-畑沢通信-

 尾花沢市畑沢地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

歴史の新しい資料「郷土調査」が見つかりました。

2017-03-20 19:15:38 | 歴史

 尾花沢市史編纂委員会が昭和51年12月に発行した「市史資料第三輯 郷土調査」という歴史資料を見つけました。尾花沢市民図書館をはじめとして県内の多くの図書館に保存されています。すべての図書館で閲覧のみとなっており、借りることはできません。

 この本の原本は、昭和5年に尾花沢小学校、宮沢小学校及び常盤小学校が「郷土調査と学校経営」として調査したものだそうです。当時、まだ尾花沢市はなく、それぞれ尾花沢町、宮沢村、常盤村と別々の町村でした。そもそも調査が全県的に行われたのか、それとも北村山郡全体で行われたものであるかは分かりませんが、町村を横断的に命ずることができる組織があったのでしょう。学校は今でも市町村教育委員会を超える力が働きやすいのですから、ましてや昔のことですから絶対的に命じられていたのでしょう。調査内容は、歴史、産業、人口等々で、各小学校が個性溢れる記述を行っています。別な言い方をすれば、様式が統一されていません。私には、その統一性のないことが嬉しいです。

 調査は各小学校の代表である校長名で行われたようで、その時の常盤小学校の校長は、大戸広右衛門氏でした。この人は畑沢に在住していました。調査内容は一見、校長が書いたようにも見えますが、実際に書いたのは別の職員と思われます。と言いますのは、書かれた内容が昭和2年に発行された「郷土史の研究」に由来しているように見えるからです。「郷土史の研究」は、徳専寺の住職で小学校の教員をされていた青井法善氏によって書かれました。「郷土調査と学校経営」はその3年後に書かれています。常盤小学校から出されたものには、「郷土史の研究」と全く同じ文章や、郷土史の研究の内容を短くまとめたものが多いようです。青井法善氏が得意とした歴史と神社仏閣等は活き活きと記述されています。どう見ても青井法善氏そのものです。

 さて、「郷土調査」には、「郷土史の研究」にはないものも多数ありますので、それらをこれから何回かに分けて投稿していきます。

 ところで、3月19日に尾花沢の姉夫婦宅へ行く前に、畑沢へ立ち寄りました。朝から快晴で、遠くの山並みがきれいに見えました。畑沢の集落は南北に長伸びています。畑沢の北の方向は見通しが良く、そこに白い山肌の大きな山があります。最上町と新庄市の間に立っている神室連峰で間違いはないと思うのですが、山の名前を特定できません。もしかしたら小股山かな、いや別の山かなと迷い続けて、何十年も決着が付きません。今度、4月23日に細野地区から御堂森に登りますので、その山頂から確認します。どうですか、中々、形の良い山ですね。ただ電線がうるさいですね。

  

 畑沢も雪が大分、消えていました。日当たりのよい道路わきの土手は、地面が見えています。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

やつと解けたかな 巡礼供養塔の謎

2017-03-13 17:07:10 | 歴史

 平成29年2月24日に上畑沢でオサイドがありました。去年まで三年連続して参加させていただいておりましたが、今年は肺炎球菌ワクチン接種後に38.5℃の高熱を出し、それからかなりの日数が経っていたのですが、まだ完全に復調していなかったので、参加を取り止めました。

 3月2日にあらためて上畑沢の古瀬K氏を訪ねてきました。そこで思いがけないお話を聞き、私の稚拙な脳みそでは解けなかった謎が解け始めた気がします。いつでもそうですが、私の場合は短時間のうちに疑問が解けることはりません。かなりの時間を要します。今回もほぼ三年かかりました。


 それは、中畑沢の巡礼供養塔に刻まれていた人物のことです。そんなにいきなり言われても「何こっちゃ」とおっしゃるでしょうから、しばしばお時間を頂戴しておさらいをいたします。


 18世紀後半から19世紀の前期の江戸時代に、上畑沢に古瀬吉右衛門という人がいました。私は3年前に「吉右衛門清水(スズ)の伝説」、「伝説 吉右衛門清水 の考察1~4」でシリーズにして投稿しました。吉右衛門はかなりの財産を築いた人で、天明の大飢饉の時には畑沢の窮民救済事業として私財を投じ、48基の石橋建設の大事業を成し遂げました。さらに晩年にあたるころには大きな石仏「湯殿山・象頭山」を造立しました。

 ところで、新たな神や仏の魂が宿る石仏を造立するには勧請(かんじょう)という宗教儀式が必要です。簡単に「勧請」について説明します。ただし、単なる本を読んだだけの受け売りです。どのような神様も仏様も、無数と言えるほどに全国各地に祀られています。しかし、特定の神様や仏様が唯一無二ならば、無数に存在するというのは矛盾することになります。そこで、神様、仏様は天にいるが、その窓口が各地に散らばっていることにすればいい訳です。しかし、勝手に窓口を名乗るようでは神仏の信頼性がありません。例えば「スビタレの神」なるものがあったとした場合に、これが唯一無二であっても、各地に祀られているスビタレの神の像には、その魂が宿っていることにしました。その魂を分け与える(分霊)儀式を勧請というのです。当然、スビタレの神の本山では、勧請の際にお金を頂戴することになります。そのお金のことは、決して手数料などとは言わずに、勿体ぶったお布施とか祈祷料とか言うのではないかと思います。勧請は、宗教専門職にとって大きな権威付けと収入源になっているはずです。勧請にあたる行為は、偶像崇拝をしているどんな宗教にも必要なことで、そうしないと偶像崇拝していることが理屈に合わなくなります。イスラム教は偶像崇拝を固く禁止していますので、イスラム教だけには、勧請にあたる行為はないでしょう。


 さて、この湯殿山・象頭山に分霊をしてもらうために、象頭山の勧請を受けに巡礼したと見られる一行が造立した巡礼供養塔が中畑沢にあります。造立した年号は、湯殿山・象頭山の造立した年号と同じ文化八年です。巡礼供養塔には、巡礼した者達の名前があり、七兵衛、惣四郎、源助、源次郎そして市□□です。市□□の二つの□は風化して解読できなかった文字です。惣四郎、源助、源次郎は下畑沢に住んでいた人たちであり、七兵衛は明治以降に大戸姓を名乗っていますので、下畑沢の荒屋敷に所縁の濃い家系と思われます。なお、七兵衛は石仏「湯殿山・象頭山」の世話人でもありますので、古瀬吉右衛門から勧請の大役を任された責任者と見られます。

 それでは最後に名を連ねていた市□□は、いったい誰だったのでしょうか。「市」の字が付く屋号の家は、今の上畑沢に2軒があるだけです。しかし、江戸時代には市三郎という人物が下畑沢にいて、現在の屋号「文吉」家の先祖であるそうです。ところが、「文吉」は、石仏「湯殿山・象頭山」の世話人としてこの石仏に刻まれています。市□□を市三郎だとすると、先祖と子孫が同時期に生存していたことになり矛盾します。今の時代なら親子が同時期に活躍していても何ら不思議なことではありませんが、当時の寿命から考えると無理があります。そこで、「市三郎」と「文吉」が同じ家の先祖か子孫だとすると「市□□」は市三郎ではないとするしかありませんでした。そうすると、上畑沢の「市」が付く2軒のうちの1軒を市□□とするしかありませんが、今度は市□□だけが上畑沢であるという謎が生まれ、不自然な感じがします。それと、もう一つの謎は、そもそも巡礼の一行を何故、下畑沢の人を主体にする必要があったかです。


 この二つの謎が一気に解けました。古瀬K氏によると、「市三郎」家と「文吉」家は、元々、別々の家だったのですが、跡取りの都合により二つの家が一つの「家」になったのだそうです。ですから市三郎と文吉が同時期に生きていても何の不思議もなくなり、巡礼供養塔の市□□を市三郎としても矛盾がなくなりました。それに、市三郎は医術らしきものを心得ていたそうですから、長旅をする一行の健康管理をすることができますので、巡礼に加わってもらえれば頼もしい限りだったでしょう。これで、巡礼の一行は下畑沢に関係がある人たちで固まりそうです。
 次に何故、下畑沢の人達だったかです。この謎は「おしぇ様」が教えてくれました。市三郎が巡礼に参加したとすると、一気に謎の解明に近づきました。下畑沢の「おしぇど山」におしぇ様があります。おしぇ様は「お伊勢様」のことでしょう。これは文化三年(西暦1806年の)に造立されています。当然、この年に伊勢参りをして、勧請をしてもらったと思います。

 一方、上畑沢の湯殿山・象頭山は、文化八年(1811年)ですから、おしぇ様の5年後に造立されました。湯殿山は比較的近い場所にあるので、勧請は容易に達成することができます。さて、象頭山(ぞうずさん)とは「金毘羅 舟舟 おいてに帆かけて‥‥ぞずさん金毘羅大権現‥‥」の座敷唄に出て来る「ぞずさん」のことで、象頭山の勧請を受けるには、遥か彼方へ出かけないと達成できません。
 象頭山や大神宮の石仏は、畑沢以外の地区ではよく見かけるのですが、どういう訳か畑沢には上畑沢の湯殿山・象頭山と下畑沢のおしぇ様だけです。つまり、これらを除けば、畑沢から遠くへ巡礼したことがないということかと思います。例えば、尾花沢から伊勢参りをするのには、二か月を要して経費が20両もかかったという古文書もあります。大変な金額になり、普通の人にはできそうにありません。しかし、吉右衛門が象頭山の勧請をしてもらいたいときには、5年前に伊勢参りをした下畑沢の人達がいました。おしぇ様を造立した時です。この伊勢参りに行った時のたちが象頭山へ同行してくれれば、不案内な遠方への巡礼も何とかなりそうです。吉右衛門は、七兵衛の守り役と道案内を伊勢参りの経験のある下畑沢の人達に頼んだものと思われます。だから、中畑沢の巡礼供養塔に出て来る人名は、下畑沢に所縁のある人たちだけだったのです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

どこか春が来るような雰囲気でした。

2017-03-02 19:48:15 | 近況報告

 しばらくぶりに畑沢に行ってきました。ここ3日間は好天気が続き、厳冬期の真っ白い世界から少し薄汚れた景色になっていました。積もった雪が融けだすと、雪の中に入っていたゴミや大陸から運ばれてきた土埃が表面に浮き出てきます。真っ白い世界もきれいなのですが、春の訪れを感じさせる「薄汚れた景色」もいいものです。

 畑沢地区生涯学習推進センターの周りには、雪がどっさりと残っています。しかし、もう軒先に届くような積雪はなくなりました。雪が少なくなったので、今まで全く気付かないでいた物を見つけました。高さが10mほどの塔というか棒というかそんな物です。先端にスピーカーと長方形の物、その下にはアンテナが付いていました。正午に音楽を奏でるスピーカーは、これまで別の場所にありましたが、今度はここに移されたようです。アンテナはテレビ用の共同受信機かもしれません。長方形の物体は、何だか分かりません。

 道路の脇に壁となっていた雪の一角が緩んで、崩れ落ちていました。これから次々と崩れるでしょう。

 崩れるのを待っていることができない場所を、スコップで削り落としました。雪壁の向こうに行くのに高すぎるので、壁を崩してそこから階段を作りました。二つの階段が完成です。もしかしたら、この階段をイノシシも利用するかもしれません。実は、この辺りはイノシシの通り道なんです。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「延沢軍記」のつまみ食い(3)

2017-02-27 16:53:36 | 歴史

 尾花沢市史編纂委員会によって編集され、昭和60年に尾花沢市が発行した「尾花沢市史資料第9輯 延沢軍記」から畑沢関連だけをつまみ食いする第3弾です。今回は、背中炙り峠が出て来る内容です。延沢軍記126ページからです。

 「尾花沢市史資料第9輯 延沢軍記」では、「龍護寺本」「塚田本」「片仮名本」が主体になっていますが、今回、紹介するのは、全く別の「本」です。

 元禄七戌年(西暦1694年)に生まれ、安永二巳年(西暦1773年)に数えで80歳の人が、延沢に由来することを書いたそうで、今度はそれを56年後の文政十二丑年(西暦1829年)に行沢村(現在の尾花沢市大字行沢)の石山五郎兵衛さんが書き写したものと書かれています。

 西暦1773年と言えば、野辺沢家が城を失ってから151年が経っています。1773年に初めて野辺沢家に関する記述するのは、どう考えても無理でしょう。既に存在している延沢軍記的なものを写したものと思われます。それをさらに56年後に書き写したものと思われます。

 この本には誤字が沢山あります。まるで私の文章のようです。最後に書き写した石山五郎兵衛さんは、それに気づいて、

「此書あまりニ写違ひ筆あれか有之候間、誰様成共御直シ下様ニ偏ニ奉願上候

(この書物は余りにも間違いが多いので、どなた様なりとも訂正して下さいますようお願いします。) 以上」

と書き加えてあります。確かに、「背中炙峠」と書くべきところを「背煤峠」と書いて、それに「セナカアブリ」とルビか振られています。「炙」と書くべきを「煤」では、全く字が違います。まあ、昔はパソコンがありませんので、コピペもできません。聞き書きが主流だったのでしょうから「まあいいか」。ところで、行沢の石山家は、その昔、行沢地区を守る野辺沢家の家臣だったと思います。

 さて、それでは肝心の古文書を見てみましょう。

‥‥

 御銀山に者数ケ所之御役所、御番所ニハ従御公儀様、御役人御付被遊、外同心衆と申て五人扶持ニ弐拾五俵之御切米ニ而百人御抱、山中三里四方取廻シ、柵二重ニ結ヘ、其合夜毎ニ弐人宛廻リ衆也、弐拾色ト申者炭・薪・油・鉛・鉄・酒・床・碓仲・五十集・刀脇差シ也、酉年迠相務、四万八千両不残上納仕、五千両余之御未進有増上納仕、少ノ残リハ有と云、斯之通り之大盛、御掘分銀ハ毎月五・六・七・八拾駄、拾貫匁銀箱四ツ附也、御銀山ゟ御傳馬ニ而延沢ヘ参リ、延沢ゟハ背(セナカ)煤(アブリ)ヲ越て楯岡迠、楯岡ゟ江戸迠従公儀御駄賃被下置候

  正保二年酉も過キ、御山茂大色ニ可成、慶安之初メ東山熱田小豆楯掘付、西山の盛りの様ニ可成と皆々喜悦なす処に水ニ切付、色々水貫申候得共續兼、打捨置候処、其後六・七度水貫取懸申候得共、皆續兼、八・九年巳前ニ茂江戸の者取懸り、熱田大四ツ留迠取合せ、小豆楯へ楯入致候得共切違ひ、其後續兼申也、扨もおしき事共也

 扨野辺沢遠江殿持分、背煤峠に栗木弐本有しか壱本ハ野辺沢分、壱本ハ楯岡分成しか、元和八年卯ノ年とし楯岡分打倒レ申ニ付、鷹崎森カ有けるか是ハ堺と成りけり、‥‥

 

 このように沢山の意味不明な文字が並んでいて、頭が痛くなります。それでも、概略だけ説明します。分からないことだらけですが、無理はいたしません。以前に「背中炙峠一件」で無理をしたのが、最近、老化となって現れ、祟(たた)っています。「?」マークで勘弁してください。石山五郎兵衛さんのように、「どなたなりとも訂正して下さい」とお願いします。

 

 (延沢)銀山には、数か所の役所があって、そこに幕府の御役人が配置されています。その外にも同心(手下)という五人扶持25俵の手当の者が雇われていて、山中の三里四方を取り締まっていました。柵は二重に結ばれていて、毎夜、二人ずつが巡回していました。

 

十二色(? 運び込まれた品数かな)とは、炭、薪、油、鉛、鉄、酒、床(?)、碓仲(?)、五十集(「いさざ」と読み、水産物を意味しています。)、刀脇差(わきざし)です。

 

(炭と鉛は金銀の精錬に、薪は採掘に、鉄は採掘道具製作に大量に使われました。酒は工夫が飲んで、工賃を巻き上げられていたとでしょう。これらの物資は近隣からも運ばれましたが、大量に背中炙り峠を越えて運ばれたものと思われます。)

 

(作之凾は、銀山での採掘を寛永18巳年〔西暦1641年〕から)酉年(1645年)まで務め、(落札した額の)48,000両を残らず幕府へ上納し、未納になっていた年貢の5,000両を上積みしました。それでもまだ残りがありました。このように(銀山は)栄えていました。採掘した銀は、毎月、50~80駄で、一駄には10貫入りの銀箱四つです。

 

(銀37.3㎏×4箱×5080駄/月=7,460kg11,936㎏/月となります。真ん中を採っても、毎月、今のお金で、何億円ほどの産出額になります。年貢未納分も含めた幕府へ納めた金額は53,000両にもなります。現在のお金で何十億円から百何十億円ぐらいになります。)

 

 銀山から延沢までは伝馬で、延沢から楯岡までは背中炙り峠を越え、楯岡から江戸までは幕府が定めた運送料によりました。

 

 正保二酉年(西暦1645年)が過ぎて鉱山は大いに栄えて、慶安(西暦1648~1651年)の初めに東山の熱田小豆建楯を掘り始め、西山の盛り時の様になるだろうと皆で喜んでいたのですが、(坑道から)出水してしまいました。いろいろと水を抜こうとしましたが続かず、打ち捨てていましたところを、その後、六、七度水抜きをやってみましたが続きませんでした。(安永二年〔西暦1773年〕から)八、九年前にも江戸の者が取り掛かり、熱田の大四ツ留掘りましたが、小豆楯に入ろうとしましたが掘り間違ってしまい、その後は続かなくなりました。さても惜しいことです。

 さて、延沢遠江殿の持ち分のことです。背中炙り峠には栗の木が二本あり、一本は野辺沢領の分、もう一本は楯岡領の分としていましたが、元和八年(西暦1622年)に楯岡の分の栗の木が倒れてしまったので、鷹崎森を境にしました。‥‥

 

 とまあもっともらしく説明しましたが、本当にこれでよろしいのかは自信がありません。どなたかが訂正して下さるでしょう。我が座右の銘は、「間違いを怖れず、ただ前へ進むべし」です。これを死ぬまで貫けば、間違いも分からずに幸福な一生となるでしょう。でも、間違いを正してもらい、「首を垂れて、教えを請う」のは、もっと幸せだと思っています。私の周りには、教えて下さる方々が大勢います。変なプライドまがいのコンプレックスは、持ち合わせていません。私が誇りにしていることは、「教えてくれる人を見逃さない」ことです。


 さて、背中炙り峠には栗の木が沢山あります。杉の木も植林されていますが、峠の湯殿山の石仏や万年堂(大日堂)の周囲には、栗の大木だらけです。栗の木が多いのは峠と峠道への登り口である坂下だけで、その他の場所ではこれほどに栗の木が多い場所はありません。栗の木と峠道には何らかの関わりがあるのかもしれません。残念ながら5年ほど前から始まった「ナラ枯れ」によって、ナラの木と同じ仲間である栗もやられてしまいました。

 

 下の写真は峠の湯殿山と万年堂周囲の栗の木(矢印)です。どうです。多いでしょう。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

蛇の味ってどんな

2017-02-24 15:55:12 | 自然

 蛇にまつわる思い出は沢山あります。人によって「怖い」ものには大分、違いがあるようです。例えば、女性や町の人々は、蛇を極端に怖がります。しかし、私は全く蛇を怖いと思えません。むしろ、子ども時代から蛇を求めていたようなところがあります。それは私だけでなく、周りの男の子に共通していました。学校からの帰り道で、一目でも見かけられたら蛇の命はなくなりました。木の枝で徹底的に叩かれ、絶命した蛇は木に吊るされて、鶏を飼っている家に叩き売られてしまいました。私たちには、蛇イコールお金でした。だから、蛇を怖がりませんでした。しかし、蛇とは逆に体の小さい蜂となると一変します。蜂が追いかけてきたら、ただひたすら逃げるしかありません。正面から立ち向かうにも、小さいのでなす術(すべ)がないのです。それでも、それなりに蜂に対しては、遠くから石と長い棒でいたずらを仕掛けていました。

 さて、蛇に話を戻します。畑沢に限らず、昔は蛇を食べることが普通に見られました。捕まえた蛇は皮を剥かれて、解体されます。内臓は蕗(フキ)の葉に丸められ、囲炉裏の灰の中で蒸し焼きにされます。肉と骨格はそのまま吊るされて乾燥され、やがて大きな薬研(やげん)で細かい粉にされていました。これを食していたようです。残念ながら、私は食べたことがありません。母親の言うことを素直に聞いていた私が馬鹿でした。

 最近、ある人から面白い蛇の話を聞きました。尾花沢市内のある方ですが、自然を観察する優れた眼を持っていますし、実に面白い経験を豊富に持っています。加えて、表現が上手いので、耳が釘付けになってしまいました。

 ところで、その人の話に入る前に、蛇に御登場願います。シマヘビ(縞蛇)さんです。今から約5年前の5月に畑沢の千鳥川のそばで撮影しました。先ほどの話の流れからすると、この蛇も私の餌食になったとお思いでしょうが、この蛇は殺していません。私もあの頃の子どものままではありません。

 以下はその方のお話です。


 蛇は秋に石垣の隙間や土の穴の中に入り込んで春を待ちます。冬が終わっても、春の初めはまだ気温が上昇しません。たまたま、冬ごもり中の蛇に出くわしました。蛇たちは集団で穴の中でグルグルと何匹もが一塊に蜷局(とぐろ)を巻いていました。

 春の蛇の骨は、夏や秋のそれと比べて柔らかくて食べやすいものです。冬ごもり中は何も食べないので、骨が柔らかくなっているのでしょう。

 蛇には様々な種類がいます。アオダイショウ(青大将)は、青臭いとでもいうような臭いがあるので、とても食べられません。ヤマカガシは喉がいがらっぽくなるような嫌な味でこれも食べられたものではありません。

 食べるならシマヘビです。シマヘビは食べるだけでなく、剥いた皮を下駄の緒に巻き付けて、子どもたちは「どうだ、蛇の皮の緒だぞ」と自慢していました。ある時、蛇の苦手な祖父が、土蔵に入りました。すると、二階へ上がる階段に何やら白い紐のようなものがぶら下がっていましたので、「子どもがタスキをこんなところに置き忘れたな」と思って、紐を掴みました。すると、ぐにゃりと動いて驚きました。紐ではなくて、蛇でした。しかも所謂「白蛇」でしたので、驚きも大きかったようです。白蛇でなくても土蔵のような暗い所に棲み続けると、シマヘビも白っぽくなってしまうようです。また、シマヘビは毒がなかったので、気温が高い時には懐(ふところ)にシマヘビを入れておくと、ヒンヤリとして気持ちが良かったものです。いくらシマヘビと言っても、捕まえたばかりの時は口を開けて噛みつこうとします。そこで、頭を押さえながら長い胴体をぐるぐると手に巻き付けたり、両手で丸めてもんだりすると、シマヘビは大人しくなってしまいます。そうなったら、懐に入れても静かにしています。このことは、子ども時代も大人になってからも、やっていたものです。

 マムシは高額で売れていました。ある専門的に山仕事をしている人たちは、作業をしながらマムシを捕まえ、鼻にマッチ棒を刺して地面に這わせておくのだそうです。マムシは元々、後退することができず、鼻にマッチ棒を通されると前進もできなくなるそうですので、地面に這わせておいても逃げないのだそうです。作業のかたわら何匹も捕まえて、作業が終わって引き上げるときに、地面のマムシを何匹も回収し、それを作業の前進基地にあるドラム缶に貯めておいたそうです。集まったマムシは専門的に扱う業者へ、一匹5千円で売り払われたということです。そのお金は作業員全員のお金として、皆さんの飲み代になったようです。業者に買われたマムシは精力剤として使われたようです。

 以上が聞いたお話でした。私の父も、マムシを薬として用いる話を聞いて、マムシの焼酎漬けなるものを試したことがあります。一升瓶に焼酎を満たし、死んだマムシを入れていました。ところが、一向に飲もうとしません。とうとう、父は一滴も飲まずに亡くなりました。マムシの焼酎漬けは、何十年もそのままでしたから、ブヨブヨとして気持ち悪い姿でした。畑に穴を掘り、瓶を見ないようにしながら捨ててしまいました。我が家にマムシは無理だったようです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加