『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』斑猫独語(8)**<2000.12. Vol.8>

2006年01月03日 | 斑猫独語

澤山輝彦

<馬車のはなし>

 畏友、岡田征士郎さんはすばらしいバリトンを聞かせてくれる声楽家だ。リサイタルの度に私を招待してくれる。2000年10月神戸朝日ホールで、日本のうたと音楽狂言の夕べと題したリサイタルを開いた岡田さんは、自作台本によるコミカルな音楽狂言をはさむ15曲とアンコール曲を歌った。中に萩原朔太郎の詩による「馬車の中で」という歌があり、馬車が私の興味をひいた。

 馬車という言葉には、詩になり歌になるロマンチックな響きがあるのだろう。よく知られている北原白秋作詞、山田耕筰作曲「この道」では、お母さまと馬車で行ったよ、と歌われる。「南の丘をはるばると、郵便馬車がやってくる」と言う流行歌があれば、童謡にも馬車が出てくる。だがそのわりに馬車というものの存在にはぴんとこないところがありはしないか。私はそう思うのだ。

 その生涯は旅の連続であったといわれるモーツアルト(1756−1791)は、たくさんの手紙も残している。その中には馬車の様子を書いたものがある。モーツアルトは5歳の時、父に連れられてザルツブルク(モーツアルトの生まれ故郷、11月11日ケーブルカー火災事故が起きた現場に近い都市)から、ミュンヘンに旅行している。お父様と馬車でいったのだ。この時の馬車のもようを書いたものはあるのだろうか、私は今まだ見つけていない。1769年13歳の時、最初のイタリア旅行では旅先から母に宛てた手紙に、「馬車の中はとても暖かい、御者は愛想がよく、道がよければとても速く走らせる」と書いている。1778年パリヘの旅では「風が吹き込み馬車の中にいながらずぶ濡れになる」この時は、お母さまと馬車でいったのだが、こんなひどい馬車もあったようだ。1777年には「シュタインからは、おそろしく鈍重な――注意、走り方について――駅馬車で行きました」と書いている。父は旅先の息子に、「まだマンハイムにいるのだったらすぐ次の駅馬車で立ってくれるだろうと思う」と書く。急行馬車という言葉も書いてある。18世紀のヨーロッパの都市間にはすでに馬車による交通網が出来ていたようだ。いや、もっと昔からすべての道はローマに通じていたのだった。モーツアルトの手紙には路線馬車の他に、今のマイカーにあたる自家用馬車に乗せてもらったことも書いてある。当時の絵には、点景に馬車を描いたものがたくさんある。

 モーツアルトと同時代の18世紀中頃から19世紀初頭の日本は田沼意次が老中になり、田沼時代を築くが、やがて田沼は失脚し、老中松平定信が寛政の改革を行い、元の田沼の泥ぞ恋しき、と椰揄された時代だ。人々は足や駕籠に頼って旅をしていた。馬の背中には乗っただろうがまだ日本に馬車はない。1864年パリで出版された『スイス領事の見た幕末日本』という本の中で、著者プロシア生まれの外交官ルドルフ・リンダウは「馬車は日本には知られていない。この国では牛にひかれた重々しい荷車がわずかに見られるにすぎない」と書いている。1860年(万延元年)福沢諭吉はアメリカで馬車を見て驚いているし、この頃日本にやってきたオランダの外交官が馬車の使用を幕府に求めるが幕府は許可しない。そのやりとりが残っている。横浜が開港した頃、外国人が馬車を持ら込んでいたらしい。1866年(慶応2年)好奇心あふれる老中松平伯耆守宗秀はイギリス公使館員に「馬車というものに乗りたい。横浜から川崎まで乗せてくれないか」と頼み、乗せてもらって大喜び、乗せた方もよろこんだそうだ。こういう特別な馬車ではなく、乗合馬車はといえば、明治元年から3年(1869−1871)ごろ京浜間に外国人経営による馬車会社が誕生している。日本人にも馬車屋を開業する者がでた。明治5年以降大都市と地方を結ぶ乗合馬車路線も発達し、明治15年東京府には400台を数える営業馬車があったという。馬車網は発達していくが、鉄道馬車の出現が馬車業界を追いつめる。1872年(明治5年)には新橋――横浜間の鉄道が開通する。これはほとんど馬車の出現と同時なのだ。鉄道の発達の前に馬車は敵ではなく、馬車は順次長距離路線から撤退し、地方都市から周辺への路線に活路を見いだしていく。地方都市で営業を続けた馬車に次は自動車が追い打ちをかける。自動車の出現で日本での馬車の時代は終わるのだが、馬車の時代は短かったとはいえ昭和10年初頭まで残っていた地方路線があったという。現実の馬車は理想的な乗り物でもなかっただろうから、語り継がれることも少なかったのだろう。といっても地方にあった路線馬車は乗り心地はともかく、市民生活には役だっただろうし、のどかな物だったのだろうと想像できる。詩や歌に残る馬車はこんな所の物ではなかったかと思うのだ。

 馬車について、ほんの少し交通史の中で調べてみた。東京を中心とした黎明期のことは文献もありよく分かるが、地方の様子はそれぞれの地方史でも調べないと分からないようだ。気がむけばこのあたりのことも調べてみたい。

ひゅう、ぱちっ。
 「馬車は草地をはなれました。木や薮がけむりのやうにぐらぐらゆれました。」どんぐりと山猫の馬車です。止まると山猫も別当もきのこの馬車も消えてしまいます。

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