石敢頭 ――道の習俗――
川西自然教室 畚野 剛
ちょっと身の上話めいたことですが……かなり旧い話でご辛抱願います。私は1954年から1961年まで山口県光市にある製薬会社の工場に勤務していました。まだ「自然観察」という言葉は世に広まっていませんでした。また「週五日制勤務」もまだありませんでした。しかし親元を離れ、会社の独身寮住まいです。自由でした! 青春のエネルギーの吐口として、チャンスを見ては休暇を取り、もっぱら中国・四国・九州方面の高山(といってもせいぜい1700~1900mクラスにすぎません。)に登り、自然を満喫していました。
あるとき僚友Mくんの妹さんが北海道の十勝から見えました。その人は大雪山系2000mクラスに登っていたので、高さ比べでは歯が立たず悔しかったことを覚えています。ご存知と思いますが、九州本土の最高峰は久住山1787mです。1958年にこの山頂に立ったとき、たまたま隣に居合わせた若い女性たちの「次は屋久島にゆきたいね~」という叫びが耳に入りました。それでわたしの方も心の中でさけびました。「来年の5月連体はそれで決まり!」。
憧れの屋久島へ向けて出発したが……鹿児島から南の海上、約150kmに屋久島があります。屋久島は「海上アルプス」の別名があり、島の最高峰宮浦岳は1935mあり、九州本土をしのぐ高さを誇っています。今は「観光化」の波が激しく打ち寄せていますが、1959年当時はまだ秘境の名にふさわしかった所でした。私と僚友Hが乗った九州商船の船は、鹿児島港を出発し、まず種子島をめざしました。鹿児島湾から(大隈海峡)へ出ると600トンしかない船は北西風を受けて激しく揺れました。その日の午後、ようやくの思いで着いたところは種子島の主邑西之表の港でした。しかし船は夕方になっても出航しませんでした。理由は「風が強いから」ということでした。
心ならずも種子島で足止めの日々。船長はこの島の人だそうで、なかなか船を出そうとはしませんでした。このあと結局、この町で2泊3日を過ごす羽目に陥りました。夜は船に寝泊まりできました。なにしろ小さい町ですから、もともと「山屋」というより「遊び人」のほうだったHくんに「夜出かけたが、小さなバーが一軒しかなかった」とぼやかれたのを、今でも思い出します。わたしも山でなく里での滞在に少々戸惑いを覚えました。しかし、記憶に残ることも少なぐまありませんでした。なにしろ暇に聞かせて、小さな町を2日以上も行ったり来りしていたのですから。そのなかから「道」にまつわるお話をひとつ……
石敢當(いしがんとう)に出会う
町の中の、とある丁字路にきたとき、その突き当たりに当たる石垣に不思議な石が埋め込まれていました。上細の卵形の平たい石の表面に三文字、「石敢富」と刻まれていました。当時のカメラはフィルム巻き上げ、絞り、シヤッター・スピード、距離などを手動で決めねばなりませんでしたから、それだけに、撮ろうとする対象に慎重でありました。自分が面白い興味があると思ったものに絞られていましたが、この石には何か心が引かれて写すことにしたのです。当時のアルバムを紐解いてみましたが、残念なことに、その写真ははずされていて、それと思しい場所に、コーナーだけが残っていました。そのかわり、ここにそのイメージをかかげておきます。
その石の意味は
旅の後、その石について調べた参考書は、宮本常一「風土記日本 九州編」平凡社であったと記憶していますが、今は手元に残っていません。それで宮本常一の師であった柳田国男の「海南小記」をもとに紹介いたしましょう。その「24はかり石」の章に、石敢當のことが議論されています。このての石は主に三又路、丁字路の突き当たりにあり、道を行き来している「魔物」の災いを避けるために設けられたと考えられます。もともとは、上の方が少し細い、2、3尺の大きさの頃合いの自然石で、文字を刻まないものが、古い形であり、「突き当たり石」といわれていたと柳田さんは考えておられます。その後中国の似たような習俗が混入して来て、「石将軍」とか「石敢當」という文字が刻まれるように変わった。したがって、他の研究者たちが、「石敢當というのは中国の古い伝説に出てくる将軍の名だ」と言って、何者か詮索したがるが、それはなぜ日本でこの種の石を立て始めたかの説明にはちょっとも役立たぬことと柳田は論じています。
石敢當の今
石敢當は、現在は主として長崎、鹿児島、沖縄方面に分布しています。新しいものは、四角いものが多いようです。観光用に新しく設置されたものもあるといいます。最近見たテレビでも沖縄を表現するのに首里城と石敢當を代表させていました。今ではこんなに有名になってしまったのですが、40年もまえ、まだ一般に知られていないころ、種子島でのさすらいの時に、それに目を止めることが出来たのは、幸運であったと思います。しかも、石敢當の文字は入っていますが、形としては古風なものに属していた貴重なものだったと考えられます。思えば、今の大きな道は夜通し大きなトラックが走りまくり、むかしの「魔物」など出てくる余地はありません。と言うよりは「魔物」がトラックに化けているのかも知れません。小さな石ひとつに「魔物除けの祈り」をこめると言うような素朴な信仰は滅び去ったのです。話は屋久島までたどり着けませんが、これで終わります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます