なだれ込み研究所の一日

物語作家を目指すもの書きが、ふとしたことから変な事務所で働くことに!
日々なだれ込んでくる人や仕事、モノやコト観察記。

あくまでクールに

2006-06-29 23:17:01 | ビジネスシーン
今週末は、2つのセッションと「茶と器学」の2回目が続けざまにあり、そのうえ月末締めの申請書類が2件、さらになだれ込み研究所本来の仕事が山積みで、今、私の机の上はものすごい状態になっている。もしかしたら、S藤さんの机の上をしのぐかもしれない。
何の自慢にもならないが、ちょうど何ヶ月か前の日経の記事に『机の上を片づけられない女』という特集が組まれていたが、まさしくそういう状態である。

さて、セッションの方はまず先陣を切って、7月1日(土)に『浜野安宏と歩く―掛川ストリートワークショプ』が行われる。
日本を代表するライフスタイルプロデューサー浜野安宏さんとともに掛川のまちを歩き、自転車で巡り、面白い、楽しい、美しい生活をするための可能性を探る。
浜野さんと言えば――。
昨年7月、NPO設立1周年記念の講演会で初めてお見えになったとき、
「釣りにつられて掛川に来たんだよ」
とおっしゃっていたように、今回も「講演」と「釣り」はセットである。
そのときは台風のあとの土砂崩れで現地に入れず、今年4月にお見えになったときは大雨だった。そして今回、三度目の正直。

というわけで、明日、S藤さんをはじめとする釣り人たちは釣りに行く。……のだが、私はそのメンバーを今日の今日まで知らなかった。S藤さんが電話で、「誰それと、誰それと、誰それと……」といういうの偶然耳にして、初めて知った。別にあえて知ろうとは思わなかったが、その中にはS木くんの名前も含まれていた。

電話が終わって即座に聞いた。
「S木くんも行くんですね」
棘(とげ)と毒の入り混じった口調。つっかかった、けんかをふっかけたと言った方がニュアンス的には合っているかもしれない。私はさらに続けた。
「ちなみに明日は、I村代表が視察対応で講演されるので、私はいっしょに行くつもりでいましたが、さすがに明日は留守番が必要ですから、私は行けなくなるってことですね」
「あ……」
S藤さんが口ごもる。
「い、い、いえ……。ぼ、ぼくは、荷物持ちですから……」
S木くんがフォローのつもりか会話に入った。
「S木くんが釣りに行くのを羨ましいと思ったわけじゃないの」
「あ……、はい」
「どうして予定が決まったら、すぐ言ってくれないんですか。こんなギリギリになって言わないで下さい。もしかして、私が電話を聞いていなかったら、帰り際にチョチョイのチョイって言うだけだったんじゃあないでしょうねえ」
「あ、いや、そんなつもりは……、ははっ」
それ以降、私は貝のように口を閉ざした。ゲド戦記の、だんまりオジオンのように。

そして帰り際。
「では、お気をつけて」
冷たい口調で挨拶し、出て行こうとすると、
「S木ー!」
と、S藤さんがS木くんを呼びつけた。
「ほれ、明日のことを二人で頼むぞ」
「はい!」
二人して、深々と頭を下げる。
「あとのことは、よろしく、お願い致しまする~~」
「お願いします~~」
S木くんなど、ひざをついて頭を下げる。
まったく、「やれやれ」で「人たらし」な人達である。

しかし、ここで「そんなぁ、頭を上げて下さい~」などと優しい言葉を投げかけてはいけない。エラそうにしなければいけないときは、エラそうにするのだと、いつもS藤さんから言われているではないか。
なので、神妙にされようと、土下座をされようと、あくまで冷たく言い放つ。
「私はやるべきことをやるだけですから。では」
引き戸をあけ、帰路につこうとする私の背中に、S藤さんの声がとぶ。
「次はあなたもきっと行けるでねー」
……だから、釣りに行きたいわけじゃないって。

というわけで、明日、私は置いてけぼりで留守番です。
山積みの仕事を、仕事が増えない状態のうちに(T橋さん曰く「親方のいないうちに」)、ガンガンこなしていきましょう。来週は、机の上が、きっと、たぶん……、スッキリしていると、思います。

たまにはこんな日も

2006-06-27 22:31:54 | ビジネスシーン
S藤さん、K造さん、S木くんとともに、ラーメンの出前を取る。
食後は四方山話になだれ込み、感性の話、遺伝子の話、興行師の話、フラれる話、梅干しの話と、深くて広くて100%信用の置けないような話が続く……。

開け放した引き戸から、気持ちのよい風が入る。
三和土(たたき)に座り込むS藤さん。
のれんが揺れ、日本の夏の風景だ。
「あら、ここは蕎麦屋さんですか?」
とのぞき込む観光客もいた。

だらだらしているようで、充実した時間。
こんな日があるから普段の仕事も頑張れるのかな。

建築が創り出すもの

2006-06-25 21:53:07 | ビジネスシーン

一泊で東京建築ツアーに行ってきた。表参道、上野、六本木、銀座が主な見学場所である。引率は「建築家と住まい手を結ぶ、住まいのレシピ館」フォロムフォー館長のT居さん、そして建築家のO澤さんと施行のプロM浦さんの解説という、なんとも贅沢なツアーである。

はじめにことわっておくが、私はル・コルビジェも前川國男も谷口吉生も知らないド素人である。
「何も知らない状態で、その建築を見たとき自分が何を感じるか、それを大事にしなさい」
出発前に、O澤さんに言われた。なので今回、普段の頭でっかちさを捨て、建築を前にしたとき自分が何を感じるのか、とても楽しみだった。

まず、『国立博物館法隆寺宝物館』。
正門から緑豊かな道を歩き、黒門の横を通り、目の前に宝物館がひらけたときの感じを何と表現したらいいのだろう。物語のプロローグを読んでいるつもりが、いつのまにか物語の主人公になって、自分が物語の中に立っていたというイメージである。一瞬息が止まり、静かな気持ちになった。心が落ち着くというのではなく、建物が創り出す空気感が身体を包み、神聖な気持ちになった。
建物の前にある水辺の清らかさ、建物のラインの美しさは息をのむほどだった。建物の中から見る景色も素晴らしく、これが作為を感じさせない芸術なのだと感じた。
たぶん、今回見た建築の中で、私が一番好きだと感じた建物だ。

表参道では、浜野安宏氏プロデュースの『FROM-1st』、安藤忠雄氏設計の『Collezione』『表参道ヒルズ』、などを見た。
それにしても、表参道というまちはきれいだ。まちのにぎわいとともに当然存在する「雑多さ」や「煩雑さ」の中に、どこか深いところで一定のルールがあるような感じを受けるのだ。
O澤さんからは、広い通りから路地に入ったときの感じ、路地から表通りに出たときのひらけた感じを意識するよう言われた。
建築のことは何もわからない私だが、非凡な建築と平凡な建築は明らかに違って見えた。また、すごいと感じる建築でも、好きな建築と、すごいと思って圧倒はされるけれど、好きではない建築があることも。好きだと感じる建築の前に佇むと、その美しさに心をうばわれる感じがした。

そう思うと、建築は「建物」というモノだけど、「人」という建築が創り出す空気感を感じる「感じ手」が介在した瞬間、モノではなくコトになるのだと思う。
「だから、実際にその場所に行って、その建築を感じなくてはいけないのですね。ものを見るのではなく、その場所に立って、感じなくては」

だからこそ、その人の持っている感性が大事になる。この感性は「自分の持っている遺伝子」「育ってきた環境」である程度決まってしまうものだとO澤さんは言った。
「感性なんてものは、普段の生活ので中ではなかなか使われない。だから、それがあることを意識し、チャンネルのスイッチをONにし、フルに感じようとしなければ、感性なんてものは磨かれない。あなたはそういうものを必要とする仕事をしているのだし、小説を書くなんてことをしたいと思っているのだから余計にそうだ」

『東京文化会館』では、「わり」を通じて、インテグレーション(統合性)とモダニズム建築の説明を受けた。『国立西洋美術館』では、黄金比と白銀比について。『国際文化会館』では、O澤さんお得意の「やられたー」発言が飛び出した。

様々なことを感じ、考えた今回の建築ツアー。
ご一緒いただいた皆さま方、ありがとうございました。



静かなる哲学

2006-06-22 23:39:39 | ビジネスシーン

建築家のT橋さんから、
「とにかくK住さんはこれを一度読むべきだから」
と一冊の本を手渡された。
『建築家 吉村順三のことば100 建築は詩』(彰国社刊)である。

吉村順三については、T橋さんの師匠の師匠にあたる方で、私の家は「吉村順三の建築のシルエット」を感じさせる建築であるらしいが、基本的にT橋さんが敬愛する建築家であるということしか知らなかった。

忙しさにかまけ、3日ほどそのままだったのだが、今日、冒頭の文章を読み、「はじめに」を読んだだけで、文章の美しさに惚れた。美しいだけでなく、底に流れる哲学を確かに感じるのだ。それが、淡々と、慎み深く、それでいて胸に素直にしみてくる語り口で語られていた。

ページをめくりごとに唸った。その建築に関する考え方、人が生活するということ、住まいとは、文化とは、伝統とは、そんな深いものが静かに語られていた。
言葉一つ一つに感動し、唸った。ふと気がつくと、私が唸る部分の上には必ず付箋が貼ってある。思わず笑みがこぼれた。T橋さんも同じところで唸ったのだろう。
そういえば、4月、浜野安宏さんが参加されたシンポジウムのとき、私の隣りに座っていたT橋さんは、私がメモを取るのと同じところでメモを取っていた。心に響く言葉が同じポイントだったのだ。
T橋さんに建築の様々なことを教えてもらい、その思想を植え付けられた、ということもあるだろうが、もともと似たようなところで感動したり、心にとめたりする近い感覚、感性を持っていたのかもしれない。メモ魔であり、本に付箋を貼りまくる、という点でも似ているが。

書籍から、少しだけ引用させていただく。

「家をつくることによって、そこに新しい人生、新しい充実した生活がいとなまれる。つまり計算では出てこないような人間の生活とか、そこに住む人の心理というものを、寸法によってあらわすのが、設計というものであって、設計が、単なる製図ではないというのは、このことである」

「簡素でありながら美しいもの、自分達の住んでいる日本の、長年にわたる風土と文化によって培われてきたさまざまな建築から学び、日本の気持ちから出たものをつくるべきでしょう」

「建築の純粋さとは何か。それは建築材料を正直につかって、構造に必要なものだけで構成するということである。もっとも簡単で、しかも清楚な美しさを創り出すことが純粋さということであると思う」

吉村順三は、多くの文章を残さなかった。自分が語るべきものを表現するものは建築である、と思っていたのかもしれない。吉村順三が紡ぎ出す言葉は静かで、潔く、品がある。
品について、次のような文章があった。
「本当にいいもの、品のあるものは、『必要なものだけ』で構成されていることが多い」

必要なものだけということは、過剰なものは取りのぞくということである。過剰なものを取り払ったとき、残るものはあるか。
それだけを見せるということは、ある意味、とても真摯で潔い。それが、建築だけでなく文章にまで貫かれ、見る者、読む者に感じさせるのではないだろうか。そう考えると、「建築」「文章」と表現する手段は違っても、結局、表現したものに生き方や哲学が表れてしまうものなのかもしれない。過剰なものを取りのぞいただけに、よけい、シンプルに、まっすぐ、心に届く。

まさに建築は詩。
出会えてよかったと心から思える本だった。

お出かけの先に

2006-06-21 23:35:43 | ビジネスシーン
事務所にいることの多い私が、今日は午前も午後も「お出かけ」である。昨日のブログではないが、「たす仕事」の現場に立ち会えるというのは、何とも刺激的である。ではあるが、目の前の仕事がどんどん増えていくという現実もある。

しかし、ここで浜野安宏さんの言うところの「心配の専門家」になってはいけない。苦しいことの先にしか、楽しいことも充実感もない。難行道まっしぐらのなだれ込み研究所である。
ちなみに今日の話の中で、「研究所」と「研究室」の違いについての話が出た。5~6人以上いれば研究所だが、2~3人だと研究室という解釈があるらしい。なだれ込み研究所は……、とりあえず非常勤もいるが「研究所」でクリアーできそう。
ほーっ。タイトルを変えずにすみました~。

ひく仕事とたす仕事

2006-06-20 22:50:24 | ビジネスシーン
仕事がかなりたまってきたので、午前中、自宅で仕事をさせてもらった。……ということは、裏を返せば事務所では仕事ができないということである。仕事をしに行くはずの職場で仕事ができないとは、どういうことなのだろうとふと考えた。

たしかになだれ込み研究所には、毎日たくさんの人がなだれ込んできて、話があまりに面白いものだから、ついつい話し込んでしまい、デスクワークが進まない。
では、仕事とは何だろう。

私が前に勤めていた会社は、社員数1,200人くらいの組織だった。本店や支店があり、様々業務や人が入り乱れて、だから逆に体系的だててあり、自分の仕事はある程度、型にはまっていた。給料をくれるのは「お客さま」とわかっていても、直接仕事を依頼されるわけではないので、大きな組織の中で会社がどんなふうに稼ぎ、給料となっていくのか意識したことはなかった。20日になれば当たり前のように給料が振り込まれると思っていた。

でも、今は違う。
こなしていく仕事ばかりしていては、仕事にならない。仕事をこなし、減らしていくのは当然大事だ。減らそうとして、でももっといいものにするために、減らしている作業の途中で逆に作業量が増える場合もある。何時間かけても、ちっとも思い浮かばないときもある。きのうやった分まで納得できなくて、マイナスになったりもする。商品の質の問題である。
さらに、新しい仕事を作り出さなくてはいけない。事務所で人と会ったり、出かけて行ったり、遊びに行ったり……。ここでも複雑だ。遊びから仕事が生まれることもあり、単純に「営業」というのではないところから仕事が生まれたりもする。
そう言われてみれば、
「営業に行ってきまーす!」
などという言葉を、なだれ込み研究所では聞いたことがない。
……よくわからない会社だ。
わからないけれど、
「今日は天気がいいから、おふとんを干したいな。だから午後から出社します」
「集中して書きものをしたいので、今日は早退します」
「夜からの会議に備えて、3時に帰って、夕飯の準備をしてきます」
というように、様々なパターンがアリの会社だ。

働きやすいのか、苦しいのか、大変なのか、ときどきわからなくなる。何でもアリということは、裏を返せばそれだけ自己管理が必要ということでもあるから。
まあ、ストイックで、苦しむのがきらいではない私にはちょうどいいのかな。そもそももの書きという人種は、自分を追いつめたり、痛めつけたりするのがけっこう好きだったりするから。
いえ、精神的にという意味なので誤解のないよう……。

狂気と気分

2006-06-19 21:50:22 | ビジネスシーン
おととい行われた川野信之氏のトーク。「釣りこそ、わが狂気」「品のいい趣味の範疇を越えている」という言葉にもあったように、私の受け止めたキーワードは「狂気」であった。もう一人のフライフィッシングの講師小川博彦氏は、「フライフィッシングは気分」だと言った。私の感覚からいえば「狂気」はものすごくよくわかるが、「気分」はいまだによくわからない。

何かにのめり込んでしまう「狂気」。それは、小説を書くという世界に足を踏み入れ、書くということがどんなに苦しくてもやめられず、一歩進めば、また新たな高みや課題が見え、もがき苦しみ、また書いて、それでもやめられないのと少し似ている。ではそのとき、自分がどんな気分かと言えば、やはり苦しい以外の何物でもない。

おぼろげに「こんな話を書きたい」と浮かんできたときは楽しい。素晴らしい作品に仕上がるだろうと誤解できる頃。でも実際書き始めると、自分が考えていた世界をつかまえ、言葉にする難しさを感じ、もがき苦しむ。でもなんとかその世界に近づけようと言葉を探し、ようやくつかまえられそうなところまで来た頃には、その世界が自分が考えていたより大したことがないと気づく。それでも書き上げた瞬間は最高の作品だと感じ、読み直すとまたまた落ち込む。その繰り返しである。

それでもやめられないのは「狂気」であると同時に、もしかしたら「気分」なのかもしれない。苦しかろうと何だろうと、離れられないのは何かがかるはずだ。川野氏の言う「狂気」と小川氏の言う「気分」は、もしかしたら、すくい取った言葉が違うだけで、心の中をのぞき込んだら、似たようなところがあるのかもしれない。

さて、その小説。
先日書き上げた原稿に、直しの指示が来た。締め切りは2週間後。これを書くのは「仕事以外もなかなか大変なのよ」という、相変わらずのめめしい自己防衛である。
私の書いたものに対して、
「文章はうまくなったが、はじめの頃の勢いやずっこけた面白さがなくなった」
という批評があった。
これと同じことを、最近、このブログの文章に対しても言われた。
「このヘンな業界に飛び込んだ頃の、驚きやびっくりした感じが薄れている」

さあ、私はどうすればいいのでしょうかねえ。
「狂気」と「気分」に浸りながら、目の前の原稿に苦悩している。
これもまた「気分」だろうか。

川野語録

2006-06-18 23:08:27 | スローライフ

6月17日、掛川ライフスタイルデザインカレッジの第1回セッションが行われた。題して「私の価値観を変えたフライフィッシングとはどんな”遊び”か?」。講師は『フライフィッシング用語辞典』著者であり、カレッジのアクティビティプログラム・フライフィッシングの講師も務める川野信之氏である。

川野氏は、フライフィッシングの特徴や歴史、その面白さについて、約100枚の画像をパワーポイントを使って紹介した。
そのパワーポイントは、なんとこのカレッジのために用意してくれたものだ。国内外の雄大な自然の中の釣りの様子だけでなく、論理立ててフライフィッシングを説明するために、様々な文献をあたり、写真を探し、流れるような一つの世界を作り上げた。

私がすごいと思ったのは、適切な写真や資料がない場合の対処法である。『フライフィッシング用語辞典』の参考文献は原書も含めて439冊だと先日も紹介したが、それでも適当なものがないと判断したとき、川野氏はご自分で絵を描かれた。この冒頭の画像がそうである。
さらに、正しいキャスティングのやり方を説明するため、ご自分がモデルになって実際のキャスティングのやり方を撮影し、解説した。しかも、普通に竿を振るバージョンと、その動作を分解してわかりやすく見せるバージョンの2種類。正直に言えば、「これならわかりやすいでしょう」と川野氏が言った違いが、私にはよくわからなかった。それでも、川野氏の「わかってもらいたい」「うまくなってもらいたい」「フライフィッシングを好きになってもらいたい」という気持ちはまっすぐ心に響いた。

カゲロウの生活史を紹介されたときには、大まじめに説明する川野氏を、私はまるで何かに夢中になる小さな男の子でも見るようなまなざしで見ていた。
以前、原野谷川でO川さんがタモですくってくれた中にいた、小さな虫たち。トビケラだのカワゲラだのカゲロウだの、普段の生活の中で絶対出てこない語彙であり、気にもとめない小さな生き物について、まるで高尚なものを研究するかのかのように、真剣に、大まじめに、学問でもしているように、調べ、知ろうとする姿勢が微笑ましいと感じた。
でも、「たかが小さな生き物」と思っていたもののことを知ることこそ、川を、自然を、世界を知ることに通じるのだと、川野氏の言葉を通じて理解した。
それら水生昆虫のことを知らなくては、魚は釣れない。だからフライフィッシャーたちは、魚を釣るためにまい進するのだ。きれいな川にしか水生昆虫は存在しないと知れば、川の状態が気にかかる。環境のためなどと大上段に構えるのではなく、魚を釣るため、自分が遊ぶため、自然に遊ばせてもらうためというストレートで当たり前の思考が潔い。

講演後、K造さんが「先生はとてもロマンチストだと感じた」と言っていたが、私も同じことを感じた。こんな発言から。
「そういえば、カゲロウの孵化したものをなぜ『ニンフ』と言うんだろうね。なぜ、湖や森にすむ妖精という意のニンフなのだろう」
「本物をそのまま写すのではなく、その中の本質を感じて、それを表現することが印象主義と言われるフライタイイングだ」
「フライフィッシャーは、ライズ(水面にできる波紋)の夢をいちばん多く見る。なぜなら、ライズがあれば、そこに魚がいるから」

川野氏のフライフィッシングに対する想いは、私の心を揺り動かした。人生に対する切り口、入り口、入り方、楽しみ方は違っても、何か共通するものを感じたのだ。
「難しいからこそ面白い。遊びだが、狂気。ほどほどの品のいい趣味の範疇は越えている」
「フライフィッシングは暇つぶしでやるものではない。真剣にやるものだ」
「フライフィッシャーは魚を釣って遊びたい。だから、川には虫がいて、魚がいる、当たり前の川であってほしい。本来の川の状態を保っていて欲しいと願っているのだ」
「川に向かっていると、あるのは自分と魚との関係だけである」

さらに、フライフィッシングを通じての価値観。
「せまい分野でいいから世界のトップになれ」
「夢中になって打ち込めるものが見つかったら、長期戦でじっくりねばり強く打ち込む。凡人は努力するしかない」
「釣りは現実からの逃避か。いや、そうではない。現実と釣りは同等であり、自分の中で棲み分けされているものである」
「川で死んでも悔いはない」

好きな言葉。
「釣りこそ、わが狂気」
「私は川に取り憑かれている」
これらのことを、ごく当たり前のこととして、気負いなく語ってしまうところが何よりすごい。

現在、川野氏は『フライフィッシング用語辞典』を世界のフライフィッシャーに読んでもらうため、英訳中であるという。
私たちはこの講演から、川野氏の生き様から、何を感じたか。


情報としての力

2006-06-16 23:03:57 | ビジネスシーン
最近、建築関係の仕事に関わっている。
そもそも論でいえば、私がこのなだれ込み研究所で働くようになったのも、建築家のT橋さんの設計で家を建て、木の家の取材をさせてもらったのがきっかけだった。そう考えれば、建築の仕事は必然であり、切っても切り離せないものがあるのかもしれない。

そんなわけで、建設会社のホームページや現場見学会のチラシなど、意識して見るようになった。この会社はどんな家を建てるのだろう、どんな意識を持って家づくりをしている会社なのだろうと。

今日もT橋さんが見えて、S藤さん、S木くんとともに建築について話をした。現場見学会のチラシについての話になったとき、S藤さんがこんなことを言った。
「小ぎれいに作ってあっても、すっきりシンプルに作ってあっても、結局、情報としての力があるかどうかが大事なんだよ」
「情報としての力……」
「コピー(文章)も写真もデザインも、目立てばいい、きれいだからいいんじゃない。情報として仕立てられているかどうか、その情報に力があるかどうかが大事なんだ」

情報としての力――。
例えば私だったら文章。
文章を書く場合、その会社の意志、意気、マインドを根底に持たなくては、文章に、あるいは文章を作り出す言葉に、力は持たない。だからその会社を見て、知って、感じることが大事なのであり、現場が大切なのだ。「腹が据わった文章」とでも言おうか、言い換えれば「ウソっぱちでない泥臭い文章」。それをいかにカッコよく、美しく、イキに見せるか。そうすることで、ただきれいなだけではない、力を持った文章が生まれるのだと思う。

現場見学会のチラシは、金曜日、土曜日に入る。きれいに見えても、上っ面なだけの文章、なんとなくカッコよさげに見える文章、でもスルリと抜け落ちていく文章がいかに多いことか。コトバとして力がないのだ。情報としての力がないということなのだ。
そんなことは、ここに関わるまで考えようともしなかった。
小説の書かれた背景、作者の美意識には心が向かっても、チラシの背景、企業の美意識は感じようとしなかった。でも同じなのだ。作者の意志、意気、マインドがあるかということと、会社の意志、意気、マインドがあるかということは、表現物として、手法や見せ方が違うだけで、根底に流れるものは同じなのだ。人の心をつかむものは、結局そこにある。

まだまだ感じられることは少ないけれど、これも場数と経験。
小説を読み続け、いろんなことが感じられるようになったように、きっと商品としてのコピーも、写真も、デザインも、意識して見ていくことで、少しずつでも見る目が養われていくに違いない。
「だからK住さんは、本ばかり読んでないで、雑誌も、広告も、絵も、見なきゃだめだよ」
「は、はい……、わかってます……」
「雑誌って言ったって、文章ばかり書いてある『文藝春秋』とか『小説新潮』とか『小説すばる』とかじゃだめだぜ」
ひょえー。
目の前の道は、なかなか険しい。

好奇心と意地と粋狂が生活を変える

2006-06-15 23:54:14 | スローライフ

あさって(6/17土)、ライフスタイルデザインカレッジの第1回セッションが行われる。アクティビティプログラム「フライフィッシング」の講師、川野信之先生によるトークである。
タイトルが「私の価値観を変えたフライフィッシングとはどんな”遊び”か?」なので、フライフィッシング受講生が対象と思われているようだが、それは大きな間違いである。

そもそも川野先生とは何者か。
私が川野先生の存在を知ったのは、ご本人よりも、その著作『フライフィッシング用語辞典』の方が最初である。
ある日、宅配便で届いた荷物をあけたS藤さんが叫び声をあげた。
「おおっ、ついにできたか!」
ずしりと重いその本を書いたのは、S藤さんの釣り仲間であるという。
「こりゃあ、すごいなぁー。専門用語が3275語だぜ」
全681ページ。S藤さんはその本を夢中でめくっていた。

その頃の私はフライフィッシングが何なのか、ただ「釣り」ということしか知らないし、興味もなかった。ただ、文章を書くものとして、本好きとして、この用語辞典には「ただならぬ気配」を感じた。いつの日か、古今東西のミステリーのトリック辞典なるものをまとめてみたいなあ、などと秘かな野望を持っていたので、「用語辞典」という言葉にもひっかかった。

フライフィッシングのことは全くわからなかったが、ぱらりと内容を見ただけで「こりゃあ、すごい!」と確かに感じた。
用語の解説が、ただその言葉の説明だけでなく、それにまつわるエピソードや言葉の由来、原書について、あるいはフライタイイング(疑似餌を作ること)だとしたらその材料や作り方まで、事細かく書かれているのだ。しかも文章は簡潔でわかりやすい。

参考文献、資料リストを見れば、なんと英語などの原書も含めて439冊も載っている。正確さを追求するため、何冊かの原書をあたったとも書かれている。
「執筆14年」とオビに書かれていたが、はっきり言ってその作業量を想像するだけでたまげてしまう(当然、想像しきれてないから、それ以上である)し、好きでなきゃ、絶対できない。
推薦の言葉には、「よほどの物好きか粋狂でなければできない」とある。まさしくその通りである。著者の言葉の中には「好奇心と意地にかられて」とも。
川野信之さんという方は、一体どんな方なのだろうと、そのとき強烈に思った。

今、その川野先生からフライフィッシングを教わっている。とても不思議で幸せだ。
今回のセッションは、切り口、入り口はフライフィッシングだけれど、技術論というより、そこまでムキになれるものに出会えた川野先生の生き方論にまで話が及ぶことは充分予測できる。好きなものとどう出会い、どう感じ、どう深まり、どう価値観に影響し、どう生活を変えたか。それはまさに、このライフスタイルデザインカレッジのテーマでもある。

推薦文の言葉の中に「よほどの物好きか粋狂でなければできない」と並んでこんな言葉があった。
「勤勉さと持続する意志、いったん手をつけたらわき目もふらずやり遂げる集中力が必要」
まさしく14年の偉業を讃える言葉である。

最後に川野先生のお人柄があらわれている「まえがき」の文章を引用させていただく。北里大学脳神経外科客員教授であり、脳神経外科医(だから英語もスイスイ)である川野先生が、なぜ、なだれ込み研究所と関わりを持っているのかが感じられる、なんちゃって感満載の言葉である。川野信之先生のトークに、ぜひお越し下さい。

“学者きどりの常として、辞典を書くとは洒落(しゃれ)かいナ”


トーク
「私の価値観を変えたフライフィッシングとはどんな”遊び”か?」

■講師/川野信之(かわの のぶゆき)氏
■日時/平成18年6月17日(土)
    受付18:30~19:00 講義19:00~21:00
■会場/街なか再生推進室 会議室
    掛川市連雀1番地の14(駅通り 連雀交差点角)
■定員/50名(カレッジ受講者は無料。一般参加者は3,000円)
 ※事前にNPO連絡事務所までお申し込み下さい。

【おまけ】
画像の右端に見える虫のようなものは、私が作った毛鉤である。ちなみに左上の写真はS藤さんが作ったもの。この本が届いたとき「オレの名前も載っているぞ。どうだ、すごいだろう!」と大自慢していた。参考までに、同じページに12箇所も名前が載っているカメラマンのO川さんは、一度もこのことを自慢していない。
性格の差だろう。