静聴雨読

歴史文化を読み解く

古本屋の接客サービス

2009-02-25 07:17:14 | 社会斜め読み
古本屋の接客サービスで感じたことを綴ったコラムをまとめました。予想通り、苦言が多くなりました。

(1)なぜ嫌われる?

伝統的な古本屋の世界は、チェーン店の出現とネットを利用した素人古本屋の出現で、大きく様相が変わった。ここでは、ネットを利用した古本屋は措いておいて、店舗を構える古本屋について記す。そのうち、チェーン店は後に述べることにして、ここでは伝統的な古本屋に絞ろう。

伝統的な古本屋はなぜ客に嫌われるのか? かれこれ40年間お付き合いをしてきて、理由がいくつか思い当たる。読者の方々も思い当たるフシがあろうかと思う。

まず、店舗が雑然としていて、商品配列がでたらめだ。雑然としているところが古本屋らしくていい、という向きもおられるようだが、私はその考えをとらない。
もともと、雑多な商品なのだから、一定の基準で配列されていなければ、探すのは困難である。

アメリカの大都市の古本屋を覗くと、どこでも、分類・配列が徹底している。文学書は、English, American, Mystery, Romance などに細分化され、その中で作家名のアルファベット順に本が配列されているのが普通である。求めている本があるかないかを短時間で判断するのに好都合だ。

一方、わが国の古本屋では、徹底して分類・配列を行っている店は少数派だ。勢い、客は端から端まで本棚をスキャンすることになる。雑然大好き派は、その過程で思わぬ掘り出し物を発見して狂喜するらしいのだが、私はそれをとらない。

たとえ何でもない雑本でも、正しく分類された棚に正しく配置されれば、輝いて見えるのだから不思議だ。例えば、「民俗」とか「地誌」とかで括られた棚があれば、T・クローバー『イシ-北米最後の野生インディアン』やR・ドルマトフ『デサナ-アマゾンの性と宗教のシンボリズム』(ともに、岩波書店)を手にとってみる客は多いはずだ。

このように、雑本に付加価値を注ぎ込むのが古本屋の器量だといえる。

分類・配列の徹底という考え方は伝統的な古本屋の世界では根付いていないが、チェーン店ではすっかり定着している。伝統的な古本屋はチェーン店に学ぶがよい。 

次に、店舗が雑然として見える原因の一つに、店舗と倉庫の混在・未分化が挙げられる。本来は倉庫に置くべき未整理の商品を平気で店舗に置いてある店が多い。中には、「未整理につき、ひもを解かないでください」などと客に失礼にあたる文言を書いた札を貼ってある束があったりする。店舗に置いてあるものに触るなというのはおかしい。触られたくないものは倉庫に収めておくのが正しい。

店舗と倉庫の混在・未分化が起こる原因の一つは、倉庫スペースを確保していないことにある。理想をいえば、店舗面積の3倍の倉庫面積がほしい。

オペラハウスの例を引くと、舞台の間口が比較的狭いところでも、舞台の奥行きはびっくりするほど深い。それで、短時間で、前面と後面との舞台の入れ換えができるようになっている。

伝統的な古本屋を名乗るならば、店舗に負けない広さの倉庫を備えるべきだ。そして、「倉庫は第二店舗だと」と言い切れるほどの気構えを見せてほしい。

未整理の商品の束を除けて本棚にアクセスしたら、雑本しかなかった、とはよく経験することだ。そう、古本屋の本棚に並ぶ本の多くが、いや相当程度が、商品価値の低い雑本なのである。良いコンテンツの本が不足しているために、あるいは良いコンテンツの本を仕入れる資金が足りなくて、
雑本で本棚を埋めている古本屋が多いらしい。

雑本には愛情がわかない。それで店舗の管理がおろそかになる。そのような店が多いのだ。

伝統的な古本屋が嫌われる理由の一つとして昔から広くいわれているのが、店員が無愛想だという点だ。これは今でもあてはまるが、私はあまり気にしない。むしろ、ニコニコしてお愛想でもいわれたら、引いてしまうだろう。  

(2)愛情が足りない

次に、チェーン店について記す。

チェーン店の多くは共通の特徴がある。店内が明るい(伝統的な古本屋では、暗い店が多い)、店内が整頓されている(伝統的な古本屋では、雑然としている店が多い)、分類・配列が徹底している(伝統的な古本屋では、分類・配列が徹底していない店が多い)、などなど。総じて、客を受け入れやすい仕掛けに腐心している。

一つだけチェーン店に不満をいうとしたら、値札のつけ方がよくない。のりのついた値札を本の表紙や函に所かまわず貼ってしまうのである。値札を貼った場所がたまたま文字の印刷されている個所だった場合、その値札を剥がす際に印刷文字まで剥がれてしまうことがあるのだ。
少し注意すれば、印刷文字の個所を避けて値札を貼ることができるのであるが、その注意を怠っている。おそらく、店員教育でも値札の貼り場所について教育していないのだろう。

チェーン店の店員の本に接する態度を見ると、普通の「もの」を扱っているかのようだと感じることがある。

そういえば、雑本を扱う伝統的な古本屋にも、本への愛情が見られないことがある。
全集などのセットものをひもで束ねるとき、きつく束ねすぎて、両端の本の表紙や函に、無残にも、ひもが食い込んでいるのをよく見かける。本の悲鳴が聞こえないのだろうか?

本に愛情を持たない点では、伝統的な古本屋もチェーン店も似たようなものかもしれない。

(3)奇妙な掲示板

東京・町田にかなり大きな古本屋がある。4階建ての建物すべてを店舗に充てている。陳列数は相当のものである。わが国の伝統的な古本屋とは少し違う雰囲気を漂わせている。むしろ、アメリカの大都市の古本屋に近い。

まず、本の分類・配列が徹底している。これは特筆すべきことで、他の伝統的な古本屋も真似してもらいたいと思うほどだ。
次に、同じタイトルの本が複数冊置いてあることがある。これは伝統的な古本屋としては珍しい。(チェーン店では当たり前の光景だが。)

さて、この古本屋の入口に次のような掲示がある。(間違えないように、行ってメモしてきた。)
「お願い! 万引防止の為、1階レジにてお荷物をお預りしております。」

以前は「防犯のため」と書いてあったように記憶しているのだが、現在はご覧の通り、ストレートに、「お客様の中には万引を働くものがいます。そのため、お客様のバッグなどを預からせていただいています。」といっているようなのだ。かなりびっくりする掲示だ。

万引防止に協力するのに吝かではないので、1階レジでリュックサックを預け、2時間ほど店内を見て回り、1階レジに戻った。ところが、そこには店員の姿が見えない。預けたリュックサックは?と見ると、籠の中に放置されている。

このお店は、万引防止に熱心だが、お客様から預かった荷物の防犯管理には不熱心であるらしい。

このようなことが起きる原因は明らかで、大きな店を少数の店員で運営しているために、万引は起きる、お客様の荷物は大事にしない、という事態を引き起こしているのだ。お客様を悪者にする前に、店員を増やすことを考えてほしい。

(4)居心地の良さとは?

横浜の馬車道に「xy商会」というお店がある。「古書」の看板が出ているので、古本屋だろう。中に入ると、一面に横浜関連の古書と資料が展示してある。開港当時の資料が充実している。

店内右手を見ると、さらに数本の書棚にびっしりと本が入っている。その棚に近づいた途端、厚手のカーディガンを着てほっぺたを赤くした主人(らしき人)が「こら、こら、そこに入ってはいけない。」と叫んだ。一瞬唖然として、「これらは展示品ではないのですか?」と問うたが、主人は答えない。「どうして答えないのか?」と再度聞くと、主人は「答えません。」と意味不明の言葉を返すばかりだった。

このやりとりの間に、主人の家族か愛人か使用人かの女性が、手作りのうどんを店内のテーブルに並べ始めた。二人で食するつもりのようである。

最近、親密な空間を演出する古本屋があちこちに出現しているが、お客との親密感を増すための演出であれば納得できるが、身内の親密感を見せつけるための演出は本末転倒だ。お客に見せたくないものは隠す、店内で汁気のある飲食は慎む、などは古本の接客商売の基本だと思う。 

(5)理想の古本屋

ここで、私の理想とする古本屋のイメージを述べてみたい。
店舗・ワゴン・仮想店舗の三層構造の古本屋が、客として利用し易い「理想の古本屋」となる。

その1。店舗

店内のどの本にもアクセスできること。そのためには、脚立が備えてあって上段の本に容易にアクセスできること、積みっぱなしの本で下段の本へのアクセスを妨げないこと、が重要。これらの条件を備えた古本屋は意外に少ない。

本をゆっくり吟味するには、書見机と椅子2脚が欲しい。机上には何もいらないが、仮想店舗(後述)の目録があると親切だ。書見机は欧米の古本屋では普通にあるが、わが国では滅多に見かけない。横浜・馬車道の誠文堂を覗くと、ここには書見机が置かれていた。専門書に特化したお店にふさわしい気配りだと思った。(しかし、最近訪れてみると、書見机は未整理の本の置き場に変わっていた! 残念。)

余裕があれば、PCで仮想店舗を自由にブラウズできればもっといい。主人が店内を見渡せる程度のあまり広くない店舗が理想だ。

その2。ワゴン

店舗の表に、100円均一と300円均一のワゴンを置きたい。このようなワゴンから掘り出し物を見つけ出すのが古本屋めぐりの醍醐味の一つであろう。

行きつけの古本屋の一つに、ワゴンの掘り出し物が多い店があり、毎週ここを覗くのが楽しみの一つになっている。なにしろ、1冊100円で、『グレン・グールド大研究』や『ヘーゲル法哲学講義』が手に入るのだから、こたえられない。

その3。仮想店舗

店舗の奥に隣接した倉庫が仮想店舗で、インターネットで注文を受ける。店舗に置けない全集本などは、もっぱらこの仮想店舗に置くことにする。
店舗を訪れた客も目録かPCで、仮想店舗の本を吟味することができる。そして実物を検分したい客を仮想店舗に案内することもできる。

仮想店舗の良いところは、その広さを自由に変更できることだ。店舗奥の倉庫だけでなく、離れた場所に第二・第三の倉庫を持ち、仮想店舗を拡張することもできる。

このような、店舗・ワゴン・仮想店舗の三層構造の古本屋が、客として利用し易い「理想の古本屋」のイメージだ。これらをすべて実現した古本屋はあまり見当たらない。 (2006/10-2007/3)


「裁判員制度」への疑問

2009-02-12 08:42:08 | 社会斜め読み
「裁判員制度」が始まる。司法改革の一環だそうだ。今日から、「あなたは来年度の裁判員候補に選ばれました」という「当選通知」が当選者に最高裁判所から送られてくる。

(1) 制度の理解

まずは、「裁判員制度」とはどのような制度か理解するところから始めねばなるまい。
インターネット上の百科事典「Wikipedia」にあたった。それで、ほぼその概要がつかめた。(人によっては、「Wikipedia」は個人的意見なども潜り込んでいるので、信用できないという評価があるが、個人的見解が混じっている部分には、管理者のものと思われる[要出展]という注釈が付されているので、それを注意して読めば、「Wikipedia」は十分活用できる。)

根拠法:「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」(2004年成立、2009年5月21日施行)
裁判員制度が適用される事件:地方裁判所で行われる刑事裁判のうち、殺人罪、傷害致死罪、現住建造物等放火罪、身代金目的誘拐罪、など。

裁判の構成:裁判官3名、裁判員6名。
裁判員の仕事:証拠調べ、有罪・無罪の判断、量刑の判断。

裁判員の選定:有権者→裁判員候補予定者(各年度。2950人に1人)→裁判員候補予定者(各事件ごと)→裁判員の選定、の手順による。

裁判員の義務:出廷義務(出廷しない場合、10万円以下の過料)・守秘義務(違反した場合、6ヶ月以内の懲役、または、50万円以下の罰金)

ほぼ、以上が裁判員制度の骨格だ。 

(2)専門家と初心者のチームが機能するか?

裁判員制度における裁判員は有権者の中から選ばれる。いずれにしても、裁判に関しては素人だ。その初心者と専門家である裁判官とがチームを組んで裁判に当たる。ここに無理があるだろうことは誰でもわかる。

どの分野においても、専門家がおり、その専門家の知識・ノウハウを普及する普及員がおり、さらに、初心者がいるというのが共通の構図である。このことについて、
 「ローテク」の逆襲 http://blog.goo.ne.jp/ozekia/d/20080721
というコラムで述べた。

そこでは、専門家がいわゆる「専門バカ」になりがちなこと、また、それを補うのが普及員による専門知識・専門ノウハウの普及であること、初心者は普及員がいて初めて専門知識・専門ノウハウの恩恵にあずかれること、などを述べた。

さて、裁判制度が国民から疎遠になっていたことの遠因の一つが、裁判官と国民との距離が開いていることにあるのは間違いないところだ。それを改善するために、今回の「裁判員制度」が発想されたのであれば、一概にその発想を否定すべきではないだろう。

だが、今回の裁判員制度では、専門家である裁判官と初心者である有権者(から選抜された裁判員)とで構成されるチームが規定されたが、裁判官と裁判員とをつなぐべき普及員(裁判普及員とでも呼んでおく)はどこにも見当たらないのだ。さらにいえば、そのような裁判普及員を育成しないしくみ作りに腐心しているのが透けて見える。

裁判員に厳格な守秘義務を課し、関係した裁判に関して意見を公表することや裁判員としての経験を公表することを禁じていることにそれが表われている。これでは、裁判について国民の間に共通の理解を醸成することなど期待できないではないか?  

(3)「国民の義務」とすることについて

裁判員になる・ならないを国民は選べない。抽選によって選ばれたら、原則として、国民は裁判員となることを忌避できない。これは重大な点だ。

よく考えると、このような裁判員制度は憲法上の疑義も生じる。
憲法で国民の義務と規定しているのは、「納税の義務」と「(子どもに)教育を受けさせる義務」の二つに過ぎない。わが国には徴兵制がないので「兵役の義務」は憲法に規定されていない。

裁判員になることを国民の義務とするからには、憲法に「裁判員になる義務」を載せる必要があるのではないか? つまり、裁判員制度を制定するためには、事前作業として、憲法改正が必要なのではないか? 憲法改正論議を端折って、新たに、重大な国民の義務を一法律で規定してしまうのは「やり過ぎ」ではなかろうか? 今、「裁判員制度」への疑問・批判が各所で展開されているが、「憲法違反ではないか?」という論調があまり聞かれないのはなぜだろう?

もし、「裁判員になる義務」が法律で制定できることになると、同じように、例えば、「兵役の義務」でさえ、新たに法律を制定することで、実現してしまうことになりかねない。恐ろしいことだ。

「国民の義務」を新たに作り出すにあたっては、十分に慎重な国民的議論を経なければならない、というのが、「裁判員制度」を目の当たりにした一国民の感想だ。 

(4)誰も喜ばないのでは?

「裁判員制度」については、ほかにも疑問がある。箇条書きすると:

・裁判が拙速化する恐れがあること。事前の論点整理を十分に行う前提はついているものの、裁判員が参加する裁判は、原則として、3日で結審するという。これで、証拠の評価を十分に行うだけの時間的余裕が確保できるか?

・被告人のための制度ではない点。被告人は裁判員裁判の選択の権限もなければ、裁判員の選任に関与することもできない。

・裁判官の負担が増大する懸念があること。裁判官は、初心者の裁判員に対して、「法に則して」、とか、「証拠に照らして」とかの裁判の基本を教えることが要求される。裁判員は裁判については何も知らない、というのが原則だからだ。これは裁判官には大きな負担になるのではないか?

・裁判員の本来の仕事や生活への影響が避けられないこと。ボランティア活動であれば、仕事や生活へ影響を及ぼさない程度に計画すればできるが、裁判員に選任されたら、そのような自己裁量ができない可能性がある。

・裁判員が被るストレス障害が憂慮されること。裁判員の扱う裁判が、刑事裁判のうちでも、凶悪事件(殺人罪、傷害致死罪、現住建造物等放火罪、身代金目的誘拐罪、など)であることが、裁判員に強いストレスを与えかねないことが容易に想像できる。

このように考えると、裁判員裁判に関係する当事者(裁判官、裁判員、被告人、検事、弁護士)の誰も、この裁判員制度を喜ばないのではないだろうか? これが素朴な疑問だ。 

(5)「裁判普及員」の提唱

裁判を国民に身近なものにするために「裁判員制度」が考え出されたが、裁判を国民に身近なものにする仕組みは不十分だということをこれまで述べてきた。
それは、「専門家」である裁判官と「初心者」である裁判員とだけで裁判を行うという仕組みに表われている。「専門家」と「初心者」は「普及員」を介して初めて十分にコミュニケートできる、という事実を見逃している。

また、折角、裁判制度を実体験した裁判員に厳しい「守秘義務」を課すということは、裁判制度の理解を広げることの妨げになる。5年経っても10年経っても、裁判制度を実体験した裁判員は国民全体の中で孤立せざるをえない。これでは、裁判制度の普及など期待できない。

裁判を国民に身近なものにするという本来の目的を達するためには、もっと別のアプローチがあっていいのではないか。私の提唱するのは、「裁判普及員」を作ったらどうか、というものだ。

「裁判普及員」は「裁判員」とどこが違うか?

第一に、裁判普及員は「志願制」であること。
第二に、裁判普及員の任務は「裁判員裁判」に参加すること、と、国民に対する裁判制度の普及活動を行うこと、の2つであること。

このような任務を負う裁判普及員を育てるためには、しかるべき教科書の作成や資格制度の創設などが必要となる。そのために、裁判官の知恵を出してもらえばいいのではなかろうか。ひとたび、裁判普及員が育てば、裁判官の負荷の軽減にも寄与することは間違いない。

また、自治体や学校で裁判制度の普及・啓蒙のカリキュラムを作り、それに裁判普及員が講師役で貢献するようになれば、国民の間で、裁判制度の理解は格段に深まるのではないだろうか。

「裁判員制度」への疑問・6

(6)あなたは裁判員になりたい?

ある寄り合いで「裁判員制度」の感想を聞いてみた。
できることなら「裁判員」を忌避したい、という人が最も多く、絶対に「裁判員」になりたくない、という人と、ぜひ「裁判員」を経験してみたい、という人とが、ほぼ同数いた。

非常に興味深い結果だ。
できることなら「裁判員」を忌避したい、という人が最も多いのは予測できるが、ぜひ「裁判員」を経験してみたい、という人がいることが興味深い。つまり、「裁判員」を「志願制」としても、希望者が集まる可能性が高い、ということがここから窺える。当然のことながら、志願して裁判員になる人の方が、抽選で選ばれて義務として「裁判員」を勤める人より、士気は高く、裁判の進行にも好影響を与えるだろう。

私自身は、絶対に「裁判員」になりたくない組だ。それは、この制度が、裁判に関係する誰もが喜ばない制度のように思えるからだ。

もう少し制度を洗練させて、「裁判普及員」ができたらどうか? 
私自身は、裁判員の資質をかなり備えていると思っているが、やはり、「裁判普及員」に志願することはないだろうと思う。志願してまで、他人の不幸に関わりたくないからだ。 (2008/11-2009/1)

新逗子発羽田空港行

2009-02-10 16:55:13 | Weblog
京浜急行電鉄には、泉岳寺から三崎口までの本線・久里浜線のほかに、いくつかの支線がある。京急蒲田からの空港線、京急川崎からの大師線、金沢八景からの逗子線、堀ノ内から浦賀までの本線(の残り)、がそれである。

逗子線新逗子発・空港線羽田空港行の編成がある。支線-本線-支線と結んで走る不思議な列車だ。

新逗子-(各駅停車)-金沢文庫-(快速特急)-京急川崎-(特急)-京急蒲田―(各駅停車)-羽田空港

性格を次々と変えて、支線の末端から別の支線の末端まで運行している。どうしてだろう?

この列車は、新逗子を出て金沢文庫の手前の金沢八景で、本線の上り各駅停車と泉岳寺行き快速特急をやり過ごし、その後金沢文庫で、先にやり過ごした泉岳寺行き快速特急の後に連結して、「快速特急 羽田空港行」に変身する。次に、京急川崎で、泉岳寺行き快速特急から分離して、「特急 羽田空港行」に再度変身する。なぜ「特急」に呼称変更するのかがわからない。快速特急も特急も、京急川崎の次の停車駅は京急蒲田で、変わりない。ここは鉄道の専門家を煩わさないと解明できない。

京急蒲田の手前で、下り線をまたいで空港線京急蒲田に入る。そこから、逆方向にスイッチバックして、羽田空港まで行くのだ。

何とも複雑な行程をたどる編成だが、その発生のわけは、羽田空港への旅客の取り込みにあることは明らかだ。羽田空港へは、都営地下鉄浅草線から泉岳寺・品川を経由する列車が直通運転している。それに加えて、横浜方面からの直通運転を実現することで、横浜方面からの旅客を取り込んだのだろう。各駅停車-快速特急-特急-各駅停車と性格を変えるのも、線路をまたいだスイッチバックも、横浜方面から羽田空港への直通運転を実現させるための苦肉の策なのだ。

新逗子発羽田空港行のほかにも、浦賀発羽田空港行という編成もあるようだ。いずれも、時間はかかるにしても、乗り換えなしで羽田空港まで行けるところがうれしい。
ただ一つ心配なのは、事故のリスクはないのだろうか、という点だ。  (2007/10)

鉄道の専門家に聞いてみた。
「京浜急行では、快速特急(京急蒲田-羽田空港間はノンストップ)のほかは、特急も急行も京急蒲田-羽田空港間は各駅に止まる規則になっています。したがって、この編成の京急川崎-羽田空港間は『特急』でおかしくありません。」
なるほど、規則はわかったが、実際には「ウーン。」とうなりたくなる。  (2009/2)


翻訳のいのち(ドストエフスキーの場合)

2009-02-05 03:40:01 | 文学をめぐるエッセー
翻訳にもいのちがあります。旬があります。
一般的には、新しい翻訳ほどよいといえます。例えば、シェ-クスピア全集は、坪内逍遥訳で読むよりも、小田島雄志訳で読むほうがはるかに理解が進みます。

翻訳のいのちは、文体のみずみずしさと文章の分かりやすさに集約されます。
日本語の文体は変化が激しく、50年たたないうちに古びてしまうのが普通です。坪内逍遥訳がもはや現代人に受け入れられないのは当然です。

ただし、分かりやすい文章はどの時代にもあり、分かりやすい文章で綴られた翻訳は長生きできるものです。昭和30年代から50年代にかけての、西暦でいえば、1960年代から80年代にかけての翻訳文化隆盛のころに残された翻訳資産の一部がいまだに古びることなく生き続けているのは、分かりやすい文章のお蔭だといえます。

日本人の大好きなドストエフスキーは、戦前から戦後にかけて、中村白葉や米川正夫の訳が大いにもてはやされました。米川正夫訳は河出書房刊の全集にもなりました。また、岩波文庫などにも収録されました。しかし、読んで分かることですが、中村白葉訳や米川正夫訳はもはや現代の文体ではありません。これらを読んで、ドストエフスキーは長たらしくて読み続けられないという印象を植え付けられた人は不幸です。

1960年代から筑摩書房が刊行したドストエフスキー全集は小沼文彦の個人訳でした。比較的無名の訳者を起用したこの全集は大きな冒険といわれました。
しかし、結果は大成功でした。何より、文体のみずみずしさと文章の分かりやすさが際立っています。大部な『作家の日記』や『書簡集』もスラスラと読めてしまいます。私はこの小沼訳でドストエフスキーに親しみました。

その後、1980年前後に新潮社から新たにドストエフスキー全集が刊行されました。この全集は気鋭の訳者を集めたもので、もちろん今でも生きています。
筑摩書房版と新潮社版。二つのドストエフスキー全集を持つ現代の読者は幸せです。(2006/5)
            
金原ひとみがドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の読書経験を朝日新聞2006年5月7日朝刊に寄稿しています。
それによると、彼女は、全3巻の上巻を半分読むのに3ヶ月、上巻の残りを読むのに1ヶ月かかったそうです。ところが、中巻と下巻を読み通すのに3日しかかからなかったそうです。上巻の終わりあたりからこの小説のリズムをつかみ、その魔力にはまったようです。彼女の読んだのは原卓也訳の新潮文庫版です。

ところで、岩波文庫版の『カラマーゾフの兄弟』はいまだに米川正夫訳が現役のようです。1927年に最初の版が出て、1957年に新字・新かなに改版されているとはいえ、翻訳そのものには手が入ったとは思えません。

金原ひとみが原卓也訳の新潮文庫版を選んだのは幸いでした。さもなければ、最初の巻の途中で放り出すハメに陥ったに違いありません。  (2006/5)
            

寺山修司の全集を作るとしたら

2009-02-01 12:10:10 | 私の本棚
寺山修司が47歳の若さで亡くなったのは1983年5月のこと。まもなく24年になる。今生きていれば71歳、いかに早世だったかがわかる。

しかし、寺山は47年の間に十分過ぎるほどの仕事を残した。
寺山のレパートリーは驚くほど広く、俳句・短歌・詩(短詩・長編詩)・演劇・映画・小説・文学評論・社会評論・青少年へのコンサルテーション・競馬エッセーなどなどの分野で、第一人者であった。そのため、寺山の作品(著作と映像作品)も膨大である。

寺山の没後24年になるのに、いまだに全集が編まれないのはなぜだろう? 長らく疑問に思ってきた。放恣な生活を続けた寺山なので、著作権の継承関係が複雑で、一本の全集にならないのだろうと思っていた。齋藤慎爾によると、「百巻を超すという巻数に名乗りをあげた出版社が恐懼し撤退した」との噂があり、その通りなのだという。(寺山修司「寺山修司の俳句入門」、2006年、光文社文庫、への解題)

なるほど、なるほど。もしそうだとしたら、残念至極だ。
百巻を超すことになろうとも、寺山修司全集は是非実現してもらいたいと思う。
ただし、従来の観念による「全集」では、出版社も読者も共倒れになるだろう。A5判、厚函入り、の全集では、価格が高くなり、到底百巻を揃える読者を十分に見出すことは難しい。

もっとハンディな全集を考えたらいかが?
ちょうど格好の例が、「植草甚一スクラップブック」、晶文社、全41巻+別巻がある。
B6判、紙装、ビニールカバーのハンディなものである。(ただし、ビニールカバーはいただけない。夏には伸びるし、冬には縮む。ここは、岩波新書のように、紙カバーにビニール・コーティングしたものがいい。)これで、思い切りコストを抑えられる。

もう一つ、寺山のレパートリーが多岐に渡ることが障害になっている、と齋藤慎爾は指摘している。どういうことかというと、例えば、俳人は短歌に関心がなく、歌人は俳句に関心がないというのが通例だというのだ。寺山修司全集を編んでも、俳人は俳句篇だけを、歌人は短歌篇だけを求めるらしい。つまり、多岐に渡る寺山のレパートリーすべてに付き合う読者は極端に少ない、という事情があるのだ。

それならそれで、方法はありそうだ。
それぞれの分野が独立する形式のシリーズにして、それを総合すると「寺山修司全集」となるように編集すればいい。
(なお、寺山修司の全集は著作だけでは不十分で、映像(演劇の舞台記録映像と映画)も当然収録しなくてはならない。)

こうして、出来上がる全集は以下のようになる。この際、「全集」の文字も止めよう。

寺山修司ワールド
寺山修司ワールド・俳句の細道
寺山修司ワールド・短歌の広場
寺山修司ワールド・詩の迷宮(短詩・長編詩)
寺山修司ワールド・芝居小屋(戯曲と舞台記録映像)
寺山修司ワールド・映画館(映画とシナリオ)
寺山修司ワールド・小説の蒼穹
寺山修司ワールド・文学評論のリング
寺山修司ワールド・社会評論のコロシアム
寺山修司ワールド・少年相談所
寺山修司ワールド・競馬パドック

すべてで何巻になるか知らないが、このような「全集」が編まれ、刊行されたら、私はすべての篇を揃えるだろう。 (2007/5)

今月から、クインテッセンス出版から『寺山修司著作集 全5巻』の刊行が始まった。A5判、カバー装、函入り、の軽い装丁だ。各巻560ページ前後だという。実物はまだ見ていない。

だが、「全5巻」とは! 寺山修司が5巻に収まってしまうのか。各巻の内容は、1俳句・短歌など、2小説・シナリオなど、3戯曲、4青春論・幸福論など、5評論、となっている。競馬エッセーはいっていないようだ。前回提案した「寺山修司ワールド」と対照させる、次のようになる。

寺山修司ワールド
寺山修司ワールド・俳句の細道 →→→→→→→→→→ 1俳句・短歌など
寺山修司ワールド・短歌の広場 →→→→→→→→→→ 1俳句・短歌など
寺山修司ワールド・詩の迷宮(短詩・長編詩)→→→→→ 1俳句・短歌など
寺山修司ワールド・芝居小屋(戯曲と舞台記録映像)→→ 3戯曲
寺山修司ワールド・映画館(映画とシナリオ) →→→→→ 2小説・シナリオなど
寺山修司ワールド・小説の蒼穹 →→→→→→→→→→ 2小説・シナリオなど
寺山修司ワールド・文学評論のリング →→→→→→→ 5評論
寺山修司ワールド・社会評論のコロシアム →→→→→ 4青春論・幸福論など
寺山修司ワールド・少年相談所 →→→→→→→→→ 4青春論・幸福論など
寺山修司ワールド・競馬パドック →→→→→→→→→ (省略)

なるほど、こういう編集の仕方があったか。これなら、読者に過度の負担を強いることもなかろう。書店の店頭で実物を見てみよう。 (2009/2)