-畑沢通信-

 尾花沢市畑沢地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

「一の切」などの「背中炙り峠の楯」に由来する地名の訂正

2015-07-03 18:10:41 | 歴史

 これまで何回か「背中炙り峠の楯」に由来する地名について投稿してきましたが、それぞれの地名の位置について訂正が必要になりました。小三郎、平三郎、一の切、二の切、三の切という畑沢に残る地名は、どうやら「背中炙り峠の楯」を守る野辺沢家の家臣や楯の施設である「堀切」を意味することが分かってきました。

 ところが、どうしても腑に落ちない場所が二ヶ所ありました。楯の一番北側の小さな沢には名前がありませんが、沢の突端に建物があったような平場があることと、三の切と言っていた場所の奥には堀切が見つからないことです。以前に投稿した地図の地名は、私にそれらの地名を最初に教えて下さった古瀬T氏に、国土地理院の地形図を見ていただいてお聞きしたものです。どうしても、もう一度確認したくなり、一昨年に大平山(寶沢山)の上から撮った峠の風景をお見せして見てもらいました。そうしたところ、やはり沢の名前が一つずつ南にずれていました。これでようやく現場の実態と地名が一致しました。

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「小三郎」さんがいました。(その四)

2015-07-02 21:12:18 | 歴史

 お久しぶりです。電気工事士筆記試験が終わってから、今度はひたすらリフォーム作業に頑張っています。頑張り過ぎて、様々な障害も生じました。医療機関のお世話にもなりました。それでも原因が分かりませんし、治りもしません。居直って、また作業に精を出しています。今日はアルミサッシの窓を取り付けました。お蔭で疲労困憊です。


 さて、少し前に封人の家の先祖である「有路小三郎」が、背中炙り峠の楯に因んだ地名の「小三郎」であったと思う一つ目二つの目の理由を上げました。三つ目の理由は、時期的なことです。


 「背中炙り峠の楯は、関ヶ原の戦(西暦1600年)の前に、上杉勢に対する備えとして整備されたもの」と歴史学者の保角里志氏は考えています。そうだとすると、関ヶ原の戦いで東軍が勝利し徳川家康が実権を握ると、最上義光の家臣である野辺沢遠江守には、もはや「背中炙り峠の楯」を守る必要性はなくなりました。
 しかし、まだ完全に豊臣勢力が亡くなった訳ではなくて、さらに大阪冬の陣(1614年)・夏の陣(1615年)が起こりました。また丁度この時、最上藩の内部でも戦さがありました。最上家の重臣である清水義親が豊臣に内通していると疑われ、藩主最上家親の命を受けた野辺沢遠江守らによって滅ぼされました。その後も最上家内部の争いが絶えず、その中で野辺沢遠江守も渦中にあり、決して安心できる平和が訪れた訳ではありませんでした。そのような状況の中で、有路小三郎は堺田(現在の最上町の中)に住居を移しました。そして、その後に最上家が改易(西暦1622年)されています。何故、有路小三郎が堺田に移ったのでしょうか。そこで、有路小三郎家の古文書が掲載されている「最上町史歴史資料第11号堺田有路家旧蔵文書」を調べてみましたが、残念ながら有路家が堺田に移り住んだころを記録した古文書はなかったようです。普通の場合これほどの旧家ならば、「我が先祖は〇〇から来た由緒ある〇〇」などといった文章が見られるものですが全く見当たらず、それから暫らく時代を経た名主としての記録だけになっていて、有路小三郎が移り住んだことを故意に隠しているような感じさえ受けました。しかし、有路家が野辺沢家の家臣であったことは、しっかりと伝えられていたようです。


 さて、ここで畑沢の有路但馬守の子孫について考察してみます。畑沢に帰農した有路但馬守の息子(猶昌)は、二歳(数え歳)の時に但馬と死別しました。このことで不思議に思うのですが、但馬が息子に死別したのはかなりの高齢だったはずです。とても二歳の息子がいるような年齢ではなかったはずです。有路但馬守は、西暦1582年に野辺沢満延の下で最上義光と戦った記録に残っています。それから有路但馬守が死亡したと推定される1628年までで46年ありますし、さらに最上義光と戦った時には既に一人前の武将だったはずですから、少なく年齢を見積もっても、その時には20歳から30歳ぐらいにはなっていたでしょう。そうすると、死亡した時の年齢は、66歳から76歳ぐらいの間であったと思います。息子が誕生したのは、有路但馬守が65歳から75歳の間だったことになります。これは現在でもそうですが、子を設けるには当時は考えられない年齢ではないでしょうか。かなりの無理があるような気がします。この経緯には何か特別な事情があるような気がします。有路但馬守の子孫だったと言う畑沢の有路源右衛門家には、古文書が残っていたらしくて楯岡高校社会部が発行した「郷土供廚砲蓮以下の趣旨の記述がありました。

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 猶昌が二歳の時に有路但馬守が他界した。猶昌は外戚である里見家で養育された後、有路治郎右衛門の養子となったが、治郎右衛門に実子が生まれたので、慶安元年(1648年)に畑沢に家を建てて有路家の中興の祖となった。

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 当時のことですから、名のある家名を残すためには嫡男を養子にやるということは考えられないので、猶昌は嫡男ではなかったと考えるべきものと考えられます。とすると、有路但馬守の嫡男は猶昌ではなくて、別に嫡男がいたものと思われます。但馬の嫡男は、堺田に移り住んだ「小三郎」である可能性が高くになります。堺田の有路家には、そのことを書き残した古文書はなかったようですが、野辺沢家の家老だったという口伝が残されています。何らかの理由によって野辺沢領の外に移ったので、書き残すことができない特別な事情があるはずです。移った後に最上家が改易されてしまったので、そのまま堺田に住み続けたかもしれません。

 熊野神社の中に架けられた垂れ幕

有路一族の家紋かな



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背炙り峠の春蘭が消えました。

2015-06-14 18:23:32 | 自然

 前回は6月12日に通った楽しい背炙り峠の近況を報告しました。今回は逆にその時に愕然としたことを報告します。

 今年の開通が5月30日になることは、既に去年のうちからインターネットで知っていました。昨年が7月15日でしたので、それと比べればかなり早くなったと言うべきでしょうが、去年はある程度の工事がありましたのでそれなりに遅くなったのでしょう。しかし、今年はそんなに大きな工事は考えられませんでした。もっと早い時期に開通すべきと考えていました。そして、何よりも不安に思うことがあったのです。道路の掃除に長い時間をかけると、道路脇の春蘭が盗掘されてしまうのではないかという不安でした。いままでも何十年とずっと同じように開通まで待っていた期間があったのですが、今年に限って不安が湧いてきて消えませんでした。

 その不安が的中してしまいました。去年の11月に下図のA地点、B地点で春蘭を確認していました。ところが今回、両地点とも春蘭が消えていました。

 (goo地図に書き入れました。)

 A地点の道路わきの法面がごっそりと削られていました。

 昨年、春蘭の大株があった場所です。昨年11月に撮影した下の写真のように、昨年までは春先に行う道路側溝の掃除の際には、建設会社の方々は春蘭を大事にして残していてくれました。大事にしてくれたおかげで、株は大きく成長していました。そのような大株がいくつも並んでいました。今年も楽しみにしていたのですが、残念です。

 その近くの法面は削られていません。こちらは春蘭がなかった場所です。法面の崩壊を防ぐために、わざわざ緑化をするぐらいですから、法面に生えている植物を不必要に削り取るのは愚行です。この削らない状態が正しい姿です。春蘭がない所は正しい姿になっています。

 

 次にB地点です。ここは峠の切通しになっている場所です。昨年の11月に写した下の写真では、素掘り側溝の所だけを掻き出して、春蘭などは大事に残してありました。

 ところが、今年は春蘭の場所がごっそりと削り取られています。

 このような「盗掘」は、個人的な趣味を越えています。個人的だからと言っても、盗掘は違法行為です。ただ、その規模が小さいところが特徴です。このように大規模な盗掘は、販売目的に行ったものと思われます。恐らく、山形市内などの園芸店で、「野生蘭」などと称して売られていることでしょう。

 

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久しぶりに背炙り峠を越えました。

2015-06-13 17:43:56 | 近況報告

 6月12日(日)の午後に常盤公民館で「野辺沢城の発掘調査説明会」がありましたので、峠を越えて畑沢へ向かいました。去年の11月に通ってから久しぶりの峠越えでした。既に今年は何度も畑沢へ出かけましたが、峠が5月29日まで通行止めでしたので、残念なことは、山が一番美しく見える新緑の時期を逃してしまったことです。

 国道13号線を北上して、林崎で中沢方面へ出て道玄に入りました。今年は道路の脇が黄色く染まっています。黄色はキバナニガナのようですが、いつものように種名は確信がありません。ちょっとそのような気がしただけです。とにかく沢山咲いていました。休耕田全面に拡がっていました。昨年まではこのようなことはなかった気がします。

 

 いよいよ峠へ道になると、入口にゲートがあります。ついこの間まで私をシャットアウトしていたものです。この日はしっかり開いていました。

 峠道を進むと、そこも花が沢山咲いていました。ハルジオンかヒメジョンのどちらかです。見分け方が分かりませんが、二つの名前を言えば、必ずどちらかに該当します。どちらにしても帰化植物だそうです。古道があるこの場所には似つかわしくないのですが、世の移り変わりでしょうがありません。花にピントが合っていませんが、このカメラの限界です。腕の未熟さは直ぐにカメラのせいにします。

 

 「中沢の棚田ビューポイント」の直ぐ下の所です。今年、路肩を工事したようです。しかし、ほぼ5月いっぱいも閉鎖するほどの工事にも見えません。しかも法尻を木杭で抑えていますが、本当に大丈夫でしょうか。木杭はやがて朽ちて脆くなってしまいます。

 畑沢へ入ると、ヤマボウシの花の最盛期でした。この時期には他の花が少ないので、山が白くなっている所には、ヤマボウシが見つかります。

 説明会が終わってから、再び延沢から畑沢を通って峠に登りました。畑沢に向う時に水を掻いて掃除をした湧き水が、満杯になっていました。最近は水の出が悪くなってポツンポツン程度でしたが、嬉しいことに今年は水の出が良くなり、チョロチョロ程度に改善されました。

 


 ところで、「野辺沢城発掘調査説明会」は、お城山最上部を発掘した時のものでした。樹木を切り倒し表土を剥いで調べたそうです。城跡は岩盤だそうです。岩盤を削って曲輪を造成したそうですから、私の御先祖様もさぞやこき使われたのではないかと同情しています。きっと私のように、侍に対して文句たらたら言いながら作業していたのでしょう。その御先祖様の恨みが今の私を作りました。威張っている人間を見ると蹴飛ばしたくなります。「私の先祖は武士だ」と誇らしげにお話される方によくお目にかかりますが、私は不思議に思います。武士は殺戮集団です。自分の手柄を誇示するために、殺した相手の首を切り取って上司に見せます。野蛮なこと限りなしです。しかも、首を自宅に持ち帰って、より大物らしく見えるようにお歯黒などの化粧を施していたというのですから、サイコパスそのものです。いくら戦国時代と言う特殊な状況の中でも、普通の人間にはできません。私の先祖が武士でなくてよかったと思います。

 調査方法は、まるで縄文遺跡の発掘と同じです。その結果、掘立式建物の柱の跡、書院式建物の礎石、和釘、中国渡来の磁気、唐津焼の陶器、火縄銃の飾り金具、火縄銃の弾丸、砥石など出土しました。私が期待した「銀山で産出した金の塊」はありませんでした。畑沢では金の塊が出たのに、残念です。六沢へ抜ける「穴」も見つかりませんでした。

 説明会の出席者は、殆ど延沢城を守る会のメンバーでした。説明会が行われることを知らないために、参加したいのに参加できなかった人が大勢いらしたようです。

 

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野辺沢(延沢)城の発掘調査の説明会

2015-06-11 14:08:36 | 歴史

 今日は畑沢通信から少し脱線したお知らせです。私の師匠が講演して下さるそうですので、私も参加します。

 

 野辺沢(延沢)城の発掘調査の説明会

 

1 日   時

  平成27年6月12日(金) 午後2時から

2 場   所

  尾花沢市延沢「常盤公民館」 電話0237-28-2122

3 説明内容

  これまで発掘調査した野辺沢城について

4 講   師

  私の師匠(氏名は会場で)

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