果報は寝て待て!

浮世は疲れることばかり…
いそがず,あせらず,のんびりいきましょう。

時代を残す

2006年09月30日 | 写真とひとりごと
松山城の天守閣は,天明年間の落雷により消失。
数十年の歳月をかけて,1835年に再築されたものが現存しています。

戦後は昭和44年に大規模な修復が行われましたが,それから30年以上経過した現在,経年劣化により大修復が行われています。

工事中の松山城。
外装が足場とシートに包まれ,景観もごつごつした鉄骨に遮られています。

辛うじて,開いた窓から城下を見下ろすことができました。
古の人たちも,この窓から城下を眺めていたに違いありません。

見える景色は時代と共に変われども,この窓から見える景色を守ろうとする地元の人たちの思いは,これからも変わらないことでしょう。

そうして,時代は後世に残される…

<本日の一句>
骨組みに秋の城下を閉じ込めむ ぴえる

松山城を目指せど…

2006年09月28日 | 旅日記,郷土の歴史
(上の写真:松山城本丸への途中の城門から空を覗く)

愛媛県松山市。
この地にそびえる松山城は,日本でも有数の連立式平山城(平地と山を利用した築城様式で複数の建物を廊下で繋げた造り)です。
完成には26年の歳月が費やされ,当初計画立案した城主・加藤嘉明は,松山城完成時にはすでに会津に移封となり,松山城の完成を見れなかったというエピソードがあるほどの広大な敷地をもつこのお城ですが,天守にたどり着くまでが一苦労

城下から本丸の手前まで行くには,二の丸方面から歩いて行くルートと,反対側からリフトを利用するルートを選ぶことになりますが,前者だと約20分の山道になるとのこと
最初は二の丸から歩いて登ろうかと試みましたが,「本丸まで約20分」の立て札に断念…今回は無理をしないでリフト利用のコースで登ることにしました

リフトで本丸の目前まで到達しましたが,城特有の迷路構造により,あえて遠回りをしないと城門までたどり着けないのがなかなか厄介でした

そうしてようやくたどり着いた本丸でしたが…

残念ながら天守は40年ぶりの大改修中…
周囲は鉄骨の足場で取り囲まれていました。

この写真でわかるとおり,城の建物自体は3層で,あまり大きくは見えませんが,当初は5層あったようです。

ただ,松山城を攻めようとする敵兵は,ここまで上がってくるだけで疲れてしまうのでは…と思わせられるくらいの敷地を誇る松山城

本丸までの経過点にすぎない途中の門の向こうに,すでに青空が見えることが,そのスケールを物語っています。

<本日の一句>
名城の門をくぐれり秋の空  ぴえる

明神丸でカツオ三昧♪

2006年09月26日 | 旅日記,郷土の歴史
今回はグルメネタです

高知城を訪れた後,減ったおなかを満たすため,高知市内きっての飲食街「ひろめ市場」で昼食をとりました。

ビルの1階が,有楽町のガード下風の屋台でひしめき合っているこの市場は,平日の昼間にも関わらず大勢の客で賑わっていました。

土佐といえばカツオ
今の時期の旬はズバリ「戻りガツオ」!
何はなくともカツオを食べねば!
ということで,今回ランチをとったお店は「明神丸」というカツオ料理専門店。
ガイド本では「鰹タタキ丼」が一押しで書いてありましたが,ここではあえて「鰹タタキ定食」にチャレンジしてみました。

大衆食堂なので,一見普通の見た目ですが,よく炙られたカツオの周囲は,その辺のスーパーで手に入れたカツオのタタキでは味わえない香ばしさ!
さらに容赦なく盛られたスライスされたニンニクとともに,特製のポン酢をつけて食す!
おいしすぎますっ!

さらに,あまり東京では食べる機会のない,カツオの大トロ部分である「ハランボ」の塩焼きも注文してみました。
絶妙な焦がしと塩気がマッチし,噛めば噛むほど芳醇な魚汁がしみ出てくるこのハランボは,まさに珍味中の珍味といったところでしょうか

再び高知を訪れることがあったら,今度はクジラ料理にチャレンジしたいですね!

明神丸ひろめ店のサイトはこちらをクリック

巧妙が辻(第38回)

2006年09月24日 | 大河ドラマ

拾,達者で暮らすのですよ…

先週から続く,豊臣家の跡目争いの結末は,成宮クン演じる秀次の切腹という形で幕を閉じました。
このドラマでは,秀次が非常に好人物として描かれているので,秀次側の支持層が多いのではないでしょうか?

朝鮮出兵により諸大名は困窮を余儀なくされ,それらの大名に金子を援助していたり,公家衆との取り持ちのために金を支出していた秀次の政治手法は,まさに秀吉の政策とは逆を行くものでした。
さらに世継ぎ争いが輪をかけ,もはや秀吉にとって秀次は邪魔者でしかありません。
秀次派の若者たちは,秀吉の秀次に対する仕打ちに不満を募らせ決起にはやり,ある意味秀吉の計算通りに秀次を処分する口実を得ました。
一豊,千代に説得されつつ覚悟を決め,秀吉のもとへ参上した秀次には,迷いの色もなく,関白秀次としての主張を太閤秀吉にぶつけました。
秀吉が,手にしていたでんでん太鼓をへし折るほどに腹を立てた秀次の一言は,困窮に苦しむ諸大名の声でもありました。
しかし,秀次には切腹が申し伝えられました…

あの場で秀次が哀れみでも乞うたら,秀次の命は助かったでしょうか?
経緯が経緯なため,どちらにせよ命はなかったと思われますね。
言うべき事を最期に言ってのけた関白秀次の男気には拍手です

ただ,その後に秀次の息のかかった者達すべてにとばっちりがいくことになろうとは,秀次の想像を超えていたのかもしれません。
謀反に荷担したとされる前野一派や側室たちが全員切腹ないし惨殺とは,もはや恐怖政治以外の何物でもありません。
ただ,その恐怖政治は長くは続かず,秀吉の死によって幕を下ろすことに…

これらの豊臣家の跡目争いという悲劇を目の当たりにした一豊と千代にとって,拾い子である子・拾(ひろい)の行く末も,そろそろ考えなければならない時期にさしかかったきました。
文武両道にしっかりと励む拾の姿を見るにつけ,千代にとっては「なぜ拾は嫡子ではないのか…」と思ったことでしょう。
しかし,このままでは豊臣家の二の舞を踏むと悟った一豊と千代は,拾を仏門に入れるという苦渋の選択をしました。

「そなたに,山内家の業を晴らしてもらいたい…」
「父上の下命でなければいやでございます」
「父の命である!」

親子の顔は,涙であふれていました
「父の命」という言葉によって,拾は単なる捨て子ではなく,山内家の子であることをあらためて確認できました。
本当の親子以上の親子の愛情がここにありました

<余談>
今回の一豊役の上川隆也さんですが,秀次を説得しに行ったときや拾を説き伏せるときなど,今までの一豊とはひと味違った貫禄が感じられたような気がしました
これから年末にかけて,一豊の活躍の場が多くなってくるので,上川さんの活躍がいっそう期待されます。

では,また来週


四国に行ってまいりました!

2006年09月22日 | 旅日記,郷土の歴史

先日告知させていただきましたとおり,3日間の日程で四国を巡ってまいりました!

今回は,徳島を除く3県を訪れましたが(徳島の方がいらっしゃったらごめんなさい),町並み的には日本全国どこにでもあるような光景でしたが,風土的には名産品やら記念行事やらがそれぞれの地方の特色がくっきり分かれた感じがしました。
行事の面から言うと,松山では「坊ちゃん」発表100周年記念,高松では「UDON」ブーム,高知では「巧妙が辻」イベントなどといった行事が各地であれこれ行われていました。


さて,今回はおみやげ品についての小話でも一席。

1日目に訪れた松山では,どこに行っても,かの有名な「一六タルト」が売られており,肩書きとして「四国名菓」と謳われていたので,きっと四国全土で大々的に販売されている菓子なのであろうと多寡をくくり,最終日の高知空港で「一六タルト」を買えばいいかと思っていたところ,いざ最終日に高知空港の売店を見たところ,「一六タルト」はほとんどおいておらず,「土佐名菓かんざし」をはじめ,高知独自の菓子やら鰹のたたきやらばかりでした

とりあえず数は少なかったですが,辛うじて「一六タルト」が売られていた売店を発見し購入できましたが,あらためて製造元を見てみると,製造元は「松山市」となっており,この商品は「四国名菓」ではなく「愛媛名菓」であることをようやく認識した次第であります…
ある意味,私のこの行為は,福島にいつつ仙台名菓「萩の月」を買うようなことだったんでしょうね(例えがマニアックですいません…

まあ,四国のどこにいても,最後は「一六タルトを買って帰ろう」と思わせるほどの印象をこの商品が持っている以上,やはり「四国名菓」なのでしょうね。
ちなみに高松ではどこにいっても「さぬきうどんセット」でした

なお,さぬきうどんや鰹のたたきも食して参りましたので,その辺のご報告はいずれ近いうちに…

株式会社一六本舗のHPはこちらをクリック


旅行につき

2006年09月18日 | 雑談
本日は,ワタクシの誕生日でございます。
四捨五入すればまだまだ30!
人生今が旬と勝手に思いこんでいるワタクシです

さて,明日から3日間,四国まで観光に行って参りますので,ブログの更新,コメントができません
今回のターゲットは,1日目・松山で正岡子規を偲びつつ道後温泉を堪能し,2日目・高松で平家物語の屋島の舞台を思いつつさぬきうどんを食べ,3日目・高知で山内一豊と坂本龍馬を偲びつつ,戻りがつおを楽しみたいと考えております!

例によって強行日程ですが,今回は妻も同行なので,全部見て回れるか微妙ですが,無理はしないでのんびり行きたいと思います。

というわけで行って参ります!

巧妙が辻(第37回)

2006年09月17日 | 大河ドラマ

太閤?関白?さあ,どっち!?

今回の巧妙が辻は,なんともコメントが難しい中身となりました
開始早々太閤秀吉と関白秀次の険悪なムード。
その後,展開を見つつ番組が終了しても,険悪ムードがさらに悪化しただけで,本当にやばい話は次週に持ち越し。
やる気になれば,次週の分まで今回できたのではないかと思われるほど中身のない内容だった気がします。
なので,今回のコメントは控えめにします

・天井に潜んでいたところを一豊の槍で刺された六平太。
せっかく有用な情報を持ってきているのに,あんなところで聞き耳を立てているから刺されちゃうんだと思ったのは私だけでしょうか?
昔みたいに堂々と現れればいいのに…

・秀吉の,老人の息が汚らわしいと豪語する淀さま。
確かに,考えただけでも気持ち悪い構図です
子作りの際にはよく我慢しました,淀さま!

・成宮秀次くんの笑顔は相変わらずすがすがしくて良いです。
酔いつぶれて暴れ回っていた姿もなんとなく楽しんでやっていたように見えましたが,役作り的には大変だったのでしょうか…?

では今回はこの辺で!


稲村ヶ崎

2006年09月15日 | 旅日記,郷土の歴史
鎌倉の西側に位置する「稲村ヶ崎」。
現在ではマリンスポーツのメッカとして,夏は多くの海水浴客でにぎわう場所であります。
この海岸は,干潮時には人が渡れるほどの浅瀬となり,鎌倉期以前,鎌倉に行き来する人たちは,干潮を待ってこの地を通行しました。
さすがに街道が整備されてからは,海伝いに鎌倉入りする人はまずいなくなったのではないかと思われます。
(当然,現在は通行禁止です!

さて,先日の太平記における「極楽寺坂」の攻防の続きとしてお話ししましょう。
鎌倉に侵入するため,3つのルートを攻略しようと奮戦していた新田義貞勢ですが,その一つ,右翼の極楽寺坂攻略に失敗し,戦略の見直しを余儀なくされます。
そこを突かれて逆に幕府軍が新田勢の後方に入り込まれたら,新田勢は包囲殲滅されるのを待つばかりとなってしまうからです。
(義貞の進軍ルートの概略については,「極楽寺坂」の記事参照のこと。)

中央の化粧坂の攻略にあたっていた義貞は,弟の脇屋義助に化粧坂を任せ,義貞自らが迂回して右翼・極楽寺坂方面の攻略に乗り出すことになります。
そこで義貞は一計を案じ,稲村ヶ崎を浜伝いに通り抜け極楽寺坂の背後に入り込み,幕府軍を殲滅しようと試みますが,いざ極楽寺坂の状況を見てみると,次のようであったといいます。

明行月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかきて横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。(国民文庫「太平記巻第十」【稲村崎成干潟事】の段より抜粋)

要するに,幕府軍による極楽寺坂の守りは鉄壁。稲村ヶ崎側も波打ち際までトラップが仕掛けられ,それを沖寄りに迂回しようとしても海上の船から矢の餌食にされてしまうといった状況でした。

義貞の侵攻作戦を実現するためには,
① 極楽寺坂に正面から揺動をかけ,幕府軍の注意を極楽寺坂に集中させ,稲村ヶ崎の陸上の防御を手薄にする。
② 稲村ヶ崎の浜側に仕掛けられたトラップを回避しつつ,沖の幕府船からも射られない距離を保ちつつ,稲村ヶ崎を突破する。
といった状況を作り出すしかありませんでしたが,①はなんとかなるにしても,②の条件が厳しすぎます。
そんなときこそ神頼み!
義貞は黄金の太刀を稲村ヶ崎の海中に投げ入れ,広い干潟ができるよう龍神に祈願しました。

すると,海はみるみるうちに干上がり,海上の船からも射ることができないほどの広さの干潟ができたとのこと。

義貞馬より下給て、甲を脱で海上を遥々と伏拝み、竜神に向て祈誓し給ける。「伝奉る、日本開闢の主、伊勢天照太神は、本地を大日の尊像に隠し、垂跡を滄海の竜神に呈し給へりと、吾君其苗裔として、逆臣の為に西海の浪に漂給ふ。義貞今臣たる道を尽ん為に、斧鉞を把て敵陣に臨む。其志偏に王化を資け奉て、蒼生を令安となり。仰願は内海外海の竜神八部、臣が忠義を鑒て、潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に令開給へ。」と、至信に祈念し、自ら佩給へる金作の太刀を抜て、海中へ投給けり。真に竜神納受やし給けん、其夜の月の入方に、前々更に干る事も無りける稲村崎、俄に二十余町干上て、平沙渺々たり。横矢射んと構ぬる数千の兵船も、落行塩に被誘て、遥の澳に漂へり。不思議と云も無類。(国民文庫「太平記巻第十」【稲村崎成干潟事】の段より抜粋)

このときの出来事は,歴史研究家の間では太平記自体の信憑性を低下させるよろしくない逸話として,あまり評価はされていないようですが,ただ科学的には,この時間帯が一年でもっとも潮が引く「大潮」にかかる時間とほぼ一致しているらしく,偶然にもこの日が大潮であったことを聞き知った義貞が,その時間に合うようにうまく黄金の剣を投げ入れ,まさに「龍神」を味方に付けたかのような宣伝効果によって,自軍を鼓舞させることにも成功させた,いわばパフォーマンスだったのだと思われます。
ただ,この日が大潮でなかったら,義貞はさらなる作戦変更を余儀なくされたと思われるので,偶然をも味方につけることができたという意味では,義貞は本当に神様のご加護があったのかもしれません。

当然,稲村ヶ崎から新田勢に侵入を許してしまった幕府軍は,各防衛拠点でも総崩れとなり,鎌倉幕府はいよいよ終焉へと向かうことになります。


極楽寺坂,十一人塚

2006年09月13日 | 旅日記,郷土の歴史

「なにっ!大館宗氏が討死!?」
化粧坂の手前,葛原ヶ岡で本陣を敷いていた新田義貞に凶報が知らされたのは元弘3年5月19日の昼のことでした。
鎌倉攻めの左翼に執権・赤橋守時の一隊を殲滅したとの吉報を得たばかりの凶報に,義貞は焦燥を隠せませんでした。

同月18日から開始された鎌倉攻めは,鎌倉の防衛ラインたる次の各切通しをターゲットに中央,左翼,右翼の三方からの侵攻するというものでした。

【鎌倉攻略ルート概略】
-----→(左翼:巨福呂坂方面)---→ 
   |      新田軍:堀口貞満,大島守之     
   |      幕府軍:赤橋守時         
   |                          鎌 
   |--→(中央:化粧坂方面)----→
   |      新田軍:新田義貞,脇屋義助
   |      幕府軍:金沢貞将         
   |                          
   |--→(右翼:極楽寺坂方面)---→
   |      新田軍:大館宗氏,江田行義
   ↓      幕府軍:大仏貞直
   稲村ヶ崎(海)

まず早い時期に左翼の赤橋守時を自害に追い込み(ただし,その後の左翼は膠着状態),一旦優勢と見えた義貞軍でしたが,一方,堅い防御に阻まれていた右翼において,新田軍の将・大館宗氏は,鎌倉幕府における重臣・大仏(おさらぎ)貞直が防衛する極楽寺坂に突撃していました。
大館の決死の猛攻により,一時混乱に陥った大仏勢ですが,大仏から謹慎を受けていた近臣・本間山城左衛門が主君の危機を聞き及び,謹慎を破って大仏勢の加勢に駆けつけます。
深入りしすぎた大館ら11名は本間勢に包囲され,本間の手勢を道連れに,壮絶な最期を遂げました。

ちなみに,ここでせっかく武功をあげた本間山城左衛門ではありますが,本間は大仏の勘気を被って謹慎をしていた身であることをたいへん気に病んでおり,この時の武功をもってこれまでの恩顧に報い,さらに主の不審を晴らさんと,大仏の前で腹を切って自害してしまいます。
この本間の武士としての志に,大仏をはじめ,従ってきた兵たちは涙を流さなかった者はいなかったと伝えられています。

この大館勢の敗北の報は,新田義貞の名を知らしめた有名な伝説の引き金となることになります。
その話は次回にすることとして,新田軍において名誉の戦死を遂げた大館宗氏ら11名は,後日稲村ヶ崎近くに弔われ,そこに十一面観音の像を建て供養されました。

現在でも,その場所は,江ノ電稲村ヶ崎駅の近くに「十一人塚」として残されています。

余談ですが,吉川英治著の「私本太平記(五)」においては本間山城左衛門は登場せず,大館宗氏は,新田義貞に先駆けて稲村ヶ崎の干潟を駆け上がったとされていますが,その解釈によると,古典太平記や十一人塚の記述と齟齬が出てしまうため,今回はあえて古典太平記に近い解釈を採らせていただきました

極楽寺坂の防衛ラインは大館らが戦死した3日後の22日に突破されることとなりますが,極楽寺坂の突破によって,鎌倉幕府滅亡の先端が開かれることとなるのです。

現在の極楽寺坂切通しは,冒頭写真のとおり,二車線の道路で舗装され,当時の面影はほとんど見られませんが,この地において,数百年前には,以上に述べたような壮絶なドラマが繰り広げられていたという認識で歩くと,少しは普通の幹線道路と違ったロマンが感じられるかもしれませんね。




巧妙が辻(第36回)

2006年09月11日 | 大河ドラマ

最期に,太閤にナスビを喰わせたいと言われたか…

大政所なか様が逝かれました。
「そこの障子を少し開けておくれ…」
開かれた障子戸の外には,輝くばかりの茄子がたわわに実っていました。
太閤の母親と称して驕ることなく,常に城内でも百姓の生活を止めることがなかった大政所なか。
なかの願いは純粋に,その茄子を秀吉に食べさせたいという,母としての母性の実現でした。
そして,百姓であったころの,あの穏やかな生活に,家族みんなで帰りたいという,もはや帰らぬ思いも抱いていたに違いありません。

母の死に際に間に合わなかった秀吉。
母の棺に供えられていた山盛りのナスビ。
寧々から,そのナスビは大政所が秀吉に食べさせたかったものであることを伝えられた秀吉は,盛られていたナスビを涙ながらに,狂ったように食べ始めました。
それは,秀吉が「百姓のせがれ」に戻った瞬間でした。

妹旭が死に,愛息鶴松を失い,そして母なかを失った秀吉…
次は自分の番…
国内は秀吉の手によりほぼ統一がなされ,時代は天下泰平な世の中に向かっていたはずなのに,秀吉はあえて海外に敵を求めました。
それは大東亜共栄圏を唱えた戦前の日本と同様の,誤った社会政策,経済政策でした。
もはや,死期の迫る秀吉は,天下云々よりも,反逆者により豊臣家が滅びることを何よりも恐れ,肉親たちの死は,秀吉の疑心暗鬼に拍車をかける結果となってしまいました。

そのような時だからこそ,甥の秀次を世継ぎとして盛り立てれば良かったものの,運命とは皮肉にも,再び秀吉に新たな男子を授けてしまいました。

この事件はやがて秀次や山内家にまで影響を及ぼすことになりますが,それについては来週の巧妙が辻を待ちましょう。

<その他>
・ もともとおかしかった秀吉ですが,今後ますますおかしくなりつつあります。
秀吉役の柄本明さんの演技は,まさに秀吉って感じです!
例によって,呂律が回っていない感じは否めませんが,今回の茄子丸かじりは非常に良かったです
なか役の菅井きんさんも,この大奥的な舞台の中で異色の百姓姿を自然に貫き通した名演,おつかれさまでした!
しかし,あのナスは立派なナスだった!

・久々に登場した六平太
進退窮まって帰国すらままならないはずの朝鮮攻めに参加して,どうやって一人だけ帰って来れたのは,すこぶる疑問です(しかも片手で…

石田三成の部屋に夜這うさま。
入ってくるときの背景がまた四谷怪談のような青いバックライトで不気味さ120%!

さらに部屋の中であんなにいちゃいちゃしちゃって…,部屋の外には三成の住持か誰かがいるんじゃないのでしょうか…?
見つかったら太閤殿下に大目玉ですぞ!
三成もナニゲに怖がってました

・一豊の部屋に無造作に積まれた,まず読まないであろう書物の数々…
はっきりいって不自然すぎました

・秀次くん,ホント一豊以上に律儀者ですね
あれではどのみち天下を継ぐのは難しそうですね…確かに女遊びはしなさそうで良いですが…

ではまた来週


初めての梅酒

2006年09月09日 | 写真とひとりごと
鎌倉で梅の実を見て,昨年7月に我が家で仕込んだ梅酒があったことを思い出しました。
職場で青梅を分けていただき,その翌日に「こんな感じかな?」というアバウトさで仕込んだ梅酒。
最初の1ヶ月はほとんど変化を見せず心配していましたが,徐々に色づき始めたので,安心してそのまま放っておくことに。
それから約1年。果たしてお味の方は…
お,ちゃんと梅酒っぽくなってるじゃん!

私の人生初の自家製梅酒は,とりあえず成功(!?)した模様です
ロックも良し!ソーダ割りでも良し!
やみつきになりそうです

座椅子に寄りかかって優雅に梅酒ロックを楽しんでいたところ,どこかで花火が上がっているのか,ドーンという音が聞こえてきました。
なんだか至福のひとときです

<本日の一句>
梅酒飲む座椅子はるかに花火鳴る ぴえる

ひっそり青梅

2006年09月07日 | 写真とひとりごと

アジサイを見に鎌倉に行ったときのこと,明月院にほど近い道端に,梅の実がたわわになっている木を見つけました。

梅干しや梅酒というように,なんらかの加工を施すことにより,さまざまな健康食品となる青梅ですが,生のままだと,分解されていない青酸の成分により人体には毒となる,実は危険な果実です。
昨年放送されていたドラマ「大奥」でも,落ちた青梅で将軍の子を殺害しようとしていたシーンがあったと記憶しています。

しかし,そんな二つの顔を持つ青梅も,鎌倉の風景の中に溶け込むと,その一粒一粒は,何の意味もない風景に,意味を与えてくれるようです

そういえば,去年の夏に仕込んだ梅酒はどうなったかな…

<本日の一句>
忘らるる茶房に梅の実の垂れし ぴえる


正義の定義とは,時代によって変化するのもである!?

2006年09月05日 | 雑談
今回は,書きだめてあるマッタリ記事をアップしようと思いましたが,ホリエモンの初公判が行われたことに関連し,急遽予定を変更し,最近思っていたことを書いてみたいと思います。

皆様もご存知かと思われますが、ホリエモン裁判については、「公判前整理手続」という、あらたに設けられた手続きによって進められております。

読んで字の如く、「公判前整理手続」というのは、第1回公判までに、当該裁判の争点を裁判官、検察官、弁護人の間で協議し、公判段階にスピーディな審理を実現させることを目的とした制度であります。

この制度、一見裁判の迅速化が図れて素晴らしい制度に見えますが、実はこれ、従来の刑事裁判の理念を180度覆す制度なのであります。

大学の講義で刑事訴訟法を専攻した方なら「起訴状一本主義」という言葉を聞いたことがあるかと思います。
これは、簡単に言えば、裁判官に予断をもって裁判に臨ませないようにするために、第1回公判までの間は、担当裁判官には起訴状以外の事件の資料を見せてはならないという原則であります。

はっきりいって、この「起訴状一本主義」と今回の「公判前整理手続」とは、まさに相反する理念であり、弁護士会や法律学者などの間で議論を呼んでいるところでありますが、私が知るかぎりでは、この相反する二つの制度を共存させるうまい説明がなされている文献,解説を見たことがありません(単に私が勉強していないだけだという原因もありますが…)。

確かに、裁判官が被告人に対する予断を持たずに裁判に臨むという理念は、過去における人類の悲劇の歴史から産まれた美しい産物なのだと思われますが、あらためて思うに、今のご時世、大事件になればなるほどマスコミは騒ぎ立て、メディアにおいて報道合戦が繰り広げられ、当然裁判の前から裁判官もそれらの報道を見ているわけです。
その意味で,これまでも真の意味で「起訴状一本主義」が守られていたのかというと,否と言わざるを得ないでしょう。
(まあ,話題にもならない通常の事件なら問題はないでしょうが…)

本当に裁判官の予断を排除するならば,テレビも新聞も,パソコンもない隔離した部屋に裁判官を隔離して,第1回公判に望ませることまでしなければならないでしょう。

要するに,「起訴状一本主義」という実質的に機能を果たし切れているかどうか不明な理念を徹底して時間を無駄に費やすことと,裁判の迅速化とを天秤にかけ,産み出された苦渋の産物が「公判前整理手続」なのではないかと思われます。

ただ,この相反するいずれの理念を重視したとしても,忘れてはならないのは,裁判官は予断を持たずに裁判に臨み,客観的に事実を見いださなければならないということでしょう。

裁判官でも何でもない一般人の私がこんな偉そうなことを書いて,ホンモノの裁判官にでも聞かれたら怒られそうですね

巧妙が辻(第35回)

2006年09月03日 | 大河ドラマ
針は…針は…旭ーーっ!!

本日の「巧妙が辻」は,前半が副田甚兵衛の話,後半が小田原征伐の話,といった構成でしたが,はっきりいって後半戦は見るべきところがほとんどなく,サブタイトルには申し訳ありませんが,私にとっては前半がすべてでした!
よって,今回のコメントは,余計な余談は全て割愛し,男・甚兵衛についてのみコメントさせていただきます。

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妻の旭を取り上げられ,代わりに5万石を秀吉に約束された副田甚兵衛
しかし妻を5万石で売ったと同然のこととなるこの申し出には応じることなく,ただ一人姿を消したのが数回前の話でした。

そして今回,放浪の針屋として生きる副田甚兵衛の姿が城下にありました

その甚兵衛を偶然発見した千代は,その変わり果てた姿に果てしない悲しみを見たに違いありません。
甚兵衛は,千代の姿を見ても他人のふりをするばかり。
旭が病で伏せっていると聞いても知らぬ存ぜぬの一点張りで,無理に過去を決別しようと葛藤している甚兵衛でしたが,千代から手渡された旭の手紙を人知れず紐解くと,その中に溢れている旭の想いに,甚兵衛の凍り付いた心は溶かされ,もはや徳川の正妻という,身分も違う旭に最後の想いを伝えるべく立ち上がりました。

千代の協力を得て,「甚兵衛をよく知る者」という触れ込みで旭の寝室の前で,白紙の文を読み上げる甚兵衛。
この世では再び夫婦となれない不遇は呪えど,死して後にはまた夫婦として相まみえようぞ,そして互いの苦労自慢をしようぞ…

互いに別れの言葉すら交わすことができなかった二人は,ようやくそれぞれのやり方で別れの言葉を告げることが叶いました。
そして,甚兵衛の想いを受けとった旭は,この世に未練などないかのように,そのまま息を引き取りました…

後日,城下を壮大な葬列が進んでいきます。
その棺の人物が旭であることを聞き知った甚兵衛には,もはやこの世に思い残すことなどなくなったに違いありません。

「針はいらんかね~っ!針はいらんかね~っ!」

一人の針屋として,自分は何ら関係のない者であると心を偽っても,最愛の者の死を前にして,その針屋は夫に戻りました。

「針は…針は………旭ーーーーっ!!」

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副田甚兵衛役の野口五郎さん!
哀愁漂うあの演技!今回は最高でした!!
感動をありがとうっ!!

亀ヶ谷坂(かめがやつざか)

2006年09月01日 | 旅日記,郷土の歴史
本日は防災の日
みなさまのご家庭では防災対策は万全ですか?

さて,今回は「防災」というよりは大昔の「防衛」のお話です(なんか無理矢理かも…)。

鎌倉には,交通と防衛の両方を兼ね備えた過去の人工の通路「切通し」が何か所か存在します。

以前「化粧坂切通し」を当ブログでもご紹介しましたが,今回お話しするのは,それよりやや北側に存在するのが「亀ヶ谷坂切通し」です。

JR北鎌倉駅から鶴岡八幡宮方面へ抜けるメイン通りを歩きつつ,建長寺よりもやや北鎌倉駅側の場所に「亀ヶ谷坂切通し」の入口があります。
この切通しは,現在大部分が舗装されており,化粧坂よりは歩きやすかったところですが,坂は結構急で,この坂を上る亀がひっくり返ってしまうほどのものだったことから「亀返坂」と呼ばれていたのが語源だとか

中世においては,基本的にはこれらの切通しを通過しないと,鎌倉の心臓部に入り込めなかったため,特に戦乱時においては重要な防衛ラインとなることが多かったようです。
鎌倉幕府の終焉となる新田義貞の鎌倉攻めの際には,ここよりはどちらかというと化粧坂や,ここよりさらに北寄りの巨福呂坂の方が主たる防衛ラインだったため,この亀ヶ谷坂の防衛がどのようであったのかははっきりとはわかりませんが,兵の大半は,畿内での楠木正成らの討伐に出征していたこともあり,さすがにそこまでの防衛のための人員も割けなかったのが実情だったのではないのでしょうか。

今では,閑静な住宅地の中のちょっとした散歩コースとなっています

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