なだれ込み研究所の一日

物語作家を目指すもの書きが、ふとしたことから変な事務所で働くことに!
日々なだれ込んでくる人や仕事、モノやコト観察記。

建築談議は文学にも哲学にも通じる

2006-05-30 22:07:32 | ビジネスシーン
「形態は機能に従う」
アメリカの建築家、ルイス・サリバンの有名な言葉なのだそうだ。
建築家のT橋さんが事務所に来て、「建築のデザインとは」「奇をてらう建築とそうでない建築の違いは」など、話し合っているときに教えてくれた。

「大事なのは、意志のある設計がどうかということだよ」
とT橋さんが言えば、
「それはテーマとも言えるものだね」
とS藤さんが言い、
「テクニックやシルエットにおぼれてはだめ。結局、形態は機能に従うものだから」
とT橋さんがしめたのだ。

わが家を設計してくれたT橋さんは、ことあるごとにこう言った。
「建築の美しさは機能美。美しさには理由がある」
この高さ、この幅、この広さにするのには、ちゃんとした理由があるというのだ。
「ある意味、美しいものを数字化したものが図面とも言えるね」
おお~、と私はうなった。まるで、『博士の愛した数式』(小川洋子著・新潮社刊)みたいではないか。
「とは言っても、数字よりも測ることの方がまず大事なんだよ。言い換えれば、図面や数字が先にあるのではなく、測ることが先にあるということ」
図面はすべて数字でできているのに、そのパーツパーツである数字よりも、「測る」という人の手による行為そのものの方が先ということか。
「測ることで、ものとものの距離がわかります。ものとものの距離がわかることで、ものの有り様がわかります」
と言ったのは、宮部みゆきの小説『ぼんくら』(講談社刊)に出てきた少年である。

また、T橋さんはこんなことも言った。
「まず、まわりの環境があって建築がある。普遍的な環境(気候であったり風土であったり土地だったり)があってこその建築」
「哲学者の内山節さんがおっしゃっていましたよね。その地域の自然があって、そこから『おのずから』やるべきことがわかると。農の営みだけではなく、建築でもそれが言えるってことですか」
「建築は、その最たるものだよ」
おお~、私は再びうなった。普段へろへろしているT橋さんが、すごい人に見えてきた。
「なるほど。じゃあ、一つ質問なんですけど、さっきT橋さんは『意志のある設計』って言いましたよね。意志のある設計と意志のない設計はどう見分ければいいんですか」
「それは」
S藤さんが横から言った。
「それは、あなたが信じる建築家の言うことを信じることだよ」
「え?」
「自分にその目がなければ、自分の信じる人を信じるしかないでしょ。それはデザインでも同じ。あなたにデザインを見る目がまだなければ、オレたちの信じるデザイナーを信じること。例えば、そのデザイナーが仕上げたものを見たとき納得できなくても、それは自分がそれをいいと思える目がなくて、自分の理解の幅を超えているということ。そう考えれば、自信を持ってお客さんに提示ができるでしょう。信じる人の持つ『引き出しの量と質』を信じることだよ。それは、建築でも同じこと」

T橋さんの言った言葉で、もう一つ印象に残ったこと。
「図面を見たとき、間違いじゃないけど、ムードが悪いっていうのがあるね」
「なるほどー、ムードですか!」
ムード。最近あまり使わない言葉だけれど、改めて聞くとなかなか奥の深い言葉である。うまく言葉にできなくても、そこにある何か、ということだ。それを感じ取れる「何か」も必要だ。

建築談議は文学にも哲学にも通じる。
いやあ、T橋さん、今日は見直しちゃいました。
(施主なので、言いたい放題言っても許してもらえるでしょう……、きっと)


寡黙なカヤッキング

2006-05-28 21:18:37 | スローライフ
カヤッキング初体験。気田川4㎞の川下りを、なんとかおぼれずに無事すませることができた。そう、正直に告白すれば「無事すませることができた」というホッとした心境である。

なぜか朝から緊張感で寡黙になり、顔色が悪いと指摘され、川下りの説明を聞いていたときには真剣に逃げ出そうと思った。でも、誰一人として逃げ出そうとしないし、ここで逃げたら「へなちょこ野郎」に成り下がってしまう、でも命は大事、まだひと花もふた花も咲かせたい……、心の中はけっこう葛藤があったのである。

いざ川へ。
川に入ったとたん、まわりの音が消えた。聞こえるのは波の音だけである。パドルを動かし、ときには流れに身をまかせ、激流(私にとっては激流だった!)に翻弄されながらも、なんとか講師の上野さんのあとに着いていった。
途中、一番先頭になってしまったときには怖かった。
「一番前って気持ちいいじゃん」
S藤さんに言われたが、私は前に誰も見えないのは心細いし不安なのである。それは川でも道でも生き方でも。
そう考えると、日頃「孤独が好き」とかエラソーなことを言っているのは、孤独でないベースがあってのことなのだと痛感する。結局のところ、「やわ」なのである。……といっても、川下りをしているとき、そんな悠長なことを考える余裕はない。まわりの風景を楽しむ余裕もなかった。
それにしても川は不思議だ。思いがけないところで流れを作る。先が読めないから、どこへ行くかわからないから、怖いと思うのかもしれない。

でも、ゴールが見えてくると、もう終わってしまうのが惜しいようなもっと遊んでいたいような気持ちになった。流れに自ら乗り出すことにもチャレンジした。岸近くの止まっているところでは、大きく深呼吸もできた。まあ、結局のところ、楽しかったというわけだ。

川の上では寡黙だった私も、陸に上がり、いざパソコンに前に座れば饒舌になる。
子どもの頃、後先考えず、一日中遊び回ってヘトヘトになった、そんな心地よい疲労感がある。

ミスマッチを考える

2006-05-27 00:09:50 | ビジネスシーン

山田詠美の『A2Z』(講談社刊)を読んでいたら、「ミスマッチ」についての疑問に風穴を開けてくれそうな文章に出会った。

今日子は起き上がり、私を落ち着かせるかのように肩に手を置いた。
「写実主義の私を許してね。彼女はダッフルのポケットに手を入れたの。そしたら、とても自然な様子で、森下も同じようにして二人で手をつないだよ。そして、彼女は言いました。夜食に、木村屋のあんパンを買っていかない? すると、彼は、もじもじしながら、私をうかがい、あんパンも買いに行くけど、ちゃんとワインバーにも寄るから、と言い訳しました。何だろうね、あれ。つじつま合わせたつもりかね」

夫が年若い恋人と一緒のところを、友だちが遭遇し、その様子を伝える場面である。

木村屋のあんパンとワインバー。
アンバランスだけど、叙情的だ。じめじめしたところの一切ない小説なのだが、この「つじつま合わせ」をしようとする場面は、美しく、少し悲しい。
この「美しい」ということが、ミスマッチを考える上で大事なのではないかと思った。

美しく感じるということは、そこに何かを感じたということだ。思想、哲学、価値観、あるいはもっとシンプルなものかもしれない。「ミスマッチ」の背後にそんな何かを感じられる「ミスマッチ」。価値の提示や受け止め方は、人によって当然違っていいのだけれど、ただ単純に「これとこれはミスマッチ」というだけではだめなのだと思うのだ。

……と書きながら、なんだか自分でもよくわからなくなってきた。
宿題はいつの間にか三つに増え、小説の締め切りもすぐだというのに、またもや本を読んでしまった言い訳か……。しかもこの本、読み返すのはすでに五回目。
この『A2Z』の中の好きな言葉。表現者として、いつも心に刻む言葉です。

新しい言葉など、もうどこにもない。けれど、新しい一文は、あらゆる所に身を潜めている。

新しい一文はミスマッチから生まれるかもしれないし、そこにはやっぱり何かがあるのだ。

一日のうち、あまりにいろいろ考えた

2006-05-25 21:53:25 | ビジネスシーン
締め切り原稿があると、なぜか小説を読んでしまいたくなる習性に打ち勝てず、かなりキビシイ状態になってきた。なので、午前中、自宅で原稿書きをさせてもらうことにした。仕事を休ませてもらっての執筆なので、気持ち的には追いつめられ、書かなきゃいけない状態を作り出すことができる。いやあ、ありがたい会社です。

お昼近くに出社すると、S藤さんはカヤッキングの講師 上野裕晃氏ととにも、第2回講座の会場となる気田川の様子を見に行っていた。
2週間ほど前、S木くんと私には、パッケージデザインの宿題が出ていたのだが、その宿題がすんでいないにもかかわらず、S藤さんは「第2弾の宿題!」と言って、ホームページ案作成の宿題を出した。大まじめが二人組が、大まじめに悩み、大まじめに議論するさまを見て、S藤さんはなにやら面白がっているふしがあるようにも思えるのだが、大まじめな二人だけに、今日も大まじめに話し合った。

で、問題になったのは「ミスマッチ」と「奇をてらう」ことの違いである。
ちょうどそんなとき、建築家のT橋さんがあらわれたので、建築における「ミスマッチ」と「奇をてらう」についての意見を聞く。
でも、よくわからなかった。私の場合、実際の建築を見る実体験があまりに少なすぎると実感した。
いろいろな建物を、もののわかる人と一緒に行きたいと切実に思った。
「ほら、この角度からこう見てごらん。こういうことがわかるだろう」という解説付き。でももしかしたら、それはズルなのかもしれないとふと考える。
時間をかけて自分でわかるようになることと、わかる人から聞くことを、どう考えればいいのだろう。
昨日、建築家のO澤さんはこう言った。
「建築を見るとき、写真ばかり撮っていると魂を吸い取られる」
自分の目で見ろ、ということだ。とすると、人からその建築観を聞くことは、自分の目を持たないことにならないだろうか。新たな疑問が次々とわき起こるたび、自分でつくづく面倒くさいヤツだなあと思う。

さて、そんなところへ、上野さんとS藤さんが帰ってきた。真冬でもゴム草履でやって来て私を驚かせた上野さんは、やっぱりゴム草履をはいている。真冬でもゴム草履なのは彼の美学だとS藤さんが言っていたが、初夏にゴム草履を履くのは「美学」なのか「機能」からか。

それにしても、上野さんの話術はすごい。何気なく話を聞いている私を、あるときは怖がらせ、あるときは行きたくさせ、また怖がらせる。何が何だかよくわからないうちに、「まあ、とにかく行ってみよう」という気にさせる。熱意と誠実さと力の抜け具合と不誠実さとサービス精神が、絶妙に混ざり合った絶妙な話しぶり。
その合間に、文学の話やら、生き方についての話にも及び、私の頭は混乱する。
大きな身体とすっと伸びた背筋、そしてゴム草履からは、とてもシンプルなものを感じる。「人を混乱させる話術」に隠された、上野さんの一面なのかなとふと思った。

さて、そんなこんなで、今週末はカヤッキング初体験。
原稿の締め切りは迫り、宿題の山はちっとも減らず、さあ、どうなることやら。

会話

2006-05-23 22:03:33 | ビジネスシーン
社団法人土木学会の初稿が送られてきた。I村代表、S藤理事、事務局K住の3人がインタビューに答え、その3人の顔写真が載っている。画像が荒いというメモがあったため、急遽、写真を撮り直すことになった。
「あのぉ……」
おずおずと、S藤さんに切り出した。
「この際ですので、私の顔写真は『なし』ってことにしてもらえませんか?」
「くだらん理由だったら却下するでねっ」
「うぐっ……」
ぐうの音も出なかった。

「フライフィッシングだけでなく、どんなアウトドアにも対応できるように、ズボンとTシャツとシャツとジャンパーと帽子を買っちゃいました! あとは靴です!」
「K住さん、ジャンパーではなくジャケット、もしくはウインドブレーカーと呼びましょう」
「ううっ。S木くん、あなたも言うねえ」
「そこから生活が変わります」
「そうだ、そうだー!」
「S藤さんまで……」
「それに、靴はシューズ。つっかけなんて言っちゃだめだぞ、サンダルと言いなさいよー!」
「ふ、ふたりして、言わないで下さいっ」

S木くんと二人の静かな事務所。
「うわっ!」
すぐカッカするS藤さんや私と違い、喜怒哀楽の感情の振り幅が少なそうなS木くんが突然声を上げ、立ち上がった。
「猫が入ってきました!」
風を通すため開けてあった裏口から猫が入り、S木くんの声に驚いてまた出て行ったのだ。
「猫って羨ましいですね……」
「なに、突然」
「かわいがってなついても、次の日になると忘れたように出て行ってしまう」
「猫は孤高の生き物だからね」
「孤高ですか」
「死に際だって見せないでしょう。猫は一人で生きて、一人で死んでいくの。誰に寄りかかることもなく」
「猫のようになりたいですね……。って、どうでもいいことなんですけどね」
「そんなことはないよ。猫から学ぶこともある」

真っ昼間っから、上記のような哲学的な問答を本当にしているか否か、はたまた話を作っているのか、書いているうちに自分でもよく分からなくなってきた。
事実から妄想の世界へ。……小説が書きたくなっているのだろうか。
締め切り近し。かなりヤバイです。

フライフィッシングにおける目的と手段の関係

2006-05-21 22:14:00 | スローライフ

「掛川ライフスタイルデザインカレッジ」のフライフィッシング、第2回目の講座である。
そもそも、なぜ私はフライフィッシングを体験したかったのか。今回、講師をつとめる小川博彦氏の言うところの「フライフィッシングの気分」を味わいたかったからである。

なだれ込み研究所にはたくさんのフライフィッシャーが来る。みんなひょいっと訪れて、S藤さんがいないと「それじゃあ、いいよ。近くまで来たんで寄っただけだから」とあっさり帰って行く。どの方も、なぜかさらりとした印象があった。飄々(ひょうひょう)としているといってもいい。不思議な感じの人たちだと思っていた。
そこへ来て、小川さんの言葉である。
「なぜ、フライフィッシングがそんなに楽しいんですか?」
「気分だよ、気分」
その「気分」を、私も感じてみたかった。

はじめてのフライフィッシングは、昨年の「スローライフin掛川2005」での一日体験だった。タイイングと広場でのキャスティング練習のあと、川に入って水生昆虫を観察した。「気分」はさっぱりわからなかった。二度目は前回の体験講座。管理釣り場で魚と向き合い、手応えと面白くなりそうな予感を感じた。でも、「気分」はやっぱりわからなかった。
そして今回。
はじめて、ちゃんと川と向き合った。タイイングやキャスティングの練習もしたけれど、とにかく川に向かってロッドを振った。広場でも、魚が囲われている管理釣り場でもない、自然のままの川に向かってである。

魚を欺すためにフライを巻き、自然の流れに見えるようにキャスティングをしフライを流し、魚と一対一の勝負……と、頭では考えていた。でも実際、川に向かってロッドを振っていると、そんなことはまるで頭から離れてしまった。ただひたすら、魚を釣るためにロッドを振る。何回も、何回も。そのうち、魚を釣ろうとしていることさえ忘れてしまった。
理論的には魚を欺して釣るフライフィッシングなのに、どうしてなのか「ひたむきに」、そして「一心」に、ただ川に向かっているのである。これは、今、書いていて思うことなのだが、魚に、川に、自然に向かっているとき、欺そうとしているはずなのに、心はフェアプレーの精神であったような気がする。「欺す」と「フェアプレー」、正反対のはずなのに、フライフィッシングにおいてはまったく相反していないと私は思う。

人間として、道具と技術と知恵で自然に向き合うけれど、心はまっさらな感じと言えばいいだろうか。無心に、一心に、ただ川に向かう。準備段階で「よーし、釣るぞー」と思い、意気込み、川に向かうのに、いざ川に相対すると、「魚を釣る」という目的を忘れてしまい、ただ手段であるはずのロッドを振ることだけに集中する。
もしかしたら、魚を釣ることは目的でないのかもしれない。川と向き合い、自然と向き合うことが目的なのであって、魚を釣ることが手段なのかもしれない。だから、一匹も魚が釣れなくても心は充実していた。
それがフライフィッシングの気分と関係するのではないだろうかと、今、書きながらふと考えている。

本当は、今日一日のことをもっと体系立てて説明するつもりだったのに、いざ「書く」ことに向かい合ったとき、こんな文章になった。「書く」ことを通じて「フライフィッシング」のことを考えたかったのかもしれない。
今の気分を表現すると、そんな感じである。

ゼミを通じて

2006-05-20 22:47:51 | スローライフ

中央大学のゼミ生が来ている。NPOスローライフのアドバイザーである工藤裕子氏が、毎年5月頃、40人ほどの学生を連れてゼミ合宿に来るのである。私自身、昨年に引き続き二度目の対応だが、学生の若さや様々な考えに触れることで、様々な刺激を受け、様々なことを考える。
今年もその季節がやってきた。

ゼミ生からの要望で、前掛川市長 榛村純一氏の講話を行った。
印象に残った言葉を以下に。

そろそろ学歴決算の学歴社会をやめるべきだ。どこで学んだかを問題にするのではなく、何を学び続けているかを問題にしていかなければならない。それが生涯学習でもある。

行政は、公平の名の下に平等であろうとし、大きな問題に手をつけなくなる。それを打破し、大きな問題や大きな仕事に着手するためには、首長のリーダシップが必要である。そのとき、市民の支持、やる気が大きな支えとなる。

やる気を出そうとしても、その気にならなくてはだめである。「やる気」が「その気」になり、本格的にやると「本気」に変わる。本気になっても挫折もあり、批判もある。そのとき、なにくそと頑張る気持ちが「根気」である。

「一豊公&千代様サミット」は、掛川城天守閣が復元され、形はできたけれど歴史を知らなくては本当の愛情は生まれないと考えて始めた。秀吉から家康につくという一豊の政治判断が、勝ち負けを決め、出世につながったのだとしたら、権力闘争とは何なのか、戦国時代とは何なのか、考えるきっかけになる。

その後の、建築家小澤義一氏の話も面白かった。

掛川のまちを考えるとき、東海道という横軸だけ考えると視野が狭くなる。塩の道といいう縦軸(南北)への道と交差するのが掛川であり、交差し、クロスしているからこそ何か面白いことが始まる。

新しい町並みになったことはすべていいわけでも、すべて悪いわけでもない。新しくなったからこそ、古いものを大事にしようという動きも出てきた。大切なものは何かを考え、その大切なものを残していかなくてはいけない。

有名な建築家の建築を見るとき、その景観を見て、なぜその人が有名になったのか、よく見て下さい。

その後、学生たちはまちにフィールドワークに出かけた。何を感じ、何を思ったのだろう。そして私も、毎年、ゼミを通じて掛川のまちについて考える。

緩急自在に挑む

2006-05-19 22:25:06 | ビジネスシーン
今日一日は、私のとって冒険のような一日だった。
ことの始まりはパタゴニアだった。

パッケージデザインの宿題のため、質の高い雑誌を見ることも大事と、パタゴニアのカタログを見ていたのだが、そのときふとひらめいた。フライフィッシングのときに着ていく服を、パタゴニアで買えばいいのだと。
S藤さんもS木くんも着ているらしいのだが、アウトドアにもパタゴニアにも二人の服装にも大して興味のなかった(←失礼!)私は、自分が着ることなってはじめて、そういうものに目がいった。

で、S藤さんに言ったら「フライフィッシングの服を買うことはとても大事なことだから、今日すぐにでも行ってきな」ということになり、ちょうど静岡に仕事のあったK造さんに連れて行ってもらうことになった。

だからといって、すぐに目的地には行かない。まずはじめに行ったのは、藤枝にある趣のある喫茶店だった。
間口一間半ほど、外観のトタンのさび具合が絶妙な小さな店なのだが、中は別世界のようだった。
何と表現したらいいのだろうか。杉の内装が経年変化で黒く艶やかに光り、存在感のある木のカウンターが置いてあり、足もとには止まり木がある。
そこに座ってまず感じたのは、ここの空気を乱してはいけない、邪魔な存在になってはいけないということだった。そう思って最初は少し緊張していたのだが、そのうち自分もその空気の中にあるものとして、しっくり感じられる自分がいることに気づいた。
そして、ランプにしろ、時計にしろ、すりガラスにしろ、砂糖入れにしろ、一つ一つ置かれているのは「間に合わせでない」ものたちだ。建築家のT橋さんのよく言う「百個のガラクタの中で暮らすより、一個のお気に入りの中で暮らしたい」という言葉の目指すものの一つの形がここにあると感じた。しかも、それがさりげなく、押しつけがましくなく、あるのである。
言葉はいらない。時間が動いているような動いていないような、不思議と落ち着くこの空間に、自分が身を浸しているだけで嬉しくなるような時間を過ごした。
帰り道、「コーヒーの焙煎の匂いが、お餅を焼くときの匂いと似ていますね」と言って、K造さんに怒られた私ではあるが。

そして、清水で買い物。
あれも着て、これも着て、それも着て……、アウトドア系ファッションのあまりの似合わなさに、その都度「ぷっ」と吹き出された。
約2時間の奮闘の末、なんとか笑えない程度に似合うものを見つけた。パタゴニアでなく、ノースフェイスのTシャツとズボンと帽子を買った。

それから静岡に戻り、お客さんに商品を届けるのに同行する。骨董屋さんの商売の現場というものを目撃する。そして一路、掛川へ。

その行き帰りの車での中での話がなかなかだった。
やれた感じ(くたびれた感じ、味わいのある古い感じ)に美しさを感じるのは、日本人の美意識、文化であるという話。
言葉という道具を使うようになって、人間は相手から「感じ取る」という機能を退化させてしまったという話。
時間を共有するということは、その瞬間の空気感や間を楽しむことであり、後から聞けばくだらない、どうでもいいような会話であっても、大笑いする瞬間の時間を共有したという事実が大事なのだという話。
「目は口ほどにものを言う」より、もっと高度な情報伝達、あるいは臨場感、一体感を高めることができることについての話。
などなど……。

K造さんとの会話は、K造さんが剛速球やら変化球やら大暴投やら適当なボールを投げるのを、私があっちへ走りこっちへ走りながら、必死で受け止め、これまた必死で胸元へいい球を返そうとするという感じの連続だった。
「緩急自在のK造さん」VS「いつでも大まじめ全力投球の私」といったところ。
なので、私の方は一日が終わってへろへろだった。
でも、「フライフィッシングの形から入ることも大事」と平日の真っ昼間に買い物に出かけ、様々なことを見聞きしたことで、自分がずいぶん柔軟になった気がした。

今日一日つきあってくれたK造さん、「行けばいいじゃん」と背中を押してくれたS藤さん、留守番をしてくれたS木くん、ありがとうございました。
日曜日のフライフィッシングは、キメてきます!(←ホントはぜんぜん自信なし)

うどんと信頼関係

2006-05-18 20:08:11 | ビジネスシーン
いつもお昼はお弁当なのだが、今日は持ってこなかったので、S藤さんと二人、おむかえの「五代」から出前をとることにした。S藤さんは卵とじうどん、私は一豊うどん(ごまみそ味の釜揚げうどん)である。

うどんを食べながら話したのは、企業における社員メールのモニタリングのことである。

今朝の日経に「社員メール『監視』25%」という記事があった。企業規模が大きくなるほど、インターネットやメールなどの利用状況を監視する率が高くなるという。
「アホらしいけど、どこの企業も多かれ少なかれやってるよ」
S藤さんがうどんをすすりながら言った。
「仕事とプライベートを分けるっていう発想が、そもそもつまらないような気がしますけど」
なかなか途切れないうどんを高く持ち上げながら、私は言った。
「オレなんか、あれもやらないと、これもやらないとっていうド忙しいときに限って、どうでもいいホームページをついつい見ちゃうけどね。……つまりはメリハリが大事ってことがわからんのだよ」
「うちの事務所みたいに、規模の小さいところなら『気を抜く、集中する、遊んじゃう』っていうメリハリの中で仕事ができるけど、大きい会社じゃあ、なかなかそうはいかないんじゃないですか。ボーッとしたくても、サボってるように見られて出来ないし、会社側としても、組織としての士気や平等感から注意せざるを得ない」
「本来の目的を見失ってるってことだよ。本当に大事なことの優先順位を下げて、目先の効率や『うまく回していくこと』『人から悪く思われたくない』って事情を優先させる。難行道を行ってない。それに、そもそも遊び心や好奇心が足りなすぎる」

仕事の中で、遊び心や好奇心を発揮できるということは、もしかしたらものすごく珍しく、且つ、ものすごく幸せなことなのかもしれない。ホームページをダラダラ見ることは、原稿を書く前の儀式だったりするし、意外なページからアイデアや情報を得ることだってある。そういうことを「よし」とするには、基本的な信頼関係が成り立っていることが必要だし、それはある意味、企業規模が大きくなりすぎると難しいのかもしれない。

そんなことを思いながら、温かいうどんをすすった。

ちなみに、御前崎に届け物に行っていたS木くんは、帰ってきてカップラーメンをすすっていた。二人しておいしい出前のうどんを頼んだことは、ないしょである。
(ちなみに、うどん代はそれぞれ自分持ちです)

農について考える

2006-05-16 23:08:49 | ビジネスシーン
なだれ込み研究所には、常勤のスタッフのほか非常勤スタッフ、そして別の会社に出向している用心棒もいる。S藤さんが「マニュアルを越えたところの、経営の本質のわかる人」と評するY村さんである。

めずらしく朝から事務所に出勤していたY村さんは、S藤さんとともにお客様との打ち合わせである。ベラベラ病のS藤さんと、寡黙だけれど、大事なところでピシッと深いことを言ってくれるY村さんのコンビはなかなかだった。S藤さんが話を進め、Y村さんが話を深めていく感じ。
私は、経営のことや経済のことはよくわからないけれど、Y村さんの言うことが、物事の本質を語っていることや、たくさんの知識や知恵や経験に裏付けられた重みのある言葉であることは、感じ取ることができた。

「意識の高い人は、農業に目が向いている」
とY村さんは言った。
遺伝子組み換えの大豆の話をしていたのだが、ちょうど今日の夕刊で、Y村さんが言っていたのと全く同じことをデンソー会長の岡部弘氏が書いていた。日経の「あすへの話題」と題したコラムの中での言葉である。

さらに、「地域で採れた野菜を、スーパーと同じように商品として陳列してはだめ」「生産者から消費者へ、手から手へ生産物が渡されなくてはだめ。朝市(市場)から離れたときからだめになる」「地域の人から人へ、会話と共に直接手渡されてはじめて、100円のものが110円でもいいと消費者は思うのだ」と言った。
これはまさに、先日講演に来て下さった内山節氏の言っていることと同じだった。
「地域社会と結びついたところに農の営みがある」
「関係的価値が『半商品』の世界を成立させる」

ちょうど昨日、S藤さんが森林と家づくりの関係について話していたのだが、問題の根本はまったく同じだと思った。
「産業構造が、自前の素材で、自分たちの技術で家を建てる、という仕組みを手離したときから、循環していた自然との共存の作法が崩壊した」

生産効率を最優先させ、自然の作法を忘れ、関係性を面倒くさいものとして引き受けなくなったことは、今までうまく回っていた循環の仕組みそのものを手離すことでもあった。サスティナブル、持続可能な社会、ロハスな生活、様々な言葉が使われるが、全ての根っこは同じなのではないだろうか。うまく書けないのだが、たぶん、そういうことなのだと思う。

今日の日経夕刊のトップの見出しは「農業再編へ『再生機構』」。
農水省が、経営体力が強い農家を育て、日本の農業の国際競争力を高めることをねらいとして、再生機構をつくるという記事である。
「農業を資本主義的産業の一つにしようとしても無理でしょう」「はじめに自然があり、はじめに農民の営みがある」と投げかけた内山さんは、この記事を読んでなんと言うだろう。そして、Y村さんは……。
今度、会ったときに聞いてみよう。