桜田門外の変をおこした水戸浪士の水戸家は御三家です。
水戸家は井伊直弼を憎くみ殺害しましたが、徳川幕府を倒すつもり
はおそらく無くなかったと思います。しかし水戸浪士による桜が門
外の変より幕府の権威が失墜し、尊王攘夷運動が激化し7年7ヶ月後
に大政奉還されました。徳川幕府にとっては、水戸家が目の前の事
に拘り過ぎ全体が見えなかった悲劇です。
薩長が尊王攘夷の世論ににうまく便乗し徳川幕府を倒して明治政府
をつくりましたが、造った途端に尊王攘夷は跡かた間なくなり、文
明開化のスローガンのもと、西洋に学び追いつけと国を挙げて取り
組みます。私がずっと気になっているのは、尊王攘夷を唱えていた
人達をどのように説得したのか、私が知る限りでは情報は全くあり
ません。
明治維新のきっかけを作ったの井伊直弼が彦根城で過ごしていた
痕跡を、この目で見たいと、バスツアーの集合時間が迫る中、
駆け足で見て回りました。
井伊直弼生誕の地
十四男として彦根城の二の丸にある井伊家の下屋敷である楽々園
で生まれました。
埋木舎
兄弟が多かった上に庶子であったこともあり、養子の口もなく
父の死後、中級家臣が住む中堀の外の三の丸尾末町の屋敷に移
り、17歳から32歳までの15年間を300俵の部屋住みとして過ごしま
した。
井伊家の重臣は中堀と内堀の間に屋敷を構えていますが、藩主が
何かあったときのリスク管理の言わばスペアパーツ扱いで、藩主が
健在であれば飼殺しの部屋住みは、扱われ方が気の毒です。
佐和口からの中堀と埋木舎がある三の丸
この道の奥に埋木舎があります。
埋木舎から見た内堀と佐和口多聞櫓
井伊直弼も埋木舎からこの景色を眺めたて何を思っていたのか
妄想が膨らみます。
埋木舎からみた中堀と沢口多聞櫓
井伊直弼が埋木舎からでて、佐和口をくぐることはあったのでしょうか?