働きの方向を信じておらず、今ある神の栄光に満ちた顔を信じておらず、現在神が表している真理の道を信じていない。それゆえに、あなたは間違いなく完全に現実から遊離した空想家である。もし今、あなたがなお人にいのちをもたらすことのできない言葉に固執するなら、あなたは望みのない一片の枯れ木「a」だ。あなたは保守的すぎで、あまりに強情で、理性がなさすぎるからだ。

 神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体である。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストを騙る者はみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。このようにして、あなたが真にいのちの道を求めるなら、あなたはまず、神は地上に来ることで人にいのちの道を与えるということを認め、そして神が人にいのちの道を与えるために地上に来るのは終わりの日なのだと認めなくてはならない。これは過去のことではない。今起こっていることなのだ。

 終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。あなたが終わりの日にキリストが与えるいのちの道を求めないのなら、あなたは決してイエスに良しと認めてもらうことはできず、天の国の門をくぐる資格を得ることはない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり歴史に囚われた人だからだ。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることはなく、永遠のいのちの道を得ることはない。なぜなら、彼らが持っているのは、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も滞留したままの濁った水でしかないからだ。いのちの水を与えられない者は永遠に死体であり、サタンのおもちゃであり、地獄の息子たちである。そのような者がどうして神に会うことができようか。あなたが過去にしがみつき、足踏みをしながら現状維持しようとし、現状を変え歴史を棄てようとしないなら、あなたは神に常に反することになるのではないか。神の働きの段階は、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚に固執して何もしないまま、座して自滅を待っている。このままで、あなたが小羊の足跡をたどる者だと見なされることはあろうか。あなたが神として手放さずにいるものが、常にあたらしく、古くなることがないと証明できようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きはどのように進めるべきかを求めるように、それらがあなたを導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたの手につかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む言葉は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人の人生を知るうえで助けとなる知恵の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするように導いてくれる道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないだろうか。そこに含まれる奥義を理解させてはくれないだろうか。あなたは、自分で自分を天国に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天国に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたは未だに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよと。そして誰が今働いているのかを見よと。誰が今、終わりの日に人を救う働きをしているのかを見よと。そうしなければ、あなたは決して真理を得ることはなく、決していのちを得ることもない。

 キリストが語る真理に依り頼むことなくいのちを得ることを望む者は、地上で最も愚か者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は幻想の世界で迷子になった者だ。だから、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われるとわたしは言う。キリストは、終わりの日に神の国への門となる存在であり、誰も迂回することはできない。キリストを通してでなければ、誰も神に完全にしてもらうことはできない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神が用意する道を受け入れなくてはならない。真理を受け取ったり、いのちの供給を受け入れることなく、祝福だけを得ようと考えたりすべきではない。キリストは、神を真に信じる者がいのちを得ることができるように終わりの日に来る。神の働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道だ。あなたが神を認めず、神を非難したり、冒涜したり、さらに迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそ、聖霊の現れであり、神の顕現であり、神が地上で業を行うために託した者だからだ。だから、あなたが終わりの日のキリストがする全てのことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言うのだ。聖霊を冒涜する者が受けなければならない罰は、誰の目にも明らかだ。そして、あなたが終わりの日のキリストに敵対し、否定するなら、誰もその結末をあなたに代わって引き受けることはできないともわたしは言おう。さらに、これから先、あなたが神に認めてもらう機会はない。たとえあなたが自らの罪を贖おうとしても、あなたが神の顔を拝することは二度とない。なぜなら、あなたが敵対したのは人ではなく、あなたが否定したのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからだ。あなたはこの結末に気づいているのか。あなたが犯したのは小さな過ちではなく、重罪だ。だから、全ての人に忠告する。真理の前に牙をむき出したり、軽率に批判したりすることのないように。あなたにいのちを与えるのは真理以外にはなく、あなたを生まれ変わらせ、神の顔を仰ぐことができるようにしてくれるものは、真理以外にはないからだ。

脚注:
a. 一片の枯れ木:中国の成語で、「手の施しようがない」という意味。

全能神に感謝します。


全能神の御言葉「二十九番目の言葉」

2017-07-30 22:20:32 | 全能神教会各類文章

全能神教会東方閃電」御言葉を分かち合います

 すべてのものがよみがえりを受けた日、わたしは人間の中に来て、すばらしい日と夜を過ごした。そのとき初めて、人間は、わたしの親しみやすさを少し感じるのである。交流が頻繁になり、わたしの所有しているもの、わたしであるものの幾分かを知るようになった結果、人間はわたしについて、何らかの認識を得る。すべての人々の中で、わたしは頭を上げて見守り、彼らみなにわたしが見える。しかし、世界に災いが降りかかると、彼らはすぐさま不安になり、彼らの心からわたしの姿が消える。災いのために恐怖に駆られた彼らは、わたしの言いつけを聞こうとしない。わたしは何年も人間の間で過ごしたが、人間はいつでもわたしに気づかず、けっしてわたしを知らなかった。今日、わたしは人間に対して自分の口で話し、すべての人がわたしの前に来て、何かをわたしから得るようにさせるが、それでも彼らはわたしに近づこうとしないので、彼らはわたしを知らないのだ。わたしの足音が宇宙の果てをゆくとき、人間は自らを省みるようになり、すべての人はわたしのもとに来て、ひれ伏してわたしを崇める。これこそ、わたしが栄光を得る日、わたしが再来する日、そしてまた、わたしが立ち去る日でもある。今、わたしはすべての人々の間でわたしの働きにとりかかり、全宇宙で正式にわたしの経営(救いの)計画の仕上げを開始している。この瞬間から後、不注意な者は、いつ無慈悲な刑罰を受けることになるか知れない。これは、わたしが無情なのではなく、わたしの経営計画の手順の一つなのだ。すべてはわたしの計画の手順に沿って進められる。そして、誰一人、これを変えることができない。わたしが正式に働きを始めると、すべての人はわたしの動きにつれて動く。そのようにして、全宇宙の人々はわたしと共に働く。全宇宙に「歓呼の声」が響き、人間はわたしと共に勢いよく前進する。その結果、赤い大きな竜はうろたえ、狂乱し、わたしの働きに仕え、望まずとも、自分のしたいことができず、「わたしの支配に従う」しかなくなる。わたしの計画すべてにおいて、赤い大きな竜はわたしの引き立て役、わたしの敵、そしてまた、わたしの「しもべ」であった。したがって、わたしはけっして竜の「要求」を緩めたことがない。だから、受肉におけるわたしの働きの最終段階は、その「家」の中で完了するのである。このようにすれば、赤い大きな竜はよりよくわたしに仕えることができ、それによって、わたしはこれに打ち勝ち、計画を完了するのである。わたしが働く時、すべての天使が、最終段階のわたしの意思を実現すべく決意して、わたしとともに「決戦」に臨み、地上の人々が天使たち同様にわたしに従い、わたしに逆らおうという気持ちをいっさい持たず、わたしに逆らう行為を何もしないようにする。それがわたしの全宇宙での働きの動態なのだ。

 わたしが人間たちのもとに来る目的と意味は、すべての人間を救い、すべての人間をわたしの家に連れ帰り、天と地とを再び一つにし、天と地の間で人間に「合図」を「伝え」させることだ。それが、人間本来の役目なのだ。わたしが人間を創った時、わたしは人間のためにすべてを準備しており、後に、わたしの要求に応じて、わたしの与える富を受けられるようにした。だから、わたしの導きのもと、すべての人間が今日に至ったのだと言える。そして、これはすべてわたしの計画である。すべての人間の中で、無数の人々がわたしの愛の守りの下で存在し、無数の人々がわたしの憎しみの刑罰を受けている。人々はみなわたしに祈るが、それでも、彼らは現在の状況を変えることができない。一度希望を失うと、自然のなすがままとなり、わたしに逆らうことをしなくなる。それが人間にできるすべてだからだ。人間の生活の状態について、人間は、まだ真の人生を見出しておらず、世界の不公平、荒廃、惨めな状態を見通しておらず、そのため災いが降りかかることがなければ、大抵の人は、まだ母なる自然を信奉し、「人生」の味わいに夢中になっていることだろう。これが世界の現実ではないのか。これが、わたしが人間に語っている救いの声ではないのか。なぜ、人間の誰一人、真にわたしを愛さないのか。なぜ、人間は刑罰と試練の中でだけわたしを愛し、わたしの守りを受けている時には、誰もわたしを愛さないのか。わたしは何度も人間に刑罰を「与えた」。人間はそれを見るが、無視し、その時でそれを「調べ、考える」ことをしない。そのため、人間には無慈悲な裁きだけが下ることになる。これは、わたしの働きの方法の一つにすぎないが、これも、人間を変え、わたしを愛するようにさせるためなのだ。

 わたしは神の国を支配し、さらに、全宇宙を支配している。わたしは神の国の王であるとともに、全宇宙の主でもある。今から後、わたしは選民でない人々をすべて集め、異邦人の間で働きを始める。そして、わたしの行政を全宇宙に告げ、わたしの働きの次の段階を開始できるようにする。わたしは異邦人の間にわたしの働きを広めるために刑罰を与える。つまり、異邦人である者たちには「力」を用いるということだ。当然、この働きは、選民たちの間でのわたしの働きと同時に進められる。わたしの民が支配し、地上で力を振るう時はまた、地上のすべての人が征服される日であり、そして、さらに、わたしが憩うときでもある。そして、その時初めて、わたしは征服した人々みなの前に姿を現す。わたしは聖なる国では姿を現し、汚れた地では姿を隠す。征服されわたしに従順となった者はみな、その目でわたしを見ることができ、その耳でわたしの声を聞くことができる。これが終わりの日に生まれた者の恵み、これがわたしの定めた恵みであり、これはどの人間にも変えることができないのだ。今日、わたしは将来の働きのために、このように働きを行っている。わたしの働きはすべて関連していて、その全体は呼びかけとそれへの応えである。どの段階も突然止まることはない。そして、どの段階も他のものと独立して実行されたことがない。そうではないか。過去の働きは、今日の働きの基礎なのではないか。過去の言葉は、今日の言葉の先触れなのではないか。過去の手順は今日の手順の元なのではないか。わたしが正式に巻物を広げる時、全宇宙の人々は罰され、世界中の人々は試練を受ける。それがわたしの働きのクライマックスなのだ。すべての人々は光のない場所に住み、すべての人々は、環境の脅威にさらされながら生きる。つまり、これは、創造の時以来、現在に至るまで、人間が経験したことのない生活であり、全ての時代を通じて、誰一人こうした生活を「享受」した者はいないのだ。だから、わたしは、かつて行われたことのない働きをすると言うのである。これが実際的な状況なのであり、これが内なる意味なのだ。わたしの日がすべての人類に近づいており、それは天の果てにあるのではなく人間の目の前にあるのだから、誰が恐れずにいられよう。そして、誰がこれを喜ばずにいられよう。汚れたバビロンはついに終わりを迎える。人間はま新しい世界を見て、天と地は変わり、新たになった。

 わたしがすべての国々とすべての人々の前に現れるとき、白い雲が激しく空に動き、わたしを護る。また、地の鳥たちはわたしを喜んで歌い踊り、地上の空気を生き生きさせる。そうして、地上のすべてのものに活気を与え、もはや「沈鬱に沈む」ことなく、代わりに活力のある雰囲気の中で生きられるようにする。わたしが雲の中にいると、人間はぼんやりとわたしの顔と目を認め、そうした時、少しの恐怖を感じる。昔、人間は伝説でわたしに関する「歴史的記録」を聞いたことがあるが、その結果、わたしについて半信半疑である。人間には、わたしがどこにいるか、わたしの顔がどれほど大きいか、わからない。それは海ほど広いのか、それとも、緑の野のように際限がないのか。誰一人、そうしたことを知らない。人間が今日、雲の中にわたしの顔を見たときはじめて、伝説のわたしは「実体」をもつと感じ、そこで、もう少し、わたしに好感を持つようになる。わたしについての物語があればこそ、人間のわたしへの崇敬は少しだけ増す。しかし、人間はまだわたしを知らず、雲の中にわたしの一部を見ているだけである。その後、わたしは両腕を伸ばし、人間に見せる。人間は驚き、わたしの手で打ち倒されるのではないかと深く恐れて、口を手で塞ぐ。そこで、わたしへの尊崇の念にすこしばかりの畏れが加わる。人間はわたしのあらゆる動きをじっと見ている。よそ見をしている時にわたしに打ち倒されるのではないかと、深く恐れている。しかし、人間に見られているからといって、わたしは気にせず、手を動かして働きを続ける。わたしの行いすべてによってはじめて、人間はわたしを好意的に見、そうして徐々にわたしの前に来て、わたしと交流するようになる。わたしのすべてが人間に明かされると、人間はわたしの顔を見、それ以後、わたしはもはや自分を隠したり、ぼんやりと見せたりすることをしない。全宇宙で、わたしは公然とすべての人の前に現れ、肉なる者はみな、わたしの行いをすべて見る。霊に属する者は、必ずわたしの家に安らかに住まい、必ずわたしとともにすばらしい恵みを享受する。わたしが大事にする者たちは、必ず刑罰を免れ、霊の痛みと肉の苦しみを免れる。わたしはすべての人の前に公然と現れ、支配し、力を振るう。そうして、死体の臭いがもはや全宇宙に満ちることがなく、代わりに、わたしのさわやかな香気が全世界に広まる。わたしの日が近づいたので、人間は目覚めつつある。地上のすべてが秩序立てられ、地の「生き残り」の日が終わったのだ。わたしが到着したのだから。

1992年4月6日

全能神に感謝します


全能神の御言葉カード

2017-07-29 23:24:23 | 全能神教会各類文章

 

東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


全能神の御言葉「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」

2017-07-28 22:24:37 | 全能神教会各類文章

裁きは何ですか。全能神の御言葉を読みましょう。

 終わりの日の働きとは、時が近づき神の日が来たので、神の経営(救いの)計画を完成させるべく、その者の性質に応じて全ての人を分けることである。神はその国に入った者、すなわち神に最後まで忠実であった全ての者たちを神自身の時代に連れて来る。しかし、神自身の時代が来る前に、神がしたい働きとは、人の行為を観察したり、人の生活について尋ねたりすることではなく、人の神に対する背きを裁くことである。なぜなら、神は自分の玉座の前に来る者全てを清めるからである。今日まで神に付き従ってきた全ての者は、神の玉座の前に来た者であるから、神の最後の働きを受け入れる全ての者が、神によって清められる者である。すなわち、神の最後の働きを受け入れる全ての者が、神の裁きを受けることになる者である。

 以前に話した通り、裁きは神の家により始まる。この「裁き」とは、終わりの日に神の玉座の前に来る者に対して今日神が下す裁きのことを指す。終わりの日が来た時、神は天空に大きなテーブルを用意し、その上には白いテーブルクロスが広げられ、神は偉大な玉座につき、全ての人は地に跪く。そこで神は、その者が天国に昇るべきか燃える硫黄の湖に送られるべきかを決めるため、各々が犯した全ての罪を明らかにする―そのような超自然的な様子を想像する人がいるかもしれない。人の想像がどのようなものであろうとも、神の働きの本質は変わらない。人の想像は、人の思考による構築物にすぎず、人の脳に由来しており、人が見聞きしたものから組み立てられている。だから、いかに素晴らしくイメージが構想されていたとしても、それはやはり絵画にすぎず、神の働きの計画の代替物にはなり得ない。結局のところ、全ての人はサタンにより堕落しているのだから、どうして神の考えを推し量ることができようか。人は、神による裁きの働きを特に素晴らしいものと想像する。人は、神自身が裁きの働きをするのだから、とてつもない規模の、人間には理解出来ないようなものに違いないと考える。天に鳴り響き、地を揺らすはずだ、そうでなければ、神による裁きの働きにはなり得ない、そう考える。これは裁きの働きなのだから、神の働く様子は特に堂々と威厳のあるもので、裁かれている者は泣き叫び、ひざまずいて哀れみをもとめるに違いない、そう考える。そしてその光景は厳粛で熱気を帯びる…。誰もが神の裁きの働きは伝説的なものだと感じる、そのようなもののはずだと。しかし、神が人の間で裁きの働きを始めてから長い時間がたっても、あなたはまだ眠りを貪っていることを知っているか。あなたが神の裁きの働きが正式に始まったと思う時には、神が天と地を変える時が既に来ていることを、あなたは知っているか。その時、もしかしたらあなたは人生の意味をようやく理解したところかもしれないが、容赦ない神の懲罰の働きが、まだまどろんでいるあなたを地獄に送る。その時あなたは、神の裁きの働きが既に終わったことに突然気づくのだ。

 貴重な時間を使ってこんな忌まわしく嫌な話をするのは止めよう。それより、どのようなことが裁きを構成するかについて話そう。「裁き」という言葉を聞けば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉と、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉を思い浮かべるだろう。こうした言葉は非常に厳しいものだが、神の人に対する裁きの言葉ではない。こうした言葉は、いろいろな状況、つまりそれぞれ異なる背景で神が語った言葉にすぎず、神が終わりの日に人を裁くときにキリストが語る言葉とは違う。終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。もしあなたがこうした真理を重視せず、避けたり、別の道を考え出そうと常に考えたりしているなら、あなたはひどい罪人だとわたしは言おう。もしあなたが神を信じていても、神の真理やその心を追求せず、あなたを神に近づける道を愛さないなら、あなたは裁きを逃れようとしている者だとわたしは言おう。あなたは、偉大な白い玉座から逃れる操り人形であり裏切り者で、神は自分の目から逃れようとする反抗者を誰ひとり容赦しない。そうした人は、更に重い懲罰を受ける。裁かれるために神の前に来たもので清められている者は、永遠に神の国に住むことになる。もちろん、これは将来のことだ。

 裁きの働きは神自身の働きなので、当然、神自身が行う。神の代わりに人が行うことはできない。裁きは真理を通した人への征服なので、人の間でこの働きを行うため、神はやはり受肉した姿で現れることは疑う余地がない。つまり、終わりの日には、キリストが真理を用いて地球上の人を教え、真理を用いて彼らに真理を全て明らかにする。これが、神による裁きの働きだ。多くの者が、神の二度目の受肉について受け入れ難いものを感じる。なぜなら、神が受肉して裁きの働きを行うことは、人には信じ難いからだ。しかしわたしはあなたに告げなければならない。神の働きは往々にして人の予測をはるかに超えるもので、人の頭がそれを受け入れるのは難しいのだと。というのも、人は地上のウジ虫にすぎないが、神は宇宙を満たす至高の存在だ。人の頭は、ウジ虫しか生み出さない汚い水たまりに過ぎないが、神の考えに支配されたひとつひとつの働きは、神の知恵によるの結晶だ。人は、常に神に敵対することを望む。それなら結局誰が負けることになるかは自明だと、わたしは言おう。わたしは強く勧める、あなたがたがみな自分を金より重要だとみなさないようにと。もし他の人たちが神の裁きを受け入れられるなら、なぜあなたはできないのか。彼らに比べてあなたがどれほどの高みにいるというのか。もし他の人たちが真理の前に頭を垂れるなら、なぜあなたも同様にできないのか。神の働きの偉大な潮流を止めることはできない。神は、あなたの「功績」のために裁きの働きを繰り返すことはなく、あなたはそんな好機を逃したことを痛烈に後悔するだろう。もしあなたがわたしの言葉を信じないなら、天の偉大な白い玉座があなたの上に「裁きを下す」のを待つが良い!あなたは、全てのイスラエル人がイエスを拒絶し否定したにも関わらず、イエスによる人類への贖罪はいまだに世界の果てまで広がっているという事実を知るべきだ。これは、神がはるか昔に実現した事実ではないのか。もしあなたがまだイエスによって天に引き上げられるのを待っているのなら、あなたは頑固な一片の枯れ木[a]だとわたしは言おう。イエスは、あなたのように真理に忠実でなく、祝福だけを求める偽の信者を認めないだろう。それどころか、神は容赦なく、何万年も焼かれるために火の湖にあなたを投げ入れるだろう。

 これで裁きとは何か、真理とは何かを理解できたか。もし理解できたなら、あなたが裁きに従うよう熱心に勧める。さもなければ、神に賞賛されることも、神にその国に連れて行ってもらうことも決してないのだ。裁きは受け入れるが清められることのない者、すなわち裁きの働きの最中に逃げ出すような者は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりも、ずっと多く、ずっと重い。なぜなら、彼らは神を裏切り、神に背いたからだ。仕えさえするに値しないそんな人間は、さらに過酷で終わることのない懲罰を受ける。言葉で忠誠を誓いながら裏切るような者を、神は見逃さない。そのような者は報いとして、霊、魂、そして体に懲罰を受けることになる。これは、神の義なる性質を明示しているのではないだろうか。これこそ、まさに神の裁きと人の明示の目的ではないのか。神は、裁きの時にあらゆる邪悪な行いをした者全てを、邪悪な霊が生きる場所に置き、彼らの肉体を霊の意志により破壊されるようにする。彼らの肉体は、死臭を放つ。それが彼らにふさわしい報いなのだ。神は、不忠実な偽の信者、偽の使徒、偽の働き人の罪をひとつ残らず彼らの記録に書き留め、その時が来れば、霊が彼らの肉体をそっくり霊により思うままに汚されるよう、神は彼らを不潔な霊の渦中に放り込む。その結果、彼らは二度と肉体をもつことはなく、二度と光を見ることはない。一度は神に仕えたが、最後まで忠実であり続けられなかった偽善者は、神により悪人として数えられるので、彼らは悪人とぐるになり、烏合の衆となる。最終的に、神は彼らを滅ぼす。神は、キリストに一度も忠実でなかった者や神のために何の努力もしたことのない者を排除し、顧みることはなく、時代が変わる時に彼らをひとり残らず滅ぼす。彼らは、もはや地上に存在せず、神の国へ入れてもらうことなど無論ない。神に対して誠実であったことはないが、強引に神により取り扱いを受けた者は、神の民のために奉仕する者として数えられる。そうした者たちのごく一部だけが生き延び、大多数は奉仕をする資格さえない者たちと共に消えゆくだろう。最後に神は、神と同じ心を持つ全ての者、神の民と子ら、そして祭司として定められた者たちを、自分の国に迎え入れる。これが、神の働きを通して生まれる神による結晶だ。神が定めた種別のどれにも属せない者については、異邦人として数えられる。彼らの結末がどうなるか、もちろん想像できるだろう。わたしは既に、あなたがたに言うべきことを全て言った。あなたがたがどの道を選ぶのか、それはあなたがたの決断次第だ。あなたがたは次のことを理解しなければならない。神の働きは、神についていけない者のために待ってくれることはなく、神の義なる性質は、誰にも哀れみをかけない。

脚注:
a. 一片の枯れ木:中国の成語で、「望みのない事例」を意味する。


全能神の御言葉「十八番目の言葉」

2017-07-25 23:49:37 | 全能神教会各類文章

 稲光の中、すべての動物は真の姿を明らかにする。そして、わたしの光に照らされて、人間もまた、かつての聖さを取り戻した。ああ、過去の堕落した世界がついに汚い水の中へと崩れ去り、水面の下に沈み、溶けて泥となった。ああ、わたしの創った全人類が、ついに再び光の中でよみがえり、存在のための基礎を見出し、泥の中でもがくことをやめた。ああ、わたしの手の中のもろもろの被造物よ。それらがどうしてわたしの言葉によって新たにならないことがあろうか。どうして、光の中でその機能を果たさないことがあろうか。地はもはや、動きがなく沈黙してはいない。天はもはや荒涼として悲しいところではない。天と地とは、もはや虚無で隔てられてはおらず、ひとつになって、決して再び裂かれることがない。この喜ばしい時、この歓喜の瞬間、わたしの義と聖とが宇宙全域に広まり、すべての人間が終わりなくほめたたえる。天の町々は喜びに笑い、地上の王国は喜びに舞い踊る。この時に、誰が喜ばずにいようか。そして、この時、誰が泣かずにいるのか。地は、そのはじめは天のものであった。そして、天は地とは、ひとつであった。人間は天と地とを結ぶ絆であり、その聖さのおかげで、その再生のおかげで、天はもはや地から隠されてはいない。そして、地はもはや天に対して沈黙していない。人類の顔は安堵の笑顔に飾られ、心には限りない甘美さが満ちる。人間は互いに言い争うことがなく、また、殴り合うこともない。わたしの光の中で他の人々と平和的に生きない者がいるだろうか。わたしの日々にわたしの名を汚す者が誰かいるだろうか。人間はみな畏敬のまなざしをわたしに向け、その心が沈黙のうちにわたしに叫んでいる。わたしは人間のあらゆる行いを探った。清められた者の中に、わたしに逆らうものは誰もいない。わたしを裁く者もいない。人間はみな、わたしの性質に満たされている。誰もがわたしを知るようになり、わたしに近づき、わたしを愛する。わたしは人間の霊の中に確固として立ち、人間の目に最も高い頂きに上げられ、その血管を血として流れる。人間の心の喜びにあふれる高揚が地のいたるところを満たし、空気は爽やかに澄み、濃い霧が地面を包むことは、もはやない。そして、太陽がまばゆく輝く。

 今、わたしの国を見なさい、わたしがすべての王として支配する領域を。創造の初めから今のこの時まで、わたしの子らがわたしの導きに従い、人生の多くの苦難、世にあるまことに多くの不正を経験し、世の浮き沈みを経てきたが、今はわたしの光の中で暮らしている。誰が昨日までの不正にすすり泣かずにいられるだろう。誰がここに至るまでの苦難に涙を流さずにいられよう。そしてまた、この機会をとらえて自らをわたしに捧げない者が、誰かいるだろうか。この機会をとらえて、胸にあふれる熱情を吐露しないものがいるだろうか。今この時に、自分たちの経験したことを語らない者がいるだろうか。今この時に、すべての人間は自身のもっとも良い部分をわたしに捧げている。どれほどの人々が、昨日までの無知な愚行を悔いる思いに苦しみ、どれほどの人々が昨日までの欲求に嫌悪せずにいられるだろう。人間はみな自身を知り、サタンの行いとわたしのすばらしさを見て、心の中にわたしのための場所を設けた。もはやわたしが人々の間で避けられ、放棄されることはない。わたしの偉大な働きがすでに成し遂げられ、もはや妨げられることがないからである。今日、わたしの国の子らの中に、自分自身について心配していない者が、誰かいるだろうか。わたしの働きが行われる方法について心配する種を持たない者が誰かいるだろうか。心からわたしのために身を捧げている者が、誰かいるだろうか。あなたがたの心の中の不純物は減っているだろうか。それとも、増えているだろうか。もし心の中の不純物が減りも増えもしないのなら、わたしはそのような人を必ず見捨てよう。わたしの求めるのは、わたしの心にかなう聖徒であって、わたしに逆らう汚れた霊ではない。わたしは人間に多くを求めないが、人間の心の内はまことに複雑なため、人間にはわたしの心にすみやかに従ったり、直ちにわたしの願うことを満たしたりはしない。人間の大多数は、最後に勝利の冠を手にしようと、密かに努力している。大多数の人間は、再びサタンの手に落ちることを恐れ、一瞬たりともたゆむことのないよう、全力で努力している。彼らはもはや、わたしに恨みを抱かず、わたしの前で常に忠誠を示そうとしている。わたしは、実に多くの人の心からの言葉が語られるのを、実に多くの人が、苦難の中で経験した痛みが語られるのを聞いてきた。人々が最も苦しい中でゆらぐことなくわたしに忠誠をささげるさまを、わたしは見てきた。また、実に多くの人が、険しい道を歩むとき、出口を求めて苦闘するさまを見てきた。そうした中で、その人たちは、けっして不平を言わなかった。光を見出すことができず、落胆することはあっても、けっして不満を言わなかった。しかし、わたしはまた、実に多くの人々が心の底から悪態をつき、天を恨み、地を呪うのを見た。また、実に多くの人々が苦しみのただ中で絶望に諦めきり、屑入れにゴミを放り込むように身を捨てて、塵芥に覆われるのをも見た。わたしは実に多くの人が互いに言い争うのを聞いた。地位の変化に「顔」の変化が伴い、仲間との関係が変わって、友人たちが友であることをやめ、敵対するようになり、互いを責めるようになった。大多数の人々は、わたしの言葉を機銃の弾丸のように使って相手を不意打ちし、世界のいたるところが、平穏を打ち破るやかましい騒ぎに満ちるようになった。幸い、こうして今日に至っている。そうでなければ、どれほどの人々が止むことのない機銃掃射の中で死んでしまったか、わからない。

 わたしから出た言葉に従い、全人類の状態に合せて、わたしの国は着実に地上に降りてきた。もはや人は憂うることなく、他の人のことを「考慮に入れ」たり、人々のことを「心配する」ことがない。そこで、諍いごとはもうなく、わたしから出た言葉に従い、現代の様々な「武器」もまた、使われなくなる。人間は再び他の人間との間に平和を見出し、人間の心は再び調和の精神を放ち、もはや誰も、密かな攻撃に身構えることがない。すべての人類は正常な状態に戻り、新たな生活を始める。新たな境遇の中、多くの人は周囲を見回し、真新しい世界に入ったかのように感じる。そのため、すぐに新しい環境に馴染むことはできないし、正しい道に踏み出すこともできない。そこで、人間に関しては、「意欲はあっても、肉は弱い」ということになる。わたしは人間のように苦難の苦さを味わうことはなかったが、人間の弱点については、すべて心得ている。わたしは人間の必要を詳らかに知り、人間の弱さに関するわたしの理解は完璧である。そのため、わたしは人間の短所をからかったりはしない。ただ、不正な行いに対処し、適正な「指導」をして、誰もが正しい道を歩めるようにする。そうして、人間はさまよう孤児であることをやめ、家のある、愛される赤子となる。それでも、わたしの行いは原則に基づいている。もし人間がわたしの内の幸いを享受したがらなければ、わたしにできることは、彼らの欲求のままに底なしの淵に送り込むことだけである。その時点では、誰一人、もはや心に不平を抱えていてはいけない。わたしの采配の中に、誰もが、わたしの義を見ることができなければならないのだ。わたしは、わたしを愛するよう、人間に強いることはしない。また、わたしを愛したからといって、人間を打つこともしない。わたしの内には完全な自由、完全な解放がある。人間の運命はわたしの掌中にあるが、わたしは人間に自由意志を与えた。それはわたしに左右できるものではない。そのようにして、人間はわたしの行政のために「厄介な事態に陥る方法を考え出す」ことなく、かえって、わたしの寛容さを頼みにし、「解放を勝ち取る」のだ。そうして、多くの人は、わたしに束縛されるというよりは、解放されて、自分の道を求めていくことになる。

 わたしは常に人類を寛大に扱い、けっして解決不能の問題を与えなかったし、誰をも困難な状況に追いやらなかった。そうではないか。まことに多くの人々はわたしを愛していない。しかし、そうした態度に悩むのではなく、わたしは人間に自由を与え、苦しみの海で泳ぎ回る余地をもたせてやった。人間は優れた器ではないのだ。人間はわたしの手の中にある祝福を見るが、それを楽しもうとはせず、サタンの手から災厄を掴み取りたがる。そうして、サタンに「滋養」としてのみ込まれるはめになる。もちろん、中には、その目でわたしの光を見て、現在の霧の中に生きてはいても、そのせいで光への信仰を失わず、障害だらけの道ではあるが、霧の中を手探りし、探し求める事を続ける人々もいる。人々がわたしに逆らうとき、わたしは激しい憤りを注ぐので、大勢が不服従のせいで死ぬだろう。人間がわたしに従うとき、わたしは彼らの目から隠されている。そのようにして心の深いところに愛、甘言によるのではない、わたしに喜びをもたらす愛が湧くようにする。いったい何度わたしは、人間がわたしを求めるとき、真の信仰が生まれ出るようにと、目を閉じ、沈黙を守ったことか。しかし、わたしが話さなければ、人間の信仰はすぐさま変化し、そこで、見えるのはまがい物の「商品」ばかりということになる。人間が心からわたしを愛したことは、けっしてなかったからだ。わたしが姿を現したとき初めて、人間はみな、おおげさな「信仰」表明をする。しかし、わたしが秘密の場所に隠れていると、彼らの心は弱く、臆病になる。まるで、わたしを不快にさせるのを恐れるかのように。あるいは、わたしの顔を見ることができないと、あれこれと試してみて、実際、わたしが存在していないという結論になったりする。どれほどの人がそうした状態にあり、どれほどの人がそういう心持ちでいることか。しかし、これはみな、人間がすべて、内にある恥ずべきものを隠すのに巧みだからである。そのため、人々は自身の弱点を見るのをいやがり、あからさまに自分の自尊心を隠そうとするときにだけ、わたしの言葉の真実であることを認める。

1992年3月17日

東方閃電」は聖書(マタイによる福音書24:27)の預言「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。」の実現です。全能神教会は主イエスの再臨ーー世の終わりのキリスト全能神の働きによって生まれました。誰か人が設立したのではありません。神様の言葉を読んだら、神様が既に現れていると分かるはずです。