-畑沢通信-

 尾花沢市畑沢地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

「背中炙り峠の楯」調査結果の中間報告(1)

2016-02-02 17:48:02 | 歴史

 「沼沢の沼を探してみました」シリーズで次の投稿を約束していながら、滞っております。さればとて、改心していざ取り組もうとするのですが、まるで頭も手も動こうとしません。無い知恵は出ないことをあらためて認識させられています。私の場合は、知恵が出るまでに時間がかかるのです。

 そんな知恵のない私の頭でも、時間をかけたたために、それなりに形が表れたものがあります。それは三年目を迎えている背中炙り峠の楯です。そもそもの始まりは、保角里志氏が書いた「南出羽の城」です。その中で「峠を守る城」として背中炙り峠の楯が図面入りで説明されていました。私にとって、背炙り峠は思い出多い所ではありますが、あくまでも単なる「道」でしかありませんでした。ところが、その本にある峠は今から四百年以上も前に遡る歴史を秘め、野辺沢城にも繋がるロマンがありました。早速、村山市内で歴史に熱心な先輩とともに現地を確認したところ、驚きの地形がありました。ただの山の中と思えるような場所に、行く手を遮る崖や大きな溝が大規模に作られており、山頂部は平らに均されています。その片隅には櫓(やぐら)が建てられていた丸い土盛りもありました。ただのスビタレが一気に古城ファンになってしまった瞬間です。何も歴史を聞かされていなかった我がふるさと畑沢に、こんなものがあろうとは知りませんでした。

 眺めているうちに、保角氏の図面には出ていない位置にも、自然の地形とは思えない何かがありました。保角氏が書いた文献は、外にもありました。村山市立図書館で「峠を守ろ城『背炙り峠楯跡』」という山形考古第3号(通巻33号)別刷です。その図書の楯の図の西側に「」という文字がありました。それは、その図面にはまだ調査していない場所があることを意味しています。それではその「未」のところを調べてやろうと決心したわけです。ところが、考古学には興味なし、その他の人文系も苦手のままで長い月日を送ってきただけに、自力での調査は全く目途は立ちませんでした。保角氏にも相談しながら調査できる方を紹介してもらいましたが、その方は体調を崩して途中で諦めざるをなくなりました。結局、スビタレながら私が一人でやることになってしまいました。

 私は還暦を過ぎてから何年か経ちましたが、幸い「馬鹿は風邪ひかない」の例えどおりの体力を持っています。好奇心も持ち合わせています。保角氏の図面を基本として、その周囲を調べました。その結果が下図です。私は作図に一番、必要な測量技術を持っていません。途方にくれながら編み出したのが、Google earthの航空写真を使うことでした。航空写真をExcellにコピーして、色調を操作することによって杉の木を識別できるようになりました。現地を歩きながら、樹種を区別して航空写真に楯の絵を描いていきました。航空写真はかなりの歪みがあります。それでもしょうがありません。私にできる精一杯の方法ですから。慣れるにつれて、見えないものが見えてきました。恐ろしいものです。何とかなりました。

 

 

 この図はあくまでも、きちんと調査された保角氏の図面を基調にしています。上の図の右半分がそれに相当します。それでも保角氏の図面をそのままに写したものではなくて、私なりに航空写真に現地調査で確認したものですので、保角氏の図面とは随所で異なるものがあります。例えば、曲輪の形、虎口(こぐち)の位置、堀切(ほりきり)や切岸(きりぎし)の位置などです。何故、違った内容になったかは分かりませんでしたので、そのままで図面化しました。図面の書き方も分かりませんでした。見よう見真似で書いたので、考古学本来のルールに当てはまらないところだらけだと思いますが、何とか見てください。「切岸」と「帯曲輪(おびくるわ)」が沢山ありましたが、煩瑣になるので説明を入れていません。欠陥だらけの図面でしょうが、大方の形を分かっていただければ幸いです。

 この図にあげたものは主要部だけです。切り立った尾根が伸びている南の尾根には、危険極まりない堀切が三か所あり、西には街道(古道)と絡めた「切通し」、北側には役目が終わってから切り崩されたと見られる興味深い二段構えの堀切があります。個々の詳しい説明は次回以降とさせていただきます。図面化作業はかなり疲れました。次回はしばらくしてからになるでしょう。

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背炙り峠の道にシュウカイドウ

2016-01-31 17:36:32 | 自然

 ブログ投稿が滞っています。いろいろと忙しくて中々、畑沢へ行けません。リフォーム作業は中断しているのですが、NPO法人の業務に忙殺されています。なにしろ、リフォーム作業に夢中になって、ほぼ、一年間もの間、怠けていたのですからしょうがありません。

 そのようなわけですが、峠のことを思い出して写真を眺めていましたら、下の写真が出てきました。シュウカイドウです。ベゴニアの仲間で、葉の形に特徴が表れています。左右が非対称のハート型です。この葉の形が異国情緒を醸し出しています。背中炙り峠古道の村山市側のルートを探っていた時に、山中で見つけた植物です。シュウカイドウの漢字は、秋海棠だそうです。このように漢字にしても何のことだか分かりません。元々、日本にはなかった植物だそうで、山形県内では庭に植えられているようです。私も庭に植えています。

 それでは、どうして山中にあったのでしょうか。ここでスビタレらしき想像です。あるお宅の工事をしていた時に、庭の土が余ってしまいました。町の中ではどこにも捨てられません。そこで、こっそりと背炙り峠の方に土を持ってきて、道路の端から下に向かって投げたものかと思います。シュウカイドウは丈夫な植物ですから、種子はなくてもムカゴがあれば、直ぐに茎をのばして葉も広げます。

 シュウカイドウの周囲には、左右対称でハート型の葉を持っているドクダミが生えていました。

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沼沢の「沼」を探してみました。(4の1 大まかな地形の特徴)

2016-01-18 14:06:25 | 歴史

 約一か月ぶりにこのテーマに戻りました。是迄、第一回目は序論的な内容、第二回目が畑沢に残っている沼沢の伝説、そして第三回目は背中炙り峠の楯に関わることの内容でした。今回は沼沢の大まかな地形について、その特徴を見てみます。地形を説明するには専門家が作った国土地理院発行の地形図を示せば簡単ですが、それらには著作権がありますので、勝手に掲載することはできません。それでは飛行機などから撮影した写真でもあればよいのですが、勿論、スビタレには飛行機をチャーターするほどの財力も気力もありません。ない頭でいろいろ試してみました。例えば、googleマップで航空写真を立体視化する方法があります。ところが、大きい山は立体的になりますが、里山程度の小さい山の起伏は見えなくなってしまいます。次に、常に奇想天外なことばかり考えている言われている私の想像力で何とかできないかと筆を執ってみましたが、まるっきり手が動きませんでした。今度は、地形図に引いた線上の等高線を読み取って、断面を二次元的に表してはどうかとも考えました。でも面倒なので止めました。根気がない私には無理です。

 最後に救いの神が現れました。峠の乳母木地蔵を拝んできた御利益があったようです。国土地理院がインターネットで閲覧に供している地形図をいじっていたら、「3D」なる機能が出てきました。そこをクリックすると、なんと、等高線の図が凸凹になって立体的に表わされました。この立体図を基にして輪郭をなぞったのが下図です。便利な世の中になりました。こんなことができるのですから。種を明かしたので、この図はパクリであることがばれてしまいました。

 さて、この図は沼沢地区を北から俯瞰した形になっています。立石山と峠がある山から挟まれた千鳥川流域が「沼沢」です。ただ線でなぞっただけですから、空以外の色はありませんが、雪景色と思ってください。空にもちらほらと雪が舞っているように見えるはずです。世の中は考え方次第で、愉快な世界です。

 この図でお分かりのように、東側が大平山などの大きな山塊があり、千鳥川が峠の山の方に押しやられた形になっています。そのため、千鳥川と接している峠の山が、川で浸食されて急斜面となっています。その急斜面から垂直方向に峠の尾根方向にも浸食されて、幾筋もの沢ができています。これが、「小三郎」から「三の切り」までの沢です。

 

 この様子は、峠の東側にある大平山から眺めると、もっとはっきりします。「背中炙り峠の楯」がある尾根から東側へ向かって、平三郎、一の切り、二の切り、三の切りの各沢の間にある尾根が並行して伸び、その尾根の突端が途切れて、三角形の斜面を大平山側に見せています。まるで、この山全体が人の手で作られたような特殊な形をしています。実はこの三角形の斜面が「味噌」なのです。このような形になるほどに、常に峠側の山が削られ続けたことを意味しています。千鳥川で削られるのは、あくまでも川と接触している斜面だけで、その上の斜面は直接的には削られていません。ところが長い間に下が大きく削られてしまうと、その上の斜面は支えがなくなって、何らかの刺激で一気に崩れ落ちることになります。

 このような大まかな形が形成されるには、何万年という歳月が必要かなと思います。畑沢に人が住み着く以前からこの形が出来上がっていたでしょう。ましてや、楯が作られた約四百年前は間違いなくこの形があったはずです。

 ここまでの地形の分析で、閲覧されている方々は私が何を言いたいのかを御察しのことかと思いますが、続きは後日とさせていただきます。続きを説明する資料をまだ作っていないからです。

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いつの間にか雪が積もっていました。

2016-01-14 12:21:01 | 近況報告

 年末からしばらくの間、畑沢へ行けない状態でした。息子は11月にマレーシアに赴任してしまったのですが、うれしいことに息子の嫁さんと初孫が、三週間ほど山形へ来てくれていたので、山形を離れることができず、またブログの更新もままなりませんでした。孫の力は絶大です。あんなに小さい体なのに、大の大人三人を振り回していました。お陰でじっくりと孫を実感することができました。子守歌には「古城」をたっぷりと歌いました。昔、三橋美智也が歌った歌です。畑沢の「背中炙り峠の楯」に対して、家内も息子も娘も全く興味を示してくれませんが、今から孫を洗脳しておけば、成長してから興味を持ってくれるかもしれません。まあ、これは冗談ですが、古城をゆっくり歌うと結構、子守歌に適していますので、閲覧者の皆様も試してみてはいかがでしょうか。

 せっかく孫がなついてくれたのですが、来月には外国へ旅立ってしまいます。最低、三年間は滞在しなければならないようです。日本へ帰ってくるころは四歳近くになっていることになります。この三週間は、爺と婆にとってかけがえのない時間でした。

 さて、この様な訳で畑沢への足が遠のいていたのですが、暖冬と侮っていたにもかかわらず尾花沢市内には雪が積もっていたようです。一旦、70儷瓩に積もった雪が15僂阿蕕い泙任望なくなったのですが、このところ再び積もりだして90僂寮兩秕況であることをNHKテレビのデータで知ることができました。もしかしたら畑沢の小屋の雪降ろしが必要かと思い、昨日(1月13日)畑沢へ行きました。

 例年から比べれば極端に少ない雪でしたが、畑沢へ向かう途中の取上(とりあげ)地区で除雪車に出会いました。ところで、「取上」の地名の由来は、野辺沢城に関係しています。知りたい方は「延沢軍記」を御覧になれば分かります。尾花沢市、村山市、天童市、河北町及び西川町の図書館のほか県立図書館にあります。

 

 古殿地区では一軒だけでしたが、雪下ろしをしている家がありました。

 

 古殿を過ぎて九日町へ行く途中には、一旦、人家が途切れます。県道へ北風が吹雪いて前方の視野を塞いでしまいます。そこで、北風を逆に利用して、路面の雪を吹き飛ばす柵が路肩に建てられました。最近の冬の風物詩になりました。私には「万里の長城」のように見えます。スビタレは外国旅行が怖くて、本物の万里の長城を見たことがありません。わざわざ現地へ行かなくても、ここへ行けば「その気分」を味わえます。

 

 古殿、九日町からさらに畑沢へ近づきました。畑沢の一歩手前が荒町です。写真を御覧になると雪が少ないように見えます。道路の中央に消雪用の配管があって、そこから路面に地下水が散水されているからです。このような消雪装置は、荒町だけでなく古殿、九日町の住宅が集合している場所にあります。畑沢では住宅が散在していますので、このような装置はありません。

 

 

 畑沢への入り口は、松母(まつぼ)です。荒町地区の墓地がある所です。40年ほど前は道路も狭く、道路わきの樹木が生い茂って暗いので、墓地だけに怖い怖い場所でした。今では道路が拡幅され樹木も切られましたので、「明るい松母」になりました。写真は坂を上り切った峠のような場所です。左の看板には、「この先冬季閉鎖 背炙り 通行止 山形県」と表示してあります。私たち地元の人は、冬期間に背炙り峠を通れないのを知っていますが、遠くから銀山温泉などに来た人たちは分からないのかもしれません。

 

 さて、肝心の屋根の雪です。普通ならば雪降ろしをする必要のない程度でした。写真を見ますとかなりの積雪量見えますが、屋根に設けられた雪崩止めに雪が集まっただけです。しかも雪はふわふわと柔らかいので軽く、少し気温が上がれば半分以下に沈んでしまいます。それでも、再び山形から畑沢へ来るのも一週間後になるので、物足りないながらも降ろすことにしました。今シーズン第一回目の雪降ろしです。第一回目は気を付けなければいけません。屋根の下にはクッションとなる雪がまだまだ少ない状態です。二階の屋根の高さから落下すると、大けがする危険性があります。慎重に作業をした結果、無事に終了しました。

 

 雪降ろし作業をしていると、尾花沢市が運行しているバスが通っていきました。乗客はいなかったようです。

 

 

 雪降ろしを終えて、上畑沢の様子を見に行きました。除雪車が下ってきました。この除雪車は取上地区で会ったものと異なり、排土板(土ではなく雪なので排雪板というべきでしょうか。)を備えています。

 

 上畑沢で太陽光が照りだしたので、記念写真です。写真の右端に延命地蔵堂(かんばだのずんど様)がかろうじて見えます。写真の構図が悪い例になってしまいました。

 

 畑沢から山形へ帰る途中、村山市内の道路から夕日に照らされた甑岳(こしきだけ)が「大そう立派」に見えましたので、道路わきに停車して撮影しました。甑岳は、その昔、山岳信仰が盛んだった山だそうです。確かに拝みたくなるような山容です。私はまだ一回しか登ったことがありませんが、この姿を見ると、また登りたくなりました。

 今回の畑沢行は雪降ろしが目的でしたが、思わぬ収穫が沢山ありました。いろんな方々とお話しできたことです。九日町から畑沢へ散歩に来ていたSAさん、細野から御夫婦で所用で畑沢へ来ていた親戚のSUさん、いつも畑沢で笑顔で対応してくださるOOさん、ブログへコメントを下さる古殿のITさん、村山市立図書館のKAさんでした。

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沼沢の「沼」を探してみました。(3 楯との関係)

2015-12-30 16:39:10 | 歴史

楯には沼が必要だったはず

 これまで、このタイトルと第一回目第二回目を投稿してから大分、日数が経ってしまいました。

 沼沢に「沼」があったのではないかと思うのは、伝説が残っていることを一つの理由にしましたが、そればかりではありません。「背中炙り峠の楯には沼が必要だ」と思うことがあるからです。

 背中炙り峠の楯は、南の方角から侵攻してくる上杉軍などの敵に対して、野辺沢城の南端の砦として設けられたと見られています。例えば、上杉軍が米沢方面から山形を過ぎて北上してくると、村山市林崎から峠のある東に方向を変えて進軍してきます。上杉軍にとっては、最上家の重臣である野辺沢氏をどうしても討たなければなりません。背中炙り峠の楯は、元々、この攻めてくる方向の地形は急峻で容易に登ることができませんが、さらに何重にも曲輪、切岸、堀切が作られて守りが固められています。ところが、楯を直接に攻撃しないで、一旦、東方向へ遠回りして、ゴロウという石切り場へ回っていくと、容易に野辺沢領へ入り込むことができます。不思議なことには、ゴロウ周辺だけ尾根がなくなっているからです。敵はここまで進軍してくると、その後はなだらかな沢伝いに背中炙り峠の楯や野辺沢城へ進むことができます。

そのルートは、下図の赤い矢印のとおりです。黄色は45度ほどの絶壁です。感覚的には70度か80度に感じるほどで、樹木などを掴まなければ登れません。着色していないところも、急ではありませんが斜面でする

 

 そこで、この方向からの敵の侵攻を塞ぐためには、沼沢が通りにくい場所であることが必要です。沼沢は山の斜面が川へ迫っていますので、川の周辺を塞ぐことができれば、侵攻は容易ならざるものになります。沼沢地内においては、左岸は峠がある山が千鳥川によって絶えず削られている地形です。そのため、小三郎、平三郎、一の切り二の切り、三の切などの小さな沢があるところ以外は、概して急斜面になっています。ところが、右岸はどちらかと言えば緩斜面もあります。しかし、一ケ所だけ狭隘になっている場所があります。それは、立石山の急斜面が千鳥川に接している場所です。ここへ両岸の急斜面が崩れて、又は急斜面を人為的に崩すことができれば、堰止湖(せきとめこ)が誕生します。もしも私が背中炙り峠を守る武将であったとすれば、立石山の斜面や尾根に残っている立石石(たてすいし)を谷へ崩し落とします。石は轟音を上げて千鳥川へ落ちていったはずです。また、向かい側の斜面も樹木を伐採していれば、容易に鋤や鍬で谷へ土砂を落とし込むことができます。「沼」を作ることはできるのです。人為的に沼を築堤しなくても、自然の力で沼が形成された可能性もあります。自然に形成される可能性については、後日、その考察結果を御披露いたします。

 人為的または自然形成のどちらにしても、沼沢に沼があったであろうことによって、「楯は沼沢から入れば脆い」という背中炙り峠の防御の謎は一つ解決できそうです。ところで、この沼があったであろう場所の直ぐ北側の左岸には「平三郎」という場所があります。沼が楯の防御施設の一つであったならば、平三郎は沼周辺を守る侍であったかもしれません。平三郎からは楯へも沼へも駆けつけることができます。

 

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