「みちうよや? 乳母の在所の 水(クラフトさんの指摘により訂正)の音」→「みちかよ(短い夜)や 乳母の在所の 水の音」(家内の指導により訂正)
家内が亡くなってまもない頃、まだ狭い社宅のマンションにいた頃ですが、土曜日の昼食は一週間頑張った自分へのご褒美ということで、近くの洋食レストランで軽いコース、といっても2000円程度のもの、を食べながら文庫本を読みふけるのが愉しみでした。何事にもまだ身の入らないことを実感しながら、生きるための生活だけは追いかけくる、そんな時期において自分で見つけた休息時間です。人には必ずそういう時間が必要だと思います。
虫瓜図画賛 会津八一筆
本水墨軸装 軸先木製 宮川寅雄鑑定箱
全体サイズ:縦1550*横470 画サイズ:縦680*横330
箱書に「甲寅夏六月」とあり、1974年(昭和49年)の鑑定箱書であり、宮川寅雄が66歳の時に鑑定した作品です。
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会津八一:1881‐1956(明治14‐昭和31)。歌人,書家,美術史家。秋艸道人(しゆうそうどうじん),渾斎(こんさい)の号も用いた。
新潟市に生まれ,早熟の天才ぶりを発揮し,中学時代すでに新聞俳壇の選者になったり,当時北陸旅行中の尾崎紅葉の話相手をつとめたり,まだ評価の定まっていなかった良寛和尚の芸術をいちはやく認めて正岡子規に知らせたりした。
早稲田大学英文科では坪内逍遥の知遇を得,卒業後,早稲田中学の教師を経て,1926年以降,早稲田大学で東洋美術史を講じ,34年《法隆寺法起寺法輪寺建立年代の研究》(1933)で文学博士の学位を受けた。
宮川寅雄:1908年10月10日 ~1984年12月25日。美術史家。 東京出身。早稲田大学中退。会津八一に師事して東洋美術史を研究。戦前から日本共産党員として活動。1967年中国問題で除名された。日中文化交流協会で活動、79年理事長。66年ころから和光大学教授。79年定年退任。
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会津八一の作品は私が前に所属していた会社の研修所に飾ってありました。
また親戚が所蔵していた作品もありました。思文閣で買い取り思文閣の大交換会で掲載されていました。以外に人気があり、高額で取引されています。
この歌はなんと書いてあるのでしょうか?
「みちうよや? 乳母の在所の 水(クラフトさんの指摘により訂正)の音」→「みちかよ(短い夜)や 乳母の在所の 水の音」(家内の指導により訂正)
会津八一の乳母の名は「清(きよ)」・・・・??? 関係あるのかな?
墨を滲ませた描き方はなかなかのものです。
会津八一は妥協を許さぬ人柄から孤高の学者として知られています。
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参考資料
新潟県新潟市古町通五番町に生まれる。中学生の頃より『万葉集』や良寛の歌に親しんだ。1900年新潟尋常中学校(現新潟県立新潟高等学校)卒業後、東京専門学校(早稲田大学の前身校)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講した。この頃すでに「東北日報」の俳句選者となる。
1906年早稲田大学英文科卒業。卒業論文にはキーツをとりあげた。卒業後は、私立有恒学舎(現:新潟県立有恒高等学校)の英語教員となって新潟に戻り、多くの俳句・俳論を残した。1908年に最初の奈良旅行をおこなって奈良の仏教美術へ関心を持ち、またこの旅行が俳句から短歌へと移るきっかけともなった。
1910年に坪内逍遙の招聘により早稲田中学校の英語教員となり上京。1914年、東京小石川区高田豊川町に転居し、「秋艸堂」と名付ける。1918年、早稲田中学校の教頭に就任。1922年には東京郊外の落合村にあった親戚の別荘に転居し、やはり「秋艸堂」と名付けた。1924年、初の歌集『南京新唱』を刊行。
1925年には早稲田高等学院教授となり翌年には早稲田大学文学部講師を兼任して美術史関連の講義をおこない、研究のためにしばしば奈良へ旅行した。1931年には早稲田大学文学部教授となる
。
1933年に仏教美術史研究をまとめた『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(東洋文庫)が刊行され、この論文で1934年に文学博士の学位を受ける。1935年、早稲田大学文学部に芸術学専攻科が設置されると同時に主任教授に就任する。1940年、歌集『鹿鳴集』を刊行。続いて1941年、書画図録『渾齋近墨』、1942年、随筆集『渾齋随筆』、1944年、歌集『山光集』をそれぞれ刊行。
妥協を許さぬ人柄から孤高の学者として知られるが、同僚であった津田左右吉が右翼から攻撃された際は、早大の教授たちが行動を起こさなかったのに対して、丸山眞男らによる署名運動に参加し、津田の無実を訴えるという一面もあった。
1945年、早稲田大学教授を辞任。空襲により罹災し、秋艸堂が全焼したため新潟に帰郷。同年7月、養女きい子が病没。1946年、「夕刊ニヒガタ」創刊され、社長に就任。1948年、早稲田大学名誉教授。1951年、新潟市名誉市民となる。
同年、『會津八一全歌集』を刊行し、読売文学賞を受けた。戦後は故郷新潟に在住。弟子の一人に歌人の吉野秀雄がいる。
1956年、冠状動脈硬化症で死去、75歳。戒名は自選した「渾齋秋艸同人」。
なお新潟県の地方紙「新潟日報」の題字は会津が揮毫したもの。他にも歌碑など会津の揮毫になるものが各地にある。
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3連休はのお彼岸は亡くなった家内の墓参りをしてこようかと思います。
家内が亡くなってまもない頃、まだ狭い社宅のマンションにいた頃ですが、土曜日の昼食は一週間頑張った自分へのご褒美ということで、近くの洋食レストランで軽いコース、といっても2000円程度のもの、を食べながら文庫本を読みふけるのが愉しみでした。何事にもまだ身の入らないことを実感しながら、生きるための生活だけは追いかけくる、そんな時期において自分で見つけた休息時間です。人には必ずそういう時間が必要だと思います。
虫瓜図画賛 会津八一筆
本水墨軸装 軸先木製 宮川寅雄鑑定箱
全体サイズ:縦1550*横470 画サイズ:縦680*横330
箱書に「甲寅夏六月」とあり、1974年(昭和49年)の鑑定箱書であり、宮川寅雄が66歳の時に鑑定した作品です。
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会津八一:1881‐1956(明治14‐昭和31)。歌人,書家,美術史家。秋艸道人(しゆうそうどうじん),渾斎(こんさい)の号も用いた。
新潟市に生まれ,早熟の天才ぶりを発揮し,中学時代すでに新聞俳壇の選者になったり,当時北陸旅行中の尾崎紅葉の話相手をつとめたり,まだ評価の定まっていなかった良寛和尚の芸術をいちはやく認めて正岡子規に知らせたりした。
早稲田大学英文科では坪内逍遥の知遇を得,卒業後,早稲田中学の教師を経て,1926年以降,早稲田大学で東洋美術史を講じ,34年《法隆寺法起寺法輪寺建立年代の研究》(1933)で文学博士の学位を受けた。
宮川寅雄:1908年10月10日 ~1984年12月25日。美術史家。 東京出身。早稲田大学中退。会津八一に師事して東洋美術史を研究。戦前から日本共産党員として活動。1967年中国問題で除名された。日中文化交流協会で活動、79年理事長。66年ころから和光大学教授。79年定年退任。
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会津八一の作品は私が前に所属していた会社の研修所に飾ってありました。
また親戚が所蔵していた作品もありました。思文閣で買い取り思文閣の大交換会で掲載されていました。以外に人気があり、高額で取引されています。
この歌はなんと書いてあるのでしょうか?
「みちうよや? 乳母の在所の 水(クラフトさんの指摘により訂正)の音」→「みちかよ(短い夜)や 乳母の在所の 水の音」(家内の指導により訂正)
会津八一の乳母の名は「清(きよ)」・・・・??? 関係あるのかな?
墨を滲ませた描き方はなかなかのものです。
会津八一は妥協を許さぬ人柄から孤高の学者として知られています。
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参考資料
新潟県新潟市古町通五番町に生まれる。中学生の頃より『万葉集』や良寛の歌に親しんだ。1900年新潟尋常中学校(現新潟県立新潟高等学校)卒業後、東京専門学校(早稲田大学の前身校)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講した。この頃すでに「東北日報」の俳句選者となる。
1906年早稲田大学英文科卒業。卒業論文にはキーツをとりあげた。卒業後は、私立有恒学舎(現:新潟県立有恒高等学校)の英語教員となって新潟に戻り、多くの俳句・俳論を残した。1908年に最初の奈良旅行をおこなって奈良の仏教美術へ関心を持ち、またこの旅行が俳句から短歌へと移るきっかけともなった。
1910年に坪内逍遙の招聘により早稲田中学校の英語教員となり上京。1914年、東京小石川区高田豊川町に転居し、「秋艸堂」と名付ける。1918年、早稲田中学校の教頭に就任。1922年には東京郊外の落合村にあった親戚の別荘に転居し、やはり「秋艸堂」と名付けた。1924年、初の歌集『南京新唱』を刊行。
1925年には早稲田高等学院教授となり翌年には早稲田大学文学部講師を兼任して美術史関連の講義をおこない、研究のためにしばしば奈良へ旅行した。1931年には早稲田大学文学部教授となる
。
1933年に仏教美術史研究をまとめた『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(東洋文庫)が刊行され、この論文で1934年に文学博士の学位を受ける。1935年、早稲田大学文学部に芸術学専攻科が設置されると同時に主任教授に就任する。1940年、歌集『鹿鳴集』を刊行。続いて1941年、書画図録『渾齋近墨』、1942年、随筆集『渾齋随筆』、1944年、歌集『山光集』をそれぞれ刊行。
妥協を許さぬ人柄から孤高の学者として知られるが、同僚であった津田左右吉が右翼から攻撃された際は、早大の教授たちが行動を起こさなかったのに対して、丸山眞男らによる署名運動に参加し、津田の無実を訴えるという一面もあった。
1945年、早稲田大学教授を辞任。空襲により罹災し、秋艸堂が全焼したため新潟に帰郷。同年7月、養女きい子が病没。1946年、「夕刊ニヒガタ」創刊され、社長に就任。1948年、早稲田大学名誉教授。1951年、新潟市名誉市民となる。
同年、『會津八一全歌集』を刊行し、読売文学賞を受けた。戦後は故郷新潟に在住。弟子の一人に歌人の吉野秀雄がいる。
1956年、冠状動脈硬化症で死去、75歳。戒名は自選した「渾齋秋艸同人」。
なお新潟県の地方紙「新潟日報」の題字は会津が揮毫したもの。他にも歌碑など会津の揮毫になるものが各地にある。
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3連休はのお彼岸は亡くなった家内の墓参りをしてこようかと思います。
読み方ですが、”みちうよ”とは何でしょうね?虫の音ではなく、水の音では?
コメントされる方々の足が遠のいてさびしかったのですが、クラフトさんは元気そうで安心しました。
また読みの指摘をありがとうございました。家内からの指導もあり意味が解りました。
「みちうよや? 乳母の在所の 水(クラフトさんの指摘により訂正)の音」→「みちかよ(短い夜)や 乳母の在所の 水の音」(家内の指導により訂正)
相変わらず元気です。お茶関係の陶器が載るとうっとりと指をくわえて眺めています。本当に色々とお持ちですね。これからもお宝や珍しい物を披露して下さいね。
「指をくわえて」だと小生の長男と同じです・・・。
私が興味をもったのが40歳を過ぎてからですから、先の長い話です。