青函連絡船と青函トンネル
2004年9月 山川 泰宏(西宮在住)
私は当時、函館中部高校1年に在学中でした。洞爺丸台風で函館市立中央中学校の3年の担任恩師(田中幸之丞先生)が洞爺丸に乗船していて亡くなりました。あの時以来、我々の中学校の同窓会は永遠に訪れなくなりました。
そして、あの時、函館の町で、ひそかにささやかれた言葉がありました。津軽海峡のイカは多くの犠牲者の遺体を食べているので、イカ刺しは食べれないんでない……と。
青函貨物連絡船の乗務員の多くの犠牲者は津軽海峡の藻くずとなり、海の屍となった悲しみの物語から五十年の歳月が過ぎていました。
以下、函館新聞(早坂直美記者)の記事。文中敬称略、年齢は当時のもの。
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洞爺丸台風から半世紀・五十年目を迎えて
北海道道南の災害史上、忘れることのできない洞爺丸台風から半世紀を迎える。海難事故としては、氷山に衝突して沈没したイギリスの豪華客船・タイタニック号に次ぐ、世界第二の大惨事。
その日
出港わずか二十分後大しけ。「木の葉のように揺れ、今まで体験したことのない大時化でした」――。二等航海士の山田友二は(29)は、当時の船の様子をこう表現する。
1954(昭和29)年9月26日。台風15号の動向をうかがっていた青函連絡船「洞爺丸」は予定より4時間遅れの午後6時39分、青森へ向けて函館の桟橋を出港した。海上の状況が急変したのは、20分後。強い風と波が船を襲った。洞爺丸は,続航中止を決め、午後7時1分、函館港外に碇を下ろし、しけが収まるのを待った。
山田はこの時、船内のブリッジにいた。激しい横揺れと縦揺れに加え、船は錨を中心に振り子のように右へ左へと180度近く揺さぶられた。「何かにつかまっていなければ立っていられなかった」。台風15号はこの時、北海道南西海上でさらに発達を続ける一方、進行速度を落としていた。道南一帯では5時間あまり暴風雨が続いた。
洞爺丸は七重浜へと押し流され、沖合に座礁。「砂浜に乗り上げたからもう大丈夫」。ブリッジ内の船員誰もがこう思った直後、船体は急激に傾き、午後10時43分、転覆―――。船がぐぐっと右へ傾斜した時、山田は船体左の窓枠につかまった。船が横転した際、いち早くブリッジの外に出ることができたが、船外は荒れ狂う暗黒の海。すぐさま波に攫われ、海に投げ出された。
激しい波が次から次へと襲いかかる。海水をガブガブ飲み、頭はパニック状態、自力ではどうすることもできず、波にもまれながらも奇跡的に七重浜に打ち上げられた。小さな明かりを頼りに暗い砂浜を歩き、民家に助けを求めた。生存者や遺体が続々、この浜へ打ち上げられたのは、この直後だった。「浜は真っ暗闇で状況はよく分からなかった。どうも自分が最初に打ち上げられたようでした。最後の力を振り絞り、民家に助けを求めました」と、山田は振り返る。
洞爺丸の乗員・乗客1334人のうち、1175人が亡くなった。洞爺丸のほか、青函貨物船の第11青函丸、日高丸、北見丸、十勝丸も函館港内で沈没。のちに「洞爺丸台風」と呼ばれる台風15号は、船5隻の乗員・乗客1430人もの命を奪った。
翌日
海辺に転がる死体の山
洞爺丸転覆後、上磯町の七重浜には遺体が続々と打ち上げられた。泣き叫ぶ者、悲痛な表情で海を見つめる者、黙って手を合わせる者……。多くの遺族が浜につめかけた。「兄さん、いたの!洞爺丸が大変ですよ」斬波正夫(29)は9月27日早朝、近所の人にたたき起こされた。前日昼まで、無線通信士として洞爺丸に乗船、七重浜にある国鉄宿舎で寝ていた。
斬波はすぐさま、浜へと走った。海辺には、ゴロゴロと死体が転がっている。「大変なことになった……」。全身に震えが走った。沖合いには、洞爺丸が無残な姿で横たわっていた。海上では潜水夫が船内から遺体を引き揚げていた。斬波は遺体収容作業に加わり、運ばれてくる遺体を見て、「これは○○さん」と係の人に教える役を努めた。「悲しみにくれる暇などなかった」。
新聞各紙は連日、一面トップ扱いで事故の惨事を伝えた。「夫が私を呼ぶ夢をみました」「家で26日の夜、障子にサチ子の影がうつったきがしました、そのとき死んだのですね」「子供のことを考えると本当にわたくしたちも夫についていきたくなります」。10月2日の函館新聞(当時)には、肉親を亡くした遺族の心の叫びが記されている。
第十一青函丸も沈没
吉田幸(36)のもとに青函貨物船第十一青函丸沈没の報が入ったのは、27日朝のことだった。夫の虎夫(44)が乗船していた。最初は「何が何だか分からなかった」が、とにかく七重浜に向った。第十一青函丸には、乗員・乗客266人がいたが、全員が帰らぬ人となった。遺体が発見されず「行方不明」とされた人も多かった。「随分探したけど見つからなかった。最初はどこかで生きていると思っていましたが、11月には葬式を出しました」。
吉田のもとには、4人の子供が残った。末っ子はまだ小学校1年生。無我夢中で子供たちを育ててきたが、9月26日に慰霊碑前に足を運ぶことは欠かさなかった。どんなに悔やんでも悲しんでも夫は戻ってこない。「二度と事故が起きないように」。吉田はこの半世紀願い続けている。
日本中を震撼させた洞爺丸台風のあと、青函トンネル建設の話がにわかに活気付いた。事故から34年後の1988年、青函トンネルが開通し、青函連絡船は歴史に幕を閉じた。事故の教訓から、気象予報や造船などの技術は進歩を遂げた。だが、たとえ津軽海峡の主役が代わっても、半世紀もの時が経過しても、事故の悲しみは癒えることがない。
水底に貝がら鳴り
水底に貝がらふるえ
波の日元気に海峡を渡り
遂にかえらない
幾たりかの友だち
潮流に貝がら流れ
潮流に貝がら叫び
暗黒の水底からじっと
故里を見守る数多くの瞳
海底から貝がらうもれ
海底に貝がらむせび
あヽこれはそも
唯人の骨片であろうか
北見丸事務掛として遭難した 故 亀谷利博氏の遺稿詩
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