多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

文書の宝庫、国立公文書館

2011年10月18日 | 博物館など
一日秋晴れだった体育の日、竹橋の近代美術館の西隣にある国立公文書館を訪れた。ふだんは土日は閉館だが秋の特別展「公文書の世界」 を開催しており見学できた。従来公文書は、各省・各機関で保存していたが、散逸を防ぎ公開するため40年前の1971年7月にこの施設がオープンした。この特別展は、1絵図・写真を含む公文書、2公文書保存にまつわる物語、3公文書のなかの個人・企業・地域、4特徴的な形体の公文書の4部編成で「函館五稜郭の図」「文部省の文書管理」など41項目から成る。公文書館なので、体系的に残された資料か未整理のまま残った資料か、文書か図か写真かなどで分類し展示されていた
この施設に入りまずワクワクするのは、史料を原本のままみられることだ。たとえば開戦や終戦の詔書は昭和天皇記念館でもみられる。御名御璽の朱色の印まで押されているが「写し」である。ここなら歴史をつくり、歴史を変えた文書を原本でみられる。まさに文書の「宝の山」である。
以下、わたくしの関心を引いたいくつかの展示のみ年月順に紹介する。

明治期のものでは1873(明治6)年の博物の掛図があった。桜台の唐澤博物館獣類の掛図をみたとき、どうしてこんな美しい図があるのか驚いたが、公文書館の説明では、ウィルソン・リーダーで有名なウィルソンがつくった英語版の植物掛図を参考に、食べ方、保存法まで加え日本版の掛図をつくったようだ。ウィルソン・リーダーそのままの小学読本(1874 明治6年文部省発行)と同じ作り方である。
74(明治7)年の「民撰議院設立之議」の建白書があった。自由民権運動の先駆けになったものだ。自由民権運動は80年の国会期成同盟結成で高揚し、福島事件、秩父事件などを引き起こした。建白書の末尾に江藤新平、板垣退助、後藤象二郎らの名前が並ぶ。ただ筆跡が同じなので署名ではないようだ。
75(明治8)年11-12月の小笠原島の写真があった。政府が島の調査をしたときのもので、これには大きな目的があった。このころ政府は、北の国境を75年5月にロシアとの樺太千島交換条約で確定し、南は79年の琉球処分、朝鮮とは江華島事件(75年9月)に伴う76年2月の日朝修好条規、そして太平洋方面が小笠原だった。19世紀前半から小笠原に対し、日米英3国がそれぞれ領土宣言を発していた。日本政府の船が横浜を出港した翌日イギリスの船も小笠原に向かったが、英国船が到着したときにはすでに日本政府が住民にふたたび日本帰属を宣言した後だった。展示されていた写真のなかに「ポルトガル人ジョンブラボー居宅」があった。それまでは各国の人が平和に暮らしていたようだ。
日本初の公害事件足尾銅山鉱毒事件に関し、農事試験場の技師・坂野初三郎が調査した報告書と土砂に含まれる銅の割合を測定した試料の「砂」のビン詰め(1892年)が展示されていた。収集されているのは文書や写真だけではない。蛇足だが北海道産樹木見本の木片や厚生労働省の献血推進マスコット「けんけつちゃん」も展示されていた。

特高関係資料があった。これは1974年1月にアメリカから150ケース(2200点)が返還されたなかのひとつだ。絵画の分野では少し前の70年4月に「無期限貸与」というかたちで153点の戦争絵画(うち125点が作戦記録画)が返還され開館直後の近代美術館に収められたが、そういう時期だったようだ。
特高というと小林多喜二が思い浮かぶ。井上ひさしの「組曲虐殺」は多喜二が主人公の芝居だが、二人の特高刑事の家庭生活や生い立ちまでていねいに描いている異色の作品だった。
敗戦直前1945年3月1日の衆議院鹿児島2区選挙無効事件の大審院判決の原本が展示されていた。42年7月、初の翼賛選挙が行われ「推薦議員」は官民一体の支援を受けた。一方、翼賛議員同盟無所属の議員は選挙中にひどい妨害を受け、選挙は無効だと訴えたものである。判決はなんと「衆議院議員選挙法第82条に違反し無効」というもので、判決から20日後に実際にやり直し選挙が鹿児島で実施された。現在の最高裁の判事たちにはとても出せない快挙だった。この判決は「気骨の判決」と呼ばれる。この判決原本は戦災で焼失したとされていたが85年に40年ぶりに発見された。
またこの原本の展示には公文書館ならではの特色もある。公文書館は本来行政文書のみ収集し、立法や司法の文書は受けれないことになっていた。2009年に内閣総理大臣と最高裁長官の間で「定め」を締結し司法文書が移管されたので、この原本もここにあるそうだ。そういう点でも意味ある文書なのである。

そして冒頭に触れた「終戦の詔書」が展示されていた。普通は文案が完成してから浄書を始めるが、その余裕がなく閣議決定の前に浄書を始めたそうだ。そのため4か所修正がある。うちひとつは「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラザルニ至ル」の「使用シ」の後に「テ頗ニ無辜ヲ殺傷シ」が補われていることを、原本で確認できた。
これには当初、浄書する係員が書き損ねたという説があった。これに対し佐野小門太・内閣理事官は憤慨し「釈然としない」と書いた書簡が並べて展示されていた。公文書館らしいトリビアルな知識も得ることができる
戦後のものでは、東京裁判の記録として紙芝居の「一億一心」の図(写し)が展示されていた。井上ひさしの「夢の裂け目」は、検察側の証人として出廷した田中天声が主人公だった。それにはモデルがいたということは知っていたが、日本紙芝居協会会長佐木秋夫は「戦争してゐるのだ」(1941年7月)を法廷で実演した。紙芝居の最終シーンがこの「一億一心」だった。
憲法公布は1946年だが、その直後から9条に反対する声があった。岸信介首相のもと、56年には改憲について論議する憲法調査会が設置された。63年7月の第24回会議の音声資料と議事録が展示されていた。「自衛権、自衛軍」を主張する広瀬委員、「軍隊を持つことは当然」という宮田委員、大石委員に対し、蝋山政道委員が(国家の独立は維持すべしということは共通というが)「9条論議の方向は一致するわけじゃない」と孤軍奮闘する声が聞こえた。こういう気概のある発言を堂々とできる政治学者も、いまではほとんどいないと思う。調査会は報告書を提出し65年に解散した。蝋山氏らのおかげで、50年後のいまも幸い9条は改正されていない。しかし来年から育鵬社の教科書で学ぶ中学生が増えるので、10年後にはもう踏んばれないかもしれない。
戦時中にも紙芝居は活躍したが、戦後も行政の宣伝手段として利用されたことがある。その名も「農地改革」という紙芝居が展示されていた。「田中さんははえぬきの百姓です。親爺さんも百姓でした」と、現代とはずいぶん違う口調ではじまる。

これもトリビアルの類だが、閣議決定した法律案原本には内閣各大臣のサインがある。それがまるで戦国時代や江戸時代の花押のようなのだ。1949年の社会教育法が展示されていた。係りの人に今でも花押を使う人がいるのかと尋ねると「そうだ」ということだった。自分の名前の一字であることが多いらしいが、だれから学びどうやって練習したのだろうか。

☆国立公文書館では、ウェブでデジタルアーカイブアジア歴史資料センターを公開している。デジタルアーカイブでは、たとえば「終戦の詔書」の画像をみることができる。しかし、「公開」または「部分公開」の資料は利用案内によれば比較的簡単に閲覧できそうなので、できれば平日に訪問して原本をみたいものだ。
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