渡邊鼎は明治39年に逓信省を退職後、明治42年に興浜に帰って来た。
大覚寺の顧問をされて、大覚寺の古文書の整理等もされたようだ。
大正14年に新舞子に行った時の写真がある。
大正14年という事は鼎さんが78歳の時である。
鼎さんが書かれた写真封筒に貼り付けてある紙の名前を見ると、大覚寺の放生池の玉垣に名前がある方がほとんどのようで、孝橋さん以外は興浜の方のように思われる。
後列右側の方の名前が今栄林蔵となっているが、今栄林道の書き間違いであろう。
さて鼎さんが名前を間違った今栄林道は、「大覚寺発祥の地」という昭和52年建立の石碑の裏に書かれた当時の大覚寺の檀徒惣代の中で今若屋(こんじゃくや)という屋号の今栄三男の父であり、現在姫路市の市議会副議長の今栄進一氏は今栄三男の長男で当主である。
「網干公民館 歴史ウォーク通信 (番外編その2) 今若屋」を掲載してからこの記事をからめていく予定だったが、聴き取り不足の為、今若屋さんの事は後日にさせて頂く。