興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

渡辺 鼎 その12 大覚寺雨水桝

2009年10月11日 | 興浜偉人傳

 本日は、今年の1月15日に投稿した「大覚寺工事日記 匠の技 前川俵治 」で大覚寺本堂の前にある雨水桝について少し書いた事に関連する。

 1月の工事では折角先人が穿った雨水桝の孔は詰まっていたが、春になって少し落ち着いた折に再度挑戦したら綺麗に昔のように下まで孔が貫通した。

 落ち葉等で詰まらないようにステンレスの金網で蓋をしておいたので、いたずらさえ無ければ詰まる事はないだろう。

 石工前川俵治さんも天国で喜んでおられるであろう。

 その時に雨水桝の表面をジェットポンプで洗浄して桝の上側に巻いてあった鋼製のアングルも撤去した。 

 北側の雨水桝に渡邊鼎の名前が刻まれている事は知っていたが、よく見ると南側の雨水桝に鼎の息子である巍(たかし)の名前が刻まれていた。

 ひさしぶりに渡邊静子さんのところにお伺いして、鼎・巍の親子で名前が刻まれている事をお伝えしたら、静子さんも知っておられなかったようで、喜んで頂いた。

 おくればせながら、石碑に刻まれている方々の御芳名を掲載する。

 
器用に穿かれた雨水桝
大正4年ならすでに削岩機があったようだ

タイトル写真からここまでが本堂に向かって左側の南の雨水桝
こちらの桝の下段右から3番目に、渡邊鼎の長男である渡邊巍の名前が見える


こちらが本堂に向かって右側である北の雨水桝
上段左から7番目に、渡邊鼎の名前が見える

                                   

 鼎氏の名前ははっきりわかるが、巍氏の名前は風化が進んでおりわかりにくい。

 嘉永元年12月12日 渡邊鼎誕生
 明治 2年10月 5日 鼎、かんと結婚
 明治16年 8月14日 鼎長男の巍(たかし)誕生

 大正4年4月の時点で、鼎67歳、巍32歳

 鼎氏はこの当時、大覚寺顧問として大覚寺の古文書を整理したり多忙の毎日で、息子である巍氏がよく大覚寺や檀家の方の家に使いとして走って手伝っていたと、静子さんは聞いている。 

 追記:雨水桝に刻まれている梵字は種字と言って、一字で仏・菩薩・天などを表していて、右側の文字が胎蔵界大日如来を表す「ア」であることはわかっていた。

 タイトル写真である左側の雨水桝の文字は梵字では、「ウン」と読むように思うが、自信が無い。

 右が「ア」で左が「ウン」なら阿吽ではないか。

 古代インドで使われたサンスクリット語の最初の発音である「ア」と最後の発音である「フーン」を合わせたところから発生し、「ア」と口を開け「フーン(ウン)」で閉じる。仏教では物事の始まりと終わりを表す。

 寺院山門に阿吽一対である金剛力士仁王像と意味が同じという事だろうか。

 知っておられる方があればご一報をお待ちします。


渡邊 鼎  その11 大覚寺放生池

2009年07月23日 | 興浜偉人傳

  大覚寺の境内は網干の中にあるお寺では、龍門寺に次いで広い。

その広い境内の南側にある観音堂と鐘楼堂の間に放生池がある。

たくさんの玉垣で囲まれた池を東側から太鼓橋を渡り観音堂にお参りする時にひときわ大きな玉垣が二本建っている。

 一本は渡邊鼎、もう一本は肥塚龍(こえづかりょう)の名前が刻まれている。

 肥塚龍について少しふれてみようと思う。

 ここ大覚寺の檀家はほとんどが興浜であるが、御津町中島(みつちょうなかしま)と揖保町真砂(いぼちょうまなご)にも檀家がある。

この春大覚寺から正式に名前が無くなった、大覚寺の塔頭(たっちゅう)であった西明寺と法華寺は、もともと法華寺を中島門徒が西明寺を真砂門徒が守られていたと方丈さんから聞いた事がある。

肥塚龍はこの中島で鼎と同じく、嘉永元年に生れている。

13歳の時に大覚寺の小坊主となり、新在家にある誠塾に学び、さらに大覚寺の本山である永観堂でも修行と勉学をされたようだ。

明治27年(1894)帝国議会議員(現在の代議士)に当選してから、明治31年に東京府知事になり、大正4年(1915)には8回目の代議士当選を果たしている。

この放生池が出来たのが大正2年。鼎と龍はともに65歳。龍は8回目の代議士当選の2年前となる事から考えると、代議士で活躍中での玉垣奉納であったとようだ。

渡邊鼎と肥塚龍の共通点はと言われれば、正義感あふれる男だろうか。
大覚寺を通じてこの二人は仲がよかったに違いない。

※肥塚龍さんについては、『間森誉司さんの自作地域教材ふるさとの自由民権運動家肥塚龍』から拝借しました。

  
 鼎と仲の良かった小野周文の玉垣も鼎の玉垣の少し北側にある。

    
放生池南側の石碑を解読すると大正2年にこの池が造られた事がわかる。
正空真道住職は新舞子の船の上で鼎と一緒に写真を撮っていた方。


渡邊 鼎  その10  大覚寺由来の石碑

2009年06月29日 | 興浜偉人傳

 前回から少し間が空きましたが、渡邊鼎さんの偉人傳を再開します。

 これからは鼎さんの晩年の大覚寺での功績を書く事になります。大覚寺の荒神さんのお祭が3日間とも晴れたという事で今日からの再開としました。 

 境内東側にある総門のすぐ北側に大きな石碑があります。

 この石碑には、大覚寺の由来と、鼎さんの功績が書かれています。

 石碑の文字を書き写すのに精一杯の状態でしたので、今回は詳しい解説文はありませんが、すばらしい石碑だと思っています。

 

 

石碑の中に「檀家有渡邊鼎氏」とある。


渡辺 鼎  その9 孝橋真道住職

2009年03月29日 | 興浜偉人傳

 一昨日の朝、興浜墓地の前を通った時の事である。
 興浜墓地には明治30年に95坪の土地を寄附した村上瀧造氏の石碑と、昭和初期に火葬場を改築する為に大覚寺が500円を寄附した石碑が六地蔵さんの横に建っている。
 いつかは記事にする為に何度か写真を撮っていたが風化が激しく全ての文字を解読できていなかった。
 石碑は天候や見る角度、雨に濡れた状態等で読めなかった文字がふと読める時がある。
 その日の朝陽を浴びた石碑を見た時、ふと車を止めて驚いた。
「一金五百円 大覚寺住職 孝橋真道」とある。

 大覚寺において去年の春に檀信徒会館の基礎工事、今年の正月からは石畳や境内の整備工事をさせて頂き、それとタイミングよく大覚寺に功績があった渡邊鼎氏の事をこのブログで記事を書いている最中だけにこの偶然の出来事には驚いた。

 さて、孝橋真道住職についてであるが、2月24日に投稿した、渡邊鼎その7新舞子での写真において唯一興浜在住者では無いのではと書いた方である。

 この場を借りてお詫び申し上げます。

 孝橋真道住職
 『鶴立山大覚寺-本堂・観音堂・荒神社修理工事報告書-』によると
 明治43年(1910)大覚寺38世正空真道上人入院、昭和13年(1938)12月9日寂とある。
 まさしく正空真道上人は孝橋真道住職である。

 この写真は大正14年に撮影されたものである。


左が渡邊鼎氏、右が孝橋真道住職


興浜墓地六地蔵の横に建つ石碑


渡邊 鼎  その8 鼎と周文

2009年03月04日 | 興浜偉人傳

 ひとつ年下の小野周文とは仲がよく、よく家にも来ていたようで俳句仲間であった。ふたりの俳句が書かれた短冊も沢山あり、鼎は【大拙(だいせつ)】という号を名乗っていたようだ。


周文さんの短冊

       
 家に居る時は、渡邊家の古文書や顧問をしていた大覚寺の古文書を整理し、執筆に明け暮れていたとの事である。

 当時使っていた、文机(床に座って使う低い木製の机、座って使うので座机とも言う)と硯箱と懐中時計が今でも大切に保管されている。

つづく


渡邊 鼎  その7 新舞子での写真

2009年02月24日 | 興浜偉人傳

 渡邊鼎は明治39年に逓信省を退職後、明治42年に興浜に帰って来た。
大覚寺の顧問をされて、大覚寺の古文書の整理等もされたようだ。

 大正14年に新舞子に行った時の写真がある。
大正14年という事は鼎さんが78歳の時である。

鼎さんが書かれた写真封筒に貼り付けてある紙の名前を見ると、大覚寺の放生池の玉垣に名前がある方がほとんどのようで、孝橋さん以外は興浜の方のように思われる。
 後列右側の方の名前が今栄林蔵となっているが、今栄林道の書き間違いであろう。

 さて鼎さんが名前を間違った今栄林道は、「大覚寺発祥の地」という昭和52年建立の石碑の裏に書かれた当時の大覚寺の檀徒惣代の中で今若屋(こんじゃくや)という屋号の今栄三男の父であり、現在姫路市の市議会副議長の今栄進一氏は今栄三男の長男で当主である。

 「網干公民館 歴史ウォーク通信 (番外編その2) 今若屋」を掲載してからこの記事をからめていく予定だったが、聴き取り不足の為、今若屋さんの事は後日にさせて頂く。

     


渡邊 鼎  その6 明治40年1月24日

2009年01月28日 | 興浜偉人傳

鉄道作業局雇 渡邊 鼎
依願雇ヲ免ス
明治40年1月24日
逓信省

現在のJR。少し前までの国鉄を退職された時のようだ。
59歳で退職されたという事だ。ご苦労様でした。

今回も前回から退職までの事を渡邊鼎直筆の履歴書より年代ごとに追ってみる(青字は履歴書から)

明治29年6月22日 三級書記 山陽鐵道株式會社々長松本重太郎
三級書記になる

明治31年7月1日 臨時建築部在勤 山陽鐵道株式會社専務取締役牛場卓蔵
同日 用地掛長兼務

建築部と用地係長を兼任

明治31年12月23日 二級書記 山陽鐵道會社専務取締役牛場卓蔵
二級書記になる

明治37年12月26日 一級書記 山陽鐵道會社専務取締役牛場卓蔵
一級書記になる

明治39年12月1日鐵道国有法二依リ政府へ山陽鐵道買収ノ結果山陽鐵道株式會社解散
同年12月1日 鐵道作業局雇ヲ命ス 逓信省

山陽鉄道株式会社が解散になり国鉄になった時である。
鉄道関係は郵便と同じの逓信省管轄になった。

明治40年1月24日 依願雇ヲ免ス 逓信省

明治39年4月1日 明治37,8年事件ノ功二依リ金□□ヲ賜フ 賞勲局
この文章をもって、履歴書は終わっている。

つづく

 


渡邊 鼎  その5 山陽鐵道會社用地掛員

2009年01月10日 | 興浜偉人傳

山陽鐵道會社用地掛員の写真
鼎さんは前から2列目の中央
明治39年12月1日鐵道国有法二依リ政府へ山陽鐵道買収ノ結果山陽鐵道株式會社解散の時の写真
前列の方々がムシロの上にあぐらをかいているのがおもしろい。

鼎さんの写真には下のような説明書きが付いているものが多い。
もちろん鼎さん直筆のものだ。
非常に読みづらいが、後にこのように公開される日を予測していたのかと興ちゃんには思えてならない。
 


山陽鉄道株式会社解散ノ□ 建築課長上山準之助君並雑務用地両掛員 □□

 

今回も渡邊鼎直筆の履歴書より年代ごとに追ってみる(青字は履歴書から)

明治22年2月1日 七級書記 山陽鉄道会社々長中上彦次郎
同日 建築課勤務(雑務掛事務擔任)

山陽鉄道会社建築課に勤務でさらに雑務係りの事務を担任されたようだ。

明治25年10月27日 三原出張所在勤
静子さんの聞き伝えによると、山陽本線の敷設の用地買収に係わっていたようだ。近畿地方はもちろんのの事、西は広島県まで担当していた。鼎さんはこれからは鉄道の時代だと思い網干沿岸に是非とも鉄道を敷きたかったようだ。哀しいかな地域住民から反対があった。山陽本線は現在のように海岸線ではなく少し北を通る事になった。

つづく


渡邊 鼎  その4 任大阪府南区長

2008年12月30日 | 興浜偉人傳

従七位 渡邊 鼎
任大阪府南区長
大阪府大書記官従六位遠藤達奉  
明治18年5月1日

渡邊鼎直筆の履歴書には(青字は履歴書から)
明治18年5月1日 任大阪府長
 と記されている

 この頃、鼎さんは大阪において明治大洪水を経験されている。

 明治大洪水を調べてみると、明治18年6月上旬より続いた降雨に加え、6月15日には北朝鮮北部に現れた低気圧が、相次いで大阪付近を襲った。2度にわたる低気圧で降り続いた雨は15日夜半から豪雨となり、17日夜半までに淀川で183.3mmに達する雨量となった。さらに雨は6月25日頃から再び降り始め、29日から本格的となり、7月1日には暴風も加わって、淀川の水位上昇に追い打ちをかけるかたちとなった。その激しさはあたかも大阪の古代を再現するような状況であったという事だ。

 鼎さんはこの大阪での経験を教訓として、明治42年に興浜に帰って来た時、現在住まわれている場所を地上げしたあと1年後の明治43年に現在の家を普請した。

 現当主である静子さんが伝え聞かれた事のようで、その話を聞いた時に大正6年に行われた興浜金刀比羅神社の地上げの仕掛け人であると確信した。

 その話は金刀比羅神社その7をご覧下さい。

  
  渡邊家は興浜本町通りで一段高くなっている。             
                                               つづく
 


渡邊 鼎  その3 叙従七位

2008年12月21日 | 興浜偉人傳

渡邊 鼎(わたなべ かなえ)
叙従七位(じょじゅしちい)
左大臣ニ品大勲位熾仁親王宣
内閣大書記官従五位勲五等金井之恭奉

明治17年10月9日

従七位(じゅしちい)という位階(いかい)を叙(じょ)された事。従七位に叙位されたという事だ。

『広辞苑』で位階を調べると
 勲功・功績ある者または在官者・在職者に与えられる栄典の一種。603年、推古天皇の時、隋制を模して制定。明治憲法下では、一位(いちい)から八位(はちい)までおのおの正(しょう)・従(じゅ)があって16階あり、新憲法後も位階令はなお存続する。

 明治20年に制定された「叙位条例」によると、従四位以上は勅授(宮内大臣から伝達)、正五位以下は奏授(宮内大臣が天皇に奏して叙位)とされた。また位は従四位以上は華族に準じた礼遇を享けた。従一位は公爵、正二位は侯爵、正従三位は伯爵、正従四位は男爵に準じた。

位の「正」は「せい」でなく「しょう」、従位の「従」は「じゅう」でなく「じゅ」と読む。また、三位は「さんい」でなく「さんみ」、四位は「よんい」でなく「しい」、七位は「なない」でなく「しちい」と読む。

金井之恭 (天保4~明治40)金洞と号し内閣大書記官、貴族院議員を務めた。
     明治期は書の大家として著名な人で多くの碑文を揮毫している。

渡邊鼎直筆の履歴書より年代ごとに追ってみます  (青字は履歴書から)

明治14年4月1日 任四等属 大阪府
四等属に昇進

明治15年2月10日 任三等属 大阪府
三等属に昇進

明治15年12月26日 任二等属 大阪府
二等属に昇進

明治16年11月29日 任一等属 大阪府
一等属に昇進

明治17年6月18日 任大阪府収税長 太政官
任大阪府収税長に任命された

明治17年10月9日 叙従七位 太政官
兵庫県姫路市網干区興浜の金刀比羅神社にある玉垣の従七位はこの時授かった

 

             

つづく

 

渡邊 鼎  その2 士族二編籍申付候事

2008年12月16日 | 興浜偉人傳

渡邊 鼎(わたなべ かなえ)
士族二編籍申付候事(しぞくにへんせきもうしつけそうろうこと)
明治6年3月  飾磨県
渡邊家が元丸亀藩の士分の家柄であった事がわかる。
『広辞苑』で士族を調べると、明治初年、維新前の武士の家系に属する者に与えた族称。華族の下、平民の上に位する。法律上の特典は全く無かった。現在は廃止。とある。

これから渡邊鼎直筆の履歴書より年代ごとに追ってみる事とする。 
(青字は履歴書から)

兵庫縣士族 播磨国揖東郡興濱村 渡邊鼎
渡邊鼎 嘉永元年(1848)12月12日生まれ
渡邊恒治であったが、明治5年に鼎と改名とある
明治2年10月5日 結婚 

明治6年3月5日 等外三等出仕申付候事 飾磨縣
同日 租税課雑税掛申付候事
飾磨県に勤め始めて、租税課雑税掛に配属

明治10年2月3日 任七等属 兵庫縣
同日 租税課雑税掛申付候事
飾磨県が兵庫県に変わり七等属の階級を賜わり租税課雑税掛に配属

明治12年1月21日 任六等属 兵庫縣
六等属に昇進

明治12年8月6日 任六等属 大阪府
六等属のまま大阪府に勤務

明治12年9月27日 雑税課長心得申付候事 大阪府
大阪府の雑税課長に昇進

明治13年11月2日 任五等属 大阪府
五等属に昇進 

鼎さんは几帳面だったようで、写真や文書を自家製の封筒に入れて細かく説明書きを添えている。写真や文書と同じ大きさの封筒の為、出し入れしにくいのが難点である。
下の写真は説明文が無い写真の為どの時代か不明であるが、兵庫県か大阪府に勤務していた頃の写真であろう。

  
  前列左から2番目が鼎さん


飾磨県について調べてみた。
廃藩置県が行なわれたのは、明治4年7月14日。
その時日本は3府302県。

その時、姫路藩は姫路県に、興浜は丸亀藩だったので丸亀県に、新在家は龍野藩だったので龍野県にあいなった。

明治4年11月2日に姫路県,明石県,龍野県,林田県,赤穂県,山崎県,安志県,三日月県,三草県,小野県が合併して姫路県となりわずか7日後の11月9日に飾磨県とあいなった。


『飾磨県布達』には、姫路県飾磨県と被改候事 辛未11月 太政官 とある。(明治4年11月に姫路県から飾磨県が成立したという事だ。)

その後、明治9年8月21日に飾磨県全域は兵庫県に統合された。

興浜は丸亀藩であったので『丸亀市史』で丸亀藩について調べると
明治4年4月10日 丸亀藩が廃され、丸亀県が置かれる。
明治4年4月12日 京極朗徹が丸亀県知事に任じられる。
明治4年8月    丸亀藩領地の管轄替えが次のように認められる。
          播磨国揖西郡は兵庫県に管轄替えす。

兵庫県に管轄替えするとあるのは、明治4年8月の時点では姫路県に管轄替えするの間違いではないだろうかと、興ちゃんは考える。

つづく


渡邊 鼎  その1

2008年12月11日 | 興浜偉人傳

 渡邊鼎(わたなべ かなえ)は今から160年前の嘉永元年(1848)1212日に播磨国揖東郡興浜村に生まれ、明治6年から10年までを飾磨県、明治12年までを兵庫県、明治22年までを大阪府、明治39年までを山陽鉄道会社、明治40年までを逓信省に勤務し、そのあと郷里であるここ興浜に帰って来られ、昭和6年に亡くなるまでは大覚寺総代・顧問として大覚寺の世話人として活躍された。

 興浜にある金刀比羅神社に『従七位渡邊鼎』とあるひときわ大きな玉垣の人物と言えば地元の方ならおわかりであろう。

 現在、渡邊家は鼎さんから数えて3代目にあたる聰さんが亡くなり、聰さんの妻静子さんが現在の当主である。4代目にあたる晃さんは現在JR西日本において社長主席補佐として活躍されている。

 渡邊家には約870の古文書と鼎さんの遺品が大切に保存されている。
静子さんは太子町立岡から昭和18年に嫁入りして来られた。
嫁入りして来た時はすでに鼎さんは亡くなっていたが、鼎さんの事は主人の聰さんと父巍さんから詳しく聞いておられたようで、静子さんからの聴き取りと鼎さんが書き残した『履歴書』と遺品から偉人傳としてまとめて行く予定だ。

 

        渡邊家古文書の中の『履歴書』 
 鼎さん独特の文字で明治6年飾磨県での勤務に始まり、兵庫県、大阪府、山陽鉄道会社、明治40年に逓信省を退職されるまでの事が書かれている。

つづく