静聴雨読

歴史文化を読み解く

沙羅双樹の花の色

2007-07-25 04:49:10 | わが博物誌
「平家物語」の有名な書き出しは次の通りだ。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
驕れるもの久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
猛き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。(角川文庫版)

まことに格調の高い文章だ。人の定め、家の盛衰、国の運命などを見据える眼はどこから生まれたのだろうと思う。今でいえば、成り上がりの企業経営者を諌める文章にも読める。

盛者必衰の例えとして、沙羅双樹の花の色を充てているのが面白い。

沙羅双樹とは? 早速インターネットで調べてみた。
[A]京都を案内するサイト
[B]植物園のサイト
[C]四季の花を紹介するサイト
[D]お坊さんのサイト

花の写真を載せているのが[A]のサイトだ。大きな白い五弁のはなびらの中に黄色い花芯が座っている。
様々な葉の写真を載せているのが[B]と[C]のサイトだ。葉に取りたてた特徴はない。

[C]のサイトでは、ほかに重要な情報が載っている。
まず、原産地がインドであること。[B]のサイトにも同じ記載がある。
釈迦が入滅した際に、この木が枯れて、それで聖木として崇められるようになったこと。[D]のサイトにも同様の記述がある。
二葉柿(フタバガキ)科で、学名は Shorea robusta。

ここまでは、すんなり進んだが、[C]のサイトの次の記述に立ち止まった。「日本では夏椿=なつつばき=のことを沙羅双樹として扱われることが多いが、ほんとうは正しくありません。」と書いてある。
それで、夏椿のページを見ると、[A]のサイトで見た花と同じものが「夏椿」の花として紹介されており、さらに、夏椿は椿(ツバキ)科に属すると書いてある。(なお、[A]のサイトでは、沙羅双樹の学名を「夏椿」としている。)

つまり、釈迦伝説に彩られている沙羅双樹はわが国ではなかなか見られず、それに似た花として夏椿の花を充てたというのが、わが国の先人の知恵だったようなのだ。

結論として、沙羅双樹とはっきり断定できる花は[A]~[D]のサイトを通して見つけられなかった。(2007/6)

近くの道端のお宅の庭に「沙羅双樹」、いや、これまでの学習によると、「夏椿」、の木が一本植わっている。
木の高さは5メートル、冬に落葉した葉が再び茂り、最近、花を咲かせるようになった。最初の開花は6月2日、一輪だけだった。その後、次々に開花して、先に開花したものは次々に落下してしまった。

この写真は6月11日に撮影した夏椿の花だ。
五弁の花びらは開ききると、直径6㎝ぐらいだ。中央の花芯は何とも優美な姿だ。

この写真には写っていないが、開く前の花びらもまた大層優雅で、直径3-4㎝の白い和菓子のような雰囲気をたたえている。

この花(夏椿)を「沙羅双樹」に擬した(平家物語以来の)古来の人たちの心がわからなくもない。
(といって、いまだ「沙羅双樹」の花は、実物も写真も、見ていないのだが。)

「沙羅双樹」の花は一晩で散ってしまう。それが、「はかなさ」の象徴としてもてはやされてきた。平家物語で「盛者必衰」と例えられた所以だ。
一方、夏椿の花は一晩で散ることはないが、その散り方は、(ツバキ科の花らしく)花芯ごと、どさっと散る。その様は「豪快なはかなさ」というところか。 

「沙羅双樹」の名が「夏椿」の名以上に人口に膾炙してきたのは、釈迦伝説・平家伝説の力が与っていることは間違いない。また、口に滑らか(サラソウジュ)なのも得をしている。 (2007/6)

丸山勇「カラー版 ブッダの旅」、2007年、岩波新書、の中に、釈迦涅槃の地・クシーナガルの沙羅双樹の木の写真が載っている。サーラ樹が二本で沙羅双樹といわれているのだそうだ。高さ15メートルくらいの木で、幹はかなり細い。花はつけていないので、どんな花かは判らない。 (2007/6)


石橋湛山の魅力

2007-07-23 02:14:14 | 歴史文化論の試み
分載していた「石橋湛山の魅力」をまとめて再掲載します。(長文です。)
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(1)人気の淵源

石橋湛山(1884年-1973年)の名を知っている人はどのくらいいるのだろうか?
明治・大正・昭和の三代にわたって、初めはジャーナリストとして、後には政治家として活躍し、総理大臣にまでなった人だが、派手に名前を売るような事績はなかったのではないか?
そう思っていたのだが、この湛山が識者の間でなかなか評判がいいらしい。

単なる保守政治家ではなく、気骨のある一言居士として、湛山の評価が高いのだ。その一例は、毒舌家として知られる佐高信の「湛山除名 小日本主義の運命」、2004年、岩波現代文庫、に解説を寄せているのが、細川護熙内閣で首相特別補佐を勤めた田中秀征であることにも表われている。右・左を問わずファンが多い。

「石橋湛山評論集」、岩波文庫、が1996年に20刷、「湛山回想」、岩波文庫、が1998年に9刷、というところからも、湛山の根強い人気がうかがえる。

さて、ひょんなことから、湛山を読んでみることになった。きっかけは、小島直記「異端の言説 石橋湛山 上・下」、昭和53年、新潮社、を古本屋の安売りワゴンで目にしたことだった。小島直記は馴染みのない名前で、いつもは馴染みのない人の本には手を出さないのだが、「湛山」のタイトルに惹かれて購入した。その後、小島直記が評伝作家で、経済人の評伝を多く手がけていることを知った。

この評伝がなかなか面白い。よく「○○とその時代」というタイトルの評伝があるが、これはまさに「石橋湛山とその時代」を描写したもので、前提となる知識の少ないものにも、湛山と時代との係わりが理解できるようになっている。湛山没後5年で出た評伝として出色のものだろう。湛山の特質をすべて「異端の言説」として括っているのがわかりやすい。

どのように「異端」だったのか? 湛山に則してみてみよう。 (2007/1)

(2)ジャーナリスト・湛山

石橋湛山は、その名前から推測できるように、仏門に生まれ、18歳で得度した。しかし、早稲田大学を卒業した後、東京毎日新聞社に入った。ジャーナリストとして身を立てる決心をしたのだ。
その後、兵役を経て、東洋経済新報社に入社し、「東洋時論」の編集に携わり、後に「東洋経済新報」の記者になった(1912年=明治45年、28歳)。ここからが、本格的ジャーナリストとしての湛山のキャリアが始まる。

わが国の近代には、時の政府や権力と一定の距離をとりながら、持論を展開するジャーナリズムの伝統があった。その、最も大きな、時代に影響力を発揮した例として、福沢諭吉と「時事新報」がある。諭吉は、他国のいいところはどしどし取り入れようという合理主義を「時事新報」誌上で展開して、明治政府の政治家や官僚にも支持者を多く持った。しかし、政権に入ることはなく、在野を貫いた。その拠り所が「時事新報」だった。
後に、諭吉は「脱亜入欧」を唱えてミソをつけたが、それはまた別のこと。

さて、湛山の拠った「東洋経済新報」は、大正時代から昭和時代にかけて、時の政府や権力と一定の距離をとるスタンスを保ちながら、持論を展開した。その持論とは、小島直記が「異端の言説」と名づけたように、現在の我々から見ても、驚くようなものだった。

二つ、例を挙げよう。

その1。金解禁論争に対するスタンス
1917年に停止された「金本位制」を、いつ解禁するか、その際の円-金交換レートをどう設定するかについて、経済界で大きな論争があった。
第一次世界大戦による好景気・円高が現出したことを受けて、湛山は直ちに金解禁を実施すべしとの論陣を張った。しかし、時の政府は金解禁に踏み切らなかった。

昭和初頭の金融恐慌により、一旦金解禁論争は頓挫したが、その後、1930年に政府は金解禁に踏み切る。国際圧力に押されたためである。
その際、政府の採用した円-金交換レートは旧平価によるものであったが、「東洋経済新報」は実勢レートを主張した。実勢レートが円高にふれていたためである。
果たして、金解禁が実施されるやいなや、外国のファンド勢力が、実勢レートで円を買い、公定の円-金交換レートで円を売り抜けるという「差益取り」の動きに出たため、わが国の収支は短期間で多大な損失をこうむることになった。

現在の為替政策にも教訓となる事例で、湛山らの主張する「直ちに金解禁を実施せよ」と「円-金交換レートは実勢レートとすべし」を時の政府が容れる器量があれば、という感懐を持たざるを得ない。

その2。植民地領有に対するスタンス
湛山は1915年の「東洋経済新報」社説で、「青島は断じて領有すべからず」と断じた。それまでドイツが領有していた山東半島の権益を奪った行為が、単純に考えて、帝国主義諸国間の権益の移動に過ぎず、中国国民の反感を高めるのみならず、アメリカ・イギリスからも領土的野心を指弾されると湛山は指摘する。

湛山はさらに1922年の「東洋経済新報」社説で、「大日本主義の幻想」を論じた。ここでは、持論をさらに進めて、わが国は一切の植民地(朝鮮・台湾・樺太・支那・シベリア)を放棄すべしと論じている。
その理由は、外交政策上得策でないだけでなく、経済上、膨大な植民地を維持するコストはわが国の利益に見合わない、という大胆なものだった。「自由主義者」湛山の面目躍如である。国中が海外への膨張に浮かれている最中に、冷静なコスト・効果比の論調を展開する合理的思考は時代を飛びぬけていた。 (2007/4)
   
(3)政治家・湛山

第二次世界大戦後、石橋湛山は政界に進出する。戦前から計画していた転身のようだが、奥深い真意はわからない。いきなり、吉田茂内閣の大蔵大臣として入閣して、得意の財政政策に邁進する。

衆議院議員にもなり、さらに飛躍しようとするときに、占領軍による「公職追放」に遭う。戦前の自由主義ジャーナリストとしての実績から見て、誰もがいぶかる決定だったようである。ライバルを叩く吉田茂の策動があったとする論調もあったようだが、真相はわからない。

しかし、この「公職追放」は思わぬプレゼントをわれわれにもたらした。湛山は、この閑暇の機会を利用して、「東洋経済新報」に「湛山回想」を連載したのである。

さて、「公職追放」が解け、湛山は鳩山一郎率いる自由党の領袖になり、さらに保守合同後の自由民主党の第二代総裁になり、ついには、1956年内閣総理大臣にまで登り詰めた。しかし、病を得て、翌1957年に総理大臣を辞任する。わずか2ヶ月の短命内閣で、当然、内閣総理大臣としての業績は湛山にはない。

しかし、政治家・湛山はこれで終わらなかった。

湛山を継いだ岸信介内閣がアメリカとの安全保障条約の改定にかかりきりになり、その後の池田勇人内閣が所得倍増計画にうつつをぬかして、いずれも外交をおろそかにした。特に、ソ連・中国との国交回復の外交をする政治家が不在であった中、湛山は、病が癒えたあと、積極的に対ソ連・対中国外交に心血を注ぐようになる。

この対ソ連・対中国外交が政治家・湛山の真骨頂であった。それを可能にした背景を考えると、共産主義国(当時はそう呼ばれていた)に対する曇りない・偏見のない見方が大きな役割をはたした。そのルーツは、ロシア革命後のソ連政府を承認せよという「東洋経済新報」社説(1919年)や、中国国民の立場から領有の是非を考えよという「東洋経済新報」社説(1915年)にあることが確認できる。 (2007/5)

(4)家庭人・湛山

湛山は家庭人としても、時代の先を行っていた。
戦前から、外で食事をとるときには、いつも夫妻同伴だった。それは、政治家に転身した戦後になっても変わらず、政治家の女性観を覆す模範を気取りなく示して見せた。

その前兆は、東洋経済新報社に在籍した時すでにあった。
1912年の「東洋時論」の社論で、職業婦人の増加した現在に「良妻賢母主義」を押し付ける不合理を説き、女性の自立を支える施策の必要性を力説している。

また、1925年の「東洋経済新報」の社説では、女性に参政権を与えることは当然だと述べた上で、それ以外にも、小中学校の教育を実質上担っている女子を形式上でも参加させる法制を作ることや購買組合などへの女性参加を促進する法制を作ることなど、女性の社会参加を促す法整備の必要を説いている。

湛山はこのような考えを自らの家庭でも気負わず実践してきたのである。時代の数十年も先を行く女性観であり家庭観である。 (2007/5)

(5)湛山の肖像

岩波文庫「湛山回想」の巻頭に、石橋湛山の肖像写真が1枚掲載されている。1955年頃の撮影とあるから、鳩山内閣の通産大臣であったころ、自宅で写したものである。丸顔で、どこか子供のような稚気をたたえた面影とともに、国士のような風貌も読み取れる写真である。

実は、私は生前の湛山に会ったことがある。
病気で首相を退いた後、静養のため、湛山は神奈川県大磯に滞在していた。1957年か1958年の夏のことである。ちょうど、私は親に連れられて、大磯の「海の家」に泊りがけで来ていた。ある朝、海岸に出ると、湛山が家族と散策しているところに遭遇した。

ジャーナリストのはしくれである父が私にカメラを宿から持ってくるように命じた。発売になったばかりのヤシカの二眼レフで、ポートレートを撮るにはピッタリのカメラである。
湛山に、写真を撮らせていただきたいと頼むと快諾してくれて、私は必死になって写真を撮った。

後日出来上がった写真を湛山に送ったところ、書生の方から懇切な礼状をもらった記憶がある。
今でも、その時の湛山のポートレートはどこかにあるはずだ。岩波文庫「湛山回想」の巻頭写真を見ながら、はるか50年前の朝の光景が一瞬よみがえった。

だが、硬骨漢・石橋湛山を知ったのは、初めに述べたように、ごく最近のことだ。
湛山は自らのモットーを「個人主義・自由主義・民主主義」と標榜していたが、私はこれに加えて、「女権尊重主義・柔軟な思考」を湛山の思想の真髄として挙げたいと思う。

湛山の思想と人柄を知るには、次の2冊がよい導き手となる。
「石橋湛山評論集」、1984年、岩波文庫
「湛山回想」、1985年、岩波文庫
湛山の文章は、今ではやや時代がかっているものの、明解で、人をぐいぐい引き付ける魅力をたたえている。 (2007/6)

チョウセンアサガオの不思議・追記

2007-07-10 07:26:15 | わが博物誌
キダチチョウセンアサガオの花の色については、前回、写真で紹介した黄色のほかに白色も現認している。

先日、神奈川県・鎌倉市で、ピンク色の花をみつけて、写真に撮った(7月8日)。 これで、3種類目の色を現認したことになる。
このピンク色のキダチチョウセンアサガオは、例えていえば「悪女の深情け」の気配があり、しなだれかかるような花びらが独特の風情を醸している。好悪は分かれるかもしれない。  

まだほかの色のものもあるかもしれない。花の色は交配によって比較的容易に新色を作り出せるだろうから、どんな色が出現してもおかしくない。 (2007/7)

チョウセンアサガオの不思議(総集編)・3

2007-07-05 04:21:36 | わが博物誌
ちょうど、道端のお宅のキダチチョウセンアサガオが新しく開花したのを見つけたので、写真に撮った。(6月25日)

6月23日にはまだ開花していなかったので、24日か25日朝にでも開花したのだろう。写真からは花の大きさが伝わらないが、ラッパの直径が15cmほどある。今回は一輪だけの開花なので可憐に見えるが、これが20も30もいっぺんに咲くと、うっとうしい。

とにかく、大振りすぎるので損している。せめて、直径8㎝ぐらいであれば、立派に家の庭に迎え入れられるだろう。花弁のしっとり感も捨てたものではない。(ダツラ属のチョウセンアサガオは直径8㎝で、園芸用として輸入されたそうだが、あまり見かけないのはなぜだろう。)

昨年の10月と11月、それに、今年の6月と、同じ木で開花を現認したので、「一年中咲く」という説が正しいことがわかった。

香りについては、花の位置が高すぎて、確認できなかった。

以上で、チョウセンアサガオの探索を終わるが、探索の過程で、インターネットの有用さ、図鑑などに頼り過ぎる危うさ、「園芸書、恐るべし」、などを肌身に感じたのが、新鮮な経験だった。  (終わる。2007/7)