かくれて咲く花

~凛として~

「羊」なんかじゃない (part I)

2014-02-01 17:09:17 | Weblog

石井ゆかりさんの牡羊座の本を持っていたら(12星座シリーズで出ています)、ごはんを一緒に食べていた友人たちが関心を示して、しばし星座談義。改めて自分の牡羊ぶりに大笑いだったのが、「嫌いなもの」。この本によると、白羊宮生まれは「押さえつけられること、束縛されること、命令されること、そしてなにより負けることが嫌いです。決めつけられることも嫌いですし、単独で自由に動けないと、強い鬱屈を感じます」とのこと。まさにそんな人がおりましたですよね。自由を求めて、最近ついに脱走した人が

明るくて正義感が強いのはいいけど単純で猪突猛進、という、自分でもかなりこの描写に当てはまると思ってはいるものの、いまひとつ不本意だった従来の牡羊座のティピカルイメージが、ゆかりさんの手にかかるとこんな素敵な「いいところ」になる。

自分の権利も他人の権利も、堂々と大切にする力を持っています。
落ち込むときはどーんと落ち込み、弾むときは誰よりも弾めます。
ウソの一切ないエネルギーの持ち主であることが、牡羊座の役割です。
 
 
そう、「人は人、自分は自分」。これは私「うめ」が死んでも守り抜きたいと思っている、とてもとても大切にしている価値観の根幹。
 
「他の人がそうしてるんだから、あなたも同じようにしなさい/すべきだ」と、小さい頃から学校や職場で何度言われてきただろう。みんなと一緒、ということが重んじられる日本的社会では、マイペースに動く私のようなタイプは「自分勝手」「協調性がない」「和を乱す」とか言われるゆえんでもあるけど、だけど私は自分がそうしているからといって人も私と同じようにすべきだとも思ってないし(もちろん同じようにしたいと思ってるんならすればいいだけの話だし)、別に周りに「合わせない」のではなくて、自分のなかに「周りに合わせないといけない」という意識がないだけであって、「合わせなきゃいけない」と信じて人にもそれを強要する人たちが、私みたいなのを「なぜ合わせないんだ!!」と糾弾するような、自分とは違う価値観を持つ人を攻撃したりということもしない。しないというより、自分のなかにないんだから、彼らからすると「意識してそうしない」というふうに見えるのかもしれないけど、私にとってはそんなことを「する」という発想がもともとないので、ただナチュラルにいるだけで彼らがなぜそんなに怒るのかがわからない。
 
みんな自由に好きなようにやればいいと思ってる私からすれば、なんでそんなに周りが気になるのかなとか、そんなふうに周りの目を気にして監視し合う窮屈な横並び意識のなかにいるのかな、と不思議な気はするけど、それもまた彼らの生き方なんだろうから、別にみんなが自分と同じようにマイペースになるべきだとも思ってないし(なってくれたらいいな、とはちょっと思うけど、期待はしていない)。ただ自分が自由でいたいから、人も自由でいてほしいし、自分の自由と価値観を大切にしたいのなら、他人の価値観も自由も同じように尊重する。それが「人は人、自分は自分」の基本だと思っている。
 
人は人らしく、犬は犬らしくーーーというのは佐藤愛子さんのことばで、人間であろうと犬であろうと、すべての生命体はのびのびと自由でいるのが自然なんだというおおらかな世界観に、私は深く共感する。愛犬家の愛子さんが、現代の犬は人間の都合に合わせていろんな制約があって、自由に走り回ることもできない、それを見るのが忍びない、と仰るのにも本当に同感。実家の自由犬(ラブラドール・♂)も極めてフレンドリーで、人をみるとうれしくて近づいているだけなのに、なかには「こわい」「人に迷惑にならないように散歩させるべきだ」と怒る人たちもいるから、リードを付けないと外に出してあげられないのは本当にかわいそうでならない。時々近くの公園で誰もいないとき、リードを外すと、「いいの?」というようにちょっとこっちを振り返ってから(これがなんともかわいい)嬉しそうに元気いっぱい駆けていくその姿は、ちょっと太めではあるけど彼が最も輝くひとときであり、これが本来の姿なんだから、いつもこんなふうに広々としたところで自由に走り回れたらもっと幸せなのかもしれないなあ・・・とちょっと胸が痛む。
 
また自由を重んじるわが母の方針で、彼は「犬ならこれくらいのことはできるだろう」と人間からある意味期待されている“芸”を仕込まれていないので、その種のことはまったくしない。だからうちに来るお客さんのなかには、「お手」と言っても彼がなんの反応もしないので、「なんでできないの?」とか「なんで教えてないの?」と言う人もいるけど、こういう“人間中心”の発想を我々(母と私)は最も嫌い、そして内心軽蔑する。ああいうことをする犬は、できたらごほうびに食べ物をやるからできるようになっているだけであって、そんな餌付けのような“芸”には何の価値もない。「何かもらえるから」と期待して人間の言うことをきくような、そんな卑しい精神というかプライドのない犬になってほしくないのだ。なので好きなボール遊びをしていても、彼はポーンと高く放り投げたボールを器用にパクッとキャッチするまではなかなかなのに、こっちに持って来てくれるのかと思いきや、キャッチして終わり。その場でポロンと口から落としてしまうので、こちらがいちいち取りに行かなければならない。フリスビーであっても同じで、アンタほんまにレトリバーなん??(retrive=行って取ってくる)との疑念は湧くものの、彼が人間を喜ばせようというのではなく、ただ自分がしたいからそうしているという、なんの媚びもない自由犬であることを、我々は大変誇りに思い、だからこそなお愛しいんですよね
 
それから「主従関係」も死ぬほど嫌またうちの犬を引き合いに出すと、「人間と犬を同等に論じるな」と怒る人もおられるかもしれないけど、カリスマドッグトレーナーが、犬に言うことをきかせるため、人間より上だと思わせてはいけないというのが、私にはどうしても納得いかない。犬も大切な家族の一員であり、他の家族(人間)と同じだと思っているから、「飼い主(人間)に服従するのが犬」という前提で接することはしたくない。人間が地上で最も優れた生き物、とカンチガイしておられる多くの地球人たちに反発しているというのもあるけど、なにより「どちらかが上でどちらかが下」という“主従関係”が私にはway too uncomfortableなのですよ。人間対人間以外であってもそうだし、ましてや人間対人間であればなおのこと嫌でたまらない。みんなお互いにフラットだと思ってるから、服従するのもさせるのも嫌なんです。要は人に何かを強要するのもイヤだけど、強要されるのはもっと嫌ということに尽きるんですけどね。
 
こうして熱く「嫌なもの」について語りながら、まったくI'm so Aries!!と思わざるを得ないわけですが、まあ牡羊座生まれが全員こんなじゃないと思うし、牡羊座以外の人でも私のような人は、率直に言って日本にはそうたくさんはいないんだろうと思うけど、世界には多くの同志というか似たような価値観の人は存在しているはず。じゃあみんながアリエスだったらいいのかというと、こんな人たちばっかりでは世の中バランス悪いような気もするから(→理由)、地上がたとえばアリエスだらけ=自分と同じ価値観に統一されることがheavenなのではなく、いろんな人がいて、お互いの価値観の違いを認め尊重し合い、多様性を大切にまもりながら平和に共存している、というのが私の考える地上のheavenなんです
 
 
基本的に底抜けの明るさ(単純さ)を身上とする牡羊たる私「うめ」ではありますが、これまた牡羊らしく落ち込むときは本当に落ち込みますし。ほんと悩み苦しみながら書いたものって、徹底的にどん底というか、自分でも同じ人と思えないくらい暗いですものね「真珠」なんかPart I とか銘打ちながら、これ続き書きたくないというか、書けるのかなと自分でも不安になるくらい深海魚というか。
 
ただ、牡羊座の疑いのなさというか、「自分がこうだから、みんなこんなもんなんだろう」となんの疑問もなく思っているところは、よくも悪くもという面があるのかなと反省するというか、「世の中こんな人ばっかりではないんだな」という配慮がもうちょっとあったほうがいいのかな、と思うこともあったり。ねたむとか恨むとかいう感情が自分にはあんまりないから、そういう黒い情熱を向けてくる人が理解できないし、しかし一方で私のそういう面(なんでそんなふうに思うのかが分からない)がさらに逆恨みや反感を増幅させてしまうこともある、というところはあるのかもしれないな・・・とか。まあ長くなっちゃうので(既にこの記事長すぎですが)、これはまた改めて書きたいと思っています。嘘がなによりも嫌い、ということについてもね!!
 
ちなみに「『羊』なんかじゃない」というタイトルは、なつかしい名作「天使なんかじゃない」(矢沢あい)をもじったものであり、誇り高い牡羊座は「羊のように従順」では決してない、という思いをこめております
 

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