興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

富島神社 村紋で候

2009年10月26日 | 歴史散歩

 今年の1月26日に投稿した「あぼしまち交流館のオープンと村紋」という記事で網干6ケ村の村紋(村印)について書いたが、今回はたつの市御津町の富島神社バージョンである。

 と言っても詳しく調べたわけでは無く、祭り見学中に撮った写真を投稿するだけの記事ではあるが、祭りを見ながら考えていた事がある。

 釜屋村の村紋についてだ。

 1月26日の記事には、村紋は読み書きがあまりできなかったであろう江戸時代のお百姓さんの為に、田んぼの堰板(せきいた)に印をして、勝手に他村の堰板を開け閉めしないようにというような内容を書いたが、もし自分が村役人であったなら釜屋村の村紋のような複雑な図案を提案するであろうか。という事だ。

 疑問を残しながらの投稿であるが、投稿するといろんな方から意見を頂けるのが、このインターネットのいいところである。

  

   


富島神社 秋祭り宵宮

2009年10月25日 | 歴史散歩

 10月24、25日は、たつの市御津町の富島神社秋祭りである。

 昨日の宵宮は、苅屋子供会の提灯行列に昨年に引き続き甥子のボディーガードとして同行した。

 タイトル写真は、苅屋屋台蔵の近くの横吊提灯。

 子供会が宮入したあと、苅屋公民館に行って提灯と交換にお菓子をもらい、そのあと大人の提灯練りを見物したあと、富島神社の前を通った時に「苅屋若中」の方々がゴミをひろってまわっていた。

 魚吹八幡神社では、提灯練りの後と本宮の次の日の朝など清掃活動をしているが、富島神社でも秋祭りを継続させる為に近隣からの苦情が無いように清掃活動を行っているようだ。いいところに遭遇し、気持ちのいい秋祭り見学となった。

 がんばれ苅屋若中。本日もピンクの鉢巻を締めて見学に行く予定だ。


提灯で候 その弐

2009年10月21日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

  魚吹八幡神社の本殿・舞殿と幣殿・拝殿の三箇所の箱提灯と幕は網干三ケ村が担当する。興浜・新在家・余子浜が担当する事にいつの頃からかわからないがそうなっているようである。

 タイトル写真は御本殿を西から撮影したもので、下の写真でわかるように興浜の箱提灯が吊るされている。

 痛んだものから順番に作り直すようで、「浜」であったり「」であったりするところが残念である。

 

 新在家は舞殿と幣殿で、撮影する時に新在家の協議員さんが今年いくつか新調したと言っておられた。

 余子浜は拝殿の提灯であるが、こちらは箱提灯ではなく普通の提灯である。 


提灯で候 その壱

2009年10月21日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

 今年も魚吹八幡神社の秋季大祭が始まった。

 今回は10月21日、22日にしか見られない魚吹八幡神社の提灯を紹介しよう。

 まずは楼門に吊るされた三張の大提灯は、正面にはすべて「八幡宮」の文字がある。左から、茶屋町と中之町、西の町、東の町とある。全て敷村である宮内地区の町名だ。年号は「享保四歳□八月」とある。

 ここで興ちゃん困りました。上から5番目の字がどうしても読めない。

 享保4年は1719年徳川八代将軍吉宗の時代と判明。この年は干支では己亥(つちのとのい)年である。亥己と書けば答えが出てきた。もちろん一文字の漢字では無い。己亥を右から書いただけである。

 年を歳と書く事についてはわからないが、暦に詳しい方に後日聞くという事で楼門の提灯は終了。

  

 

   
 拝殿に上がると三張の箱提灯が左右対になって吊るされている。

 写真左から田井村・長松村・天満村とある。

 この三ケ村に共通する事は、この網干地方は寛永年代より京極家の所領であった。万治元年京極家が丸亀に移ってからも揖保郡之内二十八ケ村の所領は引き続き領有した。と『網干町史』にあるが、その二十八ケ村の内現在の魚吹八幡神社の氏子である村は、興浜・余子浜・大江島・長松・天満・田井・宮内・津市場である。途中余子浜と大江島は天領になったが、田井村・長松村・天満村が丸亀藩であった事は間違い無い。

 年代は安永八年 亥八月十五日とある。

 8月15日について少し書いておくと、『近世魚吹八幡神社関係資料』によると、「現在行われている津之宮秋祭は、江戸時代には「放生会」と呼ばれていた。放生会は本来、殺生を禁ずる思想からでた仏教の儀式で、陰歴八月十五日に全国の神社や仏寺で行われたもので、津之宮でも「往古より放生会として毎年八月十五日神式仕来り」とあるように例外ではなかった。」とある。明治中頃までは毎年八月十五日にお祭りがあったようだ。

     
 
      
 
拝殿の左側と右側に三張の箱提灯が吊るされているが、これはすべて個人名が入っている。この提灯に年代は入っていないが興ちゃんは明治時代寄進の提灯であると推測する。

 左側真ん中の提灯は興浜 山本昭とある。右側左の提灯は平松 土井勘次郎とある。この土井勘次郎氏は平成20年9月15日に投稿した金刀比羅神社その16手水舎の記事の中で興浜金刀比羅神社において明治中期から後期に手水舎を寄進した方の一人である。興浜の山本昭氏の祖父である山本真蔵氏と深くかかわっていた可能性がある人物の為、山本真蔵氏寄進の提灯が古くなり傷んだ為、孫である山本昭氏がやりかえた時に自分の名前を入れたのではないだろうか。

  
 幣殿の御神燈の箱提灯は坂上

  

 
 本殿前の提灯は左右両側に三張ずつ箱提灯が吊るされており、糸井・當所・糸井とある。
 年代は糸井村の提灯が、明暦二年八月(1656)徳川4代将軍家綱の時代のもがひとつと、明和五年八月(1768)徳川10代将軍家治の時代のものがひとつである。
 當所の提灯は正徳二年八月吉日(1712)徳川7代将軍家継の時代である。

 共に8月の文字が意味するように8月15日に行われていた放生会の提灯であろう。それにしても明暦2年は古い。京極家が龍野に入封したのが寛永十四年(1637)である。


渡辺 鼎 その12 大覚寺雨水桝

2009年10月11日 | 興浜偉人傳

 本日は、今年の1月15日に投稿した「大覚寺工事日記 匠の技 前川俵治 」で大覚寺本堂の前にある雨水桝について少し書いた事に関連する。

 1月の工事では折角先人が穿った雨水桝の孔は詰まっていたが、春になって少し落ち着いた折に再度挑戦したら綺麗に昔のように下まで孔が貫通した。

 落ち葉等で詰まらないようにステンレスの金網で蓋をしておいたので、いたずらさえ無ければ詰まる事はないだろう。

 石工前川俵治さんも天国で喜んでおられるであろう。

 その時に雨水桝の表面をジェットポンプで洗浄して桝の上側に巻いてあった鋼製のアングルも撤去した。 

 北側の雨水桝に渡邊鼎の名前が刻まれている事は知っていたが、よく見ると南側の雨水桝に鼎の息子である巍(たかし)の名前が刻まれていた。

 ひさしぶりに渡邊静子さんのところにお伺いして、鼎・巍の親子で名前が刻まれている事をお伝えしたら、静子さんも知っておられなかったようで、喜んで頂いた。

 おくればせながら、石碑に刻まれている方々の御芳名を掲載する。

 
器用に穿かれた雨水桝
大正4年ならすでに削岩機があったようだ

タイトル写真からここまでが本堂に向かって左側の南の雨水桝
こちらの桝の下段右から3番目に、渡邊鼎の長男である渡邊巍の名前が見える


こちらが本堂に向かって右側である北の雨水桝
上段左から7番目に、渡邊鼎の名前が見える

                                   

 鼎氏の名前ははっきりわかるが、巍氏の名前は風化が進んでおりわかりにくい。

 嘉永元年12月12日 渡邊鼎誕生
 明治 2年10月 5日 鼎、かんと結婚
 明治16年 8月14日 鼎長男の巍(たかし)誕生

 大正4年4月の時点で、鼎67歳、巍32歳

 鼎氏はこの当時、大覚寺顧問として大覚寺の古文書を整理したり多忙の毎日で、息子である巍氏がよく大覚寺や檀家の方の家に使いとして走って手伝っていたと、静子さんは聞いている。 

 追記:雨水桝に刻まれている梵字は種字と言って、一字で仏・菩薩・天などを表していて、右側の文字が胎蔵界大日如来を表す「ア」であることはわかっていた。

 タイトル写真である左側の雨水桝の文字は梵字では、「ウン」と読むように思うが、自信が無い。

 右が「ア」で左が「ウン」なら阿吽ではないか。

 古代インドで使われたサンスクリット語の最初の発音である「ア」と最後の発音である「フーン」を合わせたところから発生し、「ア」と口を開け「フーン(ウン)」で閉じる。仏教では物事の始まりと終わりを表す。

 寺院山門に阿吽一対である金剛力士仁王像と意味が同じという事だろうか。

 知っておられる方があればご一報をお待ちします。