なだれ込み研究所の一日

物語作家を目指すもの書きが、ふとしたことから変な事務所で働くことに!
日々なだれ込んでくる人や仕事、モノやコト観察記。

「おのずから」と「みずから」

2006-05-12 23:06:42 | スローライフ

昨日行われた内山節氏の講演会「足るを知る心が生活を変える」をどうまとめるか、K住さんのブログが楽しみだね~、と何人もの方から言われているので、気合いを入れて書かねばなりません!

さて、内山さんの話は、明治以後、翻訳体系の影響で日本語の意味合いが変わってしまった言葉があるという話から始まった。例えば、「ネイチャー」を訳すために「自然(しぜん)」を当てたが、本来、日本には「じねん」はあっても「しぜん」はなかった。なぜ「しぜん」がなかったかといえば、そもそも日本人には、自然と人間を分ける発想がなかったからというのである。人間も自然の一部ということ思想である。

では、「じねん」とは何か。字のごとく、「自(おの)ずから、然(しか)り」。自然であろうと人間であろうと、「おのずから、そうあるべき」を指す形容詞だったのである。

ここで面白いのは、「自(おの)ずから」と「自(みずか)ら」の違いである。
今、この二つの言葉は正反対の意味として捉えられているが、もともとは同じ意味合いの、つながりのある言葉だった。
「自(おの)ずからの生き方を見つけたとき、私はこうする、それが自(みずか)らの生き方なのである」
この言葉には目から鱗だった。
「村にいると、自(おの)ずからの生き方がわかりやすい。朝起きて、外に出て、天気を見て、今日はこれをしなければならないなとわかるのです。それが『おのずから』であり、『みずから』やることなのです。だから、『おのずから』に逆らって、『みずから』やろうとしても、それはやっぱりうまくいかない。季節がその時期を迎えていないのに種を蒔いても、実がならないように」
内山さんは、このように語った。

では、現代社会において、村という暮らし、農という営みから離れた私たちは、どうやって「おのずから」を感じ取ればいいのだろうか。
自然から離れ、自然の作法から離れ、「おのずから」を無視して拡大し続けた社会の中で、どうすればいいのだろうか。
内山さんは、このようにおっしゃった。
その地域に暮らす者として、同じ価値観を持つ仲間が集まれば、その中で「おのずから」がしぜんと見えてくる。その中で、それぞれが「みずから」行動する。
地域とともに、その地域の歴史や文化とともに行動していくことこそ、大事なのであると。
そしてそれが「作法」をわきまえた、「足るを知る」生き方につながるのだと。

講演を聞いているときには「なるほど、なるほど」と唸りながら聞いていたのだが、こうしてまとめると、自分がぜんぜんわかっていないことがよくわかる。
買った本を、もう一度、じっくり読んでみよう。

一つだけ、「おのずから、みずから」の生き方を実践しているなあと感じたYちゃりのY崎さんのお話。Y崎さんは、内山さんの話を聞いてすぐ、内山さんの住む上野村に自転車で行こうと決めた。そして、内山さんに話し、すでに「どうぞ」の返事をいただいているという。
「だって、それが、おのずからの、みずからだからさ」
Y崎さんは、とても体育会系の強者には見えない、いつものほわほわとした笑顔で言った。

上野村自転車ツアーは、きっと同じ価値観を持つ仲間たちと連れだって行くことになるのだろう。もしかしたら、塩の道300㎞を走った「ロード・オブ・ザ・ソルト」のように、大がかりな仕立てになるかもしれない。そうして、地域と地域、人と人が、確実に繋がっていく。たしかにY崎さんのやろうとしていることは「おのずから」なのだと思った。

さて、今の私の「おのずから」は何なのだろう。