わたしの住民運動(7)
山幹の環境を守る市民の会
山本すまこ
平成6年暮の市当局の説明会の最後に、町内会や市民の会の代表で協議会をつくる。そこで説明会の議案もつくる。市と市民が同じテーブルにつくことを基本とする。何回も、市の一方的な説明会の開催の仕方に、不満がつのっていたのでした。
平成7年1月6日朝、道路課の担当者が「おめでとうございます。今年も…」とあいさつをして帰った。その午後、何の前触れもなく、1月10日から31日まで土質調査をする、とのチラシを配布したのでした。もちろんすぐに抗議の電話をした。市を敵と思っているなかでも、当時の担当者は特に体質に合わなかった。翌1月7日、市長に四町内会長名で抗議文を提出した。回答のないまま9日朝、調査の機械を買収地の中に運び込んだのでした。私たちは主婦4人ほどで調査に入れないよう抗議し、市の局長に電話(当時子機を持ち出して)で職員を帰らせよとせまった。翌日も朝に昼に職員がやってきた。主婦たちに「警察力をもってしても強制執行できる」などと脅すようなことを言った。1月12日、再び会長と市民の会代表から、市長あて抗議の文書をだした。市は回答書に「6月9日の打ち合わせ会(市の表現)において説明のための調査であるので理解を」としてきた。市は今にいたるまで、この事業の説明会を1回も開催していないのであった。とにもかくにも力ずくで強行しようとの様子がありありでした。また、担当の職員も手柄をたてようと思ってやっているんではと疑いたくなるくらいでした。13日の金曜日、局長が会長宅に回答を持ってきました。これでは何の回答にもなっていないと抗議した。翌日から休日になるので17日、再度回答をもらう約束をした。とにかく強引に調査の機械を入れたがったが、4~5人の主婦でなんとか押し返していたのでした。
しかし、市の強引さをこのままにしておけないと、15日に近隣の町内会役員と市民の会の代表が、黒住先生の前の事務所で相談をした。協議会を作ることは測量の交換条件ではないこと。また、協議会の目的は、あくまでも説明会の手順を決めるだけである。市側には必ず助役が入ることを条件とする。市側は人数を制限しないこと。以上のことを条件としてなら、協議会を作ってもよい。と返事しようと決めた。とにかくひとつ協議の場を設定し、そこで何とか住民の思いを訴えていこうと考えたのでした。反面、協議会をつくることが計画を遅らせることより、逆に進めざるを得なくなるのではないだろうかとの不安もあった。その夜は皆、17日に市が出す回答に期待は出来ないだろうと予測していた。しかし、一方的に市が強引にやってくるのに負けられないと思った。協議会の設立を申し入れる事に決めた。その二日後に、だれがあの大地震がおこることを予測しえたでしょうか。
平成7年1月17日午前5時47分、阪神淡路大地震起こる!!
甲子園口駅前の7階建てのマンションが倒壊し、18名の尊い命が奪われました。また町内会の役員ご夫妻と孫さんの二人も亡くなられました。駅前の崩れたビルの前で、役員たちと供花しご冥福を祈った。町内にはベニヤ板の掲示板を10数箇所に設置し、情報の伝達に努めた。高齢者で自宅に残って耐えている方々に水や救援物質を、避難所から確保してきて配って廻った。毎日毎日、朝一番の仕事が水汲みでした。家にあるすべての鍋釜に水を汲みおきした。今でも忘れられないのは、水をお年寄りの家庭に配った時、小さな入れ物しかなく、重いタンクから移し変えるのが大変だったことです。ガスもきていない、水道も出ない、とくに北町は一番北の端で、給水車もまわってきてくれない。そんなとき、小学校の避難所に会員を見舞った際、各県から給水車がたくさんきてくれているそうですが、みんなに一応行き渡ると、遠くの他府県からきてくれている給水車は帰るというのです。また、私が帰る途中で、小学校の近くで消防車の給水車が、廻ってきているのを見て、思わず「このへんなら学校で水を貰えるのにどうしてこんな近くに給水車が来ているのか。北町には一回も廻って来ないではないか。」と訴えた。署員は北町は管轄が違うといった。私はがまんならなかった。家に帰ってすぐ消防署に電話をかけた。すると何回も待たされたあげくに、電話はどういうわけか水道局の職員に代わっていた。幸い家族に怪我もなく助かりましたが、毎日三食たべるだけが精一杯の状態が続いていました。近所同士で元気づけながら、ガスがつかえなければ電気の鉄板を使えるとか、ボンベのコンロも親戚から届いた。食料もあちこちから送られてきた。こんな生活を通してわかったのですが、人間ってやはり食べることを確保出来なければ不安になるんだなあ。水が出ないだけで、普段の生活が出来ず全てストップしてしまうなんて、人間は弱いものだと思った。二週間経っても、ガスも水道も復旧されませんでした。
そんな混乱中の1月31日夕方6時に、S会長のお嬢さんから電話があり、「市の道路課の課長から会長に連絡したいと言ってきたので、オーストラリアにいる父に電話をしたら、山本さんに電話するようにいわれたので」、と言うのです。当時、会長はマンションが地震で生活が難しい状態にあったので、ご長男のところに避難していたのでした。市は会長が留守であれば、市民の会の代表に連絡するべきであろうに、会長のお嬢さんの嫁ぎ先まで電話するという、非常識な行動に腹立たしい思いでした。それからしばらくした6時45分、会長自らオーストラリアから電話がありました。マスコミをお願いして抗議して欲しいとのことでした。夜8時ころ、道路課の課長ほか1名が来て、市当局は2月6日から測量調査を開始する旨を伝えた。代表は受け取らないと言うと、課長は家の前で書面を読み上げ始めたのである。私はすぐに役員に電話し、近所まわりにベルを押して廻った。マスコミにも連絡を頼んだ。夜8時ということで、どこもご主人が帰宅していた。すぐに25人位が集まってきた。代表は怒りの抗議を声高に言った。皆も口々に抗議をした。車のまえに立ちはだかって、帰ろうとする職員に「曳いてから行け」という役員もいた。マスコミも飛んできた。約1時間半にわたって、住民は怒りの頂点に達した。翌日の新聞にも「罷り通るお役所感覚」「震災に便乗」「こんな時に…」などと大きく取り上げられた。二週間経っても、パジャマに着替えてやすむことも出来なかった。そんなときの出来事だったから、怒りも半端ではなかった。
翌2月1日、すぐに抗議文を作った。2月2日、土方のような格好をして、市庁舎に向かった。女四人で行った。市長は?と入っていくと、たぶん血相が変わっていたんだと思う、助役が出てきた。市もごったがえしている時期だったので、助役が出てきたのにはちょっと驚いた。私は顔を見るなり、1月31日もってきた手紙を見せつけて「これはなんだ!!」「こんな混乱している時に、よくもこんなこものをのんきに机に向かって書いていたもんだ!!」「いったい市はなにを考えているんだ!!」激怒していた。「まあまあと、椅子を勧められ座った。書類の日付は、1月31日の31が手書きになっていた。ますます腹がたった。地震後に、この書類を準備していたわけだから。それを言ったら助役が印刷し直すからと書類を返してくれと言った。私は証拠だから渡さないと書類を取った。抗議をしていると益々興奮した。机の上にあったガラスの灰皿を、助役に投げつけんが如く怒った。小さなテーブルだったので、席には二人座っていた。後に若い人二人が立っていた。いつもの怒り方とは比較にならない位だったので、一緒に行った人達も今日の山本は本気で怒ったと思った。帰り際、助役が「山本さんの腰が痛そうでんな」などというから、また腹が立った。「水汲みをしていたら腰も痛くなるわ!!」吐き捨てて帰って来た。
2月6日、局長がやってきた。謝罪をしにきたのでした。謝罪の文書と協議会の規約とメンバーの名前の案を持って。ところがこの文書にも、2月だけで日付が入っていなかった。市の仕事のいい加減さに、あきれる限りであった。局長はわが家の玄関脇の腰板がずり下がっているのを見て「たいへんですねえ」と言って帰った。謝ったことが原因かどうかわからないが、この局長は地震後の、復興いまだ大変な中、3月に退職した。わが家も局長が来られたのち、間もなく家の建て直しを決断、3月31日から一時枚方に引っ越すことになった。こんな事態のなか、測量もあるまいと。
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