先端技術とその周辺

ITなどの先端技術サーベイとそれを支える諸問題について思う事をつづっています。

テスラよりミラージュの方が、環境に優しい?

2017年11月17日 14時37分11秒 | 日記
CO2の廃棄は、動いているときだけではなく、車の生産から廃棄までを考えると、様子が異なってくるという。
 
 
米EVメーカー、テスラの量産車「モデル3」のCO2排出量は、生産から廃車までの全ライフサイクルで見て1km当たりに換算すると、一部のエンジン搭載車よりも多くなるという(写真:picture alliance/アフロ)

 三菱自動車の小型車「ミラージュ」は、一見して環境に優しい革新的なクルマには思えない。内燃機関(エンジン)で走り、排気管から排ガスを撒き散らすガソリン車にすぎないからだ。

 しかし、部品の調達から燃料、部品の再利用に至るまで、つまりクルマが誕生する過程から廃車までの全ライフサイクルで弾き出した二酸化炭素(CO2)排出量で見ると、話は違ってくる。発電によるCO2排出量が多い地域で使用すると、米テスラが販売する一部の電気自動車(EV)よりも、エンジンを搭載しているミラージュの方が環境に優しいことになるのだ。

EVだからといってCO2排出量が常に低いわけではない

 米マサチューセッツ工科大学(MIT)のトランシク・ラボの調査によると、米国の中西部でテスラのセダン「モデルS P100D」に乗った場合、ライフサイクル全体で排出されるCO2排出量を走行1km当たりに換算すると226gになるという(下記の表を参照)。これは、独BMWのエンジンを搭載する高級大型車「7シリーズ」の同385gに比べれば格段に少ないが、ミラージュだとわずか同192gにとどまる。

 
EVは本当に環境に優しいのかクルマの生産から廃車までのCO2排出量(クルマを米中西部で利用した場合)
 出所:米MIT トランシク・ラボ/Financial Times

 MITのこのデータは、ノルウェー科学技術大学が昨年発表した研究結果とも一致する。つまり、「ライフサイクル全体で見ると、従来のエンジンを搭載する小型車より大型EVの方がCO2排出量は多い」ということだ。

 

ただ、テスラを引用しての話だが、テスラS P100Dは、中型車で、コンパクトカーのEV車なら、さらにCO2排出量は226g/kmより大きく少なくなるから、やはりEV車は環境にやさしいのと思う。


なぜ、日産、SUBARU、神戸製鋼がなぜ不詳事を起こしたのか?

2017年11月17日 14時01分13秒 | 日記

この3社は、それぞれの分野でそれなりの評価を受けていたのに、なぜ、不祥事をお起こしたのか? 神戸製鋼のは、材質の強度にかかわる問題で、後の2社のは、製品の最終検査で、問題のありようは違う気もするが、設計検査、ざいしつ・材料検査、部品検査、組み立て検査、構成検査、など数々の製品が出来上がるまでの過程とそれに伴う検査を行ってきているから、最終段階ではそんなに工数を掛けなくてもよいと考えたに違いない。

これに対して、プレジデントという雑誌社が京セラ、KDDI,Jalの経営危機を救った稲森さんの「考え方×能力×熱意」を引用しながら、問題を追及していた。

能力や熱意に関してはこの3社については全く異論がない。そうなると稲盛さんが指摘しているように、問題は、「考え方」となる。「能力」と「熱意」は0点から100点まであるが、「考え方」はマイナス100からプラス100点まであるという。どんなに「能力」や「熱意」があっても、「考え方」がマイナスなら、それらを「成功の方程式」として掛け合わせた結果、大きなマイナス点になってしまうということなのです。

 

この「考え方」のプラス・マイナスを測る尺度のひとつに「目的と目標の違いを理解しているかどうか」があります。不祥事を起こす企業は、経営陣や社員が「目的」と「目標」を取り違えていることが多いのです。

「目的」というのは何のためにその会社が存在するかという「存在意義」です。「目標」はその通過点や達成具合です

その違いをきちんと把握していれば、このような不祥事は起こらないはずだという。たとえば、どの会社にも共通してある「存在意義」の筆頭は「良い商品やサービスを提供し、社会に貢献すること」ではないでしょうか。これは取って付けた見せかけのスローガンではなく、実際これなしには会社というものは成り立たないのです。ピーター・ドラッカーは「独自の商品やサービスを提供する」と言っていますが、これも「社会に貢献する」意識がベースにあります。

企業の「存在意義」は、もうひとつあります。

それは「働く人を活かし幸せにすること」だと私は考えています。社会は、人を幸せにするために存在しており、その社会の一員である企業も、当然のことながら、そこで働く人たちの物心両面での幸せを提供することが存在意義であるはずです。そして、多くの企業では、この内容を自社の言葉で、ミッションやビジョン、理念として掲げています。

一方、売上高や利益は、その「目的=存在意義」の達成度合いを表す尺度であり、これが「目標」となります。結果的に不祥事を起こす会社は、その目標が目的化してしまっているのです。とにかく、数字を上げることだけが至上命令となり、そのためには手段を選ばなくなります。東芝の不正会計の本質も同じです。

大企業だけでなく多くの中小企業では、ミッションやビジョン、理念を掲げていますが、それらが「建前」となっていて形骸化している企業は、私が見ている限りでは業績も芳しくありません。その建前を本音で成し遂げようとしている企業が、やはり強いのです。