創刊号によせて
藤井隆幸
阪神間道路問題ネットワークのこれまで
そもそも話し
公害道路に反対し、本来あるべき交通行政を求める全国的な住民運動は、毎年開催される『道路公害反対運動全国交流集会』に受け継がれているとおもいます。今年は11月に首都圏の八王子市で25回目を迎えます。単なる『交流集会』だけでなく、『全国組織』の必要性は何度も提唱されながら、未だ『交流集会』の域を出ることが出来ません。事務所、専従費、交通費等の財政基盤の確立が、全国規模では膨大で困難なためです。また、実行委員会の事務局長も、個人の犠牲の上に成り立ってきた経緯があります。
しかしながら、首都圏、大阪府、名古屋周辺は70年代から地域組織が立ち上がり、それぞれで『全国交流集会』のプレ集会を行ってきました。数年前|こは京都府にも組織が立ち上がりました。北九州、四国にも一時的に立ち上がったことがありました。ところが、兵庫県では地域組織が出来たことがなく、国道43号線道路裁判原告団は、『大阪交流集会』に参加してきました。
原告団は第18回定期総会('93.10.24.)で、地域組織の立ちあげを決め、2回の集会('94.3.6.神戸勤労会館・'94.4.17.西宮市民会館)を企画しました。毎日新間が予告記事を掲載したこともあって、多くの参加がありました。しかし、原告団は折から最高裁への要請行動の重要な時期を迎えた事もあり、その後のフォローができませんでした。そのうちに大震災・最高裁判決と、原告団役員会の議題になることはありませんでした。
準備会の発足
2回の集会の後に、アンケートを取ったものの放置されたので、いくらかの問い合わせがありました。『南北高速道路の建設に反対す会(当時)』の砂場氏、『西宮北部の自然と環境を考える会』の三橋氏、『川西自然教室』の平田氏、は特に熱心に問い合わせてこられたので、この辺りが中心になってもらう事になり、呼びかけ人は砂場氏にお願いしました。
初めて集まったのは、砂場宅('95.5.25.)でした。砂場、大橋氏(南北高速)、三橋氏(西宮北部)、澤山氏(川西自然)、藤井の5人で、それそれの運動の情勢や、新たな組織への希望を話し合いました。2回目は『川西自然教室』のお世話で川西中央公民館に集まりました。地元の自治会、運動団体の方々も集まられ、西宮山手幹線の皆さんが参加されました。3回目は『西宮山手幹線架橋・拡幅に反対する市民の会(当時)』のお世話で、上甲子園サービスセンターに集まりました。このときは新たに『西宮市民連絡会(当時)』の前川氏の参加がありました。
こうして準備を重ねるうちに、参加団体も増えてきました。そして、月1回の例会を各地の団体のお世話で、回り持ちで開催することが定着しました。準備会も7回目で、名称を『阪神間道路問題ネットワーク』と決めて、とりあえず組織を立ち上げました。
これまでの活動
『阪神間道路問題ネットワーク』としての初例会は、芦屋の皆さんのお世話で、翠ヶ丘集会所('96.1.14.)で開催されました。忘年会で1月の例会日を決める事まで忘れたり、8月はお盆などで都合がつかなかったりで、年間1~2回は飛ばす事はありましたが、ほぼ月例会をこなしてきました。
例会では、出席団体からの情勢報告を聞き、道路問題に関する情報を出し合い、意見交換をするのが定着したと思います。これまでに署名活動の協力要請は「南北高速道」1件、「西宮山手幹線」1件、「芦屋山手幹線」1件がありました。ネットワークとしては集約をしていないので、成果のほどは分かりませんが実力が発揮できたとまでは言えないでしょう。事件の展開上、「西宮山手幹線」に関する県議会請願、西宮市への要望、尼崎市への要望を、ネットワークとして取り組みました。また騒音基準の改悪に際して、時機を逸せず環境庁長官へ「要望書」を提出しました。
『道路公害反対運動全国交流集会』との関係の在り方は、今後の論議の対象でしょう。しかしながら、『京都大会』('97.11.8.~9)は近かったこともあり、阪神間道路問題ネットワークからも多くの団体が参加しました。忘年会は会費制で毎年行われ、今年は新年会も行いました。4月には『川西自然教室』主催の『野草を食べる会』に合流するのが恒例となりました。「西宮山手幹線」が運動の転換点を迎え、西宮市・尼崎市と対峙した武庫川河川敷で、地元の皆さんの招待で『バーベキュー大会』('98.3.8.)もありました。毎回、各地の団体のお世話で、例会会場の段取りをして頂いております。その労に感謝する次第ですが、『北部水源地問題連絡会』や『西宮市民連絡会』の前川氏には、現地見学会も取り組んで頂きました。今後の取り組みの中で、現地説明会やパネル展示などの工夫も必要でしょう。
エピソード
道路問題に関する住民運動は、計画道路が出来るまでは人が集まってくるが、出来てしまえば運動が衰退する。運動の中心にいた人物ほど道路公害を敏感に感じ、転居していくからです。健康を害しても沿道に留まれとは、誰も言えません。住民団体は生まれては消え、また生まれるものなのです。道路建設の側は、人は入れ代わっても、体制は継続しています。入れ代わる住民団体も、その知識と経験を継承していくことが必要でしょう。
また、ある地域でいえば、沿道住民は少数であると言えます。道路から4~5軒も奥に入ると、無関心な住民の数が多くなってしまいます。影響範囲の住民に、事実をいかに知らせるかが、重要になってきます。道路運動には、このような困難性が常にあります。
大事なことは、社会正義に基づき、住民の権利を主張し、公序良俗に反する道路行政の横暴を抑えることです。その際、主義主張で運動を分けないことが望まれます。前述の毎日新聞の予告記事について、O記者が気にかけたことがありました。「特定政治勢力が集まるのであれば、記事はかけません。」と言われました。住民主体の運動になることを、マスコミ関係者も気にかけているのを、強く感じました。
そこで思い出すのが、世話人を1年勤められた染原さんのことです。甲子園口北町の町内会長として、山手幹線で苦労しているご婦人方を見捨てることは出来ない。社会正義を通すために、自ら運動に積極的に貢献されました。その際どのような立場の人であれ、拒むことをしない方でした。ただし、道理にはトコトン厳しい人でもありました。ネットワークの世話人も快諾頂き、常に青年のように先頭に立って、活躍されました。大変貴重な人材を亡くしてしまいました。
『自分さえ良ければ……』の世の中で、進んで損なクジばかり引いている、毛並みは様々だけれども、染原DNAをしっかりと持った人々の集団であることに、阪神間道路問題ネットワークの将来に確信を持っています。
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