猪名川昔語り 川の道
川西自然教室 畚野 剛
新年明けましておめでとうございます。今年も皆様の運の開けますことを願いまして、猪名川の船運の開設までの歴史について述べたいと思います。
川西市の地図はシッポの切れたタツノオトシゴが振り袖姿で踊っているように見えます。顔は東を向いていて、鼻の先がちょうど妙見山の頂上にあたっています。このように南北に細長い地形の市域を猪名川が北から南へと貫いて流れています。したがいまして、この地域|こ住む人達の暮らしは古くからこの川と深く関わってきました。地域の昔を知るためには、「川西市史」、「能勢町史」を紐解けばよいと考えて、調べに取りかかりました。しかし、権力者による銀山の開発とか、戦国の武将達の争いなどはいやに詳しく書かれていましたが、名もない民百姓の暮らしについての古文書は、村々の間の「水争い」や「山論」(境界紛争)を除けば、残っているものが少ないようです。そのなかから、「近世の猪名川に交通手段として舟が通っていたのか?」言い換えると「川の道としての猪名川」ということに絞って拾い上げてみました。
交通と申しましても、街道に相当する沢山の人の往来に対応した船運は、淀川のような大川でないと行われていなかったようです。猪名川流域の場合、生産物の輸送の目的に限って目論まれてきました。上流地域の主な産物といえば米や薪炭でした。米の多くは年貢米だったのでしょう。これらは全て人や牛の背に頼って、山道を、いくつかの峠越しに池田まで運ばれていました。たとえば能勢町宿野の「きねの宮」あたりを松明を灯して夜明け前に出発し、1日丹波街道沿いに進み、峠道の登りに差し掛かりますと、牛どもが一斉にフンを垂れるので、後詰めの連中は滑ってかなわなかったと言います。猪名川を「文殊の渡し」(今の文殊橋付近)で歩いて渡りました。池田の商人の一部は古江あたりまで「出買い」し、やすく買いたたいたという話です。荷渡しのあと百姓たちは呉羽橋付近の饂飩屋で一服するのがわずかな楽しみだったようです。まだそれから、その日の内に歩いて帰らねばなりません。今から思えば大変なことだったのです。そう言う事情から、舟の通れる中流域について池田までの船運が望まれていました。また下流域については集められた年貢米や酒を河口まで大量輸送する需要がありました。
さて江戸期の1635年から1780年まで、通船願いはいろいろな人達から通算四十回ほど出されましたが、ある事情があって実現しませんでした。その事情とは、そのつど池田村の強力な反対があったのです。反対の理由はいつの時期も同じ様なものでしたが、例えば元禄9年の文書では
- 舟が通れば、田に水を引くための井関や堤を保護している枠が壊れ、川底の水垢が取れると堤から水漏れするので百姓が困る。
- 池田の牛馬人足が動かしている荷が船運に奪われ稼ぎが少なくなる。
- 多田銀山関係の荷の稼ぎがなくなると、馬貸しが減り、公用の荷はこびに差し支える。
と主張しています。要するに、当時の池田の繁栄を底から支えていた「陸運業界」の自己防衛だったようです。
多田家御家人らが1723年|こ願い出た本流起点猪名川町上野、支流起点一庫、終点神崎浜という計画がありましたが、川幅を広げる普請が困難であったり、年貢米や百姓諸荷物は池田止まりと言う制限を付けられたことで余り効用が期待できなくなって頓挫してしまいました。また1784年に下流部に限って許可がおりたのは、伊丹・池田の酒を高瀬舟で庄本村まではこび、そこで大きな舟に積み替えて大阪や西宮へ運ごという航路でした。しかし、その時も池田側は池田から27丁も下流にしか船付き場をもうけなかったので、現実には荷が集まらなかったといいます。
ようやく明治5年3月になって高瀬舟が池田村までさかのぼるようになりました。この裏には、維新の制度改革により、陸運も伝馬制から陸運会社へと切り替わり、馬持ちたちもそれに組み込まれて行き、反対しなくなったという事情の変化がありました。また右岸川西側でも同年4月小花村から尼崎までの船運が許可され、上流部からの租税米や薪炭が運べることとなりました。
そしていよいよ同年9月、上阿古谷村仁部輝三と多田院三矢旗兵衛が池田村より上流の船運開設を兵庫県庁に出願することになりました。支流(当時能勢川と呼称)の東畦野村から多田神社前を経て池田村にいたる2里の間に難所を切り開いて舟路を開き、能勢郡、奥川辺郡119ヶ村からの荷を運送しようという計画です。総工費は1167円、償却に10年間の通行料をあてる予定でした。そのあと会社を設立、さらに起点に本流の上野村(猪名川町)を追加、明治7年1月にあらためて出願しました。計画は「農業用水時の通船は差し止め、9月から5月に限って営業。出資者15名。舟は30そう。奥在村からの荷の総量は年間7万5干駄(米穀相当で7万5千石)とみて、その半量を舟によると予想。運賃は陸路の半額。1駄あたり戸の内(陸路5里相当)までの運賃25銭。うち「刎ね銭」として1銭を徴収し、償却費にあてる。また材木運搬の筏からも「刎ね銭」を徴収する。」というものでした。同年6月|こ県より認可。12月20日、営業を開始しました。明治10年10月の時点では多田院より上流は未開業。開業していたと考えられる多田院村・池田村間の営業|こつしいても資料は見いだされていないと「川西市史」はかたっています。しかし、私は「多田神社近くの左岸の石段は船着き場であった」と地元の方達が言い伝えられていると聞いています。さらなる現地調査が必要でしょう。
川と暮らしについて、このような昔の苦労話があったのを知る。そうして、川への思いを今の世にどう紡ぎあげて行けばよいのか? 考えていただければ幸いなのです。
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