鎌倉の西側に位置する「
稲村ヶ崎」。
現在ではマリンスポーツのメッカとして,夏は多くの海水浴客でにぎわう場所であります。
この海岸は,干潮時には人が渡れるほどの浅瀬となり,鎌倉期以前,鎌倉に行き来する人たちは,干潮を待ってこの地を通行しました。
さすがに街道が整備されてからは,海伝いに鎌倉入りする人はまずいなくなったのではないかと思われます。
(当然,現在は通行禁止です!
)
さて,先日の太平記における「極楽寺坂」の攻防の続きとしてお話ししましょう。
鎌倉に侵入するため,3つのルートを攻略しようと奮戦していた
新田義貞勢ですが,その一つ,右翼の極楽寺坂攻略に失敗し,戦略の見直しを余儀なくされます。
そこを突かれて逆に幕府軍が新田勢の後方に入り込まれたら,新田勢は包囲殲滅されるのを待つばかりとなってしまうからです。
(義貞の進軍ルートの概略については,
「極楽寺坂」の記事参照のこと。)
中央の化粧坂の攻略にあたっていた義貞は,弟の
脇屋義助に化粧坂を任せ,義貞自らが迂回して右翼・極楽寺坂方面の攻略に乗り出すことになります。
そこで義貞は一計を案じ,稲村ヶ崎を浜伝いに通り抜け極楽寺坂の背後に入り込み,幕府軍を殲滅しようと試みますが,いざ極楽寺坂の状況を見てみると,次のようであったといいます。
明行月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかきて横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。(国民文庫「太平記巻第十」【稲村崎成干潟事】の段より抜粋)要するに,幕府軍による極楽寺坂の守りは鉄壁。稲村ヶ崎側も波打ち際までトラップが仕掛けられ,それを沖寄りに迂回しようとしても海上の船から矢の餌食にされてしまうといった状況でした。
義貞の侵攻作戦を実現するためには,
① 極楽寺坂に正面から揺動をかけ,幕府軍の注意を極楽寺坂に集中させ,稲村ヶ崎の陸上の防御を手薄にする。
② 稲村ヶ崎の浜側に仕掛けられたトラップを回避しつつ,沖の幕府船からも射られない距離を保ちつつ,稲村ヶ崎を突破する。
といった状況を作り出すしかありませんでしたが,①はなんとかなるにしても,②の条件が厳しすぎます。
そんなときこそ神頼み!
義貞は黄金の太刀を稲村ヶ崎の海中に投げ入れ,広い干潟ができるよう龍神に祈願しました。
すると,海はみるみるうちに干上がり,海上の船からも射ることができないほどの広さの干潟ができたとのこと。
義貞馬より下給て、甲を脱で海上を遥々と伏拝み、竜神に向て祈誓し給ける。「伝奉る、日本開闢の主、伊勢天照太神は、本地を大日の尊像に隠し、垂跡を滄海の竜神に呈し給へりと、吾君其苗裔として、逆臣の為に西海の浪に漂給ふ。義貞今臣たる道を尽ん為に、斧鉞を把て敵陣に臨む。其志偏に王化を資け奉て、蒼生を令安となり。仰願は内海外海の竜神八部、臣が忠義を鑒て、潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に令開給へ。」と、至信に祈念し、自ら佩給へる金作の太刀を抜て、海中へ投給けり。真に竜神納受やし給けん、其夜の月の入方に、前々更に干る事も無りける稲村崎、俄に二十余町干上て、平沙渺々たり。横矢射んと構ぬる数千の兵船も、落行塩に被誘て、遥の澳に漂へり。不思議と云も無類。(国民文庫「太平記巻第十」【稲村崎成干潟事】の段より抜粋)
このときの出来事は,歴史研究家の間では太平記自体の信憑性を低下させるよろしくない逸話として,あまり評価はされていないようですが,ただ科学的には,この時間帯が一年でもっとも潮が引く「大潮」にかかる時間とほぼ一致しているらしく,偶然にもこの日が大潮であったことを聞き知った義貞が,その時間に合うようにうまく黄金の剣を投げ入れ,まさに「龍神」を味方に付けたかのような宣伝効果によって,自軍を鼓舞させることにも成功させた,いわばパフォーマンスだったのだと思われます。
ただ,この日が大潮でなかったら,義貞はさらなる作戦変更を余儀なくされたと思われるので,偶然をも味方につけることができたという意味では,義貞は本当に神様のご加護があったのかもしれません。
当然,稲村ヶ崎から新田勢に侵入を許してしまった幕府軍は,各防衛拠点でも総崩れとなり,鎌倉幕府はいよいよ終焉へと向かうことになります。